第六話 「獣道」
真島は顔が腫れ上がるまで殴られた。
中学生の頃だ。些細な事がきっかけとなり、クラスの男子生徒たちから暴行を振るわれるようになった。
真島は泣きながら身体をくの字に曲げ、痛みと屈辱に耐えた。身体の上から笑い声が聞こえる。上を見上げると、身体の大きな男が口を釣り上げて笑っている。山下地蔵であった。
何故こんな酷い事ができるのか?何故この男はこんなに楽しそうなのか…真島は考える。
それから3年経った今でも思い出す。
あの痛みを、あの屈辱を、そして、山下の姿を。思い出すたびに震える。怒りではなく、恐怖でだ。
その山下が目の前にいた。
「お前、死んだって聞いてたけど生きてたんだな」
山下は笑いながら言う、その笑顔は見たものを不愉快にさせる下卑た笑いであった。
「そういやさ、俺今金ないんだよ、ほら、昔みたいに金くれよ。友達だろ?」
山下は真顔になり、レジ越しに真島に詰め寄る。
有無を言わせぬ言い方だ。相手を威圧し慣れている。反吐が出るような男であった。人の痛みに鈍感な人間はここまで粗野になれるのかと晴男は感心した。
「ヒロ、こいつは誰だ?」
「あ、あの、前に言ったことのある…」
真島は縮み上がっていた。恐怖に身体が支配され、足がすくんでいる。腰も引けている。もしも、晴男がいなければ本当にレジから金を抜いて山下に渡しかねないほどだ。
真島は晴男に自分の過去について話した事がある。その時に山下の話もした。なるほど、この男か、と晴男は真島を見る。注意深く全体を見る。細身に見えるが全身の肉が引き締まっている。手の甲にはクッキリとテーピングの痕が付いている。おそらく、ボクシングでも齧っているのだろう。
「おら、早くしろよ」
低い、ドスの書いた声で山下は呟いた。
真島は蛇に睨まれたカエルのように動けなくなっていた。
晴男が真島の肩に手を置き、後ろに引いた。2人の間に出来た空間に身体を無理やり入れる。
晴男と山下が向かい合う形になった。
山下の方が10センチほど背が高い。
「邪魔すんなよ、俺はボクシングやってんだぜ、おっさん」
山下が突然晴男の胸ぐらを掴み、引っ張り上げた。しかし、晴男の身体はびくともしない。
「いいのか?」
晴男が聞く。
「あ?」
山下の声が大きくなる。
「もう、俺の間合いだぜ」
晴男が呟くと同時に、その身体が瞬時に大きくなった。
「いらっしゃいませぇええええ!!!」
晴男が叫ぶ。いや、叫ぶと言う言い方は相応しくない。吠えた。それは獣が敵を威嚇する時に発するこえだった。人間が文明と引き換えに忘れてしまった、本来ならば備えていたであろう、人の鳴き声であった。
晴男の体が大きく見えたのは、その肺に、いや、その体に瞬時に空気を取り込んだからである。
吠えられた山下は晴男の胸ぐらを離していた。思わぬ轟音に身体がギョッとしてしまったのだ。山下はほんの一瞬、己の身体の操縦桿を手放したのだ。
「Tポイントカードはお持ちでしょうか!?」
その一瞬を見逃さず、晴男はまた叫んだ。
今度は叫びながら、右手が飛んだ。
次の瞬間、右手は山下の鳩尾に突き刺さっていた。人差し指と中指が根本までめり込んでいる。
「がああ!!!」
山下が肺の空気を一気に吐き出した。くの字に身体が曲がった。
倒れ込む山下の身体を前から晴男が押さえ込む。
「どうも有難うございました」
晴男はそう叫ぶと、山下の後頭部に自らの額を打ち付けた。
その一撃が山下の意識を体から放り出した。
山下の身体が床に倒れ込む。
「は…晴男さん…一体…何を…?」
呆気にとられていた真島が振り絞るように呟いた。
「わからんのか?接客だ」
晴男はそう言って笑った。
山下が目を覚ますと、目の前には夜空が広がっていた。
「起きたか」
聞き覚えのある声がする。
身体を起こしてみると、真島と一緒にレジにいた男があぐらをかいて座っていた。
立ち上がる。周りを見渡す。ここはコンビニから程近い公園であった。
何時かはわからないが、人の気配はない。
この男と、目の前に立つ真島以外は。
「お前、今からヒロと戦え」
男はそう言った。目の前の真島はその声を合図に手を前方に構え、ファイティングポーズを取る。
は?なんだ?この雑魚、俺に立てたこうって言うのか?
状況は分からないが、自身よりも遥かに格の低い人間が反旗を翻している。その姿を見ただけで山下は激昂した。
手を前に構え、フットワークを使い、真島に向かって行った。
「ヒロ、こいつが起きたら戦え」
晴男が自身の車の後部座席に山下を寝転がした後、そう言った。
「無理です」
絞り出すようにそう言った。
「戦え」
晴男はもう一度言った。その声は低く、そして重かった。
コンビニバイトが終わった後、2人で山下を近くの公園まで運び、山下が起きるのを待った。
山下は起き上がるとほぼ同時に拳を構え、真島に向かってきた。
本人は気がついていないだろうが、脳震盪から目覚めたばかりで足元がふらついている。
その姿を見ながら真島が感じたこと、それは恐怖だった。
中学生時代が蘇る。あの理不尽な暴力、死の危険さえ感じた。その根源が今自分に迫っている。
思わず、頭を両手で押さえ、地面に突っ伏した。
その上から山下は真島を殴った。頭、背中、手、無茶苦茶に殴った。
真島は痛みに耐えながら涙を目元に浮かべた。やっぱり無理だ。頭の中にその言葉が浮かんだ。自分が強くなれるなんて思い上がりだったんだ。ずっと部屋の中にいたら安全だったのに…そう思った。
そう思った時、怒号が飛んだ。
「思い出せ!!!お前はこの1ヶ月何をしてきた!?」
晴男がそう叫ぶ。俺は、俺は、この1ヶ月ひたすら筋トレをしてきた。でも、1ヶ月で劇的に変わるものではない。
なら何をしてきた。俺は俺は…!!!
その時、真島の脳裏に電撃走る。真島は素早く立ち上がり、山下の前に立った。
真島は構えた、さっきのへっぴり腰の構えではない、へその前で両手を構えた。
左腕は軽く開かれ、右腕は強く握られていた。
「お前、ぶっ殺してやる」
山下の鼻息は荒く、目は見開かれていた。
既に冷静さのかけらもなく、獣となっていた。
山下のジャブが真島に襲いかかる。
すると真島の両手は鮮やかに左右に大きく開き、次の瞬間には山下の拳を左右の手で全て払い除けた。
「な…」
思わず山下は驚愕の声を上げる。
しかし、また殴る、今度は叫びながら力いっぱい殴る。
しかし、すべて真島の左右の手が拳を払い除けた。
真島は眉の一つも動かさず、冷静さを保っている。口だけが小さく動く、口の端から声が漏れ出る。
「110円が一点、370円が一点、580円が一点ぇ〜ん」
真島には山下の拳がバーコードに見えていたのだ。商品を正確に捉え、バーコードに赤外線を当てる。それを1日に何度も何度もやった。ただ、やるだけではない、時と場合によっては職人的な早さも求められるのだ。
「そう、それが正解だ…」
晴男は腕組みしてそう言った。
「いいか、コンビニバイトに比べたらボクサーのトレーニングなんてのは甘っちょろいもんよ。ボクサーのトレーニングが1日2時間程度ならコンビニバイトトレーニングは1日8時間!!!コンビニバイトには打、投、極の要素がすべて入っている。さぁ、ヒロ、バーコードはどこにある!?」
「こいつの顔っす!!!」
そう言うと、真島の拳が山下の頬を打つ、逆上した山下も負けじと打つ、凄まじい拳のやりとりとなった。
「打つだけがコンビニバイトか!?違うだろ!!!ヒロ!!!思い出せ!!!」
「うす!!!」
そう言うと真島は山下に組みついた。両手で山下の身体を抱え込んだ。
「品出しのカートはこの男よりも軽かったか!?」
晴男が叫ぶ
「いえ!!!重かったっす!!!」
真島は山下を持ち上げ、地面に叩きつけた。
格闘技で言うところのテイクダウンである。
落とされた山下は受け身が取れなかった。
地獄の苦しみが訪れる。背中から着いた火が全身に回る。しかし、肺の空気が口から吐き出され、しかし、吸うこともできず、呼吸もできず、声を上がることができない。
「投げた後はどうするんだ!?極めろ!!!ヒロ!!!ゴミ出しはどうするんだ!?」
また晴男の怒号が飛ぶ。
「ゴミ袋の口をしっかりと縛ります!!!」
真島の腕が山下の襟に絡みつく、両手で力いっぱい襟を左右に交差させ、山下の首を締め付けた。柔道の送襟絞の変形型のように見える。
程なくして、山下の黒目が裏返った。落ちたのである。
「見事…お前は自分でも気がつかないうちにコンビニ総合格闘技の基礎を学んでいたのだ」
晴男が拍手をしながら立ち上がる。
コンビニバイトはアルバイトの中でも難度が低いと見られがちだが、それは大きな間違いである。やるべきこと、覚えることがとにかく多い、その中には打撃の業務もある、投げの業務もある、極めの業務もある。それを1日8時間こなすのである。その為、コンビニでアルバイトをしているうちに全身筋肉ムキムキになった。喧嘩で無敗になった、と言うのはよくある話なのである。
事実、あの神の子某山本氏も修行の為、コンビニで働いていたのは有名な話である(嘘です)
晴男が近づく、しかし、真島は動かない。
「ヒロ…」
晴男が声をかける、と同時に真島はその拳を気を失った山下の顔に打ち付けた。
何度も何度も打ち付け、みるみるうちに山下の顔が血に塗れていく。
晴男が真島を羽交い締めにして止める
「ヒロ!!!やめろ!!!殺すきか!!!」
真島は何故山下が自分を殴る時笑っていたのか、今ようやく理解した。楽しいのだ。自らの力で人1人を破壊する。この黒い愉悦は甘美な蜜の味がした。
暴力とはかくも楽しいものなのか、自らの血と山下の血に染まったその顔には笑顔が張り付いていた。