20.浴室
この世界のお風呂は完全に人力で賄われている。
浴槽は日本の一般家庭と変わらない大きさだったが、そこに注ぐ湯は全て人が沸かし、運んでいる。
小夜ひとりが風呂に入る為、侍女が何人も重いお湯を持って行ったり来たりしなければならない。
小夜が入った後は侍女達が自分の桶にもらい湯をして身を清めることもあるらしいが、その程度では全く労力に見合ってないと思う。
その為、小夜は当初から盤一杯のお湯か水で構わないと主張していたがマーサは断固として譲らなかった。
「侍女達も交代ではありますが、もらい湯で一日の汗を流すのを楽しみにしております。どうかお気になさらず」
そう言われてしまえば強く出ることが出来ず、結局小夜は日に一度お風呂に入れてもらっている。
痣だらけの体に、マーサは何も言わないでくれた。
(右足、綺麗になったから……他のとこも治せるのかなぁ)
けれど遺物を使って治すことがこちらでは高価な治療法と知った今では言い出すことなど出来ない。
しかしそんな小夜の葛藤は、マーサに筒抜けだった。
「大丈夫ですよ、サヨ様」
「え……」
浴槽の縁にもたれかかった小夜の頭を洗いながらマーサが言う。
「旦那様が必ず治して下さいます。ーーもう少しで夏の季節ですからね。ずっと長袖では、お身体を壊しますから」
「……でも、遺物は」
マーサはお湯で小夜の髪に付いた泡を流していく。
「旦那様は、サヨ様の御為でしたら王族の遺物だろうが、他国の遺物だろうが使って下さいます。それを実行するだけの力と財力が侯爵家にはございます。何の心配も要りませんよ」
小夜は返答しなかったが、それは悩んだからだ。
フレイアルドが小夜にそこまでしてくれるのは、果たして良いことなのだろうか。
「マーサ……あのね、わたしいつかは帰るんです」
数日前まで会ったこともない見ず知らずの小夜にここまで尽くしてくれる人に、何もかも隠すことは出来なかった。
「大事な人を向こうに置いてきてしまったの。だから、四年経ったら帰るの」
マーサは小夜の髪を香油を溶かしたお湯で丁寧に揉み込みながら、静かに聞いている。
温かい湯と、心地良い花の香りが小夜の心の壁を解していく。
「だから、こんなに、貰っちゃいけないの。どうやって返したらいいか、分からないの」
小夜は湯船に浸けていた手で顔を覆った。
ーーここはみんな優しい。
自分が欲しかったもので、溢れている。
それを惜しみなく与えてくれる人達がいる。
だけどこの手には何もない。返せるものなんて、何も。
「……受け取るだけでは、だめなのでしょうか」
「え……?」
洗い終えた小夜の髪の水気を布で拭うマーサの手はいつもとても優しい。
けれど今日は少し震えていた。
「僭越ながら……私共が、サヨ様にしたいと思うことは私共が勝手にしていることなのです。旦那様もそうです。サヨ様に心地よく過ごして頂きたくて、そうしているのです」
「ーーどうして?」
むこうの世界では、弟以外の誰も、小夜が心地良く過ごすことなんて考えたことがないはずだ。
小夜にはどうしてここの人だけが、そうあるのかが分からない。
マーサは一瞬声を詰まらせるが、ややあって言葉を続けた。
「それは、サヨ様のことが好ましいからです。まだ数日しかお仕えしておりませんが、マーサにはわかります。旦那様も、ラインリヒ様も、……このマーサも、サヨ様が好ましいから、何かして差し上げたいのです……さ、そろそろ上がらねばのぼせてしまいますよ」
「うん……」
小夜は既にぐるぐるとし始めた頭で、マーサの言葉の意味を必死に考えた。
(このましい、このましいって、何だっけ)
体を拭かれ、軽くて肌触りのよいワンピースを着せられた小夜の足取りはふらふらとしている。
浴場は一階にある。自室のある二階まではもちろん階段だ。
小夜がふらつく足で階段を登ろうとした時だった。
目の前が暗くなって体が沈む感覚に見舞われる。
(これ、立ちくらみーー)
自覚はしても対処は出来ずゆっくり後ろに倒れていく。
「サヨ様!!」
ーー後ろに倒れたことはないけれど、きっと痛いのだろう。
そう身構えた小夜は、いつまでも痛みが襲ってこないことに違和感を覚えた。
「ーーっんの、馬鹿娘が!!」
「へ……」
その声にようやく体の感覚が戻ってきた小夜が目を開けると。
そこには、豪奢な金髪の般若がいた。
***
身体の感覚は戻ってきたのに小夜は凍えそうだった。
主に恐怖で。
「この馬鹿者!! 俺が通らねば死んでいたぞ!!」
「ご、ごめんなさ」
ちっ、と舌打ちをするバルトリアスは「とっとと降りろ」と小夜に命令する。
小夜は倒れる時、バルトリアスに庇ってもらったらしい。頭と腰に腕が回った状態で、彼の上に倒れ込んでいた。
小夜とてこの体勢は心臓に悪く、早く起き上がろうとした。しかし。
「っ……」
「おい」
再び景色が回るような目眩に襲われ、小夜はバルトリアスの上に倒れ込んだ。
気分が悪く、戻さないよう口許を手で覆う小夜に、バルトリアスは低く唸る。
「其方、湯にのぼせたのか。ーー手間のかかる」
言い捨てると、バルトリアスは起き上がり、小夜を横抱きに抱えた。
「でん……」
「口を閉じていろ」
迷いのない足取りで小夜が運ばれたのは庭園だった。
日は既に傾き、しっとりと涼しい風が吹いて心地良い。
バルトリアスの腕の中で風を浴びるうち、気分が少しずつ良くなってきたのが分かった。
「だいぶ……よくなりました……」
「そうか」
庭の花に夕陽があたる幻想的な空間を前に、小夜はこの後どれほど怒られるのかを想像して涙を滲ませた。
「今、其方の侍女にフレイアルドを呼びにいかせている。大人しくしていろ」
バルトリアスの言葉で小夜はやっとマーサが側にいないことに気づいた。
マーサにも悪いことをした、と小夜が落ち込むとバルトリアスは大きな溜息を吐いた。
「いちいち落ち込むな。毅然としていろ。あの侍女に申し訳ないと思うのなら早く主人らしくなれ」
「主人らしく、とは?」
問われると思っていなかったのか、バルトリアスは眉を上げた。
考え込む横顔は、怒っていなければそう怖くなかった。
「……侍女の顔色を伺うな。適した仕事を与え、任せよ。侍女が気を回すのは当然だが、過分に回すようならば出過ぎぬよう釘を刺せ。複数いるならば、それぞれが領分を侵さぬよう監視し、褒賞は能力と比例することを叩き込め。それから」
「ま……まって、待ってください」
「なんだ」
急にペラペラと挙げられた主人像に小夜は冷め始めていた頭がまたいっぱいになりそうだった。
「難しいんですね……そんなにあるなんて思いませんでした」
「人の上に立ち命令を下す以上、主人となる者はあらゆる素養を求められて当然だ」
「素養……」
向こうでもマナー講座なんて受けたことはなく、そもそも普通の教育さえ不足している自分には無いものである。
それでもここにいる間必要ならば何とか身につけないと、マーサ達に迷惑がかかるのだろう。
「……がんばります」
「ふん、期待はしておらんが、励むが良い」
その口調が思ったよりも優しくて、小夜は笑ってしまった。
勢いでずっと伝えたかったことを話そうと、出来る限り居住まいを正す。
「あの日、わたしを止めてくださってありがとうございました」
「なんだ恨み言ではないのか? 俺は其方を脅すようなことを言ったはずだが」
小夜は首をゆるりと振った。
「きっとわたしが帰ろうとしても、フレイアルド様に止められました。でもそうしたらフレイアルド様の心に消えない傷を付けていたと思うのです」
「……」
「だから、わたしを止めて下さったこと、感謝しております」
「ーーそうか」
満足した小夜はバルトリアスに頼み、地面に下ろしてもらう。
フレイアルドよりも高い背を見上げ、小夜ははにかむような笑顔で礼を言った。
「フレイアルド様はお忙しいですし、マーサのところに戻りますね。助けて下さり、ほんとにありがとうございました」
「ふん」
そっぽを向いたバルトリアスに頭を下げてから、小夜は屋内へと戻った。
ーーその足取りを見守るように、バルトリアスが見つめていたことも知らずに。
1章完結までストックが出来たため、明日以降も1日2回更新します。あと少しお付き合い下さい。
感想につきまして本当は頂けたらモチベーションになるのですが、ネガティブコメントやこういった展開にして欲しいというコメントを頂くのが辛いため全て頂かないことにしております。もし応援のお気持ちを頂けるのでしたら作品レビューもしくは評価をつけてくださると泣いて喜びます。




