01.悪夢
フレイアルドは自身の寝台の中で目を覚ました。
目を覚ます前に見ていたのは、侯爵になってすぐの頃の記憶だ。
(……暑いな)
じっとりと背を伝う汗に不快さを感じる。
きっとこの汗のせいであんな夢を見たのだろう。
フレイアルド達が住まう国、シリューシャは短い夏の季節を迎えていた。
初夏にこちらへ来た小夜には暑かろうと心配したが、少女はけろりとしたものだった。
「日本の夏はもっとじめっとして、暑くて、それが何ヶ月もあるんです」
それを聞いたフレイアルドは、夏が短く冬が長いシリューシャでは小夜は冬の方が辛いのかもしれないと、彼女の冬装束の手配を今からすべきか悩んだものだ。
フレイアルドは寝台を降りると寝衣を脱ぎ、上半身をさらけ出した。
寝る前に侍従が用意していった水の入った手桶と手拭いを使い上半身を拭いていく。
あらかた拭き終わりさっぱりすると、汗が染み込んだ寝衣を替え、寝台に戻る。
そこには、小夜が眠っている。
落ち着いた寝息が続いていることを確認し、小夜の隣へその身を滑り込ませた。
黒髪をひと撫でする。
どうやら今夜は魘されずに済んでいるようだった。
このところ毎晩フレイアルドと小夜は共寝をしている。
ーーそれというのも、小夜がエマヌエルの事件の後からひどく魘されるようになったためである。
最初に異変に気付いたのはマーサだった。
女神の遺物が全て外れた後、きちんと寝ているはずの小夜の顔色が優れない。
忠義者の侍女は幾晩か様子を見て、小夜が悪い夢を見て魘されているとフレイアルドに訴えた。
「とても見ていられません。何度も酷く魘されておいでで……あれでは到底休んでいるとは申せません」
マーサの訴えを聞いた自分やラインリヒがそれとなく小夜本人に尋ねても、どんな夢かは覚えていない。
どころか、魘されている自覚さえないのである。
夢見をよくする遺物などないため、フレイアルドはその夜から共に眠ることを決めた。
小夜は恥ずかしがったが王都見物の朝に約束したのだからと押し通せば、それ以上拒否はされなかった。
共寝を始めてすぐ、フレイアルドもこれはまずいと顔色を失くした。
それは最初の晩から起きた。
それまで穏やかだった寝息が徐々に荒くなるところから始まる。
苦しげに呻いたと思えば手足をびくつかせ、泣き出し、うわ言を繰り返す。
うわ言は耳を塞ぎたくなるほど悲痛だった。
うわ言の中でも特にフレイアルドの心を抉ったのは、小夜がフレイアルドの名を呼び助けを求める言葉だった。
「たすけて……フレイアルドさま……たすけて……」
それを耳にした瞬間、フレイアルドは王宮にエマヌエルを引き渡したことを激しく後悔した。
予定通りならばエマヌエルは引き渡さず、侍女達は襲撃に巻き込まれたことによる死と偽装するはずだった。
しかし侯爵邸を襲撃した者達があまりに弱すぎた。
バルトリアス達は無傷だったし、襲撃者達も生き残ってしまった。
詮議のためバルトリアスの宮に連行されていった者達は人伝てに頼まれただけ、割のいい仕事だと聞いたと語るのみで、黒幕はおろか依頼主まで知らない有様だ。
この状態で侍女二人の死を襲撃のせいと偽装するのは流石に無理がある。
それにラインリヒが、毒殺のため傷ついていない遺体をこちらの都合でわざわざ切り刻むなど有り得ない、と断固として遺体損壊を許さなかったというのも理由だ。
また、フレイアルドは王宮に少年を引き渡す前に小夜の存在を口外しないよう遺物による契約を結ぼうとしたが、その時既に少年は正気を失っていた。
目の前にいるフレイアルドに向かって、フレイアルドに会わせろと叫ぶほどに。
その様子を見て、フレイアルドは引き渡すことを決めたのだ。
だがやはり、この手で始末するべきだった。
奴は、小夜の体だけでなくその心まで深く傷つけていった。
ーー今からでも八つ裂きにしてやりたい。
たった一晩で両手の指では足りなくなるほど魘される小夜に、フレイアルドは事件が与えた心の傷の重さを突きつけられる。
本来ならば起きている時に心の傷を回復させてやるのが一番良いのだが、それは出来ない。
小夜は目覚めた時、エマヌエルに襲撃された記憶を失っていたのである。
長い意識不明から戻ってきた小夜は王都見物後の記憶が抜けていた。
バルトリアスと別れ、その後どうしたか覚えていないという小夜はおそらくエマヌエルに出会う直前から、全て忘れてしまっている。
邸内各所に置いていた監視の遺物からもそれは分かった。
小夜は庭園から戻ろうとして彼女の部屋とは反対の棟へ入り込んだ。
しばらく彷徨った後、おそらく偶然にエマヌエルと会ってしまった。
エマヌエルに誘導されるまま小夜は侍女二人の遺体が安置された部屋へと入り、出てきた時には気絶し、頭部から血を流した状態でエマヌエルに抱えられていたのである。
肝心の侍女の遺体が置かれていた部屋と肥料小屋にも遺物は置いていたがそれらは破壊され用を為さなかった。
小夜があの少年に何をされたかは未だ全て分かっていない。
怪我の状態からおおよそを推察するしかなかった。
おそらく記憶を消してしまうほど怖かったのだろう。
その記憶が小夜に二度と戻らぬようフレイアルドは手を尽くした。
フレイアルドは屋敷内全ての人間に対し緘口令を敷いた。
エマヌエルの存在、小夜が襲われた事件全てを小夜の視界から消すことに決めたのである。
最初に小夜が襲われた棟は壁の綴れ織りから装飾品、敷物、扉にいたるまで取り外せる物は全て取り外し入れ替えた。
侍女の遺体があった部屋については、全ての調度を取り出したあと扉を外し、扉のあった場所を壁にして部屋ごと塞いだ。
これにより小夜がエマヌエルと遭遇した場所から遺体の部屋までは、事件の前後において全く別物となったのである。
肥料小屋も取り壊し、その場所は花壇にするよう命じた。
肥料配合や精製の研究場所がなくなってしまったが小夜の安寧には替えられない。
これだけしてもふとした拍子に小夜が思い出すのでは、と心配が尽きなかった。
(いっそ屋敷ごと建て直すか)
本邸丸ごと取り壊し、小夜が住みやすいよう建て直すことも本気で考えていた。
この本邸に愛着などないフレイアルドにとってそれは妙案のように思えた。
ただ問題は建築中小夜とどこに住むかである。
それをラインリヒとバルトリアスの二人に相談すれば、彼らは揃って顔を引き攣らせた。
「どれだけ金が掛かると思っているのだ馬鹿者」
いくら掛かるかざっくりとしか計算していなかったが、フレイアルドには所詮端金だ。
そう言えば、痛みに耐えるように頭を抱えるバルトリアス。
「駄目だ、目立ちすぎる。しばらくは大人しくしていろ」
エマヌエルの事件でフェイルマー家は衆目を集めすぎている。
今何か不審な動きをすれば、小夜のことが漏れる恐れがあった。
バルトリアスと親交が深く、今回遺物の貸出に応じてくれた貴族の中には既に勘付いている者もいるらしい。
遺物の返却時、バルトリアスはその者達に口止めを兼ねて多額の謝礼をしたようだ。
フレイアルドは支払いを申し出たが、バルトリアスは断固として受け取ろうとしない。
それがバルトリアスなりの大変分かりにくい罪滅ぼしと気付いたフレイアルドは、それ以上申し出なかった。
小夜の存在はいまだ秘密のままだ。
フレイアルドは眠る小夜の黒い髪を指で漉いた。
小夜の髪は絹糸のように艶やかで指通りが良い。
婚約者か夫でなければ許されないその行為をフレイアルドは他の誰にも譲る気はなかった。
フレイアルドはそれからも小夜が魘されるたび、その背や頭を撫で、あやした。
それでも治らなければ強めに抱き締めもした。
自身の睡眠時間を省みず、フレイアルドは何日も小夜に寄り添ったのだった。




