02.好天
小夜は目を覚ました。
目を開けるとそこにはフレイアルドがいる。
いつまで経っても慣れることのないその光景に、小夜は掛布を頭の上まで引っ張り上げた。
自分よりも必ず遅く寝て早く起きる彼は、今朝も寝台の上で書類を捲っていた。
真剣そうな表情に声をかけることを躊躇っていても、必ず気配で気づかれてしまう。
今日も小夜が目を覚ましたことを察知すると、フレイアルドは寝台脇の卓にその書類を置き、こちらを覗き込んだ。
「おはようございます、サヨ。体調はどうですか?」
朝日の差し込む中、砂糖菓子のように甘い笑顔を向けられる。
小夜は掛布から目だけを出すと、こくこくと首を振った。
「おはようございます。フレイアルド様……体調は、いい、です」
フレイアルドのせいで心臓が早鐘のようだとは言えなかった。
小夜がフレイアルドと一緒に眠るようになっておよそ二週間、心臓は一向に慣れてくれない。
そもそもなぜ彼と眠るようになったのか。
小夜は未だにその理由がよくわからない。
共に寝ることは嫌ではないがーーとても、恥ずかしい。
小夜も色々とささやかな抵抗はしたのである。
先に自分の寝台で眠ってしまえば諦めるかなと寝た日は、寝てる間にフレイアルドの寝台に運ばれていた。
ならばと、翻訳を遅くまでしたいから先に寝て欲しいと断った時は、文机から問答無用で引き剥がされ、夜更かしをして体調を崩したらどうするのか懇々と説諭されながら彼の寝台に運ばれてしまった。
何をしてもフレイアルドの寝台に行き着いてしまう。
しかもそれをマーサどころかラインリヒやバルトリアスまで承知しているらしい。
知った時は恥ずかしさに両手で顔を覆った。
一応、ラインリヒだけは当の小夜の心情を慮ってくれた。
診察の時にそっと囁いてくれたのだ。
「どうしても嫌だったらオレからフレイアルドに言うけど……」
どうしても嫌かと訊かれると、小夜はそうではないと反射的に首を振った。
フレイアルドにされて嫌なことは一つとしてない。
恥ずかしい気持ちと嫌な気持ちは別物である。
それに、と小夜は顔を赤くしてラインリヒに打ち明けた。
「夜中……ちょっと目を覚ましてしまった時、フレイアルド様がいると……ほっとするんです」
暗い部屋で目を覚ました時、フレイアルドが手の届く場所にいる。
それだけで安心して再び眠りに就けるのも事実だった。
怪我が全て治り、心臓の機能を補助するという左手首の遺物も外れ、小夜は食事も普通に摂れるようになってきていた。
まだ普通の量ではないが三食きちんと食べ、屋敷の庭をリハビリがてら散歩する。
随分と健康体に近づいたと思う。
初めての健康な体、と喜ぶ小夜にラインリヒはしっかりと釘を刺した。
「走らない、転ばない、夜更かししない。守れない時は翻訳を禁止するからな?」
「はい……」
「約束な?」
この二週間ですっかり過保護な兄と化したラインリヒに、小夜はへにゃりと微笑んだ。
「はい。ありがとうございます、兄様」
「ーーっ」
直後、思い切り天を仰いだラインリヒは顔を手で覆うと何か呟いた。小さすぎてその呟きは小夜の耳に届かない。
「……オレ、ちょっと出掛けてくる……」
まだ天を仰いだまま力無く言うラインリヒに、小夜は行ってらっしゃいと声を掛けた。
よろよろと小夜の部屋を出ていく足取りを見守っていると、隣で全て見ていたマーサが溜め息を吐く。
「まだまだでございますね」
そんな穏やかな日常を送る小夜に、嬉しい出来事は続いた。
マーサの娘が前の職場で区切りがついた為、今日から小夜の侍女として侯爵邸に住まうというのだ。
なお前の職場では未成年であったため見習いとして仕えていたが、このたび成人したことで侍女を名乗れるのだという。
小夜はこの国の貴族の成人年齢が二十歳であることをこの時初めてマーサに教えてもらった。
「男女共に、二十歳が成人でございます。貴族は一部の者を除けば十四の歳に貴族院へ入学し、約四年学びます。そこから専門的な分野に分かれて二年学ぶ者がおりますので二十歳とされているのです」
「専門的な分野?」
貴族の多くは家庭教師をつけて、ある程度学びを終えてから貴族院へ入る。
つまり貴族院自体が日本でいうところの高校から大学にあたる。
マーサは二つの専門課程の名を挙げた。
「医師科と騎士科でございます。医師科はオレラセアの加護を持つ者が、騎士科はアルボグラブラ、もしくはゲムミフェラの加護を持つ者がそれぞれ専門知識と技術を身につけるのです」
突然飛び出した女神の名前に小夜はお手上げになった。
まだ八人の女神の名前を覚えきれていないのである。
「マーサ、何かに書いてくれますか? 読んで覚えます」
「それでしたら良きものがございます」
部屋を一旦出たマーサは、すぐに戻ってきてくれた。
差し出された彩色された絵と大きな文字の本に、小夜は見覚えがあった。
絵本である。
「こちらにも絵本があるんですね」
その美しい装丁に小夜は感心した。
この世界はどうにも技術の進み方が歪で、予測がつかない。
上下水道はないのに、印刷技術やほぼ透明なガラスを作る技術はある。
遺物があれば数日で骨までくっつくのに、それがなければ簡単な風邪でも命を落とす。
マーサのくれた絵本には、それぞれ女神の姿が生き生きと描かれその名前とまつわるお話が載っている。
「お暇な時にご覧下さい。ただし、寝台に持ち込んではなりませんよ」
「はい……」
目を光らせるマーサに、小夜は首を竦めた。
朝食後、爽やかな風の吹く好天のもと、マーサの娘が侯爵邸に到着する。
小夜より頭ひとつ分高い背に、一括りにした亜麻色の髪が鮮やかな女性だった。
小夜の部屋で主人に対する礼をする彼女は、娘というだけあって目元がマーサによく似ている。
「初めましてサヨ様。マーサが娘のフロルでございます。お仕えできること、心より感謝申し上げます」
小夜はなるべく主人らしくと心掛けたのだが、ついつい表情が弛んでしまった。
「よろしくお願いします、フロル」
フロルは身の回りの整理のためその日一日休みを貰い下がっていった。
小夜はふと、マーサやフロルがどこに部屋をもらっているのか気になり、フロル着任に同席していたフレイアルドに訊ねる。
その時、フレイアルドが一瞬だけ顔をこわばらせたように見えた。
けれど次に見た時は穏やかな笑顔だったため、光の加減で見間違えたのかもしれない。
「……この棟とは反対側の棟の一階が使用人の住居となっています。彼らにとっては気を抜ける唯一の場所になりますから、あまり、サヨは立ち入らないようにして下さいね」
「はい、わかりました」
そう返事をすれば、そっと小夜の頭をフレイアルドが撫でた。
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