待ってください、私もです
「トリシャ。おまえとの婚約を、破棄したい」
「……えっ?」
婚約者にとんでもないことを言われたトリシャは、思わずひっくり返った声を上げてしまった。
愛用の扇を握りしめたまま硬直するトリシャに、目の前の男――婚約者のライナルト・ベックマンは冷たい眼差しを向けてくる。
(婚約、破棄……!?)
「どういうことなの、ライ! いきなり、なんてことを――」
「好きな女ができたからだ」
さらっと告げられた理由に、トリシャは言葉を失う。
トリシャはヘリング伯爵の姪で、実家がベックマン子爵家の屋敷の隣にあった。
ゆえに、トリシャは物心ついた頃には既に一つ年下の子爵家令息・ライナルトと一緒に遊んでいた。いわゆる、幼馴染みという間柄だ。
年頃になるとライナルトは士官学校に通い、トリシャは淑女教育を受けるようになり、二人はあまり顔を合わせないようになった。
だが、五年前。
士官学校で順調に過ごしている、という噂だけを聞いていたライナルトが屋敷に戻ってきて、父である子爵と共にトリシャの家に来た。
そして、「トリシャ・ヘリング嬢を妻に迎えたい」と申し出てきたのだ。
久しぶりに見たライナルトは、ぴよぴよ泣きながらトリシャの後をついてきていた少年の面影は全くなく、立派な青年になっていた。
茶色がかった赤髪は長く伸ばして首筋で結わえており、目元はきりりとしている。
そんな十五歳のライナルトが顔を赤らめながら求婚してきて……トリシャはすぐに頷いた。
トリシャは元々、ライナルトに好感を抱いていた。
十六歳の成人を間近に控えた彼を見ると、もっと好きになった。
だから、喜んで婚約を結んだ……というのに。
(……つまり婚約してから五年の間に、私よりも好きになる人が現れた、ということ……?)
トリシャは、一歩前に出た。
「ライ。あなたは……その女性のことが、そんなにも好きなの?」
「ああ。明るくてよく気が利いて、誰にでも優しい。でも実際は繊細で、俺が守ってやらないといけないような人なんだ」
すらすらと愛しの君について語るライナルトの薄茶色の眼差しは、本気だ。
彼は本気で、その女性に恋をしている。
「……少し、考えさせてくれる?」
「……いいけれど、あまり待たせるなよ」
最後の最後まで、ライナルトはトリシャに冷たかった。
せっかく婚約者の屋敷でお茶を飲む予定だったのに、ライナルトのトンデモ発言によって全てが台無しになってしまった。
ライナルトは、「婚約破棄が決定したら、双方の家族に報告しよう」と言っていた。だから、トリシャの方が諾の返事をするまでは家族に相談することもできない。
自邸に帰り、よそ行きのドレスから部屋着用のワンピース姿になったトリシャは、どさっとベッドに倒れ込んだ。
「ライに、好きな人ができた……」
まさに、青天の霹靂だ。
ライナルトは五年前からずっと、トリシャのことだけを愛していると思っていたのに。
(でも……心のどこかでほっとしている私が、いる)
ごろんと仰向けになり、白い天井を見上げながらトリシャは思う。
ライナルトは士官学校を卒業後、家督を継ぐまでの間限定で王城で騎士として働いている。騎士団での仕事に加えて次期子爵として父親からいろいろ学んだり領地に視察に行ったりと忙しい彼だが、トリシャとの時間を大切にしてくれていた。
どんなに忙しくても、十日に一度は顔を見せに来てくれる。
デートに行ったら有名なカフェやブティックに連れて行ってくれて、贈り物も欠かしたことがない。
ライナルトは華やかな美青年でかつ男らしく、騎士団でも新人騎士の兄貴分として慕われていると聞いた。そんな彼はデートでも率先して動き、トリシャのためにあれこれ心を砕いてくれる思いやりを感じていた。
ライナルトに、尽くしてもらっている。
そのことは、よく分かったけれど……。
(私は……ライナルトに、あまりときめかなかった)
それは、誰にも相談したことのない悩み。
ライナルトが向けてくれる愛情の十分の一さえ、トリシャは感じ取れていなかった。
お姫様のように扱ってもらえれば嬉しいし、道を歩いていてさりげなく馬車から庇ってくれるところは頼もしい。何度か騎士団に行って訓練風景を見学したが、赤い髪をなびかせて対戦相手と戦うライナルトは格好よかった。
だが、そこまで。
恋愛小説に出てくる「胸のときめき」だとか、「きゅんとする」だとか、「興奮で胸がドキドキしてくる」ということはほとんど経験しなかった。
友人たちとお喋りをしていると、皆は愛する恋人や婚約者の一挙一動にときめいたり、甘い言葉にクラクラしたりすると教えてくれた。
そして皆は、言うのだ。
「トリシャもきっと、ライナルト様の溺愛にドキドキしているのよね」と。
最初は、婚約者にときめくことができない自分は異常なのだと思った。他の令嬢たちには備わっている大切な何かが抜け落ちているのかもしれない、と考えると恐ろしくなってきた。
だが――ライナルトに婚約破棄を提案されて、なんとなく分かった。
(私は……自分で思っていた以上に、ライナルトのことが好きではなかった……のかもしれない)
だから、婚約破棄の言葉を聞いてショックだったが、同時に安堵もしたのだ。
ライナルトは、本当に好きな人を見つけた。
彼が熱心に語るくらい素晴らしい人なのだから……きっと、トリシャなんかよりもずっとライナルトのことを幸せにしてくれるはず。
(私は伯爵家の血筋だけれど所詮傍系で、ライナルトは子爵家の長男。彼が婚約を破棄したいと願い出て、私もそれに応じたなら……伯父様もきっと、強くは出られない)
体を捻ると、ベッドサイドに置いている小さな額縁が目に入った。そこには、トリシャとライナルトの絵が入っている。
確かあれは二人の婚約が成立しいて間もない頃、記念に描いてもらったものだ。
「懐かしい……」
体を起こしたトリシャは、おもむろに額縁を手に取った。
(プロポーズを受け入れたときのライナルト、可愛かった。士官学校の式典服をしっかり着ているのに、今にも泣きそうな顔をしていて……)
――ぞわり
「……う、ん?」
今、何か胸の奥がざらっとした。
思わず腹部に片手をやったが、特に異常はなさそうだ。
(……今のは、何? やっぱり体が、疲れているのかな……?)
今日はいろいろあって、トリシャの体が休眠を欲しているのかもしれない。
そう思い、トリシャは額縁を元の位置に戻し――悩んだ末にぱたんと下に向けて倒してから、ベッドに入った。
その、仮眠で。
トリシャは、幼い頃のライナルトが「トリシャぁぁぁぁ!」とぴえぴえ泣いている夢を見た。
翌日、頭をすっきりさせるために図書館にでも行こうとしていたトリシャは、自邸の門の前で会いたくない人と鉢合わせした。
「……よう、トリシャ」
「ライ……」
門の前に停めているヘリング家の馬車の横に、ライナルトがいた。騎士団服姿なので、これから仕事に行くところなのかもしれない。
(……でも、ライが使う馬車はここにはないよね?)
「……おはよう」
「……ああ、おはよう」
ひとまず礼儀として朝の挨拶をすると、ライナルトも若干気まずそうではあるが挨拶を返してくれた。昔から、こういうところは律儀な少年だった。
ライナルトは花柄ドレス姿のトリシャを見て、何か言おうと口を開き――すぐに閉じると、ぷいっとそっぽを向いた。
「……どこかに行くのか」
「ええ、図書館にでも行こうと思って」
「そうか。おまえ、昔から本が好きだったよな」
つっけんどんな物言いがなんとなくおもしろくなくて、トリシャは彼に詰め寄った。
「何? 本を読む暇があれば昨日の返事の内容でも考えろって言いたいの?」
「えっ? そ、そういうわけじゃない。別に、急ぐわけじゃないし……」
「あら、そう? 愛しの君は、私たちが早く婚約破棄することを願っているのではないの?」
意地悪だと思いつつも突っ込んでやると……ライナルトは、顔をゆがめて下唇をかんだ。
――ぞわり。
(っ……また……!)
またあの感覚がしてトリシャが戸惑っていると、ライナルトはちらっとこちらを見てからきびすを返した。
「……ああ、そうだろうな。じゃあ、俺は行くよ」
「ええ、いってらっしゃい。……あなた、結局何をしに来たの?」
「お、おまえには関係ないだろう!」
至極普通のことを聞いたつもりだったが、ライナルトはかっとなって怒鳴ると足音も荒く子爵邸の方に向かっていった。
(……よく分からない)
ライナルトの行動も、もちろんだが。
未だに自分の胸の奥がぞわっとする理由も、分からなかった。
ライナルトから婚約破棄を提案されて、数日後。
「トリシャ、ライナルト君が来たわよ」
「うっ……」
自室で書き物をしていたトリシャのもとに足取りも軽くやって来た母が報告したため、思わず苦しい声を上げてしまった。
トリシャの家族は、娘が婚約破棄一歩手前であることを知らない。まだ、トリシャがライナルトに返事をしていないからだ。
(ついに、「さっさと諾の返事をしろ」って詰め寄りに来たのかな……)
身仕度を調えてから応接間に下りると、そこにはぶすっとした顔のライナルトがいた。
「遅い」
「あら、レディの仕度の時間に文句を言うなんて、とてもよくおできになった騎士様なことね?」
文句を嫌味で返してやると、ライナルトは「……うるさい」と不機嫌そうに視線を逸らした。
――ぞわぞわ。
「早く返事をしろ、とせっつきに来たのかしら?」
「まあ、それもあるし……おまえの顔を見に来た」
「あらそう。やっぱり私なんかよりも、愛しの君の方がずっと可愛らしいのかしら?」
「……」
ライナルトが黙った。意外だ。
(「そうだ」とか「当たり前だろう」くらい言うと思ったのだけれど……)
トリシャが目を瞬かせていると、ライナルトは小さく咳払いをしてテーブルにあったティーカップを指先で摘まんだ。
――彼が紅茶を飲むために少し顎を上に向けたとき、彼の首筋に何かが見えた。
「ライ、首をどうしたの?」
「く、首!?」
「そこ、左耳の真下のあたり。赤くなって……」
何気なく手を伸ばしたトリシャは――ライナルトが首を捻ったことで「それ」がよく見えるようになり、はっと息を呑んだ。
彼の首筋に見えるものは――赤かった。
「ライ! あなた、怪我をしているわ!」
「は? け、怪我!?」
「血が出ているのよ! ほら、ここ……」
慌ててトリシャはライナルトの上着の詰め襟部分をぐいっと引っ張ったが――
(……これ、血じゃない。赤くて、ねっとりとしている……)
「……口紅?」
「……」
「……」
沈黙を肯定と受け取ったトリシャは、じろりとライナルトを見つめる。
ライナルトは、いたずらをして叱られる子どものようにこわごわと目線をそらした。
――ぞわっ。
「……あなた、婚約破棄一歩手前とはいえ婚約者の屋敷に行くのに、他の女性の口紅の痕を付けたままにするわけ?」
「……おまえには……関係ないだろ……」
「……ええ、そうね! なかったわね!」
むっとして、トリシャは掴んだままだったライナルトの詰め襟部分をぐりっと捻った。首を絞められることになったライナルトが、「ぐえっ!?」と美丈夫らしからぬ悲鳴を上げる。
――ぞわぞわ。
「ぐっ! お、おい、何をする、トリシャ……!」
「あらぁ、ごめんなさいね。つい、うっかり、手に力が入ってしまったわ」
おほほ、と笑って手を離すと、首輪を付けられるのを嫌がる猫のように首を縮めたライナルトが目をかすかに潤ませ、恨めしそうにトリシャをにらみ上げてきた。
――ぞわ。
「……トリシャ。返事は、いつくれるんだ」
「……近いうちには」
「……早く決断してくれよ」
ライナルトは唸るように言うと、先ほど飲み損ねた紅茶を呷った。
ライナルトに再三せっつかれたトリシャは、子爵邸に向かうことにした。
ライナルトのもとに返事をしに行くのはともかく、両親に報告することを考えると気が重くなる。
ライナルトの浮気が原因なのだから、彼も最大限トリシャのためにはかってくれるだろうが……それでも、「捨てられた女」のレッテルを貼られるのはかなりきつい。
(そのあたりの話もしっかり詰めないといけない)
意を決してトリシャが子爵邸に行くと、使用人たちはにこやかに「坊ちゃんの婚約者のお嬢様」を迎え入れてくれた。
二人がおしめをしている頃からここで働いている使用人たちにとって、坊ちゃんと隣のお嬢さんとの婚姻はとても喜ばしいものだったそうだ。
老年のメイドなどは、涙を流しながら婚約を祝福した後「お坊ちゃんとお嬢様のお子様が見られるまでは、辞められません」と笑って言っていたものだ。
(そんな皆の期待を、私たちは……裏切ることになるのね)
何にしても、ライナルトの話を聞かなければ。
そう思ってライナルトの部屋に向かったのだが。
(……声がする?)
彼の部屋のドアは少し開いており、そこから男二人分の声がした。片方はライナルトで、もう片方はライナルトの三つ年下の弟・リーンハルトのものだった。リーンハルトも、昔はよくトリシャと遊んでいた。
兄弟で話をしているのならもう少し下で待とうかと思ったトリシャだが、リーンハルトが「トリシャ」という単語を口にしたため、足を止めた。
「……本気? 兄上はそんな理由でトリシャとの婚約を破棄するつもりなのか?」
「ああ。……これが一番なんだ」
「馬鹿言うなよ。そんなことをしても、父上は許さないだろう」
「分かっている。……万が一のことがあれば、おまえに子爵家のことを任せるかもしれない」
「いきなり縁起でもないことを言わないでくれよ!」
リーンハルトが声を荒らげている。
どちらかというとやんちゃ系の兄と違いリーンハルトは物腰穏やかで大人しい青年だったので、彼がこんな大声を上げるのはトリシャにとって驚きだった。
「トリシャのことだから、兄上がきちんと話をすれば理解してくれるだろ」
「……ふん、どうだかな。気持ち悪い、生理的に無理、と言われてこっぴどくフられるくらいなら……多少の嘘をついてでも、離れた方がいい」
(……え?)
立ち聞きしていたトリシャは、今のライナルトの発言に首を捻る。
やり取りからして、リーンハルトは兄が婚約破棄するつもりであることを知っているようだが……それにしては、会話内容がおかしい。
(嘘? どういうこと?)
「トリシャの今後のことは、陰ながらにはなるが俺も尽力する。婚約破棄は百パーセント俺が悪くて、トリシャにはなんの瑕疵もないってことを皆に知らしめる。それで、俺よりずっとまともな男と添い遂げられるよう手を尽くす」
「それ、トリシャに言ってあげれば丸く収まるんじゃないか?」
「収まるようなものなら、ここまで悩んでいない!」
「兄上って……馬鹿だよな」
「誰が馬鹿だ!?」
いろいろ気になるところはあるが、このままだと兄弟げんかに発展しそうだ。
「……今の話、どういうことなの、ライ!」
意を決してドアを押し開けると、子爵家の兄弟が振り返った。
赤髪をなびかせる兄は体つきががっしりしているが、同じ色の髪を短く切りそろえた弟は体の線が細い。だが驚いた顔はよく似ており、彼らが兄弟であることがそういうところからも感じられた。
「トリシャ!? おまえ、聞いていたのか……?」
「ええ。……ライ。嘘って……どういうこと?」
「……」
「……後は当事者同士で話をしなよ」
リーンハルトはため息交じりに言うと、兄に背を向けた。
そしてトリシャの隣を通り過ぎるとき、「うまくやるんだよ、トリシャ」と片目をつぶって言った。もしかするとリーンハルトは、ドアの前にトリシャがいることに気づいていたのかもしれない。
リーンハルトが去った後、部屋にはしばらく沈黙が漂っていた。
だがライナルトが深く息を吐き出して、「座ってくれ」と言ったため、トリシャは彼の向かいのソファに腰を下ろした。
いつも堂々としているライナルトが、数日外に放置された菜っ葉のようにしゅんとしている。
――ぞわぞわぞわ。
「……おまえ、どこから聞いていた?」
「ええと……何かあったらリーンハルトに子爵家を任せる、みたいなところのちょっと前くらいから」
「ほぼ全部じゃないか……」
悔しそうにぼやいた後、ライナルトは観念したように大きなため息をついた。
「……だったら、もう分かってるよな。好きな女ができたから婚約破棄したいって言ったのは……嘘だって」
「……そう、みたいね」
まだ信じがたいが頷くと、ライナルトは肩を落とした。
「よそに好きな女なんて、できていない。俺は……昔から、トリシャ一筋だ」
「ええ、ありがとう」
「そこはもうちょっと照れてくれよ」
「それより。……浮気をしたわけじゃないのなら、どうして私との婚約を破棄しようと思ったの? 何かあればリーンハルトに後を頼む予定で……しかも、私の今後についても手を尽くすのでしょう?」
「それは……」
ライナルトは少し目を泳がせたが、トリシャがじっと見つめていると白旗を揚げたようで、ポツポツと語り始めた。
ライナルトは、幼馴染みのトリシャのことがずっと好きだった。
士官学校に通える年齢になったら誰よりも真剣に勉学に勤しみ、学校で首席を取って卒業後に騎士団に入ることも決まった十五歳の日に、トリシャに婚約を申し出た。
……諾の返事をもらえたときは、本当に嬉しかった。
一つ年上でしっかり者のトリシャのよき夫になろう、と仕事も頑張り、トリシャとのデートでは彼女をリードして、プレゼントや手紙などもまめに贈った。
……だが彼はあるとき、自身のとんでもない癖に気づいてしまった。
――今から三年前。ライナルト十七歳、トリシャ十八歳のときのこと。
騎士団に入りたてのライナルトは、公開練習試合にトリシャを呼んだ。トリシャが応援してくれるので必死に戦い、見事三連勝した。
そのとき、タオルを持ってきてくれたトリシャに「トリシャが応援してくれたから、頑張れた」と言うと、彼女は「口が上手ね」と笑って、持っていたタオルでライナルトの肩をぱしんと軽く叩いた。
――その瞬間、ライナルトの体に衝撃が走った。
トリシャにタオルで叩かれたことが、嬉しかったのだ。
そのときは気のせいだと思った。
だがその後も、たとえばトリシャが「馬鹿!」と軽く胸を叩いてくるときとか。たとえばダンスの練習中にうっかりトリシャに足を踏まれたときだとか。はたまた、怒ったトリシャににらまれたときだとか。
そういうとき、自分はトリシャの笑顔を見たときや一緒にデートに行っているとき以上の喜びを感じるのだと、はっきり分かってしまった。
「……だから、これではいけないと思った。微笑まれるより、蔑まれる。手を握るより、足を踏まれる。『好き』より『馬鹿』の方が嬉しい。……そんな男では、トリシャを幸せにすることなんてできないと思ったんだ」
数年間積み重なっていた悩みを吐き出しているからか、ライナルトの顔色はあまりよくない。
「リーンハルトは、そういうところもひっくるめて言えばいいって言っていたが……こんなの、気持ち悪いだけだよな」
「えっ? どれが?」
ライナルトの話に聞き入っていたトリシャが思わず問うと、彼は目を丸くした。
「何、って……今俺が話した内容、全部が」
「……」
「と、トリシャ? あの、気持ち悪いのなら、もういっそそう言ってくれ。下手に慰められるよりずっといいし……」
そう言いながら、ライナルトはもじもじしている。
――ぞわぞわぞわぞわ!
(……ああ、そうなのね)
ライナルトを見るトリシャの胸の奥で、かちり、と頑強な錠前が開く音がした。
ここ最近の、自分の体の異変。
ライナルトが婚約破棄を提案してきた理由。
それらが、おもしろいくらいきれいに嵌まっていく。
「ライ。あなたは自分の考えを全部言ってくれたわ。だから私も同じように、自分の気持ちを言うわね」
「うっ……う、うん」
「その前に。……ライ、顔を上げて?」
「えっ……? いや、今はちょっと、顔を見せたく――」
「顔をお見せなさい」
ぴしり、と命じて手を伸ばし、ライナルトの顎に触れてその顔をくいっと上げさせた。
今にも泣きそうなライナルトが、呆然とした様子でトリシャを見ている。先ほどまでは青白かった頬がじわじわと赤みを帯びていき、小さな悲鳴が唇から漏れる。
――ぞわぞわっ!
トリシャは、ゆっくり微笑んだ。
「ねぇ、ライ。あなたは今……すっごくドキドキしている?」
「えっ……あ、ああ……不本意ながら……すごく」
「それ、私も同じよ」
「は?」
「私も、すっごくドキドキしているの」
やっと分かった。
子どもの頃のライナルトがぷえぷえと泣いていたのを思い出したときや、彼が悔しそうにしているとき、真っ赤になって恥じらっているときや泣きそうな顔をしているときに、ぞわぞわと胸の奥でうごめいていた違和感。
あれは……あれこそがきっと、トリシャにとっての「恋のときめき」なのだ。
「ライ、私はね、いつもは余裕そうな大人の男のあなたが泣きそうになっていたり、悔しそうにしていたりする顔が、大好きなの」
「……なっ……え、ええ?」
「もちろん、あなたに優しくしてもらえるのも嬉しいわよ? でも、それより……ちょっといじめてしまいたくなるのよ」
そう言いながら、顎に触れていた手をつつっと下ろして首筋に触れると、ライナルトはあっと小さな声を上げて体を捻った。
「そ、そんな……トリシャが、俺の……?」
「そう。私、あなたと同じような性癖だったみたいなの。……私のことが、気持ち悪い?」
「気持ち悪いわけがない!」
「ありがとう。……婚約は、続けてくれる?」
指先で首筋を撫でながらささやくと、真っ赤な顔のライナルトはぎゅっと目を閉じた後、おずおずと頷いた。
「継続……します……」
「ふふ、よかった」
(本当に……よかった)
ライナルトがいきなり婚約破棄を提案した理由が、分かったことも。
婚約が継続すると決まったことも。
そして……自分の性癖が分かったことも。
その後、トリシャはすっかり開き直ったため、ライナルトの首をツンツンと突きながら話をしていた。
「なるほど。前にうちの門の前に来ていたのは、私のことが気になったからで……首に口紅を付けていたのは、私を怒らせるためだった。リーンハルトに子爵家のことを託そうとしたのは、いざとなったら自分は生涯独身でいるつもりだったからなのね」
「そ、その……本当に、すまない。どうすればトリシャに辛い思いをさせないで済むかと考えて……」
「ええ、分かっているわ。……私こそ、あなたに辛い思いをさせてしまったわ」
「トリシャがそう言うことはない! トリシャは、こんな俺でも受け入れてくれるし……そ、その、婚約も……続けてくれるし……」
「ええ。……こういうの、破れ鍋に綴じ蓋、と言うのかしらね?」
婚約者にちょっといじめられるのが好きなライナルトと、婚約者をちょっといじめるのが好きなトリシャ。
面白いくらい相性がぴったりだが、破れ鍋に綴じ蓋と言われても文句は言えない。
トリシャの呟きに、むっとしてライナルトが振り返った。
「そんなこと絶対に言わせないし……というか、俺たちの性癖なんて他人に教える必要はないだろう」
「知っているのはリーンハルトだけね」
「あいつは口は硬いから、信用できる。……ああ、そうだ。あいつにも散々迷惑をかけたし、謝らないと」
「私も一緒に行くわね。私も当事者だし」
「いい、俺の問題だから」
「私が行きたいの。あなたは『分かった』と言えばいいの」
「……わ、分かった」
それまでは格好よかったのに、トリシャが強気で言うととたんにライナルトはしおらしくなった。
「私たち、相性ぴったりね」
「……ああ。……浮気、絶対にしないから」
「私もしないわ。……ずっと、ライナルトだけよ」
最後の一言は身を寄せて耳元でささやくように言うと、ライナルトは艶っぽい悲鳴を上げて耳を手で覆ってしまった。
――ぞわぞわぞわ。
ライナルトをちょっといじめるたびに生じる、この胸の奥のざわめき。
きっと、これから先の人生で何度もこの感情がトリシャを揺さぶってくることだろう。
騎士団で活躍したライナルト・ベックマンは皆に惜しまれながら二十二歳で退役し、父の跡を継いで子爵になった。
そして同じ年に、七年来の婚約者のトリシャ・ヘリングと結婚。物心つく前からの間柄の幼馴染みは、晴れて夫婦となった。
ベックマン子爵夫妻は明るくて人付き合いもよく、また子爵夫人の伯父であるヘリング伯爵家とも非常に関係がよかったため子爵家は大いに栄えた。
夫婦はたくさんの子どもにも恵まれて、誰もが認める幸せな家族となった。
そんな夫婦には、ちょっとした秘密があった。子どもたちも、たまに両親が見せる表情からなんとなくのことを察していた。
だが父方の叔父であるリーンハルトが、「人には誰しも、秘密があるものなんだよ」と教えたため、子どもたちは「そういうものか」とさして気にしなくなったそうだ。
男でも見惚れる美丈夫の子爵と、その隣でおっとりと微笑む年上の子爵夫人。
二人は年を取ってもなお仲睦まじく、「相性がぴったりなのです」と笑っていたという。
リーンハルト「鞭で叩かれたいとか、縛られたいとか?」
ライナルト「そういうのじゃない。もっとソフトなやつだ」
トリシャ「私も、ライを傷つけたいわけではないわよ」
ライナルト「トリシャ……!」
リーンハルト「あ、うん、お幸せに」