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01.別離


 小夜にとって幸福な時があったとしたら、それは間違いなく、フレイアルドと過ごした日々だろう。


 小夜は自室の窓をなんの気無しに眺める。

 それはぱっと見、なんの変哲もない窓だ。

 しかしその窓が決して開かないことを小夜は知っている。


 窓には曇り加工のシートが外から貼り付けてあり、外から中が視認できないようになっている。

 もちろん、中から外が見えることもなく。

 外の景色を映さぬ窓に記憶の中の美しい景色を投影することで、小夜はひととき気を紛らわすのだった。


(フレイアルド様のお家のお庭は、夜でも素敵だったなぁ……)


 この部屋に閉じ込められて二年と少し。

 彼と一緒に過ごした時間を思い出さない日は、一日もなかった。


 ***


 小夜の両親は学歴、跡継ぎ、世間体という言葉が大好きな人達である。


 親戚曰く小夜が生まれた時は女であることに落胆しつつも、それなりに面倒を見たらしい。

 しかし弟が産まれたことで状況は一変した。

 両親の世界は全て弟が中心となり、小夜は放って置かれるようになったのである。


 彼らは時々思い出したように食事を与え、小夜を風呂に放り込む。

 しかしそれ以外のことーー娘と会話したり、髪を梳かし結ったり、成長に合わせて服を与えたり、外に出て遊んだりといったことは一切しなくなった。

 通っていた幼稚園にも行けなくなった。


 家に親戚やら行政やらが来る時は身綺麗にされるため、誰にも気付いては貰えず。


 ……与えられるのを待っていては死んでしまう。

 本能的にそう感じた小夜は、冷蔵庫のものを勝手に食べることを覚えた。

 時々お腹を壊すが、両親は見て見ぬふりーーもしかしたら、本当に視界にさえ入っていなかったかも知れない。

 小夜が使っていた布団はいつしか弟のものになり、小夜は部屋の隅で毛布にくるまって夜を過ごすしかできなかった。


 そんなある日、母がどこからか揺り椅子を買ってきたのである。

 アンティークのことなどいまだに少しも興味ない母親はーーなぜ買ってきたのか分からないがーーその揺り椅子のこともすぐ忘れ、物置部屋に仕舞い込んだ。


 それを見ていた小夜は、その晩から揺り椅子を寝床にしようと決めた。

 日が暮れるとこっそり物置部屋に入り込み、小さな体を座面の上で丸める。

 小夜が物置部屋にいようがトイレにいようが全く気づかない親達は、彼女が忽然と姿を消しても気づくことはなかった。


 そうして小夜は、フレイアルドの元へと紛れ込み、ほんの一瞬の幸福な時間を得たのである。


 ーーある日突然、彼が現れなくなるまで。


***


 小夜はひとり、溜め息を吐きながら手元のノートに書き連ねた文字を指でなぞる。

 それは日本語の羅列ではない。

 どころか、この地球上のどこにも存在しない文字だ。

 ーー小夜は十七になった今でも、日本語の読み書きがあまり得意ではなかった。

 

 ひらがなや漢字を覚える前に向こうの文字を覚えてしまったことが原因である。


 向こうの文字を全て忘れて一から日本語をやり直せば、もしかしたらもっと読み書きがマシだったかもしれない。


 しかし小夜は絶対忘れたくなかった。

 この文字だけが、フレイアルドと過ごした日々の証拠だったからだ。


 小学校に上がったのにひらがな一つ読めるようにならない小夜を、父親が殴った回数は両手でも足りない。

 けれど小夜は自分を矯正しようとする両親に必死に抗った。


(ふれいあるどさまは、きっとかえってくるもん……だから、わすれちゃダメ……)


 フレイアルドが揺り椅子の部屋に来なくなっても、小夜は毎晩待った。

 手紙を書き、彼を待つ時間はあの部屋の本を読んで言葉を忘れないように努力した。


 小夜はいつまででも彼を信じて待つつもりだったーーなのに。


「ーーやめて!! いすがないと、さよはあっちへいけないの!!」

「は? 知らないわよ、降りなさい!!」

「いやぁっ!! かえして!!」


 母は半狂乱の小夜を引きずり下ろすと、揺り椅子をどこかへ運んで行った。


「かえしてっ……!!」


 小夜は家中探し回ったが、見つからない。

 学校の行き帰りに、その折れそうな脚を必死に動かして街中探したが、それも限界があった。

 椅子は二度と戻ってこなかった。


 ーーそして、小夜は孤独に苛まれる。


 フレイアルドは小夜が訪れるといつも美味しいものを食べさせてくれ、本を読んでくれた。

 夜が更けると抱きしめて一緒に眠ってくれた。

 朝になってもずっとずっと一緒にいたい。そう願っても結局いつも物置の中で目覚め、その度サヨは涙した。


 今は、その時よりもはるかに寂しい。

 毛布一枚で乗り切る夜は寒くて冷たくてーーいっそ自分の命が尽きてしまえばいいのに、そればかり考える。


(ふれいあるどさま……たすけて……)


 絶望の中彷徨う小夜を救ってくれたのは、弟の聡一だった。


「ねぇちゃん? いたいいたいの?」

「そうちゃん……」


 四歳になったばかりの聡一に「いたいいたいの、とんでけー……」と頭を撫でられ、小夜は無理矢理泣くのをやめた。


(ぜったい、あえるから、それまでできること、やらなきゃ……)


 自分にできることは何か。

 必死に考える中、彼と交わした会話が頭の中で流れる。

 フレイアルドは小夜が彼の知らない単語を話すと、その意味や内容をよく尋ねてきた。


『ビョウイン……ってなんですか? 小夜』

『ビョウインはいたいのとか、おねつがあるとか、そういうときおいしゃさんがなおしてくれるとこだよ?』

『へぇ……こちらにはないものですね』


 病院がないと言っていたのを思い出した小夜は、弟に「だいじょうぶ、ありがと」と言ってこっそり家の中を探索した。

 そして見つけた。


(これ、おかあさんが、そうちゃんのぐあいわるいとき、よくよんでた……)


 もちろん、なんと書いているかは今の小夜には読めない。

 けれどこれはきっと、病気や治療法について書いてあるものに違いない。

 びっしりと日本語で書かれたそれを幼い決意とともに胸に抱える。


(これをよめるように、べんきょうして、ふれいあるどさまにわたそう)


 その日から小夜は泣くのをやめた。


 必死に日本語という名の外国語を覚え、辞書片手にその本を読めるようになるのに数年を要し。

 気付けば中学生になっていた。


 ただでさえ学校の教材は苦行の如く重いのに、それに加えて分厚い本を持ち歩き、なおかつそれを奇天烈な文字に翻訳する小夜を、周囲は奇異の目で見る。

 その状況では友人など出来るはずもなく、小夜は家でも学校でも一人過ごすことが多かった。


 もちろん学校の成績は全く伸びなかった小夜だが、高校受験はしなければならなかった。

 小夜の家は地元では名士として知られている。

 入婿の父は建設会社を経営しているが、祖父が政界に身を置いているので、いつかその跡を継ぐと周囲が話すのを聞いたことがある。

 その娘が高校へ行かないなど、とんでもないことなのだろう。

 受験したくないと言った時は、一週間腫れが引かないほど顔を殴られてしまった。


 そして何とか受かりそうな学校に願書を出し、入試当日を迎え、会場に向かう途中ーー小夜は足を止めた。


 受験する高校の近くの骨董品店のその奥に。

 小夜はそれを見つけてしまった。


(あれ、は……あの、揺り椅子は)


 ーーフレイアルド様の世界と繋がる、揺り椅子。

 気付けば小夜は店の入り口をくぐっていた。

 中には一人老齢の男性がいて「いらっしゃい、何かお探しかな?」と小夜に声をかけてくれた。


「あ、あの、この椅子は」


 人の良さそうな老齢の男性はこの店の店主らしい。

 制服姿の中学生でもにこやかに対応してくれた。


「ああそれね。ちょっとした質流れ品だよ」

「質流れ品……?」

「うーんと、借金の形に預けたけど借金が返せなくて取り上げられて売られたってことだね」


 小夜がどれだけ探しても見つからなかったはずである。

 小夜は自分の小銭入れを出した。


 小夜は小遣いというものを貰ったことがない。

 小銭入れには今日の昼食代と帰りのバス賃だけ入っている。

 もちろん家に帰ったところで、小夜が自由にできるお金なんて一銭も無い。

 無理だと分かっているのに、聞かずにはいられなかった。


「これじゃ、買えませんか? 足りない分は、きっと返しますので」

「ちょっとちょっと……」


 店主は困ったように頭を掻き、小夜を宥めた。


「悪いけど、これは売約品だよ。先に買うと決めたお客様がいるんだ」

「っ……その、お客様はいつ取りに来ますか?」


 店主はちょっと待ってなさい、と店の奥へ消える。

 小夜はその間両手を握り締め祈るように待つ。

 店主が戻ってくるまでの数分が永遠に思われた。


「またせたね。今日の昼過ぎ取りにくるみたいだよ」

「昼過ぎ……」


 小夜は時計を確認した。

 もうここを出て向かわなければ、入試は完全に遅刻である。

 もともと小夜が全力を尽くして受かるかどうかというところへ遅刻なんてしてしまったら……落ちるのは明白である。

 

 そうなった時、間違いなく小夜は父に殴られる。

 殴られるだけならまだ良いかもしれない。

 ーーそれでも。


「お願いです。……そのお客様を、ここで待たせてもらえませんか」


 小夜は、賭けた。


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