14.祝福
小夜は持たされた本を強く抱き締めながら、フレイアルドに小さく「ごめんなさい」と言った。
バルトリアスに喝を入れられて、自分がどれだけ取り乱してワガママを言っていたのか今更気付き、消え入りたい気持ちでいっぱいだった。
謝ると小夜は床に下ろされ、屈んだフレイアルドと目が合う。
「いいんですーーもう、いいんです」
小夜を見つめるフレイアルドの瞳が少し濡れていることに、小夜は気付いた。
微かに震える声でそう言い、しっかりと小夜を抱き締める彼に、本当にとんでもないことを言っていたのだと胸が痛んだ。
(ほんとに、ほんとにごめんなさいーーフレイアルド様……)
小夜は本を抱いていた手をそっと抜き出すと、フレイアルドの背にその手を添えたのだった。
苛ついた声が割り込むまで、二人はそうしていた。
「ーー其方ら、睦あうのはこの俺が帰った後にしろ! 俺が今日ここに来るのにどれだけ執務を放り出してきたと思っているんだ!?」
「大変感謝しております」
しれっとした顔のフレイアルドに、バルトリアスは額に血管を浮かせた。
「ちっ……時間がない、手を出せ」
小夜の左手首をバルトリアスが持ち上げた。
腕輪は変わらず静かに瞬いてる。
「オレラセアが干渉していたのは間違いない。俺がブラッシカの封印を掛けているうちは、強制的に帰されることもないだろう。問題はそれ以外だ」
「問題とは?」
小夜の手をやんわりとバルトリアスから奪い返しながらフレイアルドは問う。
バルトリアスは剣呑な目つきで揺り椅子を睨んだ。
「この揺り椅子に関わる女神が一人ではないということだ」
ーー部屋の中がしん、と静まり返る。
フレイアルドもラインリヒも二の句が告げないでいる。
だが小夜は二人がなぜそんなに驚いているのか分からないし、そもそも何の話なのかも理解できない。沈黙して成り行きを見守っていた。
バルトリアスは揺り椅子の前に移動し、嘆息する。
「このような遺物は過去に例がない。故に、これから何が起こるか、この俺でも予測できん。フレイアルドよ」
「……はい」
小夜は、一層張り詰めたフレイアルドの表情に息を呑む。
「その娘を手放したくなければ完全に秘匿するか、もしくは多くの後ろ盾を与えるか早急に決めねばならん」
「……私に、決めよ、と?」
「其方一人でとは言っておらん。だがその娘が自身で判断しようと思う頃には手遅れになっているだろうよ」
「手遅れ……」
それきりバルトリアスもフレイアルドも、何も言わなかった。
時間がない、と言っていた通りその後バルトリアスは本邸の応接室には戻らず、すでに正面玄関で待機していた馬車に向かった。
多くの使用人が頭を下げ、見送りの態勢を取っている。
金髪の王族は乗り込む直前、ふと歩みを止め振り返った。
「いま思い出したが……其方があの時話していたのは、この娘のことか?」
フレイアルドは問われ、何かを思い出したのだろう。
目を伏せバルトリアスに対して申し訳なさそうな顔をする。
「左様でございます。その節は……大変なご迷惑を」
「ふん、ようやく合点がいったぞ」
バルトリアスは片方の口角を持ち上げる。
「ーー良かったな」
「あ……ありがとう、ございます」
戸惑うフレイアルドを背にバルトリアスは馬車に乗り込む。
夏のはじめの高く晴れ渡る空の下、馬車が門をくぐり抜けるまで、フレイアルドは出迎えの時と同じ姿勢でその姿を見送り続けた。
こうして嵐のような午前は過ぎ去って行ったのである。
***
その日の午後から小夜は翻訳の続きを始めようとしたが、それを止めたのはラインリヒだった。
バルトリアスを見送った後すぐさま寝台に戻された小夜はマーサに紙と書くものを要求し、運悪くその現場を見咎められたのである。
「だーめーだ!!」
「うぅっ」
腕を組み小夜の前で仁王立ちする赤毛の青年は、小夜を嗜めた。
「きちんと治らないうちはダメだ! 病人っていう自覚を持て!」
「でも」
「でも、じゃない! 遺物だって限りがあるんだぞ? 今使ってるので完治させられなかったら一生治らないことだってあるんだ!」
寝台の上でしゅんとする小夜、その前で仁王立ちするラインリヒ。
その二人をフレイアルドと共に見守っていたマーサは小夜に助け舟を出した。
「サヨ様にはまだ馴染みがないことですものね。ラインリヒ様の仰ってることはですね……」
マーサが言うには、この遺物というものは数に限りがあるし、効果の強さにも上限のようなものがあるらしい。
そして小夜が今身につけている遺物は、とても強いものなのだと。それがもう二つも使われている。
「おそらく、これ以上の遺物は王族しか持っていないかと」
バルトリアスが贅沢な治療、と言っていた理由が分かり小夜は謝った。
「ごめんなさい」
「分かればいいんだ。ーー元気になったら翻訳するの、オレも手伝ってやる。だから今はちゃんと治せ」
小夜が頷いたのを見てラインリヒはほっと胸を撫で下ろした。
ついでだからと、そのまま右足の遺物の状態を確認し始めーー首を傾げる。
「変だな……」
その言葉にサヨはドキリとした。
何度か自力でお手洗いに行ったせいで、遺物がおかしくなったのかと思ったのである。
サッと顔色を変えたフレイアルドも覗き込む。
「何かあるのか」
「いや、気のせいだろう。順調に治ってるから安心していい」
治っている、という言葉にほっとした小夜は、気になっていたことを思い切って尋ねた。
「ラインリヒ様、こちらにはこんなに便利な道具があるのに、どうして医学書がお金になるのですか?」
女神の遺物、というのは小夜の中では万能の便利道具だ。
元の世界よりも医療としてはずっと進んでいて豊かなのではないかーーそう考えたが、全く違ったらしい。
ラインリヒは小夜の前に座ると、きちんと居住まいを正して説明を始めた。
「女神の遺物はずっと昔からあるものだけど万能じゃないし、使えなくなる時が必ずくるものだ」
「使えなくなる時?」
ラインリヒは上着の下から、自身の首に下げていた鎖を引っ張り出した。
鎖には指輪型の遺物が通してある。
銀色の台座に翠色の石が嵌まった、美しい指輪が。
「これはすでに使えなくなった遺物だ。元々は身につけている人が急に事故に遭ったり攻撃されたりした時に身を護る効果があった」
けど、とラインリヒは言葉を切る。
「何度も使用したから、もう女神の祝福が無くなっちまった。今じゃただの指輪なんだよ」
見るか? と言われて小夜は鎖ごと指輪を掌で丁寧に持ち上げた。
掌の中の指輪は小夜が身につけている遺物のようには光っていない。
「祝福……が、なくなる?」
「どんな遺物も消耗品なんだ。女神が与えた祝福が切れればガラクタになる。オレラセアーーオレに加護をくれた女神の遺物は人の身体を治療するものが多いんだが、もう結構な数が休眠しちまった」
休眠とは即ち遺物に与えられた祝福が切れ、ガラクタとなること。
(内蔵バッテリー式の電化製品で、後から充電はできない、ってことかな)
思いついた例えに小夜は一人納得した。
割と不便である。
小夜は指輪を慎重に持ち、ラインリヒに返した。
彼にとって大切な物である、そんな気がしたのだ。
「ん、ありがとな……。だから、こっちでは病気や怪我の治療を受けられるのは王族や貴族、あとはたくさん金が出せる豪商って決まってる」
ラインリヒは戻ってきた指輪を首にかけ直し服の内側に戻すと、指輪があるであろうその部分を掌で抑える。
その表情は、常に朗らかな彼にはそぐわないほど剣呑だ。
まるで何かへの怒りを押し殺しているような、そんな表情だった。
「貴族でも貧乏だったり、庶民や、まして貧しい農民は何の治療も受けられねぇ。それに医者ってのはオレラセアの加護を与えられた貴族だけが就く仕事だ。遺物の使用代さえ支払えない貧乏人を相手にしたりはしない」
「……遺物を使わない治療は、誰もしないんですか?」
小夜の言葉にラインリヒは静かに首を振る。
「薬や、簡単な対処療法くらいはあるさ。けどあんなにも細かく、詳しく、系統立てて人体と病気について分かりやすく書かれた本をオレは王宮でも貴族院でも見たことがない。つまり、そういうことなんだ」
ラインリヒの話すとおりならば、自分が助かったのは本当に幸運としか言いようがない。
小夜が現れた場所が彼等のもとでなければ、自分が息をしていることはなかっただろう。
自身の幸運を実感するのと同時に、やり切れない気持ちが湧き上がってくる。
こうしている今も、助けてもらえない人がたくさんいるのだ。
「あの本はーー役に、立ちますか?」
小夜の問いにその部屋にいた皆ーーフレイアルドも、マーサも、そしてラインリヒも強く頷いた。
(速く、たくさん訳したら、きっともっと、役に立てる)
それは小夜にとって生まれて初めて、自分のしたことが認められ、他人の役に立っていると実感した瞬間だった。
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