07.庇護
侯爵邸の門前で馬車を停めた伯爵一行は、邸の大きさに感嘆した。
特に夫人は久しぶりに見る侯爵邸の、壮麗ともいえる美しさに息を呑んだ。
(王宮に勝るとも劣らない美しさだこと)
自分がまだ若く王都にいた頃は、もう少し慎ましやかな屋敷だったと思う。
その頃侯爵家の両隣の屋敷に住んでいた貴族は、家宝としていた遺物が全て休眠しその血が絶えたと聞く。
おそらくその土地屋敷を買取ったのだろう。
見える面積だけで、自領の領主館が三つは入る。
同乗していた護衛の女性騎士も、息を呑んでいた。
王国創建時から続くザルトラ伯爵家に比べればやや歴史は浅いものの、フェイルマーも名門といって差し支えない家柄だ。
それに加え王国きっての大農地を所有し、手掛けた事業も多くが成功。侯爵家はいまやこの国一番の資産家と言っていい。
しかしそれらは全て最初から持っていたものではない。
広大な農地は戦の功労として与えられたものだし、土地があれば必ず作物が採れるというものでもない。
近年、当主自身が開発した肥料によって侯爵領がその収穫量を飛躍的に伸ばしているのは誰もが知る事実だ。
事業とて、前侯爵の時代はあまり派手な成果はなかった。
この十年フレイアルドが侯爵となってから軌道に乗ったものが多い。
現侯爵はいまだ独り身だが、そのような男に縁談がもたらされない訳がない。
自分が知る限り、王家や公爵家からも申し入れはあったはずだ。
舞い込む花吹雪のような縁談の嵐の中においても、若き侯爵はただの一人にも興味を示さなかった。
(女嫌い、というのが貴婦人方の共通認識だったけれど、まさか運命のお相手を待ち続けていただなんて……!)
世間にこの物語が知れ渡った時のことを想像して、伯爵夫人は武者震いした。
フレイアルドを十年も待たせたという娘に一刻も早く会いたかった。
夫人が今か今かと待っていると、突然の伯爵夫妻の来訪に慌てて走っていった門番が、ようやく戻ってきた。
どうぞお通り下さい、と恭しく門が開けられる。
馬車が滑る石畳は誰にも踏まれたことがないほど白い。門と本邸を移動する間、来客者の目を癒そうとする前庭は季節の花々が品良く配置されていた。
夫である伯爵は唸った。
「一体いくら金を掛ければこれが出来るのだ」
夫ならば、同じだけ費用を掛けるなら軍馬を買うというだろう。
本邸の玄関ではフェイルマー侯爵、息子、そしてまさかの王族が二人を出迎えた。
馬車から降りた夫妻と護衛の女性騎士は、突然の訪問で驚かせるつもりが逆に驚かされたのである。
「久方ぶりだ、レイナルド」
右手を差し出すバルトリアスの前に夫は一瞬で跪くと、その御手に恭しく両手を添えた。
その目には涙さえ滲んでいる。
「殿下……! なんとご立派になられたことでしょうか……!」
「其方も壮健そうで何よりだ。その体勢は老体には厳しいのではないか?」
茶化すようなバルトリアスに伯爵は口髭の下でふっと笑うと、立ち上がり礼をした。
「その老体に、いつまでも前線指揮を依頼されるのは一体どこのどなたでしたかな?」
「手厳しいことを申すな」
そのやり取りを驚いた目で見つめていたのは屋敷の主たる侯爵と、息子だ。
息子など口を開けて間抜けな顔を晒している。
人の目がなければ引っ叩いているところだ。
夫人は出迎えの面々を見回すが、件の少女と思しき姿はない。
おっとりと顔に手を当て訊ねる。
「ところで、私達の娘はどこかしら?」
夫人の問いかけに進み出た侯爵は、娘は部屋で休んでおり、まだ夫妻の来訪を知らないと言った。
「長旅でお疲れとは存じますが、まずはどうぞ応接室へ」
侯爵自らの案内で応接室へ移動する夫妻と護衛騎士は、その屋敷の内装に内心舌を巻いていた。
質実剛健を旨とする伯爵家と違い、要所要所に配置された彫刻や綴れ織りが屋敷そのものを芸術品に昇華させている。
しかし隣を歩く息子が言うには以前はもっと飾り気のない屋敷だったらしい。
「サヨはまだほとんど外に出れない。だから屋敷の中しか歩けない日も少しでも気が紛れるようにって、数日置きにフレイアルドが入れ替えてるんだ」
「これを……数日で……?」
夫人はまさか、と息子を疑った。
それが事実なら金と労力の問題を超えている。
息子は更に信じられないとは思うけど、と前置きして、本当に信じられないことを言った。
「この間なんて、サヨがもう少し暮らしやすくなるようにこの屋敷を丸ごと建て替えたいなんて言い出して、止めるのが大変だった」
「は……?」
息子の言葉に夫人は思考が追いつかない。
自分を挟むように息子の反対側に並んで歩く夫にも間違いなく聞こえている。夫は顔にこそ出さないが、おそらく自分と同じ気持ちだと思われた。
ーー侯爵が重すぎる。
とてつもなく長く感じた道のりを経て応接室に辿り着いた夫妻は、これから起こりうることを想像し、すでに戦々恐々としていた。
***
応接室に入るなり挨拶もそこそこに、侯爵は娘を連れてくる、と部屋を後にした。
室内に残されたのは夫妻、その護衛騎士、バルトリアスとその護衛騎士、ラインリヒ、そして壮年の執事である。
その中でバルトリアスはラインリヒに所有する遺物を全て持ってくるよう命じた。
「全部ですか?」
「あぁ」
「わかりました。少しお待ちを」
ラインリヒが確実に出ていったことを確認して、バルトリアスは夫妻に切り出した。
「今から話すことは出来ることならお二人の胸の内だけに留めていただきたい」
暗に護衛を退室させるよう言われた夫妻は、女性騎士を振り返った。
「シェルカ、外で待っていてちょうだい」
「畏まりました。奥様」
水色の髪をした女性騎士は扉の前で敬礼し、退室した。
それを見届けたバルトリアスは真剣な表情で重々しく口を開く。
予想通り、娘の話だった。
「サヨは先日の事件前後の記憶を丸ごと失っている。想起させるような言動は控えて貰いたい」
息子から酷い怪我を負ったとだけ聞いていた夫妻は、表情を取り繕うことさえできなかった。
伯爵は膝の上に置いていた両手に力を入れ、バルトリアスに向き合う。
「一体どういうことですかな」
バルトリアスは困ったような顔で夫の隣に座る自分への配慮を見せた。
「……アマーリエ殿にはいささか刺激が強いが、よろしいか」
「まぁ!」
その言葉にアマーリエは軽い不満を示した。
これでも自分は一軍を預かり敵国を長年退け続けた男の妻である。
留守の領地を預かることも日常茶飯事だ。
小娘のような柔な精神をしていると思われるのは耐え難い。
毅然と胸を張った。
「どうぞお話になって。私はこれからその子の母となるのですよ。受け入れられぬ話などございましょうか」
きっぱり告げればバルトリアスは覚悟したように話し始めた。
約ひと月前、小夜がエマヌエルという痴れ者に拐かされ、その時に負った傷について。
そしてその原因が、彼が小夜を一人にしたことにあるという事実を。
バルトリアスが語る間、夫は全身の筋肉から発熱しているのではないかと思うほど小刻みに震えていた。
話の途中から手巾を口に当てた自分の手も震えている。
娘が助かったことは、奇跡としか言いようがない。
手紙による息子とのやり取りの中、「小夜が助かったのは殿下がかき集めた遺物のおかげだ」という文章は何度も出てきた。
夫妻は息子の手紙を疑っていた。
まさかバルトリアス殿下ともあろうお方が、伯爵家の養女になるとはいえ、たった一人の娘にそれほど力を尽くすことなどあり得ないだろうと。
しかしバルトリアスの尽力なくしては、娘は到底助からなかっただろう。
王家、もしくはそれに連なる公爵家でなければ持ち得ない遺物を使ったに違いない。
「……長年、実の親からの虐待と監禁さえ耐え抜いたあの娘が、記憶を消すほどの恐怖だ。無理に思い出させることは、避けた方が良かろう」
話を聞き終えた夫は音もなく立ち上がり、バルトリアスの前に片膝をついた。
夫の意図を正確に汲み取った自分もそれに倣う。
二人は揃って王族への最上級の感謝を示す礼をとった。
「殿下にはいくら感謝を申し上げても足りませぬ。我が娘をお救い下さったことへの御恩、ザルトラ家がこの地にある限り決して忘れぬことを誓いましょう」
深々と礼をする二人の頭上に、バルトリアスの静かな声が降る。
「レイナルド、アマーリエ殿、顔を上げよ。……そもそも俺があの娘を一人にさせなければ起こらなかった事件だ。俺はサヨと其方らに批難されこそすれ、感謝される筋合いはない」
驚く夫妻が顔を上げればバルトリアスは自嘲気味に微笑んでいる。
「……俺にできることは限られているが、出来る限りの庇護は誓う。そろそろ席へ戻れ。其方らがそのような格好でいるのを見れば驚く。ーーもう来てもいい頃だ」
言葉通り、そのすぐ後に部屋の扉が控えめに叩かれ執事が扉に近づき応対した。
どうやら侯爵が娘を連れてきたらしい。
夫妻はバルトリアスに対する何とも言えぬ感情を一旦おき、娘が現れるその瞬間を待っていた。
***
娘は、侯爵の背に隠れるように現れた。
俯いていたため、その顔をはっきりと確認したのは侯爵が二人を娘に紹介した時だ。
「サヨ。こちらがラインリヒのご両親です。ザルトラ伯爵と、その奥方のアマーリエ様です」
侯爵の紹介で顔を上げた娘に、アマーリエは心を鷲掴みにされた。
日に当たったことがないかのような白い肌に、腰まで届く艶やかな黒髪が良く映えている。
まるで女神の御使いのような愛らしい娘である。
顔を上げた娘は泣きそうな顔で、消え入るような挨拶をした。
「は……はじめ、まして……小夜、です」
そしてまた俯き、侯爵の背に隠れてしまう。
貴族としては落第点の挨拶だったが、咎める者は一人としていなかった。
アマーリエは娘の心細そうな様子に、自らの衝動を抑えられなかった。
夫の反応も見ずに立ち上がると、早足で小夜へ近づきその手を取る。小夜は手を取られたことに驚いた顔をしている。
「私はアマーリエ。レイナルドの妻で、ラインリヒの母ですよ」
なるべく怯えさせぬようゆったりとした口調を心がけて話しかければ、娘がこちらを見た。
こぼれ落ちそうなほど大きな榛の瞳は、戸惑いと困惑に揺れている。
アマーリエは、先触れを出さなかった自分達の行動を恥じた。
先触れさえしていれば心の準備をする時間を、この子にあげられたはずだった。
アマーリエは後悔とともに二度とこんなことはすまい、と己に誓った。
「サヨ、というのね。……とても会いたかったわ。抱き締めてもいいかしら?」
躊躇いがちに頷く娘を複雑な感情のまま抱き締めた。
その体はとても十八歳のものではなかった。
十三か十四、高く見積もっても十五がせいぜいだろう。
息子から聞いた、過去に娘が置かれていた境遇を思い出し歯噛みした。
「アマーリエ、さま……」
か細い声で他人行儀に呼ばれて首を振った。
アマーリエの中では、小夜はもう庇護すべき自分の子供だ。
たとえ違う場所から女神が連れて来た、血の繋がらない娘でも。
「私はもう貴女の母です。どうか、母様と呼んで頂戴」
呼んでくれなければ、呼んでもらえるよう努力するつもりだった。
けれど娘は戸惑いながらも必死に応じようとしてくれる。
ーーその姿の、なんといじらしいことか。
「か……かあ、さま?」
本当にそう呼んでいいのか、そう問われた気がしてアマーリエは強く頷いた。
この子を、何があっても守ってやりたい。
その気持ちのまま、小夜の背を撫でれば、恐る恐る小さな手が自分の背に回された。
抱きしめ返すことさえ自然にできない。
この子は実の親に、こうして抱き締めて貰うことさえなかったのだと、涙が込み上げた。
「……これからは、ザルトラが貴女を守りますからね」




