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ブレス

作者: 雨月 日日兎

 潮騒を聞いていた。肌を切るような寒風の中ひとり、浜辺に足跡を刻みながら。

 最近の歌はよく知らない。かといって昔の歌も歌詞は曖昧だ。他に聞く人もいないからいいだろう。適当に口ずさむ。歌が冬に溶けてった。

 むかしむかし、私のご先祖様は人魚だったらしい。らしいと聞くだけで詳しい話は知らない。祖母も、そのまた祖母にそう聞かされたと言っていた。たぶん、その歌声か泳ぎの上手さか何かを人魚のようなとでも表しただけだろう。どこまでが本当なのかも分かりやしない。

 ただ昔から歌うことは好きだった。その歌声をたくさん褒めてくれる祖母が好きだった。好きこそ物の上手なれ。歌手なんて職業を目指して、夢を叶えた私はきっと幸せ者なんだと思う。いや実際幸せだったのだ。たくさん味わった辛いことや苦しいことを凌駕するほどの幸せを、私はちゃんと貰っていた。

 なのに、どうしてだろう。

 歌は、私を嫌った。

 マイクを目の前に何一つ音を紡げなかったあの日の恐怖は忘れられない。ヘッドフォンから聴こえる音に、この声をどう乗せればいいのかが分からないのだ。全身から血の気が引いた。さらに喉は次に呼吸の仕方を忘れかけ、目の前を真っ黒に染め上げた。

 無期限活動休止。何かに追われているかのように地元へと逃げ帰った。

「一緒にお豆腐でも作りましょ、ね」

 この世で一番不幸な人間のふりをしていた私の手を引いたのはやはり祖母であった。誰よりも私の歌を喜んでくれた彼女が、歌を無くした私に別の生き方を教えてくれたのだ。

 昔は誰よりも私に歌を歌ってと言っていた祖母だ。きっと内心は残念がっていただろう。けれどそんな様子をおくびにも出さず、すぐ側で見守ってくれていた。

 それから彼女が歌をねだったのは、亡くなる数日前の一度きり。昔に戻った意識が「ねぇ、お歌を歌って」と無邪気に、愛おしそうに、ねだったのだ。

 最近の歌はよく知らなかった。昔の歌だって歌詞は曖昧だ。なのに祖母は笑って言うのだ。昔みたいに。

「上手ねぇ、ご先祖様は人魚だって言うからねぇ、きっと先祖返りだよ。私だけが聞くんじゃもったいないね、もっとたくさんの人に聞いてもらわなくっちゃ」

 ねぇ、と皺だらけの手が重ねられた。小さくて、温かい手だった。

 きっと、その手が背中を押したのだ。

 気付けば囁くように歌を紡ぐ日が増えていた。それこそ小さな頃のように、心が音になって外へと飛び出したがっていた。今は、その衝動に素直に生きようと思っている。今さらあの輝かしい場所へ戻れるとは思っていないが、別に歌はどこで歌ってもいいのだから。

 寒風吹きすさぶ浜辺でひとり歌を歌う。誰に聞かせるでもない歌を心赴くままに。伸ばした最後の一音。風が遠く、遠くへ、余韻を連れ去っていった。

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