第十三話 「サンボマスター」
大衆居酒屋であった。
とにかく安い早いがモットーのこの店は大学生でごった返してた。
1人の男がカウンターで1人酒を飲んでいた。
小柄で少し肥満体の男であった。
短髪で眼鏡をかけている。
おおよそ女にモテると言った風体ではない。
しかし、その男の周囲だけ温度が1.2度熱くなっている。それはこの男の秘めたる熱量が原因である。
「なんだとオラァ」
男の声が居酒屋に響く。
見ると、座敷席で飲んでいた男が隣の席の女達を怒鳴っている。プロレスラーの様な恰幅のいい男であった。
男の怒鳴り声が尚も響く。内容から察するに、女をナンパしたはいいものの、相手にされなかった男が逆上して暴れている。そう言ったものであった。
この男、酒に酔いすぎているように見える。
呂律が回らず、あたりのモノを蹴り飛ばしながら女達に詰め寄っている。
女達は涙を流し、うずくまることしかできない。
「お客さん困りま」
店員が止めに入ったが、最後まで言い切る前に男に殴り飛ばされてしまった。
こうなるとタチが悪い。
その場にいる人間は見て見ぬフリを決め込んでしまった。
騒ぎに巻き込まれて怪我でもしたらたまったもんじゃない。店員の誰かが止めるだろう、止めなくとも誰かが警察を呼ぶだろう。
そんなことを考えているのである。
しかし、誰かが止めに入るまでの間に女達が危害を加えられたら一体どうするのだ。
どうもしない、傷つきもしない。本人達は気がつかないが、傍観者であると決めた人間の冷酷さたるや異常である。
「ちょっと、あの、そこの、いいですか??」
先ほどまで1人で飲んでいた小太りの男がいつのまにか座敷に上がり、男と女達の間に立っていた。
「あのね、俺はね、これどうなんのかな?って思いながら見てたのよ、でね、誰もね、立ち上がらないわけよ、信じらんないの俺は、こんなね、世の中でね、愛と平和とか言えねえわけ、俺は」
穏やかだが、熱っぽい、しかし、心の奥底に響く。そんな声だった。
「何言ってるかわかんねえぞ!!!」
男が小太りの男の顔に拳を入れる。
しかし、小太りの男は倒れない。それどころか、身動き一つすらしなかった。
「あのね、あんたがね、どう言う人生をね、歩んできたかとかね、俺は知らねえわけ、でもね、俺はね、許せねえわけ、でも、もっと許せねえのはね、後ろで知らん顔してる奴らなわけ、後ろまで俺の声聞こえてるかー!!!」
小太りの男が叫ぶ。
熱い、魂を直にぶつけられた、生身の心臓の熱を全身にぶっかけられた、そんな声だった。
「いい加減にしろよ馬鹿野郎」
「女の子虐めてんじゃねえぞ」
「金払って帰れクソやろう、俺も戦うぞ」
小太りの男の異様な熱量とカリスマ性に当てられた客達から声が上がる。
彼らは傍観者でいることを今やめたのである。
「今からね、俺はね、こいつと戦うけど、それはね、それはどこかの誰かの為に戦うわけじゃないんですよ、今日、ここに来てる人たちの為に俺は戦うわけですよ!!!できっこないをやらなくちゃダメなんですよ!!!あんたらいけますかー!!!」
おおおおおお!!!地響きの様な歓声が店に響く。
小太りの男の声に客全員が答えたのである。
「俺がね、俺がなんでこんなこと言うかって言うとね、明日からもね、みんなで気持ちいい日々を送りたいわけですよ、それがね、それが」
「美しき人間の日々なわけですよ」
ウォオオオ!!!最早そこに傍観者はいなかった。皆、この小太りの男に想いを乗せ、そして、この小太りの男は皆の声援をその身体に乗せ戦うのである。
「さっきからごちゃごちゃうるせえんだよ!!!」
男の拳が小太りの男に向かって走る。
拳は小太りの男の顔があるべき空間を通過した。
小太りの男は身を低くし、躱していたのである。
そのまま電光石火の勢いで男の腰にタックルを入れた。
男はたまらず床に転がる。
次の瞬間には男の腕は小太りの男の足と腕で完璧に押さえ込まれていた。
腕ひしぎ十字固めの体勢である。
恐ろしく早い関節技であった。
「本当はね、腕なんておりたくないんですよ、今日、ここで暴れたあんたとも俺はいつか酒飲んで笑い合いたいのよ。でもね、だからこそ、本当に反省してほしいのよ、これがね、これが、僕なりの、そう、名付けるなら、ぬくもりという名の獣道なわけですよ」
小太りの男はそう言い終えると同時に、男の腕をへし折った。
歓声が上がる。小太りの男は恥ずかしそうに手を振り声援に答えた。
この男、ロシア柔術であるサンボを使ったのである。
サンボはレスリングと柔道が合わさった、ロシアの格闘技である。
並大抵の使い手ではこうも鮮やかに極めることはできない。
この男、サンボ国際大会優勝経験を持つ、日系ロシア人、山口・ヴィクトロヴィッチ・タッカーシー、別名、サンボ⭐︎マスターと言われている男であった。




