20.波紋
シェルカは左手で小夜の手を握ったまま、細い道を選びながらすり抜けていく。
運動不足の小夜はすでに息が上がっていた。
脚がもつれ転びそうになったところで、やっと声を上げる。
「シェル、カ、すこし……」
小夜の声にはっと振り向いたシェルカは、建物と建物の間に小夜を連れて滑り込むと、やっとその足を止めてくれた。
肩で息をする小夜に申し訳なさそうな顔を向ける。
「申し訳ございませんでした。少しこちらでお休みを」
「ありが、と……」
建物の間は日差しも届かず涼しい。
シェルカは通りから小夜が見えぬよう、その高い身長を生かして壁を作った。
小夜は息を整えながら、シェルカに訊きたくて仕方なかったことを口にする。
「と、とうさま、かあさま、は……」
伯爵もアマーリエも店に残った。
どうして一緒に逃げないのだろうと、店を出てからそればかり考えていた。
(あの時王太子が来ているようなことを、仕立て屋さんが言っていたけど)
アマーリエが女性の敵だという王太子。
でも仕立て屋に逃げ込んできたのは女性ばかりではなかったはずだ。
残った二人の無事が気になった。
まだ息の整わない小夜を、シェルカは心配そうに見下ろしている。
「王太子殿下の逸話は数多くございます。過去、特に被害を受けてきたのは貴族のご令嬢方と平民ですから、お二人はきっとご無事でございます」
小夜はごくりと唾を飲み込んだ。
シェルカは躊躇いながら、小夜にこの国で暗黙となっている事実について教えてくれる。
「現在、王太子殿下には三十人以上のご側室がいらっしゃいます」
「さ……」
外は暑いのに、小夜の汗は一気に冷えた。
シェルカは誰かに聞かれないかと、辺りを憚っている。
幸いにも通りを行く人は少ない。
「……そのうち数人は正室の座を求めて自ら側室となったとききますが、多くはそうではありません。無理やり関係をもたされて泣く泣く側室になるしかなかったと聞き及びます」
「ひ、ひどい……」
アマーリエが激しく嫌悪するはずである。
いくら王族とはいえそのようなことが許されるなんて、と小夜は愕然とする。
しかし現実に咎められることもなく王太子の地位に就き続けているということは、そういうことなのだろう。
小夜はやっとあの店から一人逃がされた理由がわかり、背筋を震わせた。
「ですので未婚の令嬢はみな、公の場以外では王太子殿下の前に出ないようにしております。お嬢様もどうか」
小夜は首が千切れるかと思うほど頷く。
まさか自分のような痩せぎすの小娘を王太子とやらが気にいるとは思わないが、人の趣味はわからない。
今は違う意味で心臓の鼓動が早まっていた。
「我々はこのまま侯爵邸を目指します。かなり歩きますので、疲れましたら都度休んで参りましょう」
「はいっ」
再びシェルカの先導によって二人は人目を避けるように歩き出した。
店が面していた表通りとは打って変わり、裏通りは馬車が入れないほど細く入り組んでいる。
到底覚えきれない網の目のようなそれを、シェルカは全て頭に入っているかのように迷わず進んでいく。
足を動かすのに必死で周りを見る余裕がない小夜はその背中について行くだけだった。
小夜達が一つの角を曲がった時である。
どこからか、ガラーン、ガラーン、ガラーンと三つ、低い鐘の音がした。
その直後、激しい歓声が空に響く。
「な、なに?」
街中に響き渡るかのような歓声は、飽和していて方角さえはっきりとしない。
怒号のようなものまで混じる声に小夜は思わず足を止め周囲を見回した。
その視界の端に、こちらへ向かって走ってくる数人の姿が映り込む。
「ーーお嬢様!」
叫ぶと同時にシェルカは小夜をその背に隠し、細い通路に押し込んだ。
「いたぞ!!」
シェルカが目にも止まらぬ速さで抜刀し迎撃したのは、見知らぬ男達だった。
切り結んだ相手の男の顔には、特徴的な痘痕がある。
「やはり裏から逃げていたな!」
壁と小夜を隠した通路を背に、三人もの剣を同時に相手するシェルカの剣技は鮮やかなものだった。
一合二合と剣撃を重ねた男達は一瞬怯む様子を見せる。女性騎士の細い腕からは想像できないほど重かったに違いない。
しかしそれでも痘痕の男は我武者羅に突っ込んでくる。
「ちっ……! 死にたくなければ退け!」
シェルカは男の脅しに屈することなく善戦するが、女一人に対して男三人である。
踏み締める足がじわじわと後退するのに、小夜は気がついた。
「お嬢様! その通路を真っ直ぐ進んで下さい!」
「は、はいっ」
シェルカの言う通り小夜は走って通路を真っ直ぐ進んだ。この場にいても足手纏いなのが、分かっていたからだ。
(シェルカ、おねがい、ケガなんてしないで)
通り抜けた先には、溢れかえるような人の群れが広がっていた。
小夜はその人混みに、意を決して飛び込んだ。
***
フレイアルドは運河の手前で足止めされていた。
御者が申し訳なさそうに、これ以上進めないと言う。
「どうやら馬と馬車はここから先、入れないよう規制されております。いかが致しますか」
北東大広場に最も近い橋の周囲には同じ理由で馬車が何台も滞留していた。
渡し舟は忙しなく貴族街と対岸の下町を往復しているようだ。
「橋は歩行者も規制しているのか」
「それは、通れるようですが……」
御者が戸惑うのも分かる。
一度馬車から降りれば貧民と一括りになって歩かされるのだ。
普通の貴族ならば嫌がるだろう。
だがフレイアルドは一切戸惑うことなく、降りることを決めた。
御者に先に帰るよう言い置いてフレイアルドは橋を渡る人の群れを目指した。
どうやら多くの民、それも普段は南西や南東で暮らす者が一目処刑を見ようと集ってきているらしい。
下町の者が貴族街を通り抜けること自体は許されているし、橋や渡し舟も通行料さえ払えば利用できる。
だが、ただの処刑を見るためにこれだけ集まる理由がフレイアルドには見えてこない。
決まったのは今日だ。日銭を稼いで生きる彼らが、こんなにも集まること自体おかしかった。
(なんだこの違和感は)
その違和感の主を探すように注意深く進んでいたフレイアルドは、貧民の一人が持っているものに目をとめる。
印刷された紙だ。
よく見れば、何人もの人間がそれを手にしている。
「すまない、そちらを見せてもらえるだろうか」
フレイアルドは陶然としながら歩いてた一人の婦人に声を掛け、その紙を譲ってもらう。
紙を受け取った瞬間、風に乗って僅かに鼻に届いた香りに、眉を顰めた。
(何故今これが出てくるんだ!!)
嫌というほど覚えのある香りは、その紙から発せられていた。
ーー否、紙ではない。
フレイアルドは鼻を寄せ、やっと気が付いた。
その香りの元が、印字に使われているインクだと。
「……ふざけた真似を」
握りしめ破り捨てたい衝動に駆られるが、重要な証拠品だ。
丁寧に畳み、匂いが漏れぬよう手巾で包み胸元へしまう。
そして紙を譲ってくれた婦人にもう一度声を掛けた。
「この紙はどこでもらった?」
「え? あー……えっと……」
婦人は首を傾げ、思い出そうとしているらしいが記憶が混濁しているのか、はっきりとは言わない。
フレイアルドは辛抱強く待った。
その甲斐あってか、婦人はようやく思い出したらしい。
「あぁ、そうですそうです、家の前に落ちてたんですよ」
「落ちていた?」
辿々しい説明によれば、朝に外へ出たら扉の前に落ちていたらしい。
そしてそれは他の家でも同様だったと。
フレイアルドは間違いなく意図して配られたものだと確信した。
「なんででしょう……読んでたら、許せない、行かなきゃって思ってしまって」
そして婦人は葬列のような人の波に戻って行く。フレイアルドが止める間もなかった。
時間があればあと数人証言者として確保したかったが、今はそれよりも優先しなければならないことがある。
もし小夜がこの紙を手に入れ中身を読んだりしたら、それこそ取り返しのつかないことが起きてしまう予感がした。
フレイアルドは北東へ向かう人の波にその身を投じた。




