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揺り椅子の女神  作者: 白岡 みどり
二章

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25.二人



 小夜が泣いている間に、マーサは手早く湯浴みと着替えを終わらせてくれた。


 その左手にはラインリヒが念のため、と付けてくれた腕輪が光っている。


 入浴のあと、浴室の続きの間には椅子が用意された。

 どうやらフレイアルドの指示らしい。

 人形のように生気のない顔で、されるがままの小夜の髪を、マーサが丁寧に梳っていく。


 小夜は悄然(しょうぜん)としていた。

 

 ラインリヒは泣くほど心配していたし、何よりフレイアルドを怒らせてしまった。

 ーー彼に怒られるのは、初めてだった。


(やっぱり、わたしは、だめな人間なんだ)


 そんな思考が何度も何度も、小夜を波のように襲う。


 役立たず、無価値、ゴミ。無責任。


 小夜の心の岸辺は、打ち上げられたそれらの言葉で埋め尽くされていく。

 するとまた、涙が止まらなくなってしまった。


「サヨ様、どうか泣き止んでくださいませ……」


 マーサが心配そうにしているというのに。

 真っ黒な氷が小夜を内側から突き刺して、止められそうにはなかった。

 

「……マーサ……わ、わたしのせいで、ふたりが殺されちゃったの、わたしなんて、いらないのに、誰もいらないのに、ごめん、なさ……」

「サヨ様? 何を仰るのです!」


 優しいマーサが困惑していると分かっていても止められなかった。


「き、きっと、フレイアルドさま、も、いらないっていう」


 怒らせたのだ。

 あの優しい、小夜をいつでも身を挺して守ってくれていた彼を、自分は蔑ろにしたも同然だ。


 フレイアルドに見捨てられたら。

 ーーもういらないって言われたら。


 想像しただけでざわり、と背中が粟立つ。

 また自分の周りが真っ暗になっていく感覚に襲われた。

 

「まだ残っているようですね」


 顔を上げたら、いつの間にかフレイアルドがいた。

 彼は手に小さな薬瓶を持っている。

 きゅぽん、と栓が開く音がし、薬瓶が小夜に手渡された。


「これを飲んでください」


 薬瓶の中身が何かは分からない。でも小夜は躊躇いなく飲んだ。

 少し苦くて、ツンと鼻にくる味だ。

 小さな瓶だから飲み終わるのにさして時間は掛からなかった。


 フレイアルドは小夜の手から取り上げた瓶が空になったことを確認して、マーサに手渡す。


「誰の目にも触れぬよう、私の執務室へ。私はサヨと少し話がある」


 言うなり小夜を抱き上げたフレイアルドは、彼自身も湯を使い着替えたのだろう、服が変わっていた。

 その冷たい横顔に馬車の中の出来事を思い出してしまう。

 

(フレイアルド様……やっぱりとても怒っているよね……)


 そんなことを考えているうちに、あっという間に着いてしまった。

 小夜の寝室の目の前で足を止めたフレイアルドは扉を開け中へ入っていく。

 月明かりと星明かりだけの室内は暗い。


 寝台に下ろされたところで、強く手を握られた。


「……私が、貴女をいらないなんて言うはずがない」


 ぎくり、と小夜の身が強張った。

 先ほどの言葉を聞かれていた。よりによってフレイアルド自身に。

 小夜の手を握る男の力がもっと強くなる。


「なぜ、そんな風に思うのですか?」

「……だっ、て」


 フレイアルドがあんまり優しく問うから、小夜はまた涙が出そうだった。

 抑えきれない思いが暴走を始めてしまう。


「……わたしは、ほんとの、お父さんにも、お母さんにも、あいして、もらえなくて」


 ラインリヒの両親といればいるだけ、大切にして貰えば貰うだけ、その気持ちは小夜の中で膨らんでいた。


 仮初の関係に、ままごとの相手をしてもらうことに喜んで。


 嬉しく思うたび、心の中で膝を縮めて座る小さな自分が、より惨めになっていく。


「なにもできなくて、やくたたず、で、かちが、ない、から……」


 消え入りそうな言葉は、寝室の静かな闇の中へ吸い込まれていく。


 フレイアルドは、何も言わない。

 気配で彼が小夜を見下ろしているのが分かる。

 小夜は彼の顔が見れなくて俯いていた。


 これでもう、いよいよ見捨てられるのだと思った。

 

 長い沈黙のあと、小夜の顎に指がかかり、そのまま持ち上げられる。

 強制的に合わさったフレイアルドの目は、剣呑な光を帯びていた。


「あんなに言っても、まだ分からないんですね」


 小夜が何かを言う前に手を離したフレイアルドは上着を脱ぐ。

 そのまま白いシャツにまで手を掛け脱ぎ捨て、小夜の前で上半身を曝け出す。


 肌が目に入る前に慌てて目を覆った両手を、フレイアルドによって強引に顔から引き剥がされた。

 間一髪のところでぎゅっと目を閉じる。


「見て下さい。きちんと」

「ーーっ」


(そんなこと、言われても……!)


 男の人の裸なんて見たことがないのだ。

 しかしフレイアルドは許してくれそうにない。

 恥ずかしさに耐えながら、薄く目を開けーー小夜は、我が目を疑った。


「……え?」


 その体には、(おびただ)しい傷跡があった。


 大小無数の傷跡は、胸から腹、腕にまで(むご)いほど残っている。


 言葉を発せない小夜の手首を離したフレイアルドは、無言で後ろを向いた。


 彼の背中を見ることになった小夜は、叫び出さないようにするので精一杯だった。

 

 

 背中は、体の正面がマシに思えるくらい隙間なく傷跡で埋め尽くされていたのである。


(な、んで……どうして、こんな)


 喉が震えて、言葉が上手く出ない。

 フレイアルドは脱いだシャツを拾うと、長袖のそれをきっちり着た。


 ーー今思えば、彼はどんなに暑くても、いつもきっちりと服を着ていなかったか。


「……これは全て、私の父によるものです」

「お父さん……?」


 椅子に座り直したフレイアルドは、小夜ではなく自分の拳を見つめている。


「私は、側室から生まれた次男です。本来なら侯爵家を継ぐことなどない。けれど跡を継いだ。理由はわかりますね?」

「揺り椅子が、見えたから……」


 フレイアルドはそうです、と続けた。


「跡を継ぐことになった途端、父から侯爵としての仕事を教わるようになりました。一つ間違える毎に一度鞭を打つ、という方針で」

「ーーそ、んな」


 自分の足元に底なしの穴が開いた気がした。


 彼がそんな酷いことをされていたなんて、知らなかった。


 幼い頃、あんなに毎日笑顔で迎えてくれたフレイアルドが。

 痛いとか苦しいとか、一度も言ったことのないあの少年が。


 あんなに側にいたのに、自分は、気づいてあげられなかった。

 

 自分のことばかりで、フレイアルドの出す信号に気づかなかった。


「父に愛されなかったというのなら私も同じです。母は早逝されたので、私は親の愛、というのが、正直言ってよく分かりません」


 フレイアルドは淡々と、辛いことでも悲しいことでもないかのように話す。

 事実なのだから仕方ないとでも言うように。


 けれど小夜にはそうじゃないと分かる。

 痛いほど、分かってしまう。

 

「色々あり父が亡くなったあとは、こうして跡を継いでおりますが……侯爵領をそれなりに豊かにした今でも、簒奪だの乗っ取りだの煩く言ってくる貴族もいます」


 小夜は他人事のように言うフレイアルドに、もう我慢ならなかった。


 立ち上がり駆け寄って、フレイアルドの首にしがみつく。


「ーーちがいます!! だって、フレイアルド様は、いつもいつも、遅くまで、寝る暇がないくらい仕事をしてるじゃないですか!! そんな方が、簒奪なんて、のっとる、なんて、するはずが、ないじゃないですか!!」


 許せない、と思った。


 こんなにも許せないと思ったのは初めてだった。

 自分が殴られるよりも、飢えさせられるよりも許せなかった。


 しがみつく小夜の背を、フレイアルドが軽く叩く。


 彼の声は小夜と対照的に冷静だった。


「なら、教えてくれませんか」

「……?」


 フレイアルドから身を離せば、彼は嘘みたいに穏やかに微笑んでいる。


「親に愛されなかった私は、要らない人間ですか?」

「な……」


 小夜は喉を締め付けられるような苦しみを覚えた。


 なんで、なんでそんなことをフレイアルドが言うのかと、悔しくて悲しくて堪らない。


 けれど今は自分の苦しみよりも何よりも、その言葉を否定しなければならないと、声を振り絞った。


「ーーそんなこと、ぜったい、ありません……っ」

「そうですか。では、簒奪と罵られながらも日々侯爵として働く私は無価値ですか? 役立たず、ですか?」


 小夜は今度こそ、部屋中に響くほど叫んだ。

  


 憤りさえ感じた。


「そんなことありません!! そんなこと……絶対、絶対、ないっ……!」


 ぼろぼろと止まらない涙が、フレイアルドの服に落ちて、シミを作る。


 もどかしくて、寂しい。腹の中で渦を巻くこの気持ちを、どうすれば彼に伝えられるのだろう。


 不器用な小夜には、心のまま叫ぶしか方法がない。


「……フレイアルド様が、どこの誰でも、何をしても、わたしには、大切で、かけがえのない、人なんです……!! だから、そんなこと、もう……」

 

 フレイアルドが卑下するたび、小夜は嫌な気持ちになる。


「だからっ……!」


 ーーどうか、そんなことを言わないで。



 ランプさえない暗い寝室に、小夜の嗚咽だけが広がる。


 小夜の頬を伝う涙を、フレイアルドの指が掬った。

 視界が滲んでしまって彼が今どんな顔をしているか、よく見えない。


「ーーサヨ、もう、いいですよ。……ありがとう」


 フレイアルドの手が、小夜の頭をゆったりと撫でる。


「ありがとう……」


 月の光みたいに優しい声に、足の力が抜けた。

 立っていられず床に座り込んでしまった背中を、大きな手が撫でさする。


 小夜は止まらない涙を隠すように、顔を伏せた。


「ねえ、サヨ。親に愛されなかった私が要らない人間ではないのなら、貴女もそうじゃないですか?」

「……っ」


 はっとして顔を上げた。

 視界はまだぼんやりしている。

 フレイアルドが慈しむように、小夜の背中や頭を撫でる。


「殴られても、食事を抜かれても、私の為にと翻訳をし続けた貴女は、無価値ですか? 簒奪と罵られながらも仕事をしてきた私と、何か違いますか?」

「……ぁ」


 やっとはっきり見えたその顔は、もう痛みなんて感じていないように微笑んでいる。


 泣きじゃくり、ぐしゃぐしゃで、きっと見るに耐えない小夜の顔。


 その顔を、大きな両手が包む。

 大切なものを()(いただ)くように。


「ーー何も、違いません。違わないんですよ」

「フレイ、アルド、さま」



 ーーやっと、分かった。



 なぜ彼がこんな話を今したのか。

 分かったら、もっともっと胸が苦しくなった。


 ーー小夜のためだ。


 フレイアルドは座り込んだ小夜を抱き上げて、窓辺へと連れていく。


 暗い部屋からは月と星が、よく見えた。

 窓から見える天上には宝石箱をひっくり返したような星空が広がっている。


「今夜は、星が綺麗ですね。サヨ」


 その光は、フレイアルドの言葉と一緒に、小夜のひび割れた心に沁み込んでいく。


 眠れなくてぐずる子供に語りかけるような口調で、フレイアルドは話す。



「ーー私達は産まれる国も、場所も、家も選べない。選べるのは誰を愛し、何をして生きるかだけです」



 小夜は目を見開き、顔を上げた。


 見上げた先。フレイアルドは、遠くを見ている。


「……あいして、いきる……?」


 頷く彼は、一体どれほどの苦しみの末、その答えに辿り着いたのだろうか。


 彼は小夜に惜しみなく与えてくれるのに、小夜は彼に何か与えられているだろうか。


「そうです。今まで貴女がそれを選ぶことすら出来ない環境にいたのは分かっています。でももう違う。ここで貴女は、選ぶことが出来るはずです」


「わたしが……えらぶ……」

「ええ」


 それは、これまで考えたこともなくて、自分に出来るなんて到底思えないことだった。


 でもフレイアルドは、出来るはずだと言った。



 

 フレイアルドの胸に頭をもたれさせて、小夜も外を見つめる。

 彼が見ている方向を、一緒に見ていたかった。



 いつまでも。

 





 

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