13.忠義
侯爵邸には様々な用途に合わせて使い分けられるよう、多種多様な部屋が用意されている。
応接室だけでも、来客の身分毎に三つか四つはあるらしい。
小夜は今までバルトリアスと伯爵夫妻以外の客人を迎えたことがないため、あまりよく知らないが。
他に客人が泊まるための客室、歓談するための茶室、晩餐室などがあるなか、小夜は食堂と呼ばれる部屋へマーサの案内で向かった。
そこはごく親しい者同士が晩餐以外の食事をするための部屋だという。
狭くも広くもない部屋の中央には数人が掛けられる円卓。
真っ白なテーブル掛けの上には、すでに三人分の食器が用意されている。
食事は全員が着席した時に料理長自ら運んでくれるそうだ。
硬い表情の小夜にマーサがそっと耳打ちする。
「ご夫妻はもう少しでいらっしゃいます」
小夜はこくんと頷いた。
夫妻はまだ来ていなかった。
こういう時は先に座り、目上の人が現れたら席を立ち挨拶をするのだという。
椅子に浅く座りながら、小夜は心臓の音をうるさく感じていた。
夫妻が来てくれたらまず、昨日のことを謝らなければならない。
彼等は遠路はるばる小夜のために来てくれたというのに、自分ときたらまともな挨拶一つできなかった。
その上伯爵が少し大声を出しただけであんなに怖がって、取り乱してしまった。
二人はきっと小夜の事情をよく知らないだろうから、とても驚いたはずだ。
中座したうえ謝罪も連絡もせずそのまま眠ってしまった小夜を怒っているかもしれない。
(一緒に朝ごはんを食べてもいい、くらいには思って下さっていたらいいけど……)
小夜は手を握ったり開いたり、落ち着かない気持ちで二人を待った。
やがて侯爵家の若い執事が、扉の前で夫妻の到着を報せる。
扉が開くと同時に、教わったとおり席を立つ。
体の前、胸の位置で両手を重ね顔を伏せて挨拶をする。
「父様、母様……おはようございます。急にお誘いしたにも関わらずお越し頂けたこと、とても嬉しく思います」
小夜は顔を伏せたまま、まずは教わった挨拶がちゃんと出来たことに安堵した。
マーサの教えならばこの後夫妻が小夜に挨拶を返し、着席するはずである。
夫妻が着席したらまず、昨日の非礼を詫びるのだ。
しかしその時を待っていた小夜の両手を、しっとりと温かな手が包んだ。
驚いて顔を上げるとすぐ目の前に、若草色の目にいっぱい涙を湛えたアマーリエがいた。
「昨日は……あなたを怖がらせてしまって、本当にごめんなさい。どうか未熟な私達を許してちょうだい」
「母様」
そのままアマーリエは小夜を抱き寄せる。
予定外に抱き寄せられ硬直する小夜の前で、腰を屈めたのは伯爵である。
なんと伯爵は口髭が少し短くなり、口許が昨日よりもよく見えるようになっていた。
怖さよりも驚きの方が大きかった。
「……サヨ、その……すまなんだ。儂はこの通り体も声も大きい。そなたをあのように怖がらせる気は毛頭なかったのだ。このとおりだ」
伯爵が深々と頭を下げたため、小夜はアマーリエの腕の中で大いに慌てることになった。
「違うんです、わたし、あんな風に自分がなるなんて思わなくて……父様、ごめんなさい。父様を、怖いなんて思ったりして……」
小夜の言葉に、伯爵は雷に打たれたような顔をした。
全身がぶるぶると震えている。
「……儂を父様と呼んでくれるのか?」
「お嫌でなければ……」
伯爵は感極まると、ぶわりとその目から涙を溢れさせる。
太い腕でアマーリエごと小夜を抱き締めた。
「どうして嫌なものか! そなたは、儂とアマーリエの娘だぞ!」
「父様……」
アマーリエも同意するように強く頷いている。
頷くたびに、アマーリエの頬を涙が筋となって流れていく。
「もっと……もっと早く、あなたを見つけてあげたかった……」
小夜を抱きしめるアマーリエの腕は震えている。
ーー胸に刺さっていた痛いものが、ほろほろと崩れていく。
「あの、あの……わたしを怒ってないのですか? 昨日はあんなに無礼なことをしてしまったのに?」
小夜は確かめずにはいられなかった。
悪いことをした自分を、責めないのか。
だが二人は、小夜を抱き締める腕を強める。
「どうして何も悪くないあなたを叱らなければならないの? あなたは、何一つ悪いことなどしていなくてよ」
アマーリエが柔らかな手で小夜の背を撫で、伯爵の大きな手が小夜の頭を撫でる。
自分の目から、ぽろりと一粒涙が落ちた。
小夜を撫でる伯爵とアマーリエの手から温かいものが流れ込んでくる。
それは、痛いものが消えてぽっかりと空いた穴に沁みて、やがて穴そのものを充していく。
小夜は誰のものか分からない服を握りしめた。
(……いいのかな……わたしに、こんな……)
小夜は目を閉じ、初めてのぬくもりに恐る恐るその身を委ねた。
初めは怖かったけれど、慣れると心地よい。
それはずっと浸かっていたいくらいに、とても温かいものだった。
***
マーサは目の前の光景に涙を禁じ得なかった。
巌のような伯爵と母性の塊のような夫人に抱かれている小さな主人。
周囲に微笑みと慈愛を振り撒きながらも、いつもどこか怯えと緊張を漂わせている少女。
いまその少女の顔は、見たことがないほど穏やかで幸せそうだった。
(サヨ様……本当に、本当に良うございました……)
昨日フレイアルドから応接室での出来事を聞いたマーサは、怒りとともに落胆を覚えていた。
伯爵のなさりようにだ。
連絡もなしに急に侯爵邸を訪れただけでなく、小夜の前でフレイアルドを怒鳴りつけたという。
伯爵の威圧感あふれる声でそのようなことをすれば、小夜でなくとも怯えるに決まっている。
普段から、傍目に見ていても痛々しいほど家族を切望する主人。
その主人が抱いていた期待を裏切られた、と思ったのである。
顔には出さなかったが、かなり頭にきていた。
マーサは小夜がこちらに来た日から世話をし続けているが、今ではその忠誠心を生涯捧げたいと思っている。
自分が過去仕えたことがある主人は、いずれも貴族の令嬢や奥方だったが、小夜ほど心優しい主人はいなかった。
だからこそマーサは朝食を一緒にという申入れの際、小夜を怯えさせた者達の様子をしっかり見てやろうと不遜な考えをもった。
もし平然としているようならば、マーサは小夜の侍女として首を掛けて進言する覚悟でいたのである。
ところが夫妻は、昨夜眠れなかったのではないかとこちらが心配になるほど憔悴していた。
小夜の侍女と名乗った段階で、マーサに小夜の様子を尋ねてきたのである。
「マーサと申しましたね、あの子は、夕べは眠れたのでしょうか? 夕食は食べましたか?」
主人は朝日が昇るまで侯爵とともに仕事をしていた、とは口が裂けても言えなかった。
主の名誉を守るのも侍女の仕事と弁えているマーサは、訊かれたことのみ答えた。
「サヨ様は昨日、自室にお戻りになられるなり眠ってしまわれました。そのためお食事はとれず……」
マーサがそう言った途端、夫妻はがくりと肩を落とした。
「やはり、とても怖がらせてしまったのですね……」
「む……」
黴でも生えてきそうな夫妻を見て、マーサは胸を撫で下ろした。これならばもう小夜を傷つけまい。
小夜との朝食会を申し入れるのに、もう躊躇いは消えていた。
「伯爵領からのご移動のお疲れがまだあることとは存じますが、我が主人がお二人との朝食の席を設けたいと申しております。いかがでございましょう?」
「……あの子が、私達と朝食を?」
「左様でございます」
瞬間、夫妻の絶望していた瞳に輝きが戻った。
二人はマーサに食いつくように身を乗り出す。
「勿論! 勿論出ますとも! そうですね? あなた」
「うむ、うむ」
「ありがとうございます」
マーサはどうかこの朝食会で、親子となる彼等が少しでもそれらしくなれればいいと、希望をもっていた。
結果は見たとおりである。
フレイアルドにもラインリヒにも、このマーサにも見せたことがないような穏やかな表情を、小夜は浮かべている。
侍女としてこんなに嬉しいことはなかった。
しかし、いつまでも立ち尽くしているわけには行かない。
廊下では料理長が今か今かと待ち兼ねているのである。
あまり待たせると乗り込んできてしまう。
マーサは涙を拭き、初々しい親子に着席を促した。




