03.母娘
侍女に与えられる部屋は通常とても狭い。
どこの家でも大抵同じ間取りだが、幅は人間二人が両手を伸ばせる程度で、そこに寝台と物入れを兼ねた衣裳箪笥が二つずつ置かれ、優しい主人なら共有できる机と椅子が入る。よくてその程度だ。
しかし侯爵邸は違った。
全ての使用人に一人部屋が与えられ、支度金までもらえる。
小夜に直接仕える侍女だからと、フロルの部屋には貴重品である鏡までついていた。
成人し侍女見習いから侍女を名乗ることを許されたばかりの自分には破格の待遇である。
フロルが喜びと明日からの仕事への期待とに胸を膨らませ就寝しようとしたその時、母が部屋を訪ねてきた。
母は小夜の侍女として働くにあたり、いくつか厳重な注意をしたいという。
中へ招き入れると母は椅子に腰掛け、フロルは向かい合うよう寝台に腰を下ろした。
母は夜だから、という理由だけでなく声を顰める。
目の前のフロルに辛うじて届くような声量だった。
「あなたは先日当家で起きた事件について知っていますね?」
「もちろん知ってるわ。前の家でもすごい騒ぎだったし……」
母は頷き、フロルの眼前で指をピシリと立てた。
ひとつ、先日の事件については一切口にしないこと。
侯爵邸の事件は他家で見習いとして働いていたフロルの耳にももちろん入っていた。
侍従の一人が同じ邸内の侍女二人を殺害したという事件が大きく話題になったのは、その中心にいる人物のせいだ。
その中心人物と噂されるのが、フェイルマー侯爵である。
どうやら侍従はフェイルマー侯爵に対して並々ならぬ執着があり、二人の侍女に嫉妬して犯行に及んだという。
しかしこの事件は謎が多かった。
二人の侍女は特にフレイアルド本人から寵愛されたわけでもなく、接点が多かったわけでもない。
その上、二人とも実家に帰るはずのその日に殺された。
真相はもっと別にあるのではないかというのが市井のもっぱらの噂である。
フロルがこれまで事件について耳にしたことを話せば、母は悲しげに目を伏せた。
「……エマヌエルが二人を殺したのは事実です。しかし、彼はその後あろうことか、サヨ様までその手に掛けようとしたのです」
フロルは母の言葉に愕然とした。
自分よりも二つ歳下と聞いていたが、見た目だけならば貴族院に入学したばかりのように見える少女。
その細く折れそうな手足をフロルは思い出した。
「私はラインリヒ様が治療を行う際、おそばで見ていましたが……本当にひどい有様でした。頭の骨にヒビが入り、御顔を腫れ上がるまで殴られた上、内臓も傷つけられて……」
「ひっ……!!」
フロルは叫び出さないようにするので精一杯だった。
ーーあんな、あんな少女になんてことをするのだろうか!
一体なんの恨みがあれば、そんな酷いことが出来るのだろう。
母はもし少女がそのまま死ねば自分も死んでいた、という。
小夜が一人になる隙を作った責任を取るつもりだったと。
「ーー旦那様に、バルトリアス殿下、それからラインリヒ様。あの方々がいらっしゃらなければ、今頃……」
「母さん……」
さめざめと泣く母は、自らの命を惜しんで泣いているのではない。主人がその命を散らしていたら、と泣いているのだ。
それくらい娘の自分にもわかった。
フロルが母さんと呼びかけると母は首を振り強い眼差しで自分を見据えた。
「よいですか。この屋敷の中ではあなたは私の部下であり、何よりサヨ様にお仕えする侍女です。いざという時は私のことなど捨て置き、サヨ様だけをお守りするのです。それが約束出来ぬのなら、明日にでも荷物をまとめてお帰りなさい」
母の言葉にはっとしたフロルは自らに気合を入れ直すよう自身の手でその頬をはたいた。
目の前の母、いや侍女頭に毅然と宣言する。
「いいえ。帰りません。私は誠心誠意、命を賭けてサヨ様にお仕えします」
実のところ、今日ここに来るまでフロルは仕える相手を知らなかった。
侯爵によって小夜に引き合わされるまでは貴人に仕えるとしか聞いていなかったのである。
(けれど、あんな方は初めてだった)
初めて会うフロルにとびきりの笑顔で「よろしくお願いします」などというご令嬢は、きっと国中探してもあの方だけだ。
お仕えする理由には充分すぎる。
自分の真剣さが伝わったのか、母はほっとしたように胸を撫で下ろした。
それから、一体どこにしまっていたのか一枚の紙を取り出した。
「サヨ様にお仕えするにあたっての他の注意事項です。読んだ後は必ず燃やすこと。良いですね」
受け取り、ざっと眺めてフロルは青褪める。
気になる点は多々あるし、一度読んだだけで理解しきれない内容もあった。
しかし侍女として一番気になるのは。
『フレイアルドとサヨが共寝をしていることをマーサを除く他の侍女、侍従を始めとした全ての使用人に決して悟られぬようにすること。また決して外部に漏れぬようにすること』
この一文だった。
まさか、と母を伺う。
「……あのお二人は、すでにご婚約を?」
「いいえ」
「では、恋仲なのですか?」
お互い想い合っているのならば、気が早いとしか言い様がないが仕方ない。しかし母は首を振った。
「旦那様のアレを恋と言っていいのかーー私ごときが推察することはできません。サヨ様に至っては恋が何かもおそらくご存じないでしょう」
今度こそ、フロルは顎が外れるかと思った。
「……ご存じない? なのに同衾……?」
まさかあの侯爵は涼しい顔をしてあんな少女に無体を働く男だったのか、と怒りが湧いてくる。
フロルの怒りには母も覚えがあるようで、先達らしく諦めまじりに嗜められた。
「数日見ていれば分かるでしょう。旦那様は決してサヨ様に無理強いなさる方ではありません。けれど、その、大変独占欲が強く……」
母は言い淀む。
しかし結局話してしまった方が早いと結論づけたようだ。
迷いない目でフロルを見つめた。
「旦那様の最優先事項はサヨ様です。サヨ様のお為ならばどんなことでもしようとする反面、時折暴走なさいます。もしサヨ様が他の殿方から好意を向けられでもしたら、その殿方は生きていないでしょうし、サヨ様は二度と外を歩けなくなるかも知れません」
絶句する自分に、母はもう一度、サヨ様をお守りする覚悟を決めなさいとだけ告げる。
フロルはやっと気付いた。
それは、最悪の場合雇い主に逆らってでも小夜を守らねばならないという意味なのだと。




