17.呪文
朝、マーサの声によって目が覚めた小夜は隣にフレイアルドの姿がないことに気づいた。
(あれ……? フレイアルドさま、もう起きたのかな)
「……ですか、……は、……のですよ?」
まだ続いているマーサの声は小夜を起こすものではなく、誰かを叱っているものだ。
むくり、と起き上がった小夜が目にしたのはマーサに嗜められているフレイアルドの姿だった。
「よろしいですか!? 未婚の、しかも婚約すらしていない女性の寝台に朝まで潜り込むなどなりません!!」
フレイアルドが怒られている姿が珍しすぎて、口を閉じようとしても勝手に開いていく。
「聞いていらっしゃいますか!?」
「……聞いている」
その姿が面白くてくすっと笑うと、二人は小夜が起きたことに気づき、こちらを見た。
ぱっとマーサが駆け寄り、小夜の乱れた髪や寝衣を軽く整えてくれる。
「お起こししてしまい申し訳ございません」
「大丈夫です」
朝から面白いものが見れたのだから、もっと早く起きれば良かったと思うくらいだ。
ふとフレイアルドを見れば、彼は驚いた顔をしている。
小夜の顔を見ながら立ち尽くす彼に小首を傾げる。
「フレイアルド様?」
「……貴女が、そんな風に笑うのを初めて見ました」
長い彼の手がすっと伸びて小夜の髪を撫でた。
「可愛いです」
「……っ!」
「マーサ、外してくれ」
移動させた指ですりすりと小夜の頬を撫でる男に小夜は口を開けたり閉めたりするしかできない。
フレイアルドの言葉が頭の中で何度も再生される。
顔どころか首まで熱くなってしまう。
フレイアルドに頼まれたマーサが渋々出ていくと、彼は寝衣の小夜を抱き上げた。
フレイアルドに抱き上げられるのはいつものことなのに、小夜は胸がドキドキした。
寝衣が薄くて、彼が近いからかもしれない。
小夜を抱き上げたまま寝台に腰を下ろしたフレイアルドは、何も言わない。
部屋の静かさに、この胸の音が彼に聞こえてしまうのではと焦り話題を探す。
「あ、あの、よく眠れましたか?」
「ええ」
「それなら、良かったです……」
昨夜は寝惚けていたこともあり恥ずかしさを感じなかったが、今思い返すと自分は何てことをしたのか。
子供の頃とはもう違うことくらい小夜だって分かる。ーー寝惚けていなければ。
「私はどうやら間違っていたようです」
急に脈絡なく話し出したフレイアルドは、小夜の姿勢を変える。
フレイアルドの顔を見上げる形だったのに、今は彼の頭の上を覗くように。
小夜の胸元にフレイアルドの吐息がかかる。
「フ、フレイアルド様?」
「貴女を繋ぎ止めるには、与えるしかないと思っていました」
「あの、なんのお話でーー」
「けれど与えるだけでは、結局奪うことと同義なのだと、愚かにもやっとわかりました」
フレイアルドが、すり……と首元に頭を寄せてくる。
その仕草が、主人の帰りを待っていた猫のように見えて。
小夜はなんとなくそうした方が良い気がして、自由になる手でフレイアルドの銀色の髪を撫でる。
「えっと……ちょっと難しくてよく分かりませんが……わたしはフレイアルド様にたくさん貰えて、幸せですよ?」
小夜はひとつずつ指折り数えるように、フレイアルドがどれだけ沢山のものをくれたか教えていく。
安全に寝起きできる場所、美味しいご飯、文字と知識。
「それにーー会えなかった時も今も、ずっとずっとフレイアルド様は、わたしの心の支えなんです」
小夜の首元から顔を上げたフレイアルドは、眩しいものを見るように目を細めている。
部屋の中はそんなに明るいかな? と小夜は紫の瞳を覗き込んだ。
「……サヨ、私と……」
ポツリとフレイアルドは呟いたが、続きを話すのを堪えるようにぐっと唇を引き結ぶ。
そしてそのまま小夜をかき抱いた。
小夜は抵抗する間もなかった。
「ひゃっ……」
「お願いです」
小夜の首筋に顔を埋めていた彼は泣きそうな声で懇願する。
「もう少しだけ、私だけのサヨでいて下さい」
常に余裕を見せるフレイアルドらしくない言葉だった。
(フレイアルド様どうしたんだろう。何だか……)
ーーすごく寂しそうに、見えた。
だから左手で彼の後頭部を撫でて、小夜は『いたいのいたいのとんでいけ』をした。
小夜の不思議な動きに、フレイアルドはのそりと顔を上げる。
「……それは何をしているのか聞いていいですか?」
「み、見えるんですか」
「見えませんが、何か呪文を言っていたでしょう」
彼はきっと後頭部にも目が付いてるに違いない。そう思ったがどうやら口に出ていたらしい。
小夜は自分の残念さにがくりと項垂れた。
「いまのは、痛みをどこかへ飛ばすおまじないです」
「怪我はしていませんが……」
「えっとそのメンタル……じゃないですね、辛いとか悲しいとかにも効くんです! たぶん……」
尻すぼみになっていく言葉につられるように小夜は体を小さくした。
十八にもなって、大人の男性におまじないはあり得なかった。
穴があったら入りたいとはこのことである。
「忘れてください……」
穴に入る代わりに両手で顔を覆えば、フレイアルドにやんわりとその手を引き剥がされた。
ばっと顔を下に向ける。
「顔を見せて下さい」
「む、ムリです。は、恥ずかしいことをしたので」
「サヨ」
顔を見せるまでは許して貰えそうにない、そんな圧力のなか、おずおずと顔を上げる。
顔を上げた先には、満面の笑みのフレイアルドがいた。
「どうやら、すごく効果があったようです」
「……それは、よかった、です……」
ーーまた、して下さいね。
フレイアルドにそう耳打ちされ、今度こそ小夜は心の中で助けを呼んだ。
***
「さて、そろそろ貴女を着替えさせないとマーサの堪忍袋の尾が切れますね」
「そ、そうですね」
きっとマーサは今も扉の外でやきもきしていることだろう。
マーサを呼ぼうとすると、フレイアルドに止められる。
「昼食の後迎えに来ますので、そうしたら王都を見物しましょう」
「……いいのですか? その、寝不足では」
どれくらい彼が寝れたのか、時計のないこちらでは体感でしか測れない。
けれど数時間も寝ていないと思われた。
フレイアルドはにこりと小夜に微笑みかける。
「本当に問題ありません。サヨの隣だとよく眠れるようなので。また一緒に寝てもいいですか?」
「えっ」
小夜は答えに窮した。
小夜自身も人の温もりがあるとよく眠れる気がしたが、朝一番にフレイアルドが叱られている場面を見ている。
「あの、マーサが」
結局自分の中で答えが出ず、マーサに押し付ける形になってしまった。
小夜は気づかなかった。
それこそが、フレイアルドが求めていた答えだということに。
「マーサが良いと言えばいいのですね」
「え」
「少し待っていて下さい」
言うなり、彼は小夜を寝台に置き、止める間もなく扉の外へ出ていった。
そして小夜がぽかんとしている僅かな時間に彼はマーサを引き連れて戻ってきたのである。
なぜか彼女は手巾で涙を拭っている。
「サヨ様……どんなにお辛かったことでございましょう……専属侍女でありながら気付くことが出来ず申し訳ございません。そのようなご事情でしたらば、このマーサが屋敷の外には決して漏れぬようにいたしますから、我慢せず旦那様とお休み下さい」
「……ごじじょう? がまん?」
「よいですか旦那様。決してお休みになる以外はなりませんよ。不埒なことをサヨ様になさったりしたら、このマーサが許しません」
「肝に銘じておこう。ーーではサヨ、後ほど迎えにきます」
踵を返し、寝室から足早に出ていく彼の背を呆然と見送り。
ハッとした時には、小夜は着替えも朝食もみな終わっていた。
「……なんで?」




