9 議論について
今回、真面目な話なので一人称を私にします
以前にとある方のエッセイにて、議論の応酬が続く流れを目にした。
そのエッセイ主は活動報告でユーザーに相談を求めるなど、返信に苦心していた。
対する相手方も活動報告にコメントを残すなど、議論は白熱を極めた。
最終的に和解に至り、両者が納得する形で議論は終結した。
私はその一部始終を見ていたのだが、お互いに言葉を尽くして和解に至ったことに強い感銘を覚えた。
議論は互いに相手の話を聞こうとする姿勢がなければ成り立たない。
相手がどういう意図でその主張をするのか、理解しようと努めなければ話は平行線のまま終わってしまう。
互いに納得のいく形で議論が終結したのも、両者が相手の話を聞こうとする姿勢を保っていたからだろう。
私は議論が苦手だ。
どうしても感情的になってしまうからだ。
相手の話を聞くことも大切なのだが、それよりも先に感情が先に来てしまう。
どうして自分のことを分かってもらえないのか。
どうして否定されなければならないのか。
何故、そんなことを言うのか。
日常に置いて議論が発生した時、感情を抑えられずに忌避してしまう。
私は弱い人間だ。
しかしながら、人の価値感はそれぞれ異なるので、議論を避けて生きてはいけない。
難しいものである。
価値観の相違を埋めるためにも、議論は不可欠である。
そのためにも相手の話を聞こうとする姿勢が大切である。
リアルではなかなかできない。
でも……小説家になろうだと、少しだけ状況が変わる。
相手の言葉を飲み込むだけの時間が与えられる。
表情や語気や態度で誤解されない。
場合によっては発言を撤回する猶予まである。
リアルタイムで行われる議論とは違い、心にゆとりを持って相手の言葉を聞くことができるのだ。
また、自分の発言が残るので、それを振り返って反省することもできる。
それをみた第三者からアドバイスをもらうことも可能だ。
コミュニケーションには様々な形がある。
私の場合、こう言った緩やかに行われる議論の場は、リアルよりも落ち着いて対応できる。
だから……価値観を変えて相手の思想や意思を受け入れ、より新しい自分に生まれ変わることができる。
議論が苦手な私にとってはとてもありがたい。
ひとつ、気を付けなければならないのは、情報の取捨選択が可能ということだ。
ブロックやミュート機能を使えば、簡単に聞きたくない情報を切り捨てられてしまう。
だがまぁ……躊躇はしない。
ストレスをため込む必要は無いと考えているので、そう言った機能を使用することにためらいはない。
しかし……大切な人からの言葉。
勇気を振り絞って放たれた、自分の意思とは相反するその言葉は、誠心誠意受け止めなければならないと思っている。
それが私にできる精一杯の議論なのだと思う。