13.負託
バルトリアスが読むか、小夜が読むか。
好きな方を選べ。
そう告げられれば選択肢などなかった。
震える手をバルトリアスに差し出す。
「……よみ、ます」
「サヨ、無理はーー」
フレイアルドが小夜を庇いその手を止めようとするが、小夜は左右に首を振った。
「これは……フレイアルド様への手紙、ですから……」
大切な弟が、小夜の大切な人に宛てて書いたもの。
その手紙を、自分が読まないわけにはいかなかった。
小夜は声を震わせ、時折つかえながらも手紙を読み上げた。
***
フレイアルドさんへ
姉を助けてください。保護して下さい。
オレの父親は姉を、外も見えない部屋に二年も閉じ込めて殴り続ける、最低な男です。
父は今、姉を二十五も年上の男と結婚させようとしています。
イスのことは姉から聞きました。
オレが高校を出たら、姉が安全にそちらとこちらを行き来できるようにします。
それまでは姉を帰さないでください。
必ず守って下さい。
どうか頼みます。
***
「……っ、……ぅ……」
読み上げたあと力無く泣き続ける小夜を支えながら、フレイアルドは抑えようのない怒りに全身を震わせていた。
(二年……!! 二年もだと……!?)
目の前に小夜の父がいれば、おそらく怒りの余り消していた。
小夜の栄養状態、筋肉の無さ、暴行の跡からどこかに閉じ込められていたかもしれないとは思っていた。
小夜が答えを言いにくそうにしていたことからも、間違いないと。
けれど二年は想定より遥かに長い。
ラインリヒも顔を真っ赤にして震えている。
「なんで……なんで親がそんなこと出来るんだよ!!」
「ラ、ラインリヒ、さま」
「糞野郎……!! なんで、そんな酷いこと……!!」
フレイアルドは力を入れ過ぎぬよう、己を限界まで抑えながら小夜を抱き締めていなければならなかった。
そうしなければーーこの細い身体を抱き潰してしまうところだった。
「二十五か、ーーまあまあ醜悪な父親だな」
バルトリアスは平然と言い放ってはいるが、その眼に怒りが隠されていることを、フレイアルドだけは気づいていた。
フレイアルドの腕の中で小夜がぽつりと何か言った。
「……なさぃ」
「サヨ?」
フレイアルドは耳を澄ませた。
小夜の小さな悲鳴を聞き漏らすまいと。
「……ごめん、なさぃ……」
聞き取ったフレイアルドは、ギリッと奥歯を噛み締めた。
小夜が何に対して謝っているのか、フレイアルドは判断しきれなかった。
ただ一つ分かるのはーー小夜は何も、悪くないということだ。
フレイアルドは聡一の言葉を心の中で何度も繰り返した。
見たことも会ったこともないのに、あの手紙だけで彼の気持ちが分かるようだった。
見ず知らずの男に大切な姉を預けなければならないほど、深刻な状況に追い込まれていたのだろう。
「ソウイチの望みは、必ず叶えます」
しかし、それを聞いた小夜は虚ろな目をして力無く首を振った。
「……弟が、高校を出るまで、四年はかかります……」
「ここにいて下さい。そんな場所に帰すことなど、絶対に出来ません」
小夜はそれでも首を振る。
フレイアルドの胸から離れたいのか、手で押し退けようとするが、全く力が篭っていない。
「……かえらないと」
「サヨ!!」
フレイアルドは小夜を抱く手に力を込め、思わず声を荒げた。ハッとしてすぐ緩めるが、力が強かったのか小夜は顔を歪める。
「……父は、わたしがここに逃げる前、もし逃げたら弟を、わたしのいた部屋にいれる……そう言いました」
「ーーなん……」
その場にいた小夜以外、全員が我が耳を疑い、次いで目を剥いた。
それはおよそ親どころか、人かどうかすら怪しい所業である。
まともな精神状態の人間なら、そのような親が約束を守ったりするはずがないことは分かるだろう。
相手に従い言いなりになることは悪手でしかない。
しかし少女にはそれが分からないのだと気付き、どれだけ長い間恐怖を植え付けられたのかと慄然とする。
「わたしは、もう、充分です。……フレイアルド様にも、ラインリヒ様にも、マーサにも、優しくしてもらえて、もう……」
小夜は言葉を切る。
俯くその表情は、黒髪に隠されてどうなっているかは分からない。
「ーー聡一は、まだ子供です。わたしは、姉だから、いいんです」
「ーーっ!!」
幼い頃の小夜と同じーーその自己犠牲に、フレイアルドは目の前が真っ赤になった。
フレイアルドは今日この時まで小夜の望みならば、何でも叶えるつもりだった。
豪華な服でも、美しい城でも、広大な領地でも望むものは全て与えられるだけの用意をしてきた。
穏やかな生活を望むならそれもいい。
小夜の生活を脅かすものは全て排除する気でいた。
与えられなかった彼女に、それ以上のものを与えようと努力してきた。
「……かえります。治療も、もういいです。帰して、下さい」
ーーだがその望みだけは、叶えるわけにはいかない。
このまま無理やり押し留めれば、この手でいつか髪を上げると決めた少女に嫌われるかも知れない。
想像するだけで心が千切れんばかりだが、フレイアルドは毅然と口を開いた。
「サヨ、それは」
「其方を帰すかどうか決めるのはフレイアルドではない」
しかし、覚悟していたフレイアルドを遮るように、バルトリアスの冷淡な声が室内に響いた。
小夜はその声に、溢れ落ちそうなほど大きく目を見開く。
しかしバルトリアスはそんな小夜の様子など歯牙にもかけない。
「揺り椅子は、先ほどこの俺が封印した。再び帰りたくば俺が封印を解く以外にない。言っておくがこの国には俺の他に出来る者などおらん。探すだけ無駄だと言っておく」
「……帰して下さい」
「帰ってどうなる?」
ひくり、と小夜の喉が上下した。
「それは」
「ーー非力な其方が今帰って、父親から弟を助け出し共に逃げ、何の援助もなく生活していけるほど、其方の国は豊かなのか?」
小夜は唇を噛み締めた。そんなはずはないからだ。
バルトリアスは小夜を見ず、淡々と事実だけを告げていく。残酷なまでに。
「其方の弟は天晴れだな。勇敢で、思慮深い。足手纏いの其方を体よくこちらに押し付けた手際は見事という他にない」
「バルトリアス殿下!!」
あまりの言いようにラインリヒはーー普段あれだけ高位の人間を怖がっているというのにーー真っ赤になって王族に掴みかかっていく。
「こんな、か弱い子にあんたは何を言ってんですか! そもそもサヨはーー」
「覚悟の問題だと言っている!!」
掴みかかったラインリヒを振り払い、強い勢いでバルトリアスは言い返す。
バルトリアスの目が小夜を捉えた。
「ーー其方にどれだけの覚悟があるのだ!! 弟のために帰る帰るというが、その細腕で何が出来るか言ってみろ!! 父親と刺し違えてでもやり遂げるのか!?」
「……っ」
「其方が帰りたいと言っている場所は戦場だ!! 戦わずして負ける気でいる者など足手纏い以外の何と呼ぶのだ!!」
小夜の体から、かくんと力が抜けたことにフレイアルドは気づいた。
バルトリアスの大喝に小夜もラインリヒも、フレイアルドさえもーー何も言えなかった。
「帰るならば、戦え。戦うならば勝算のある戦いをしろ。其方の弟は今の其方を庇いながら戦うのは勝算なしとみたのであろう。だからこそ、其方をフレイアルドに預けた。違うか?」
小夜は首を振る。
王族相手ならば無礼とされる行為だったが、バルトリアスは気にする素振りさえない。
……小夜はもう、フレイアルドを押し退けようとはしなかった。
その様子を見たバルトリアスは、ラインリヒの手から原書を取り上げ、小夜の眼前に持ち上げる。
「弟が何故其方にこれを持たせたのか分かるか」
「……なぜ、って……」
小夜の小さな手には余りある、重く分厚い書物。
バルトリアスは、思いのほか優しくそれを小夜に持たせた。
「ーーそれが分かるまで、其方に帰る資格などない。暇でおかしなことを考える位ならこの続きでも翻訳するのだな。先に教えてやろう。封印は成り行きでしてやったが解除は高いぞ。王族を働かせようというのだからそれなりに対価を支払って貰おうではないか」
「たい、か……」
バルトリアスはにやり、と凶悪な笑みを小夜に向ける。
小夜はまるで子ウサギのように怯えた。
「これは金になる。ーー帰りたくば、さっさとその怪我を治し、せっせと翻訳するのだな。それを対価としてやろう」
小夜は胸にぎゅっと原書を抱きしめると、逡巡こそしていたが、やがて小さく頷いた。




