第四十四話 「本郷太郎」
本郷太郎が大口を開けて、矢吹晴男へと歩みを進める。ベッドの上で晴男は寝息を立てている。
本郷太郎は12歳まで小さなとたん小屋で育った。
父と母と本郷太郎なら三人暮らしであった。
本郷太郎の記憶の中の父はいつも怒っていた。怒って本郷太郎を殴るのだ。些細なことで殴られた。崩れかけのとたん小屋故、歩くとひどく軋む。軋む音を立てると父は本郷太郎を殴った。殴られて泣くと「うるさい」と更に殴られた。
母は父を恐れて本郷太郎を救うことはなく、ただ、ひたすら怯えた目で父を眺めるのみであった。
本郷太郎は父から殴られるのが嬉しかった。父なりのしつけなのだと解釈していた。父が自分を見ててくれている。父は自分を愛してくれているが故殴るのだ。
幼い本郷太郎は本当にそう信じていた。信じないと生きていけなかったのだ。
本郷太郎が一番怖かったのが無視である。ないものとして扱われるのが一番堪えた。
時折、父は本郷太郎をないものとして扱った。徹底的に無視をするのだ。なぜそんなことをしていたのか、本郷太郎は未だに理解できない。恐らく深い理由もないのだろう。
そう言う時はワザと床を軋ませて歩く、食べ物をワザとこぼす。そうすると父は烈火の如く怒り、本郷太郎の顔が腫れ上がるまで殴るのだった。そうなると本郷太郎は安心した。
小学校に入学する頃には本郷太郎はいつも笑みを浮かべていた。
なぜ笑みを浮かべるのか、本人にもわからなかった。ただ、こびりついた泥のように笑みが本郷太郎の顔に張り付いてしまったのだった。
その頃の本郷太郎はガリガリで身長も110センチ程しかなかった。明らかな栄養失調である。
貧乏で、チビで、ボロボロの服を着て、いつも笑っている本郷太郎はすぐにイジメの対象になった。
最初は靴を取られたり、物を隠される程度だったが、日増しにエスカレートしていった。
本郷太郎は学校でも級友達に殴られるのようになっていった。
それでも本郷太郎はうれしかった。殴られる意外のコミュニケーションを知らないのだ。
家で殴られ、学校でも殴られる、そんな生活が小学校卒業まで続いた。
事件が起こったのは本郷太郎が中学2年生の頃だった。
中学校に入ってもあいも変わらずいじめられていた本郷太郎はそれでもその生活に満足していた。
本郷太郎は中2にも関わらず、身長は140センチ、体はガリガリだった。
家庭環境に問題があるのは明らかであったが、教師は見て見ぬ振りをした。
それは本郷太郎の父が指定暴力団の構成員の一人だったからに他ならない。
下手に家庭に首を突っ込むことはない。本郷太郎と言う生徒はいないものとして扱えば万事上手くいくのだ。
いじめっ子達も本郷太郎に手を出さなくなった。気味悪がり始めたのだ。
どれだけ殴られても笑い続ける頭のおかしいやつ。そう思ったのだ。
自然と誰も本郷太郎に近づかなくなった。
本郷太郎は級友にも教師にも話しかけられず、クラスでいないものとして扱われ始めた。
これに本郷太郎は我慢できなかった。
殴るのはみんな僕のことを好きだからだ。
だから、耐えられるし、耐えてきた。それなのに無視は酷い…酷い…酷い…酷い…酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い酷い
本郷太郎の母の元に、本郷太郎がクラスメイトの指を噛みちぎったと言う連絡が届いた。
母はクラスメイトの親の前で平謝りをした。
本郷太郎はそれでも尚ずっと笑っていた。
母と共に家に帰ると父が居間で待っていた。
本郷太郎を見るや否や、父は本郷太郎をぶん殴った。ぶん殴られて床に倒れ込んだ。
「面倒ごとを起こすな!!サンドバック」
頭上で父の叫び声が聞こえた。
「え…父さん、サンドバックて…?」
本郷太郎は父に対して生まれて初めて「ごめんなさい」意外の言葉を発した。
それを聞いて父は幾分か驚いているみたいだった。
「サンドバックはサンドバックだよ、お前は俺のストレス解消マシーンなんだよ」
本郷太郎は呆然とした。床に倒れ込んだものだから、目の前には父の足元が見える。
僕は愛されていなかった。誰からも。
本郷太郎は愛おしそうに自分の唇を父の脛に当てた。
最初、父は本郷太郎が何をしているのか分からなかった。次の瞬間には、頭を自分の足元に燃えるような激痛が走った。
息子が父のことを見上げる。その唇は血に濡れていて、顔には気味の悪い笑顔が張り付いていた。口の中から抉り取った肉が見える。
父は叫び尻餅をついた。大声で本郷太郎を罵倒しているようだったが、本郷太郎には聞こえなかった。本郷太郎は立ち上がると父の首筋に唇をつけた。
「父さん、お腹が減っているんだ」
その翌日から本郷太郎の父はいなくなった。
代りに、本郷太郎の血色は良くなり、身長は飛躍的に伸びた。
あの頃と同じなのだ、父と同じようにこの矢吹晴男と言う男を消せばいいのだ。
本郷太郎が矢吹晴男の首筋に歯を立てようとした時、パッと矢吹晴男の目が開いた。
「本郷太郎…三位決定戦始めようか」
自身の後頭部に衝撃が走った。
後頭部をぶん殴られたのだ。誰に!?どうして!?もう一人いる!?
衝撃と頭で床に倒れ込む本郷太郎、倒れた体を無理やり起き上がらせてまた殴られた。
矢吹晴男が寝るベッドの隣のベッドに吹き飛ばされる。
本郷太郎に鉄拳を喰らわせた男は本郷太郎を睨みつけ、そこに立っていた。
原龍徳である。
「ラウンド2も同時開催だ馬鹿野郎」
原はそう呟いた。




