第二話 「武芸百般」
満月が夜を照らしていた。
その光をかき消す様に、繁華街にはネオンがともり、道行く人々は皆その頬を赤く染め歩いていた。
繁華街から少し離れた橋の上、矢吹晴男は泣いていた。片手には酒瓶を握りしめ、欄干を握りしめて泣いた。
悔しかった。悲しかった。自分という人間が情けなかった。
剛田と言うあの男に俺は心を支配されてしまっている。誰かに屈服すると言うのは耐え難い屈辱だった。
それでもこの仕事を頑張っていこうと思っていた。しかし、それも、もう限界だ。
耐えて耐えて耐えてきた晴男の体から気力が漏れ出てしまい、何もかもどうでも良くなった。
そして、涙ばかりが出た。
酒瓶を傾けて煽る。ドバドバと口の中に酒を流し込む。
勢いで欄干を跨ぎ、橋から身を乗り出した。
あと、もう少し前に行けば楽になれる。
消して橋と川との距離は離れていなかった。
落ちた衝撃で死ぬことはないだろう。しかし、水深が深いことを晴男は知っていた。
この川は底が見えないほど深い、先日の雨のせいで水嵩が増しているのだ。
いざ、見下ろし、川を見ると足がすくんだ。
なんだ。俺はこの期に及んで、立ち向かうことにも恐れ、逃げることからも恐れるのか。
なんなのだ俺は、酒瓶をまた煽る。そのまま、川に瓶を投げ捨てた。
「やってやる。やってやるぞ…」
そう呟き、目を閉じた。既に酔いで足元がふらつき、頭はクラクラとしていた。やってやる。そう思って足を一歩踏み出した。
体が宙に浮いた。
死ぬ…
そう思った。
しかし、死ななかった。身体が宙に浮いているからだ。
とてつもなく強い力で襟首を掴まれ、宙ぶらりんになっていたのだった。
宙ぶらりんのまま、なんとか振り返る。
そこには黒い男が立っていた。
黒いシャツに黒いズボン、黒い癖のない髪を耳元まで垂らし、目は剃刀で横には線を入れた様に細かった。浅黒い肌は鉄の様だ。
異様な男だった。その男が無表情でこちらを見ている。
と、男がぐいと腕を引き、晴男を欄干のこちら側に引っ張り上げた。
「気持ちよく酔った帰りに、人に死なれちゃ寝つきが悪くなるからな、勝手だが止めさせてもらった」
「あ、あなたは?」
「加賀八明だ」
男は歩き去ろうとした。
「まっ、待ってください」
晴男はすがるようにその後ろを追った。
晴男と加賀は夜の公園にいた。
繁華街の近く、電灯すらない、暗い公園だった。そこで買ってきた酒を2人で酌み交わしていた。
晴男は自身の身の上を加賀に語っていた。
自分が会社でいじめられていること、そして自分がもう限界であること。
「なぜ、お前が虐げられているか分かるか?」
全てを聴き終えた後、加賀は晴男に問いかけた。
「要領が悪いから…でしょうか?」
加賀は笑った。口元だけつり上がり、目は笑っていなかった。不気味な笑いだった。
「違う、弱いからだ」
「それは、心がと言うことでしょうか?」
「違う、体がだ。お前がいいようにされているのは、お前には牙がない、牙がない人間は怖くない」
そう言って酒を口に運ぶ加賀の腕は丸太のように太かった。
「加賀さんは何か格闘技でもされてるんですか?」
晴男がそう問いかけるのも無理はなかった。痩せているとはいえ、男1人を腕の力だけで持ち上げるのは相当な力がいる。
「格闘技か…」
そう言って加賀は遠い目をした。
「俺は武芸百般に通じている。全ての武芸に精通している」
そう言ってのけた。言葉にすれば簡単だが、それは生半なことではない。
武芸百般、つまり、全ての格闘技に精通していると言うことだ。全ての武芸を納める。
馬鹿げた話である。が、この屈強な男が言うと真実のように聞こえる。
「お前が思っている以上に武芸の道は深い。そして、お前が思っている以上にこの世の男たちは武芸に精通している。牙を磨いているのだ。俺が聞いたところ、お前の上司も武芸に精通している様だな」
「はい、確か、昔、空手をやっていたと聞いたことがあります」
「いや、俺が聞いたところ、その男は『パワハラレスリング』の使い手だな」
「え、空手をやっていると聴きましたが」
「パワハラレスリングは鋭い言葉のタックルで心を崩した後、長い時間をかけて身も心も締め上げる。暗黒武術だ。お前も一筋縄ではいかない男に目をつけられたな」
「だから、空手を」
「あれを見ろ」
晴男が言い切る前に加賀はそう言い、公園の片隅にいる男を指さした。
その男はホームレスのようであった。
垢に塗れた服を着て、顔は白髪と白い髭がまとわりつき、表情が読めない。男は一升瓶を片手にベンチに座っていた。
その男の周りを犬がうろついている。
男の周りを歩き回り、時折唸っている。
ワン!!!犬が吠えた。
その時、男の一升瓶が宙を切り、犬の脳天に振り下ろされた。
「うるせえぞ!!!犬畜生!!!」
男の叫びが公園に響く。
「あれは示現流の剣の使い手だな」
「どう見てもホームレスですよ」
「示現流は一太刀に全てをかける。一太刀がかわされた時の事は考えない。幕末、土佐藩士が好んで学んだ流派だ」
「どう見てもホームレスですよ!?」
晴男の声を無視し、加賀は酒を口に運んだ。
すると、わらわらと数人の男たちが公園に入ってきた。
どの男も若い、異様に若い、おそらく中学生くらいだろう、学ランを着込んでいる。彼らはホームレスの男を見つけると、輪になって男を囲んだ。
「くせぇ」
「こいつホームレスじゃねえの?」
「やっちゃえよ」
「害虫駆除だべ」
口々に汚い言葉を並べている。
「加賀さん!!!大変だ!!!ホームレス狩りですよ!!!」
「違う、あれは天然理心流の剣士たちだな。新撰組の使った流派だ。あのように示現流には複数で立ち向かうのがセオリー だ」
「加賀さん!!!そう言うのはいいから、あのおじさんやられますよ!!!俺、警察呼びます」
晴男が携帯を取り出すと、加賀はその携帯を無理やりぶんどった。
「何するんですか!?」
「お前に対新選組、もとい、対天然理心流、もとい、対中学生流の剣術…『一刀スマホ流』を教えてやる」
中学生らしき集団はホームレスを取り囲み、男の顔に拳を打ち込み始めた。
「うげ、こいつの顔汚え!!!手が汚れちまったよ」
「どうしてくれんだよおっさん!!!」
中学生達が男に加える暴力が激しさを増す。
男はたまらず、身を丸めて地面に突っ伏してひたすら耐えていた。
加賀はスマホを両手で握り、腰の位置まで手を下げた。まるで、剣のつかを握るようだった。
次の瞬間、加賀の体が、音もなく、動いた。
凄まじい足捌きであった。
加賀は中学生との間合いを一気に詰めたが、加賀の足音がなく、中学生達は気がついていないようだった。
加賀が中学生の真後ろに立った時、ようやく中学生の1人が加賀に気がついた。
「なんだ!?おっさん!?」
中学生が皆加賀の方を見る。
すると加賀は手に持ったスマホを掲げた。
スマホのライトが光る。
中学生達は突然の強い光に皆、顔を両手で覆った。
尚も加賀はスマホを掲げたまま、横に前に後ろにと動き回った。
「なんだよ!?おっさん!!!」
光に目が慣れたのだろう、中学生達は挑むように加賀に詰め寄った。
しかし、加賀は中学生のことなどまるで見えていないように、スマホを人差し指で操作し始めた。
恐ろしい速度だった。人差し指の動きは目で追えるスピードを軽々と超えていた。
「Tweet…と…」
加賀がそう言う
「今、何した!?おっさん!?」
中学生が叫ぶ。
「お前らの暴力行為を全てTweetしておいた。
俺のフォロワー6300人のアカウント『ハッチャン*喧嘩凸垢』でな…」
そう言うと、スマホの画面を中学生達に掲げて見せた。
『⚪︎×区の〇〇公園で中学生??がおじさんをリンチしてた!マヂ許せんのだけど!!!こいつら知ってる人いたら教えて!!!拡散希望!!!』
その文章の下には中学生達の顔がくっきりと分り、また倒れたホームレスの姿もおさめられた写真が並んでいた。
「おい、おっさん!!!何してくれたんだよ!?」
中学生の1人が加賀に詰め寄ろうとする。
加賀の腕が跳ね上がった。
中学生の顔に加賀の拳がめり込む。
「しゃらくせー!!!」
中学生の顔面から血が吹き出した。
加賀が叫ぶ。それは人の声と言うよりも獣の雄叫びに近かった。
「逃げろ!!!逃げろ!!!」
中学生達は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「すごい…」
晴男は感嘆の声を上げた。
中学生とはいえ、5.6人いた。それを加賀は赤子の手を捻るように打ち負かしたのだ。
気がつけば、晴男は膝をついて、加賀の前に座り込んでいた。
「俺を俺を弟子にしてください」
晴男は土下座して叫んだ。
「お前に牙を授けてやろう…入会費は20万円だ」
「お金取るんですか?」
「当たり前だ」
ここに師弟関係が結ばれたのであった。




