26.系図
フレイアルドと見上げた星空を、小夜は一生忘れることはないだろう。
その翌朝の、事件も。
***
ーー小夜はいつもの応接室の長椅子で、伯爵夫妻に挟まれ座っていた。
目の前には神妙に構えるフレイアルド。
彼の横には、呆れた眼差しを向けるバルトリアスがいた。
なお、兄は床で正座させられている。
その左頬は大きく腫れていた。
小夜の隣で全身の血管が浮き出るほどの怒りを見せる伯爵に、フレイアルドは一切の抵抗を示さなかった。
「貴様が、溺れたサヨを助けた男でなければ、儂はとうに斬っていた」
「……弁解のしようもございません」
昨日、逃げたり溺れたり大泣きしたりで疲れ果てていた小夜は、フレイアルドと星を見ながら眠ってしまった。
そんな小夜をフレイアルドは自分の寝室の寝台に寝かせ、伯爵夫妻が来る前の晩のように共寝をしたらしい。
多分フレイアルドも相当疲れていて判断力が鈍ったのだろう。
小夜達が眠ったあと、深夜に侯爵邸へ戻った夫妻はあろうことかその現場を見てしまった。
(うう……恥ずかしくて消えたい……)
だが深夜ということもあり、小夜を起こすのはしのびない、と伯爵は朝まで耐えた。
そして朝の二の鐘と共にフレイアルドの寝室に乗り込んで来て、特大の雷を落としたのである。
「貴様!! 儂らの娘に何をしておるのだ!! 答えんか!!」
ーーそれはもう、屋敷中が揺れたのではないかというくらいの怒号だった。
そして今に至る。
小夜の両隣からは熱気と冷気が絶え間なく吹いていた。
もちろん熱気は伯爵、冷気はアマーリエである。
アマーリエの絶対零度の瞳が、ラインリヒとバルトリアスに突き刺さる。
「まさかあなた方まで知っていて、見逃していたとは……幻滅いたしましたよ」
ラインリヒの頬は伯爵の鉄拳制裁らしく、小夜は本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
項垂れるラインリヒはぐうの音も出ないようだ。
降参するように両手を挙げたバルトリアスが弁解する。
「……アマーリエ殿。これは弁護ではないが、事情があり仕方ないことだったのだ」
「まぁ。未婚の娘が男の寝台に引っ張り込まれても仕方ない事情とは? 大変興味があってよ」
珍しく追い込まれたバルトリアスによれば、小夜はエマヌエルの事件以降ずっと魘されていたらしい。
小夜は全く自覚がなかったので、夫妻同様驚いた。
「あまりに酷いのでな、フレイアルドが仕方なく添い寝をしてやり、己の睡眠時間を削って対応したのだ。どうかこれ以上は責めないでやってくれ」
夫妻はほぼ同時にフレイアルドを視線で貫く。それは本当か、と。
フレイアルドは沙汰を待つように目を閉じている。
「その通りです……が、他の者に任せなかったのは、私がこの手でサヨを守りたかったからに他なりません。どのような罰でも甘んじて受ける所存です」
その言葉に小夜は真っ赤になっていたと思う。
今すぐこの場から逃がしてくれるなら、一週間ご飯を抜かれても良かった。
伯爵はまるで排熱するように大きく息を吐いた。
「ーーこれまでサヨを守っていた其許の誠意に免じて、此度は許す。だが二度はない」
「……感謝いたします」
小夜とラインリヒから安堵の息が漏れた。
しかし兄にとって、それは一瞬だけだった。
アマーリエが茶器を傾けながらあからさまにほっとした兄をぴしゃりと嗜める。
「ラインリヒ。サヨはこれからも侯爵邸で暮らします。兄であるあなたがきちんと守れるように鍛え直しますから、覚悟なさい」
「……はい」
小夜は心の中で、ラインリヒに盛大に謝った。
各方面に裁きが下ったところで、それまで静かに控えていたマルクスが全員のお茶を淹れなおす。
小夜は侯爵邸で出てくる香ばしいこのお茶が大好きになりつつあった。
温かいお茶でみな一息つき、やっと空気が入れ替わる気がした。
カチャリ、と茶器が触れ合う音と共にバルトリアスが話を切り出す。
どうやら今日は一人で来たらしく、護衛の姿はなかった。
なお伯爵の護衛たるシェルカは、小夜の背後に立ち一連の流れを聞いている。
「大叔父殿に話はついた。サヨが伯爵家に入った瞬間から、庇護をお約束下さる」
何の話か小夜には見えてこないが、部屋中に安堵の空気が流れる。
バルトリアスの大叔父とは一体誰なのかすら分からない小夜に、フレイアルドが説明をしてくれた。
「貴女の祝福の力が知れ渡ることで、今後悪意ある貴族に害されることを殿下は案じてくださったのです。そして殿下の大叔父上はこの国の貴族の頂点ともいえる大公閣下です。この方が貴女の後ろ盾として、守ってくださるのですよ」
「そ、そんな大事に……」
祝福できるね良かったね、では到底済まない話らしい。
「この場で家系図に組み入れる手続きをしよう。父の手が回るのは避けたい」
バルトリアスが胸元から出したのは、高級そうな用紙だ。
濃い青のインクで『養子縁組申立書』と書いてある。
「これに署名すれば、其方は伯爵家の子となる」
小夜は伯爵とアマーリエの顔を伺った。
するとどういうわけか、二人は悪戯に成功したような顔をしている。
伯爵は小夜がサインしようとしていた申立書をバルトリアスへ返却する。
「殿下。我々には、こちらは不要です」
「……レイナルド」
「シェルカ、用意を」
伯爵に命じられたシェルカが取り出したのは、大きな巻き紙だ。
天鵞絨の紐で結えられた筒を広げると、そこには長い家系図が現れる。
長すぎて、端が長机には収まらないほどだ。
「……これは?」
「正真正銘、ザルトラの家系図だ」
首を傾げる小夜と対照的に、フレイアルド達は身を乗り出すほど驚いている。
バルトリアスはなぜか家系図を見た瞬間息を呑んでいた。
「よいのか、レイナルド」
バルトリアスが静かな声で伯爵に確認する。夫妻は迷いなく頷いた。
アマーリエが、小夜の手を取る。
「……サヨは、私達の子ですもの」
「母様……?」
この場で夫妻の意図が分からないのは小夜だけらしい。
フレイアルドに助けを求めようと視線をむければ、彼も動揺を隠せないようだった。
「……殿下がお持ちの書類に署名すれば、それは王宮で処理され、サヨは王宮の遺物に伯爵の養女として記録されます。ですが」
フレイアルドは一度言葉を切る。
潤いが欲しかったのか、お茶を一口飲み、また口を開いた。
「それは、伯爵家の紛れもない家系図です。それ自体が伯爵家の系図の者という身分を示す遺物であり、つまり……そこに登録されると、貴女はご夫妻の、実子という扱いになります」
「実子……」
養子、ではなく実子。
ーー伯爵と、アマーリエの。
口を開いたまま固まるしかできない小夜に、夫妻は微笑んだ。
「これからはザルトラがあなたを守る……そう、言ったでしょう?」
「で、でも」
小夜は二人の実子ではない。伯爵家の血など一滴も入っていない。
なのに公的に実子とするなんて、そもそもしていいのか。
混乱する小夜は疑問が全て顔に出ていたらしい。バルトリアスが嘆息した。
「……問題ない。レイナルドが其方をアマーリエ殿との間の子と認め系図に載せれば其方は実子だ。それに其方はいずれ嫁ぐだろう。婿を取って伯爵家を継がぬ限り影響はない」
「うむ、サヨは儂らの子だ。ーー手を出しなさい」
伯爵に言われるまま手を差し出すと、指先に小刀で小さな傷をつけられる。
その血の粒を伯爵は小刀の腹に器用に乗せ、家系図の空白部分に垂らした。
「これなる血はレイナルドとアマーリエの子、サヨ。サヨにザルトラの名を与え、尊き女神の御加護を願い奉らん」
ぽっと、血が垂らされた場所が燃え上がる。
火は『レイナルド』と『アマーリエ』の間から少し進んだ先で燻り、蛇のようにのたうつと、燃え跡を残して自然に消えた。
燃え跡は金色に光り、そのまま『サヨ』の名になった。
「あ……」
父と母の間には、最初四つの名前があった。
今そこに、『サヨ』が足されて五つとなった。
「ーーサヨ?」
アマーリエがそっと手巾を差し出してくれる。
それまで小夜は自分が泣いていることに気付かなかった。
受け取った手巾で涙を拭く。
手巾は、アマーリエの香りがした。
後から後からいくらでも出てくる涙は、しばらく止まることがなかった。




