06.木陰
小夜が自室に戻るやいなや、フロルが待ちかねたように駆け寄ってきた。
二つ歳上の侍女には時折垂れた犬耳が付いている幻覚が見える。
「サヨ様、お疲れではございませんか? お茶をお淹れします。料理長が作った焼菓子もございますよ」
にこにこと迎えてくれるフロルに、小夜は申し訳ない気持ちになった。
落ち込んでいたことに気付かれてしまったのだろう。
長椅子に座り、小夜はフロルが淹れてくれたお茶を口にする。
自室の長椅子は、小夜のお気に入りだ。
応接室のものよりも柔らかい座面はいくらでも座っていられる。
フロルが焼菓子の盛られた皿を小夜の前に置く。
「今日はプティコがとても上手く焼けたと料理長が申しておりました」
「すごく美味しそうですね」
プティコは、人差し指と親指で摘める大きさで、サクリとした歯触りが特徴の焼菓子だ。
料理長の自信作だというお菓子はほんのり蜂蜜の味がした。
ゆっくり味わって食べながら、小夜は自分の隣に控えるフロルを仰ぎ見た。
「フロルはマーサの娘なんですよね? お父様はどんな方ですか?」
フロルは小夜の問いにぱっと顔を綻ばせた。
「それはもう優しくて頼もしい父でした! 自分で野菜でも家でも何でも作ってしまうくらい元気で手先が器用な父だったんですよ! 私のこともよく可愛がってくれました」
小夜はにこにこ語るフロルの言葉に出てくる父親が、いずれも過去形であることにすぐ気づいた。
「あの、もしかして……」
「ええ、私が三つの時に流行病で亡くなりました」
小夜は猛烈に自己嫌悪した。
こんなついでのように、軽々しく振る話題ではなかった。
小夜だって、急に家族のことを聞かれれば悲しくなるのに、相手もそうであるかも知れないという想像力に欠けていた。
小夜は心から謝罪した。
「ごめんなさい、軽々しく聞いたりして……」
「えっ、そんなことありません! 私は父のことを聞いて貰えると嬉しいです!」
「え……?」
フロルの顔にはその言葉通り、悲しさも気まずさも見当たらない。
主人を気遣っての演技かもしれなかったが、小夜にはどちらかわからない。
「だって、私が話したら話した相手の心に父が残ります。もう影も形もない父が、誰かの心に残るんです。それってとっても素晴らしくないですか?」
親孝行だと思ってます! と胸を張る侍女の姿に、小夜は口を開いて固まるしかなかった。
そんな風に考えたことなど、これまで一度もなかったからだ。
フロルはまるで、夏の木陰から差し込む陽射しのように微笑んだ。
「私は常日頃、自分に一つも益がない嫌なことはさっさと忘れて、楽しくて素敵な思い出を大切に覚えておくようにしております。私が父のことを忘れてしまわない為にも、どんどんお尋ね下さいませ」
小夜は自分の中の暗くて醜い氷のような塊が、ほんの一瞬溶けるのを感じた。
フロルの優しさと明るさに照らされたせいだと思った。
小夜は両手を伸ばし、少し荒れた侍女の指先にそっと添える。
「ーーありがとう、フロル。あなたがわたしの侍女になってくれて、とても良かったです」
「まだ三日目です、サヨ様」
フロルの指摘に小夜は目を瞬かせる。言われてみればそうだった。
侍女と視線を交わし、くすりと笑い合う。
「フロル、ずっといて下さいね」
フロルはしっかりと頷き請け負った。
「サヨ様がお望みでしたら、フロルはずっとお側におりますよ!」
フロルの太鼓判に、小夜がやっと自然な笑みを浮かべた頃だった。
何やら外が騒がしくなったのである。
音の方角から、階下だった。
「……フロル、何か騒がしいと思いませんか?」
「本当ですね。見て参りたいところですが……」
小夜は極力、屋敷内で一人にならないよう言われている。
移動や自室でもだ。
フロルがいなくなってしまうと小夜は一人になる。だからフロルは見に行きたくても行けないのだろう。
「これを食べたら、一緒に見に行きましょうか?」
そう言うとフロルは慌てて首を振る。
「いけません! 連絡があるまでお部屋で待ちましょう!」
マーサによく似ているフロルはその行動までよく似ていた。
とても過保護だ。
フロルの言うとおり、騒ぎが静まっても小夜は部屋から動かなかった。
しばらく待っているとまた廊下が騒がしくなる。部屋の扉が慌ただしく叩かれて、顔に緊張を貼り付けたフロルが対応した。
「どなたでしょう」
「フレイアルドです。小夜はいますか?」
開けられた扉から入ってきたフレイアルドは珍しく慌てたように小夜の元まで来た。
「サヨ、急なことですが……ラインリヒの両親が来ています」
「……え?」
ラインリヒの両親ということはつまり、小夜を養女としてくれる人達である。
突然のことにそれ以上言葉が出なかった。
本来なら養女にしてもらう小夜から挨拶に行くのが筋ではある。
しかし伯爵領がとても遠いこと、病み上がりの小夜にはまだ長旅が難しいことから、ラインリヒが手紙で面会の延期を伝えていたはずだ。
だからラインリヒは両親に会うのはまだしばらく先のことだと小夜に言っていたし、小夜もそのつもりでいた。
頭の中が整理しきれず、小夜はフレイアルドを見つめることしかできない。
「もちろんサヨに会いに来たのですが……会えますか?」
「は、はい」
咄嗟にそう答えたが、本当は心の準備などしていなかった。
家族が欲しい、親が欲しいと思っていたけれどーー実際に、なってくれるという人達と会う自分をまだ想像できていない。
もし、もしもだ。
(やっぱりいらないって言われたら)
その時はどう振る舞えばいいのか。どんな言葉を口にしたらいいのだろうか。
小夜は怖くなり、ぎゅっとスカートを握る。
握る手に力が入ったのか、震えてしまう。
「サヨ、大丈夫です」
小夜の震える手を大きな手が包むように重なる。
温かな手だ。
「私が最初から最後までそばにいます。それでも怖いですか?」
フレイアルドがずっとそばにいる。
その光景を想像して、小夜はぶんぶんと首を左右に振った。
この手を握っていてもいいならば、何とかなりそうだ。そんな気がした。
「それなら……こわくない、です」
「では、行きましょう」
ごく自然に小夜はフレイアルドに抱き上げられ、部屋を出る。
見送るフロルは心配そうにこちらをずっと見ていた。
長い廊下をフレイアルドはゆっくり歩く。
歩く間、小夜はどう挨拶したらいいだろうとぐるぐると思考した。
(この度はありがとうございます? それとも養女にしてくれてありがとうございます?)
だが、どれもしっくりとは来ない。
辿り着いた応接室は、バルトリアス達と祝福の検証を行ったいつもの部屋だ。
扉の前には見慣れぬ女性騎士がいる。
水色の髪を結いあげ、きりりとした眦がフレイアルドに抱き上げられた小夜を見つけた。
目が合ったので小夜から会釈をすると女性騎士は驚いた顔をしていた。
女性騎士は小夜に敬礼を返してくれた。
その女性騎士の前で小夜は下ろされる。
フレイアルドは腰を落とし小夜と目線を合わせ、励ました。
「この中でお待ちの伯爵も、伯爵夫人も怖い方々ではありませんよ。思い出して下さい、あのラインリヒの両親です」
フレイアルドの言葉に小夜は一瞬呆けて、それからくすりと笑ってしまった。
いつも明るくて、時折フレイアルドと漫才を繰り広げる兄の姿を思い出したのである。
「そう、ですね。あのラインリヒ様のご両親ですよね」
「はい」
フレイアルドに手を引かれ、小夜は開けられた扉の先へ足を踏み入れた。




