03.逃亡
小夜の十八の誕生日まで一週間を切っていた。
二年以上監禁され狭い自室だけで生活していた小夜は、年齢に見合わず体が小さい。
腰まで伸びた黒髪に、日に当たらない肌は真っ白。
母譲りのヘーゼルアイは長いまつ毛に縁取られている。
もう少し血色と肉つきが良ければ、誰もが振り向く美少女なのは間違いない。
彼女の両親は高校に進学できなかった娘を恥ずかしいモノとして家から一歩も出さないようにした。
部屋の中唯一の窓には曇り加工のシートが貼られ、小夜はその日の天気さえ分からなかった。
食事は日に一度、弟の聡一が運んでくれる。
唯一の味方である弟は何度も逃がそうとしてくれたが、見つかる度に小夜が殴られた。
姉が目の前で殴られ、何も悪くない弟は自責の念を強く抱いてしまっていた。
小夜はそれが怖くなり、やがて逃げることを諦めた。
フレイアルドに渡すため翻訳していた本や筆記具はみな、父に取り上げられた。
一冊だけ、翻訳文を記したノートを隠し持っていたけれど新しく書くことはできず。
ふとした時に眺めるだけだった。
それでもノートに残る向こうの文字は小夜の心の拠り所で、道標だった。
部屋にはテレビなど外の情報を得られるものはなく、聡一がこっそり差し入れてくれる本だけが唯一の情報源だった。
本を読んでる時や、ノートを取り出して眺める時、小夜の指は無意識に動く。
指が勝手に綴るのは向こうの文字。
小夜は長年の習慣で、その必要はないのについ向こうの文字に翻訳してしまうのである。
(フレイアルド様……死ぬ前に、もう一度だけでいいから、会いたいです……)
比喩でもなんでもなく、小夜の体は監禁生活でぼろぼろだった。
万年栄養失調の体は身長が小さく、まだ中学生程度。
女性らしい膨らみもない体に消えては付けられる多数の痣。
月のものも、いつからかきていない。
幸いーーと言えるのか分からなかったが、父は小夜を殴っても小夜を性的に虐待することはなかった。
だから小夜は月のものが止まったのはストレスや栄養不足と結論づけた。
小夜はこの地獄のような日々をひたすら耐えていた。眠ることでやり過ごすことも多かった。
そのため著しく筋力が落ちてしまい、三日に一度の入浴は肩で息をするくらいだった。
小夜がいつものようにベッドに横たわりぼうっとしていると、コンコココン、と控えめにドアが叩かれる音がした。
この叩き方は聡一の合図である。
「そうちゃん……?」
「うん、オレ。あいつら今いないから」
両親が出かけて家にいない時は、こうして弟が扉越しに話しかけてくれる。
小夜はそれが楽しみだった。
横たえていた体を起こし、扉の前にぺたりと腰を下ろす。
今日は、扉越しでも声を聞けば聡一が狼狽えてるのがわかった。
小夜はどうしたの? と尋ねる。
「親父たちがなんかーー変なんだ」
「へん、って?」
小夜には普段の彼らが分からない。
殴るか、怒鳴るか、無視するか。
彼らの感情のバリエーションはそれくらいしか覚えがないのだ。
「明日親父の大学の後輩? とか何とかを招いて食事するって言ってるんだよ。変だろ?」
少なくとも小夜が監禁されてからこの家に部外者は来たことがない。
しかも、だ。
「ーー姉ちゃんも一緒に、って」
小夜は声が出ない。というより言葉が見つからなかった。
それは変、を通り越して異常である。
「なんで……?」
「オレもわかんない。大丈夫だよ姉ちゃん。オレも一緒だし、いくら親父でもよその人間の前では殴らないよ」
「う、ん……」
その時、外で車のドアが閉まる音がし「あいつら、もう帰ってきた」と弟は足早に階下へ降りて行った。
小夜と話していることが見つかるとまずいのである。
『お前は我が家のゴミだ。ゴミが人間と話すな』
『聡一がオレの言うことをきかないのはお前がたぶらかしているからだろう』
『将来聡一はオレと同じ大学に入るんだ。お前とは住む世界が違うことを忘れるな』
父の言葉は、小夜の中で今も、壊す事のできない壁となって残っていた。
***
翌朝。珍しい人が小夜の部屋にきた。
母だ。
家の中だというのにブランド品に身を包んだその女は、この二年ほとんど小夜の元を訪れることはなかった。
「臭いわね」
小夜の室内には簡易トイレがある。その臭いだ。
夏はもっと臭うけど、と思ったが小夜は口にしなかった。
母は小夜を見ると「これじゃだめね」と言って、部屋から連れ出した。
そのまま入浴の日でもないのに風呂に入らされた小夜は、上がった際、脱衣場のゴミ箱に着古した自分の服が捨てられているのを見つけた。
代わりのように置かれていたのは、首元、手首までしっかり隠れる真新しいワンピースである。
(綺麗な新品の服なんて、初めてだ……)
二年ぶりに会う鏡の中の自分は、頬が痩けてはいるものの、母に少し似ている気がした。
「姉ちゃん着替えた? 父さんが呼んでる」
脱衣場で着替えていた小夜に聡一が扉の外から声をかける。
小夜は今行くね、と短く返事した。
父はリビングのソファで新聞を読んでいた。
聡一に連れられて入ってきた小夜を一瞥すると、事務的にこれから客がくるが余計なことを話すな、とだけ命じる。
どうやら聡一が言っていた通りのことが起きるらしい。
そしてその客は、昼前に呼び鈴を鳴らした。
***
父の大学時代の後輩だと言う男は、少なく見積もっても四十を越えているように見える。
玄関先で軽い挨拶をしたあと名乗ったが、小夜はすぐその名前を忘れてしまった。
母も同じ大学で、三人は顔見知りらしい。
子供二人を蚊帳の外に、彼らは思い出話に花を咲かせていた。
ふと、男は小夜を見て相好を崩した。
「それにしても、まさか先輩にこんな綺麗なお嬢さんがいるとは思いませんでしたよ。てっきり息子さんだけかと思ってました」
不躾に眺めてくる男の視線から逃れたかったが、父の目がある以上席を立つことは出来ない。小夜は嫌な汗をかいていた。
聡一も視線に気付き、大学講師をしているという男を質問責めにすることでその場は何とかなったのである。
しかしそれでも、チラチラと小夜を盗み見るのまでは止められなかった。
昼食は、父がとった出前の寿司だった。
「小夜ちゃんは何がいい? 取ってあげよう」
食卓で小夜の横を陣取った男に、小夜は二つの意味で心底困った。
一つはもちろん今日初めて会ったこの男が、小夜に近すぎる距離で座ったこと。
男の肩や足が時折小夜にぶつかるほどに。
もう一つは……小夜が、生モノを苦手とすることだった。
(ーーきもち、わるい……)
フレイアルドに出会う前、飢えを凌ごうと冷蔵庫の中の物を勝手に食べていた小夜は、何度かお腹を壊した。
あとからそれが生モノを加熱せず食べたことによる食中毒だと気づいたがーー以来、小夜は生モノ全般を見ると吐き気を催すようになったのだ。
無論、小夜の食の好みなど父が知るはずもなく。
小夜は父からの視線の圧に耐えきれず、男に何でもいい、と言うと吐き気を我慢してそれらを胃に流し込んだ。
男が帰ってから小夜は自室で吐いた。
そして、吐いたことで体力を失った小夜はそのまま眠ってしまった。
ーー目が覚めると、部屋から簡易トイレが無くなっていることに気づく。
「これからは部屋の外のトイレを使いなさい。風呂も日に一度入るように」
家の中ならば、自由に過ごしていい。
小夜は父の言葉にこれは夢じゃないかと思ったが、現実だった。
聡一は父の変化を手放しで喜び、その夜は請われるまま二人で眠った。
ーーでも、なんでこんな急に。
小夜は漠然とした不安を抱えていたが、喜ぶ弟には、言えなかった。
***
部屋の外に出てもいい。
そうは言われたが、どんなことが父の機嫌を損ねるか分からず、小夜は変わらず自室に引き籠っている。
ーー日付が変わったら、十八になる。
その日。
聡一が真っ青な顔で小夜の部屋を訪れた。
うとうとしていた小夜は、弟の様子がただごとではないと気付き身を起こす。
その肩を聡一が掴む。
「……今すぐ逃げよう、姉ちゃん」
「にげようって……」
「父さん達が話してた! あいつらほんとの鬼畜だ!!」
聡一を落ち着かせて聞いた話に小夜はこぼれ落ちそうなほど目を見開く。
あと数時間で小夜は十八になる。
そして十八になったその日の朝、父の言葉通りならーーあの男が小夜を取・り・に・来・る・という。
あの男とは、もちろん父の後輩だ。
「父さんは最低だ。二十五も年上の男と姉ちゃんを結婚させるなんて……!!」
「そんな、まさか」
そう言いつつ小夜は、でも、とこの数日を思い返した。
……両親は小夜に服を与えたり、入浴するよう勧めたり、とにかく小綺麗にしようとしていた。
そうーーまるで、出荷前の家畜を、管理するかのように。
ぶるりと悪寒が走った小夜は、ぼろぼろと涙をこぼした。
(ほんとうに、わたしは、いらない子なんだ)
彼らを信じていたわけではない。
両親を、愛していたわけでもない。
でもーー
静かに泣く小夜に、聡一は鞄を見せた。
その中にはこの数日間に与えられた小夜の新しい衣服とーーフレイアルドの為に綴った、残りの翻訳。
(捨てられたと、思ってた……)
「父さんの部屋でやっと見つけたんだ。これ、姉ちゃんの大事な物だろ?」
震える手を伸ばして、ノートに触れた。
ーーフレイアルド様に会えた気がした。
「……うん、すごく、だいじなの」
「ごめん姉ちゃん……ずっと見つけられなくて」
「ちがう、ちがうよ、そうちゃん」
小夜は弟を抱きしめる。
聡一がいなければ、小夜はもうとっくに死んでいただろうーー文字通り。
「そうちゃんの、おかげだよ」
小夜は弟と一緒に静かに家を出た。
見上げた薄明の空に、小夜は一粒、涙を零した。