九十九の里
珠緒が母、綾のことをおばあと呼ぶのは、村人たちがそう呼んでいたからだ。二人は実の親子ではない。だからなのか、珠緒は綾のことを母と呼ぶことはなかった。異界暮らしの長かった綾は、すっかり老けてしまっていた。そのため周囲も珠緒は綾の孫娘と信じていた。
村人は素性のしれない二人を快く受け入れた。綾は異界から戻っても九十九の里にはもどらなかった。贄として里の災いを背負って異界に行ったのだ。里を出た自分が戻ることで、どんな災いが訪れるかわからない。
珠緒はかつて綾の生まれたという九十九の里を訪ねたことがある。里は近代化の波に見捨てられ、見る影もなくなっていた。今では、その正確な位置すらわからなくなっていた。ある者は、ダムの底に消えたといい、ある者は土石流に埋もれたと言った。いづれにしても、もはや目に見える形では残っていない。
その時の幾枚かの写真が、にこやかなおばあの遺影のまわりを取り囲んでいた。珠緒の脳裏をまたおばあの口癖がよぎった。珠緒は立ち上がると戸締りをして急いで家を出た。
「そうだ、きっと何か残っているかもしれない。」
数日後、珠緒は緑深い山の上にいた。
「ここら辺に里があったはず。」
古本屋で見つけた古地図をたよりにここまでやってきた。
夜の帳が下りるころ、異界の魔物が降りてくる。
無垢な力は、悪魔か神か。
鎮守の森での異界の宴。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
今日も、消えてく命によって、われらの命がつながれる。
昔、おばあがよく口づさんでいた歌だ。変わった子守唄だとしか思っっていなかった。山を下り、民家で歌のことを尋ねて歩いた。
「さあ、聞いたこともないねえ。あんた、知ってるかい。」
小さな造り酒屋の女将が杜氏をしている主人に聞いた。
「さあ、うちはもうここで百年ほど造り酒屋をしているが、聞いたことないなあ。昔のことは村長んとこのじいさんが詳しかったんだけどなあ。去年のおかしなウィルスでコロリといっちまった。」
珠緒はとりあえず、村長の家に向かった。聡明なおばあのことだ。何か手がかりを残しているに違いない。村長の家にあがると亡くなったおじいさんに線香を上げた。そして、九十九の里と歌のことを尋ねた。
「さあな、おばさんや。九十九の里って知ってるかい。」
50歳ほどのかっぷくのいい村長は、大声で奥に向かって叫んだ。
「耳が遠くてのお。ちょっと呼んで来る。」
そういって村長は奥へ消えると、九十歳にはなろうかという老婆をかかえるようにして戻ってきた。
珠緒は、彼女の前で歌を繰り返した。すると老婆の目から一筋の涙がこぼれた。




