08.大声
これからはザルトラが小夜を守る。
そう、庇護を約束してくれたアマーリエが、小夜を抱きしめたまま泣き出してしまった。
アマーリエの体からは真新しい畳のような良い匂いがして、小夜はそれだけで懐かしさに胸が締め付けられた。
ラインリヒと同じ赤毛に、ちらりと見えた若草色の瞳。
きっとその瞳からはとめどなく涙が流れているのだろう。
自分よりも頭ひとつ分背の高いアマーリエに埋もれながら、小夜はなす術なく固まっていた。
(な、泣かせてしまった? がっかりさせた? やっぱり、ちゃんと挨拶できるようにしておけば……)
後悔先に立たずとはこのことか、と肩を落とす小夜と、その小夜を抱きしめるアマーリエの横に大きな影が立つ。
ザルトラ伯爵である。
この部屋の中の誰よりも大きな体躯は、それなりに年を重ねているだろうに、筋骨隆々としている。
頭部と顎はつるりとして、その豊かな口髭が口元と、表情を隠していた。
ふさふさの眉の下にある大地の色をした目が怒ったように吊り上がっている。
小夜は思わずアマーリエに添えていた手に力を入れてしまった。
小夜の変化に気付いたアマーリエは顔を上げ涙を拭く。
するとそこには、しゃんと背を伸ばした貴婦人が現れた。
「あなた、サヨがこわがっていてよ」
「む……」
それ以降無言の伯爵はまだ吊り上がった双眸で小夜を見下ろしている。
養女にしてやろうと思っていた娘が余りにも不出来だったので怒っているのだろうか。
小夜はアマーリエにしがみつきながら、おどおどと謝る。
「……あ、あの、ごめんなさい……ちゃんとご挨拶、練習します……ごめんなさい」
伯爵の大きな体躯と小夜を見下ろす姿は、小夜に実の父を思い出させた。
萎縮する小夜に、伯爵は口を開き何か言いかけ、やめる。それが何度か繰り返された。
するとそこまで静観していたフレイアルドが、小夜と伯爵の間に割って入る。
フレイアルドの背中に小夜は肩の力が抜けるのが分かった。
「ザルトラ伯、どうぞ一度ご着席を。サヨも混乱しておりますので」
「……よかろう」
身を翻し席に着いた伯爵は、まだチラチラと小夜を見ている。
小夜ははっきり言って伯爵が怖かったが、アマーリエは励ますように笑った。
「サヨ。あなたのお父様はとても不器用なお方ですが、決してあなたを疎んでいるわけではありませんよ」
こくりと頷く小夜を見たアマーリエは満足気に笑む。
アマーリエに手を引かれ、小夜は応接室の長椅子に掛けた。
祝福の検証時よりも椅子が足された応接室は、一種独特の空気感に満ちていた。
面々は時計回りにバルトリアス、伯爵、アマーリエ、小夜、フレイアルドと着席している。
そこへ、それまで壁と化していたマルクスがお茶を淹れてくれた。
優雅に茶器を傾けるアマーリエは香りを楽しんでいる。
「まぁ、良い香りだこと。サヨはお茶が好きかしら?」
「はい」
「では今度一緒に市場へ行きましょう。茶葉の選び方は覚えていて損はありませんからね」
「市場ですか?」
小夜は王都の市場を思い出し、目を輝かせた。
初めて船に乗り、河を渡り、フレイアルドと並んで果物を食べた。
とても楽しい日だった。
「か……母様、は、市場によく行かれますか?」
母様と呼ぶのにまだ慣れない小夜をアマーリエは咎めたりしない。
「ええ。王都ほどではありませんが伯爵領の市場もそれはそれは沢山物が入ってきますからね。物価や供給量を確認するため時折足を伸ばすのは、領主の妻の仕事です。これからはあなたにも教えましょうね」
小夜は仕事ならば覚えなければとその意味を深く考えずに頷いた。
それまで黙って親子の会話を聞いていたフレイアルドがそれならば、と提案する。
「当家と伯爵領間で転移先の登録をいたしましょう。そうすればサヨも、気軽に伯爵領へ遊びに行けますから」
気軽に遊びに行けるという言葉に、小夜はいつでも新しい母に会えることを単純に喜んだ。
しかしその気持ちは、一瞬で霧散させられることになる。
伯爵の大きな体が椅子の上で揺れた。
「……今なんと申した」
地の底から這い上がってきたような声音は伯爵のものだった。
小夜は大きく体を震わせる。
伯爵の額には血管が浮き上がっている。
小夜の隣にいるフレイアルドは何とも思っていないのか、表情も声もさらりとしたものだ。
「当家と伯爵領の領主館を繋ぎたいと言いましたが?」
小夜からは伯爵の口髭が膨れ上がったように見えた。
「そうではない! 其許はサヨが伯爵領へ遊びに来ると申したのか?」
「左様ですが?」
ガタリと大きな音を立てて立ち上がった伯爵に、小夜はとっさに悲鳴を飲み込む。
持っていた茶器に構わず頭を両手で庇った。
茶器が倒れ、その中身が卓の上に流れ出る。
「サヨは当家の娘だ!! 今後は伯爵領で暮らすに決まっておろうが!!」
雷鳴のような怒鳴り声だった。
それをぴしゃりと嗜めたのは、小夜の異変を察したアマーリエである。
「あなた!! いい加減になさって!! サヨ、サヨ、大丈夫です、大丈夫ですよ」
小夜はアマーリエとフレイアルドの間で背を丸め頭を庇ったまま、身動きできないでいた。
目に涙が滲み、荒く浅い呼吸を止められなかった。
こんな態度をとってはいけないと分かっているのに、自分を抑え切ることが出来ない。
アマーリエが声を掛けてくれ、背を撫でてくれているのに一向に治らない。
すると隣に座っていたフレイアルドが動く気配がし、小夜は気づいたら彼の腕の中にいた。
「殿下、アマーリエ殿。サヨは休ませます。よろしいですね」
「構わぬ。行け」
フレイアルドの怒りが滲んだ冷たい声と、バルトリアスの短く鋭い返答に小夜は身を縮めた。
荒い呼吸を落ち着かせて、何でもないと今すぐ言わなければならないのに、どうしてもうまくいかない。
その間にもフレイアルドはさっさと小夜を抱えたまま応接室を出てしまった。
早足で廊下を歩くフレイアルドの顔は、見上げると怒っているように見えた。
自分の至らなさを謝る声が震えた。
「……っめ、なさ……ごめ……」
「貴女は悪くありません」
もういつもの優しい声音に戻っている。
フレイアルドは小夜を抱えたまま、器用に扉を開ける。
そこは小夜の自室だった。
部屋の中には誰もいない。主人である小夜の不在中は、マーサもフロルも別の場所で仕事をしているのだろう。
午後の明るい光が差し込む見慣れた光景に小夜は体の震えが引いていくのを感じた。
小夜は丁寧に長椅子に下ろされる。
フレイアルドが小夜の目の前で膝をついた。
「貴女は悪くありません。ーー伯爵も、あれで悪い方ではないのですが、怖がらせましたね」
フレイアルドの手が小夜の頭から肩口を落ち着かせるように撫でた。
そのおかげでだんだんと気持ちと呼吸が落ち着いてきて、小夜は左右に首を振った。
せっかく小夜の親になってくれる人達が遠い所から会いにきてくれたというのに、自分ときたら失敗しかしていない。
「……ごめんなさい、台無しに……」
俯く小夜の頭をフレイアルドが撫でる。
小夜からはフレイアルドの顔が見えなくなった。
静かな声が優しく小夜に染み込んでいく。
「貴女は頑張りました。きちんと出来ましたよ。ーー私は少し、伯爵とお話をしてきますからサヨは休んでいて下さいね」
「はい……」
見上げればいつも通り微笑むフレイアルドに、小夜は申し訳なさしかなかった。
いつのまにかマーサが部屋へ来ていた。
「マーサ。しばらく小夜を頼む」
「かしこまりました」
フレイアルドは小夜に聞こえぬようマーサと二言三言交わしたようだった。
入れ替わるようにフレイアルドは出て行く。
見送った小夜の背をマーサが撫でる。
「マーサ……」
マーサはいつもの安心する笑みを浮かべ、小夜にそのまま横になるよう言った。
「サヨ様は少しお休みくださいませ。とても緊張されたことでしょう」
マーサに追い立てられるように長椅子の上に普段着のまま少し横になると、自分がうとうとするのが分かった。
小夜は眠気に抗わず、目を閉じる。
目が覚めたら、伯爵にもアマーリエにも謝ろう……だからどうか自分を見限らないで欲しい、そう思いながら。
次話は短いため、昼頃に投稿いたします




