28.隘路
知恵熱が下がった次の日の昼間、小夜はやっとお許しの出た翻訳に取り掛かった。
(うぅ……二年のブランクはやっぱり大きい……)
自宅に監禁されていた間、こちらの文字も日本語も、読むだけで書けなかった。
それが今になってボディーブローのように効いていたのである。
小夜は分厚い原書を開き、翻訳に良さそうな項目を探していく。
こちらの世界の医療は遺物を除けばずっと遅れている。
先進的な治療でなければ治らないものは後回しにして、より一般的でよくある症例を先に翻訳することにしていた。
応急処置法や、こちらでも可能な治療法が書いてあればなお良かったのだがそこはラインリヒに判断してもらっている。
集中して取り組むものの、小夜にとって日本語はこちらの言葉よりも難しい。特に医学用語は、日本語の辞書を置いてきてしまった今となってはたまに読めないことさえある。
やはり語学は積み重ね、と小夜は痛いほど実感した。
夜までずっと本と格闘している小夜に、マーサはぷりぷり怒りながらも寝支度を整えていってくれた。
しかし今夜は何だか寝付けない。
眠るまで翻訳の続きをしようと寝台を抜け出す。
自室の文机に置いた分厚い原書と睨めっこしていた小夜は、横から声を掛けられても気付かなかった。
「ーーヨ、サヨ」
「わっ」
原書を持ったまま椅子から持ち上げられ、小夜は慌てる。
「フレイアルド様っ! びっくりしますから……」
「何度も声を掛けましたよ? 棍を詰めすぎないよう言っておいたはずですが?」
「う……」
珍しく眉を顰めるフレイアルドは、小夜を心配しているのだろう。
小夜は小さな声で謝った。
「……ごめんなさい……早く終わらせたくて」
「サヨ?」
「もうしませんっ」
「そうして下さい。まだ病み上がりなんですから」
フレイアルドは小夜から原書を取り上げ文机に置くと、そのまま小夜を抱いて歩き出す。
行き先は隣の小夜の寝室かと思ったが違うらしい。
「あの、どこへ?」
「眠る前に少し散歩でもと思いまして」
フレイアルドはその言葉通り小夜を抱えたまま一階へ降り、庭園へ出た。
初夏の夜はまだ肌寒い。
彼は自分の羽織りを小夜に着せ掛けてくれた。
「離れにいきましょうか」
均された道を進みたどり着いた離れの前で、小夜は以前とこの場所の空気が異なることに気づいた。
前はもっと濃くて異質で、こちらからは見えない何かに見られているような空気だった。
それが全くない。
フレイアルドは小夜を離れの前で降ろすと鍵を開け、中へ入っていく。
この中に入るのは、封印の日以来だった。
フレイアルドに手を引かれ進む。
窓辺に揺り椅子が置かれたその部屋は、月明かりが入り込み幻想的でさえある。
「そちらへ掛けてください」
フレイアルドが指し示す方向に椅子を見つけて、小夜は言われるまま腰を下ろした。
その向かいの椅子にフレイアルドが座る。
フレイアルドは難しい顔をしている。
言わなきゃならないことがあるのに、言いたくない。
そんな表情だった。
「ーー貴女の意思を、確認していなかったと思って」
ぽつり、と切り出すフレイアルドに小夜は首を傾げた。
小夜はここに来てから自分の意思を蔑ろにされた、と感じたことなどないからだ。
何か覚悟を決めた様子のフレイアルドは、膝の上で拳を握り込みながら小夜を真っ直ぐ見つめた。
「私は、貴女を隠そうと思えば隠せます」
「……え?」
予想外の話題が出てきた。
「その場合、まずこの屋敷はマルクスに管理を任せます。王都で私が責任者となっている仕事は代理を用意すれば領地からの指示で事足りるでしょう。あとは貴女を連れて、侯爵領に引き篭ります」
「え、え? ひきこもる?」
「侯爵領の領主館は、この屋敷よりも広いですし、使用人は代々我が家に仕えるものばかり。貴女のことは一切口外させません。時折なら変装をして領地内を見て回ることも可能です」
フレイアルドはその口振りからして本当にやってのけそうだ。
だが何故彼がそんなことを思いつき、小夜に提案するのかが分からない。
フレイアルドの目は真剣だ。
「貴女を何の諍いにも巻き込まず、安全にこちらで生活させるならば、隠すことが最も簡単だからです」
「それは……バルトリアス殿下が仰っていた件ですか?」
小夜はバルトリアスからの説教のような説明を思い出した。
残存する女神の遺物はとても少ない。
遺物の不思議な力に頼ってきたこちらの人々は、いずれ全ての遺物が使えなくなるという事実を知っていても対処しきれていないという。
残る遺物を奪い合い生きていると。
その話を聞いた時小夜は、どこの世界も似たようなものだなぁという感想が湧き起こった。
小夜の世界だって、天然資源やレアメタルが枯渇すれば、今までの便利な生活を維持できなくなる。
その日が来ると分かっていても、じゃあどうしたらいいのかという答えを誰も持ち合わせていない。
ここの人たちにとって、遺物とは富であり、資源であり、便利な生活そのものなのだ。
バルトリアスの言葉が耳について離れない。
『ーーきっと我々は祝福できる其方という存在を、其方が死ぬまで貪り尽くす』
フレイアルドは立ち上がると、小夜の肩に手を添えた。ずれていた羽織を直してくれたようだ。
「殿下が仰ったように、利用される為だけに追われるーーそんなのは、怖いでしょう?」
「こ、こわいです」
確かにそれならば四年後まで侯爵領に隠れていた方が良いのかもしれない。
でも、と小夜は心の中に引っ掛かりを覚えた。
引っ掛かりは、自分の中にある欲だった。
「あの……そしたら、ラインリヒ様のお家は」
「ーー諦めてもらうしかありません。貴女が貴族籍を得れば遺物によって王宮に登録される。そうなれば隠しきれませんから」
「あ……」
小夜はフレイアルドの服の裾を無意識に握る。
ーーラインリヒの妹になれなくなる。
それは嫌だ、と思った。
「サヨ、私にはもう家族がおりません。父も母も他界しております。兄は……私でも簡単に会うことが出来ない方なので、貴女が会う機会はほとんどないでしょう」
「……はい」
「だから私には貴女に父や母、兄というものを用意して差し上げることができませんーー諦められますか?」
「あきらめる……?」
ずっと欲しかった。
小夜が足を踏み入れても怒られない場所。
ラインリヒに提案される前だったならば、小夜はフレイアルドの言うとおり、隠れ暮らすことを選んだだろう。
けれどもう、一度は夢を見てしまった。
強く首を振った。
「わたし……諦められません……」
「サヨ」
小夜は止まれなかった。
ここへ来るまではもっともっと自分の感情を抑えるのが上手かったはずなのに、最近はブレーキが効かないことが増えた。
「……ごめんなさい、きっと、すごく迷惑をかけるってことは分かるんです、でも……」
ぎゅっと瞼を閉じる。
その目をフレイアルドの手が撫で上げた。
「サヨ、私を見てください」
「……え?」
そこには不敵な笑みを浮かべるフレイアルドの顔があった。
「別に、諦める必要はありませんよ」
「ほんと……?」
「ええ。サヨがラインリヒの妹になりたいならば、そうしましょう」
部屋の中に差し込む月明かりのせいか、フレイアルドがやたら煌煌して見える。
何故だろう。やる気に満ちている。
「この時のために、王族貴族の弱みはしっかりと握ってあります。安心して下さい」
「よ、弱み……?」
「はい。この王都にあって、私に楯突く勇気のある者が果たしてどれほどいるか分かりませんが、いたらいたで叩き潰すだけです」
「つ、潰す……?」
フレイアルドがニッコリと笑う。
それを目にした小夜は、何故かーー背中がぞわりとした。
小夜の両頬にそっと手を当て、彼は小夜の瞳を覗き込んだ。
「私は貴女のためならば、例えそれがどんなに困難な道でも、切り拓いて見せます」
次話、エピローグにて一章完結となります。
この度の災害対応にあたられた方、今も避難されている方、誠にお疲れ様です。
どうぞ皆様暑さにお気をつけてお過ごしください。
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