47 嫌いの気持ちを肯定するには
今回ちょっと長いです。
5000字ちょっと。
前回、嫌いの気持ちは諦めた方がいいと言いました。
しかし以前に投稿したエッセイで、嫌いの気持ちも大切なんだよとお話したことがあります。
この二つのエッセイは矛盾しているようで、実は矛盾していないのです。
今回はそのことについてお話したいと思います。
◇
前回お話したのは、嫌いの気持ちを感情的になったまま何らかの形で表に出すよりも、諦めてしまった方がいいよという内容でした。
嫌いの気持ちを感情的になったまま表に出したら、周囲から人が離れてしまうと。
でもこれは間違っていないと思うのです。
だからと言って、自分の中に存在する「嫌い」を否定していいかというと、これはまたお話が変わるのです。
嫌いと原因となった人に対して、何かしら強い意見をぶつけるより、諦めて自分のなかで整理をしてしまった方が、コスパは確かにいいです。
でもその感情そのものを否定したら「つらい」「くるしい」「かなしい」の気持ちがより大きくなってしまうと思うのです。
だからこそ、こういった気持ちを感情的なまま、攻撃性を露にして表に出してはならないと思うのです。
心の中で自分の「嫌い」を肯定して、心の整理を付けられたのなら、より自分自身の感情を認めてあげることができるはずなのですよ。
では、どうすれば自分の心の中にある「嫌い」を肯定して、平静を保つことができるのか。
その秘訣はずばり――
「観察」すること、です。
観察って、ただただ眺めているだけではなく、どうしてこう思うんだろう? どうしてこう言うのだろう? と人間の行動や心理を眺めて考察することだと思うのです。
だから、不可解な言動や行動をとる人をひたすら観察すると、その理由が見えてくる(ような気がする)のです。
自分の「嫌い」となる原因となった存在を観察していると、色んなことが見えてくると思います。
観察対象となった相手は、こちらが観察していることなど知らずに普段通りの生活を送っているわけですから、何気ない言葉や行動からあらゆる情報を垂れ流しているんですね。
そう言った表に現れた情報を集めて考察すると「どうして自分がその存在を嫌うのか」が見えてくると思うのです。
こうした観察から、一定の答えを得ることができます。
自分がなぜその存在を嫌うのか。
なぜ許せないのか。
見えてくる答えはだいたい一つなのです。
それは――
自分とは相容れぬ価値観や思想を持っているから、なんですよ。
人は「理解しがたい存在」と相対した時、嫌悪感を覚えます。
例えばお葬式の際に、悲しんだり、苦しんだり、故人を想いしのぶ感情を抱くことが普通だと思いますが――
もしみんなが悲しんでいる場で、一人だけニコニコ笑っている人がいたら、その人に対して何かしらの違和感を覚えないでしょうか?
皆が悲しんでいるお葬式の場でニコニコ笑顔でいる人がいたら、受け入れがたいですよね。
ちょっと想像しにくいかもしれませんけど……もしそう言う人がいたら「好き」よりも「嫌い」の気持ちが強くなってしまうのではないでしょうか?
逆にみんなが喜んでいる場で一人だけ、つまらなそうにしていたら、やっぱり違和感を覚えてしまいます。
頑張って部活のチームが試合で勝って喜んでいるのに、一人だけ「負ければよかったのに」と悔しそうにしている人がいたら、嫌な気持ちになりますよね。
それが対戦相手なら、百歩譲ってまだ分かります。
でも同じ学校の生徒がそんなことを言っていたら「こいつは何を考えてるんだ」と思うかもしれません。
このように、相容れぬ感情を抱く人に対して、人は違和感を覚えてしまいます。
その積み重ねがやがて「嫌い」の気持ちに変化していくのではないでしょうか。
これは極端なたとえなので、リアルと照らし合わせると想像しにくいかもしれません。
でも……よくあることでもあると思うのです。
些細な意見の食い違い。
ちょっとしたすれ違いの連続。
意見の相違、価値観の違い、共感の欠落。
気持ちが一つにならないと、モヤモヤすることは多いですよね。
食事の仕方、服装の好み、仕事の方針。
世の中には価値観の食い違いが生じる要素が多すぎて、ちょっとした「嫌い」が積み重なりやすい環境なのです。
とくに昨今では価値観の多様化によって、こういった食い違いは生じやすくなっていると思います。
だからこそ、安易に自分の中にある「嫌い」の気持ちを否定してはならない。
その感情は自分の心を構成する大切なパーツの一つなのですから。
食い違いの原因となる価値観の相違は、観察によって次第に明らかになります。
この人はこういう風に考えるから、こう考える自分とは価値観が違うんだな。
だから「嫌い」になるんだな。
観察によって得られた情報から、「嫌い」の理由を並べていくと、意外と冷静に感情を整理できます。
試しに「嫌い」の理由を100個ほど箇条書きにしてみましょう。
100個も嫌いの理由が思い浮かべられたら、それはもう本物の感情なので、手が付けられません。
自分自身や周囲の人を傷つけない範囲で、ちょっとくらい感情を吐露してもいいんじゃないかなって思います。
でも……100個も嫌いになる理由なんて、なかなか思い浮かびませんよね?
てゆーか10個でもきついと思います。
嫌いの理由を言語化すると、それほど原因が多くないと気付けるかもしれません。
箇条書きにすることでスッキリして、意外と気にしなくて大丈夫かもと思っちゃうかも?
まぁ……そんなに簡単にはいかないと思うのですけど、なんとなーく心の整理がつくかもしれません。
この作業の重要なところは、あえて言語化することで、混沌とした感情を自分の中から吐き出せることにあります。
感情って面白くて、言語という形にした瞬間に、モヤモヤが明確に視覚化されてスッキリするんですよ。
この作業を個人で淡々と行えるようになれば、意外と自分のなかにある感情が整理できてしまうかもしれません。
まぁ……これも対症療法の一つなんですけどね。
精神科を受診した時に教わったのです。
言語化したら、ストレス度を自分で設定するとより効果的だそうです。
我慢できるくらいのストレスと、我慢できないレベルのストレスと仕分けしていくと、どのように周囲の人と付き合っていけばいいのかが、次第と見えてきます。
問題は我慢できないレベルのストレスの原因となる要素ですね。
この要素はどうあがいても解消できません。
お相手にやめてほしいと伝えても、やめてもらえるとは限りません。
自分が我慢できないわけですから、無理に我慢しようとするのも毒です。
ではどうすればいいのか。
もうね……これに限っては、答えは一つしかないのです。
それは徹底的に対話を心掛けること、です。
止めて欲しいと訴えるのはダメ(してはいけないという意味ではなく、できないという意味で
でも自分の気持ちを伝えることはできる。
どうしてこう思うのか、どうしてこう感じるのか。
素直な気持ちを言葉にして、何らかの形でお相手に伝えることができれば、ストレスは軽減できると思います。
「嫌い」の気持ちが一番強くなるのは、自分のなかで悶々と思い悩んでいる時です。
その悩みを第三者と共有すると、より強い「嫌い」の気持ちが生まれます。
まぁ……これは世間一般でよく行われていることだと思うのです。
「陰口」ってどこへ行っても耳にしますからね。
でも、結局は問題の解決にはならない。
問題を解決するには、直接相手と対峙するしかありません。
でもその過程で「感情」を挟んでしまうと上手くいかない。
だって「嫌い」なわけですから。
じゃぁ、どうしたらうまく行くのか。
単純に言葉を飲み込んでひたすら耳を傾けること、ですね。
これすごく辛いんですよ。
「嫌い」な相手の意見に耳を傾けるわけですから。
相手のことを「死ぬほど好き」なら別ですけど。
「嫌い」な人の話なんて死んでも聞きたくないですよね。
辛かったら逃げてもいいし、見ないようにするのも手です。
小説投稿サイトには便利なことにブロックやミュート機能があるわけですから、そう言った機能を使ってスルーないしは拒否するのも、手段の一つだと思います。
その場しのぎの手で逃げても意味がないような気もしますが、ブロックorミュートによって相手と距離を置くことで、冷静に自分の感情を見つめ直すこともできます。
自分の気持ちを整理していくうちに、お相手の主張にも、一定の理解を得ることもできます(できないことの方が多いですけど
冷静になってみると、意外と「嫌い」の気持ちが大きくないことに気づいたり、あるいは大して気にするほどではないと思いなおせたり。
気持ちが整理できて感情が穏やかになることもあります。
ようは時間をかければいいわけです。
すぐに理解する必要なんてないし、自分の「嫌い」の気持ちを否定する必要もありません。
ただ時間を置いてゆっくりと咀嚼するように、なんどもなんども、自分の中で対峙するのです。
このエッセイも、そうした葛藤から生まれました。
嫌いの気持ちをたらこ自身が整理するために書いていると言っても過言ではありません。
「嫌い」な相手と対峙する方法は、直接対決以外にも沢山あるのです。
窓口が開かれているのなら、対話をする機会は失われていませんからね。
でも……そこに「感情」が挟まると、途端に窓口が閉ざされてしまう。
嫌なことを言う相手と好き好んで対話する必要なんてありませんから。
小説投稿サイトなら「ブロック&ミュート! がっしゃーん!」って即座に接続を断てますからね。
何事も最初が肝心。
お相手に接続を断たれないよう感情を抑え、まずは沈黙を守ることが大切。
そこから観察を続けて、自分の気持ちを整理する。
最終的に対峙するわけですが、自分の意見を伝えることよりも、まずはお相手の話に耳を傾けましょう。
その上で最終的に自分の気持ちを整理して、エッセイなり、詩なり、活動報告にして「おきもちひょうめい」すればいいわけです。
無論、このプロセスを経て、自分の気持ちが伝わるとは限りません。
うまく行く保証なんてどこにもないのですよ。
――でもね。
丁寧に積み重ねた言葉は、いつか必ず実を結ぶのです。
この実を結ぶというのは、自分が望んだ結果になることではありません。
自分の中で「ちゃんと気持ちを整理して相手に伝えられた」という結果を意味します。
結局のところ「自分の中で決着がついた」という、独りよがりな結末にしかならないのです。
でも……やっぱり思うのです。
ちゃんと自分の気持ちを伝えられたと自覚できれば、未来の自分の力になると。
物事の積み重ねは、未来につながる一歩です。
小さなことを丁寧に積み重ねたからこそ、受け入れてもらえたと実感できる。
誰かに自分の気持ちを受け入れてもらうには、一時の感情に任せて強い言葉をぶつけるよりも、回り道をして少しずつ進んでいくしかありません。
その方法は前述した通り「1観察を続けて」「2相手の話に耳を傾け」「3自分の感情を整理して」「4素直な気持ちを伝える」です。
かなり面倒なプロセスですが、結局は丁寧に言葉を紡いでいくしか方法がありません。
小さな一つ一つの積み重ねが、「自分の中の決着」に繋がるのです。
◇
人は決して、他人の感情を「無条件」で受け入れることはできません。
人は誰しも繊細な一面を持ち合わせていて、譲れないこだわりを持っているものです。
価値観の相違から衝突することも多いでしょう。
我慢が良いことだとは思いません。
耐え続けることだけが美徳ではありません。
悲しい想いをしてまで、譲れないこだわりを捨てる必要もありません。
でも……どうか忘れないでほしいのです。
「嫌い」になった相手も同じ人間です。
何かしら共通点や、共感できるところがあると思うのです。
もし「嫌い」だった相手と「好き」の気持ちを共有できたのなら、とても素晴らしいことではないでしょうか?
まぁ……夢物語だとは思いますけどね。
でも不可能ではないと思うのですよ。
この世界は人の「願い」が作りました。
もっと便利になったら、もっと快適になったら、もっと楽しくなったら。
もっと、もっと、もぉぉっと。
人間の飽くなき欲望がこの世界を作ったと言っても過言ではありません。
あんなこといいな、できたらいいな。
そんな「願い」が積み重なることで、今の世界が形を成しました。
だったら……さらに「願う」ことは、決して無駄なことだとは思わないのです。
みんな仲良くなったらいいなって、たらこの「願い」も、世界を形作る一つのかけら。
だからこうして祈ります。
願わくば、あなたの「嫌い」が決して否定されることなく、誰かを傷つけることもなく、いつか喜びとなって天に昇りますように。
明日はもっともっと、楽しい一日になると良いですね。