19.応酬
その時訪れた初めての感覚に、小夜は胸を押さえた。
(なんだろう、胸の中が)
ーーほわほわする。
ぎゅっと服を握りしめた小夜をフレイアルドは心配そうに覗き込んだ。
「サヨ? 体調が悪いのですか?」
「い、いいえ」
「なら良いのですが……帰りますか?」
小夜は首を振った。まだ帰りたくなかった。
フレイアルドは小夜の頬に手を当て、その顔色を確認する。
「では、もう少し見て回りましょうか。ただし気分が悪そうに見えたら強制的に帰りますからね」
「はい」
小夜がフレイアルドに手を引かれ建物から出ると、そこには人集りが出来ていた。
「何事だ? 道を開けてくれ」
人集りの中を、小夜を庇いながらフレイアルドは進む。
騒ぎの中心部に金色の髪が見えてきて、小夜はあっと声を上げた。
見覚えのある豪奢な金髪は間違いなかった。
バルトリアスである。
彼の周りには複数の男が倒れていた。
一緒に見ていたフレイアルドは額を押さえ嘆息する。
「サヨ、申し訳ありませんが……今日はここまでのようです」
小夜は頷いた。知り合いが騒ぎの中心にいるとなればもう見物どころではないだろう。
バルトリアスに近寄れば彼はすぐこちらに気付いたようで目を見張った。
「誰かと思えば、其方らか。目立っているぞ」
「殿下ほどではございません……何事です」
足元に転がる男達を蹴るバルトリアスは、ふん、と鼻を鳴らした。
「大方、父上だろう。アスランが療養中ならば取れるとでも思ったか」
石畳に散らばる銀色の刃物と、そこに付着した赤い血が目に入る。
取る、の対象が何か分かって小夜は青褪めた。フレイアルドにぎゅっとしがみつく。
フレイアルドは目線をバルトリアスに固定したまま、小夜の肩を抱いた。
「とにかくこのままでは。あとは市兵に任せて一旦我が家へおいで下さい」
「そうさせてもらおう。ーー丁度来たようだ」
言葉を交わす間にも騒ぎが大きくなり、やがて武装した男達が群衆を掻き分けて現れる。
「貴様ら一体なんの騒ぎーーひぃっ!!」
「遅い!!」
バルトリアスの一喝に揃いの襷を掛けた男達は一斉に縮み上がる。
「で、ででで殿下!?」
「遅い!! 緩い!! 俺が無力な市民ならば既に殺されているぞ!?」
「ひぃっ」
「此奴ら全員縛り上げて俺の宮へ運んでおけ。いいか、殺すなよ。口がきける状態で持ってこい」
「か、かしこまりました!!」
一連の流れを見ていた小夜は身を竦めた。
(こわい……!!)
フレイアルドにしがみつくと、彼は小夜を抱き上げた。
野次馬から黄色い声が上がる。
フレイアルドは小夜を抱えたまま、バルトリアスに怒られてしょんぼりする男の一人に辻馬車を呼ぶよう申し付けた。
程なくして現れた馬車に乗せられ、小夜の初めての王都見物は終了したのだった。
***
帰りの馬車がゆるりと進みはじめると、バルトリアスはおもむろに口を開いた。
「歩けるようになったのか」
唐突な問いかけに固まるが、自分のことだと気付くと小夜は慌てて首肯した。
「は、はいっ」
「ーー気の利かん奴だな。これが貴族の女ならば『バルトリアス殿下におかれましては格別のご高配を賜り感謝の念に堪えません』とか『この身に余るお言葉です』とか言うところだぞ」
「も、申し訳ありません……」
小夜はしゅんと肩を落とす。
右足が動かなかった間、折を見て少しはマーサから言葉遣いなどを習ってはいたが、未だに慣れない。
「こちらへ来てまだ数日のサヨに何を仰っているのですか。全く大人気ない方ですね」
「其方は甘すぎるのだ」
「殿下は厳しすぎるのです」
なぜか小夜に対する態度で火花を散らす二人の口論は激化していき、小夜は慌てる。
しかし止められるものではなかった。
「そもそもなんだ? この情勢下に、其方らは優雅に王都見物か? それほど余裕があるならばもっと執務を譲ってやろう」
「己の仕事を臣下に押し付けるとは、全く頭の下がる王族ですね。これだから私は尊敬して止まないのです」
「ほう、其方俺を尊敬していたのか。その割には態度がいつまで経ってもでかいが?」
最近になって、フレイアルドとラインリヒの軽口くらいなら眺めていられるようになった小夜だが、バルトリアスとの口論は直視できなかった。
顔を手で覆っていると、急に左腕を取られる。
「ひゃっ……」
「おい」
小夜の左腕を取ったのはバルトリアスだった。彼はじっと小夜の左腕の遺物を睨みつけている。
「どういうことだ?」
「? な、なんのことですか?」
遺物から外した目で、今度は小夜の顔をじっと見る男に、ごくんと唾を飲み込む。
群青の瞳は嘘偽りがないか、小夜の全てを覗き込むようだった。
「ーー殿下」
隣から響いた底冷えするような声に小夜は背筋が一瞬で寒くなった。
伸びてきた手がバルトリアスの手を外す。
手の主であるフレイアルドは、馬車の中だというのに器用に小夜を持ち上げた。
そのまま自身の膝に下ろすと、小夜からバルトリアスが見えないよう抱えこんでしまった。
「お戯れが過ぎます」
その重々しい声に小夜はびくりと肩を揺らす。
バルトリアスが僅かに息を呑む気配がした。
「……すまぬ。性急に過ぎた。許せ」
「いいでしょう。ーーこの件については、私から後日説明を。なにぶん未確定ですので」
「分かった。待とう」
重苦しい沈黙の中、馬車は侯爵邸の門を潜った。
出迎えにでた使用人が腰を抜かしかけたのはいうまでもない。
「マルクス、エマヌエル、騒ぎ立てるな。殿下はお忍びでいらっしゃった」
「畏まりました」
小夜の太腿よりも太い上腕を持つ壮年の使用人は恭しく頭を下げる。
その側に付き従う少年と小夜は目が合った。
初めてバルトリアスを出迎えた時見た気はするが、その時以外は見かけたことのない子だった。
ーー小夜を見る目は無感情で、少し二人の侍女のことを思い出した。
「サヨを部屋まで送って参りますので、殿下は好き勝手にお過ごし下さい」
「其方も大概、言葉遣いがなっていないな……」
元の二人の応酬に戻り、小夜は少しほっとしたのだった。
小夜の部屋では帰宅を知ったマーサとラインリヒが待ち構えていた。
そっとフレイアルドの腕から下ろされた小夜に、マーサが近寄る。
「お帰りなさいませ。初めての王都はいかがでしたか?」
「えっと、とっても素敵でした」
「まぁ、それはよろしゅうございました。さ、湯浴みをして埃を落としましょう」
湯浴みはもちろん、この部屋の中では出来ない。
侯爵邸にはいくつか浴室があり、その一つは先日から小夜の専用として整えられていた。
小夜はちらりと、自分を待っていたラインリヒを伺う。
「あの……でもラインリヒ様が、ご用があるのでは」
実はラインリヒは、今朝の診察に来なかった。
毎朝診察をしてくれていた彼から今日は急用のため午後に診察すると伝言を受け取り、小夜は何かあったのかと心配だったのだ。
ラインリヒはくしゃりと笑うとそんな小夜の頭を撫でた。
「朝はごめんな、急に実家に行かなきゃならなくなったんだ」
「そう、だったんですね」
ラインリヒとはすっかり日本の医療について話す友達のようになっていたので、小夜はその笑顔にほっとした。
「フレイアルドとも話すことがあるから、先に湯浴みさせてもらいな。久しぶりにたくさん歩いただろうし、診察もあとでさせてくれ」
「はい、行ってきます。フレイアルド様も、今日はありがとうございました」
「前を見て歩くんですよ、サヨ」
マーサに連れられて部屋を後にした小夜は、その後の二人のやり取りなど知るよしもなかった。
「座れよ、フレイアルド」
やっと20話目です。
一章の後半に既に突入しております。残り9〜10話でこの章は完結する予定です。引き続きお付き合い下さると嬉しいです。




