28.行先
聡一は、がらんとした家の中を一人歩いていた。
姉が向こうに行って二月。二人の牢獄はもぬけの殻となり、住む者のいない虚しさに満ちていた。
汚物の匂いが染み付いた姉の部屋ーーもとい、物置の扉をそっと開く。
『そうちゃん』
まるで姉の声が聞こえてくるようだった。
ーー小学校生活最後の三月。中学進学を目前にしたある日、姉はこの部屋に閉じ込められた。
鍵は父だけが持っていて、聡一がこの部屋に入れたのは日に一度食事を運ぶ時だけ。
両親は姉の食事なんて意識になかったから、聡一が全て用意していた。
最初は料理ができなくて、菓子パンやカップ麺しか渡せなくて悔しかった。
『そうちゃん、ごめんね、わたしのことは気にしないで』
一度に渡せる食事には限りがあり、もともと線の細かった姉はどんどん痩せ細っていった。
それというのも途中から父が姉に持っていく食事を見せろと言いだしたからだ。
姉に持っていく食事は最初は聡一の裁量だったが、聡一の料理の腕が上がるにつれて父は文句をつけるようになった。
『多い! もっと減らせ! 部屋で寝ているだけのやつにこんな飯を食わすな!』
父の監視を潜り抜けて何かをするのは、まだ子供の聡一には難しいことだった。
おにぎりしか渡せない日もあった。
聡一が泣きながらそれを持って姉の部屋に行けば、姉は聡一を抱き締めてくれた。
『そうちゃん、ありがとう。これで、充分だから。大丈夫……』
父や母が憎くて憎くて仕方なかった日々。
頭を、心を押さえつけられながら何とか姉を生かそうと工夫した日々。
そんな日々から、聡一はやっと解放された。
家具もなくただの空間と化したその部屋を眺めながら、聡一は姉に想いを馳せる。
(姉ちゃん、うまくやってるかな)
姉さえ幸せになってくれればそれでいい。
父も母も、もう姉には何も出来ないのだから。
***
あの事件から二週間後、父のいない食卓で母は明日の予定でも話すように聡一へ告げた。
「母さんね、新しい男の人と結婚するから、聡一さんは東京のお祖父様と暮らしてちょうだい」
「……は?」
父の逮捕後、色々なことが次々と明るみになった。
まず、経営する会社の金を横領していたこと。
そして横領した金を誤魔化すため、帳簿の改ざんや脱税に手を染めていたこと。
そもそも父の会社は聡一の祖父が一代で築き上げた会社である。
ゆくゆくはこの家を婿として継ぐために与えられたポストを、父はいい様に私物化していたわけだ。
その上、経理担当の社員との不倫まで明るみになった時は、救いようがないと思ったものである。
一連の事件を知り堪忍袋の尾が切れた聡一の祖父は、父をすぐさま切り捨てた。
具体的には母と離婚させられ、いつか祖父の地盤を継ぐという話も全て無くなった。
こうしてたった数日で父は社会的地位、収入、家、車、家族、未来といったもの全てを失ったのである。
一方、母はすでに新しい男を手に入れたらしい。
「来月には引っ越しだから、担任の先生に言っておいてちょうだい」
そう言うと、聡一の答えなんて聞かずさっさと食事を終えて台所へ引っ込んでいく。
しばらく箸を持ったまま茫然とした自分を責めないでほしい。
この時だけは、あの母の血を引いていない姉が羨ましく思えた。
それから母とは連絡事項以外会話をすることもなく、日々は足早に過ぎていった。
聡一は中学三年だ。転校と急に言われて慌てなかったと言ったら嘘になる。
家の方はあっという間に買い手が決まり、引っ越しまで一週間を切ったある日のこと。
その男がやってきた。
ーー姉と結婚しようとした、中年男が。
聡一が玄関先で対応すると、男は父の逮捕を知らないのか、最初父を出せと言ってきた。
「生憎、おりませんけど」
「なんだよ……なぁ、小夜ちゃんはどこだ? いくら待っても先輩から連絡がないから迎えにきたんだけど……」
その言葉を聞いた瞬間、考える間もなく聡一は男を殴っていた。
男は鈍い音とともに玄関の壁にぶつかっていった。
一瞬何が起こったのか分からなかったのだろう。
頬に手を当てわなわなと震えたあと、男は怒気を露わにした。
「ーーこのっ……ガキが!! 警察を呼ぶからな!? いいな!!」
「呼びたいなら呼んでみろよこのロリコン野郎。あぁ、それとも恐喝野郎か?」
「な!?」
聡一は男の襟を掴み上げ、玄関ドアに押しつけた。
「こっちが何も知らないとか、本気で思ってんの? そんな頭で大学講師とか笑えるね。あんたがあのろくでなしを恐喝してたのも、姉ちゃんに結婚を強要しようとしてたのも、こっちはみんな分かってんだよ!!」
そう、聡一は全て知っていた。
憎くて憎くて、どうにかしてやりたいと思っていた。
その気持ちを今の今まで必死に抑えていたのに、水の泡にされて苛々した。
この家に二度と来なければ、姉の前に現れるようなことがなければ放っておくつもりでいたのに、男はのこのこ現れた。
「あれの不倫相手が全部喋ったよ」
父親が逮捕され横領も不倫も発覚したあと、不倫相手の社員がこの家に謝罪に来たのだ。
そしてこちらが聞いていないことまで全部吐いていってくれた。
もちろんあの女にもなんらかの法的処分が降るだろう。
屑とクズの不倫にもその結末にも興味はなかった聡一だが、一点だけ聞き逃せない事実があった。
強請られた父が、金が尽きて姉を差し出したという点だ。
「ーー二度と来るな。二度と、姉ちゃんに近づくな。じゃなきゃあんたの職場に証拠を送りつける」
「わ、わかった! わかったから!」
ひぃひぃ言いながら逃げ出した男の無様な後ろ姿は、とても滑稽だった。
***
聡一はがらんどうとなった家をもう一周して、玄関へ向かった。
数少ない姉との思い出を残らず覚えておこうと、ぎりぎりまでこの家に残ってしまった。
我ながら滑稽で、未練たらしい。
(ーー姉ちゃん。姉ちゃんは、ちゃんとフレイアルドさんに守って貰えてる?)
どうかそうであって欲しかった。
帰ってこないことが、何よりの証拠だと思いたかった。
これから聡一は東京で一年の半分以上を暮らす祖父と養子縁組をし、一緒に暮らす。
そこから通える学校へ転校し、進学先もおそらく都内だろう。
この街にもこの家にも、二度と戻ることはない。
だから祖父に頼み込んで金を借り、あの揺り椅子を買い取った。
店主はタダでいいと言ってくれたが、やはりそれは聡一のプライドが許さない。
予想よりもずっと早く引き取りに来たうえ大金を払った聡一に、店主はただ「何もなくても、いつでもおいで」と言ってくれた。
「……君はまだ子供だ。僕でもいいし、新しい土地の人でもいい。頼れる大人は必ずいることを忘れないでくれ。年寄りのお節介で、済まないがね」
それが、どれだけ聡一の救いとなったことか。
贈られた言葉が、いつかもう一度誰かを信じてみようという原動力に繋がる気がした。
(あと、四年か……)
聡一は靴を履き、玄関を開ける。
外の空気はじっとりと湿っていて、気温は日毎に記録を更新するほど暑い。
この暑い夏に姉がこちらにいることにならなくて良かったと心から思う。
(姉ちゃん、毎年扇風機で頑張ってたもんな)
涼しくて、安全で、姉を愛してくれる人がいる場所。
向こうがそんな場所であって欲しいと、強く強く願う。
照りつける陽射しの下へ、聡一は足を踏み出した。
この歩みの先で、いつかまた優しい姉に会える日が来ることを信じて。
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