(三)『第八席次』の真価
時を少し遡る――
鬼灯達が任務への本格的な取り組みを明日からと決めて、今日のところは宿へ戻ろうと『協会』の建物を後にしたところで、見覚えのある者とばったり出くわした。
「おや? 貴方は――」
「捨丸にございます、鬼灯殿」
どこぞで衣類を替えたのか、思わず見過ごしかねないほど周囲に馴染む出で立ちで、『陰師』のひとりが二人にしか聞こえぬ声で話しかけてくる。
「お二人に、急ぎ報せたき事が」
「ふむ?」
「すみませんが案内します故、先を急ぎながらでお許し願いたく」
少し早口で切迫感を醸し出す『陰師』へ「構いませんとも」と応じて鬼灯達が歩み出す。それへ一瞬の遅れもなく歩き始めた捨丸が三歩先を先導する。
いつの間に踵を返したか、気取らせぬ体術の妙をさりげなく見せながら。
「実は、秋水様の命で先ほどの者を尾けておりました」
互いに前を向きながら、まるで対面してるかのごとく耳に届く捨丸の声を不思議がるとこもなく、鬼灯は言葉少なに話しの先を促す。
「……それで?」
「その者の仲間を含めた四名が、この先の路地裏にて落ち合い、密談をはじめたところで新手が現れまして」
「争いがはじまった、と」
先を読んだ鬼灯に「いえ」と捨丸は否定する。
「正しくは、気付かれぬように取り囲みはじめたところで。程なく接触するものかと」
「別にそのまま静観すべきとも思いますが」
腑に落ちぬ鬼灯に捨丸も同意を示し、それ自体はあくまで二人を呼びに戻る好機と捉えただけであり、争いの抑止を請うているわけではないと付け加える。
「ただし、必要ならばそれもありかと申されまして」
「秋水殿が?」
「はい」
そこで鬼灯と扇間が顔を見合わせるのを背中越しにどう気付いたのか、「ここで恩を売るなり、繋がりを深めておけば、例の男から面白い情報が引き出せるのでは、とも」捨丸がさらに補足する。
「どうするかは任せると仰られておりました」
「なるほど。見知った仲である扇間さんが助ければより効果的であろうと……我らを呼び寄せる意図は分かりましたが、そもそもそんなことをするのはどうなのでしょうね?」
鬼灯が直接の介入に躊躇いを見せるのへ、「お二人ならば構わないだろうと」秋水の言葉で捨丸が後押しする。
「自分達が“影”の役目を負えば良いとの考えで」
「ふむ。我らに“目立つな”は無理と判断されたか」
「そこに当然のように某が含まれているのが解せないね」
素直に受け入れる鬼灯に対し、不平をこぼす扇間だが、“役割分担”については、奇しくも“トッドと決めた方針”と整合する考えだけに異論はないようだ。
それ以前に、扇間と小男とのやりとりを秋水たちがなぜ知っているかなど、色々と質さねばならぬ点があるはずを、二人が気にする様子はない。むしろ扇間などは別の点に引っ掛かりを覚えたようだ。
「“敵”かもしれぬ者を救う、ね……」
「そのまた敵も現れましたから、いやはや何とも賑やかなことで」
「まあ、武士だって“跡目争い”は色々あるからね。そういうものといえば、そういうものなんでしょ」
そう自分達なりに理解しながら、目の前の事案に意識を向ける。
「助けるにしても、その者が窮地に立たされてないと効果はありません。つまりはその場の流れ次第になりますか」
「……それと、助けるのは某ひとりに任せてくれないかな」
「もちろん、それが一番なのでしょうが……まずは状況を見て考えましょう」
しごく妥当な鬼灯の見解を、だが扇間は「大丈夫」と撥ね付ける。相棒の珍しい強気な姿勢に鬼灯が顔を横向けた。
「この地に住む者達を、我らはよく知らないのですよ?」
「うん」
「例えば、老婆が“すきる”なる妖異の剣術を振るい、幼子が呪術の如き“せいれい術”を浴びせてくるかもしれません」
「そうだね」
「他にも『荒事師』なる強者もいるだとか……もしやすれば、そのような者も出てくる懸念を持つべきとは思いませんか?」
「うん、まあ……確かに」
「それでも一人で相対すると……?」
鬼灯の口調に責める姿勢はない。ただ真摯に己の意見を伝え、相手の意図を汲み取ろうとしているだけである。それが分かるからこそ、扇間も「異論はない」と気持ちを込めて見返すのだ。
ただ――と。
困難であればあるほどに、それも相手が難敵かもしれぬと知らしめられればなおさら――普段は己の内にて鎮められているものが、波打ちはじめてしまうのだ。
それは“武”を習熟するほどに、己の中で強まるもの。
故に自然と口元を綻ばせながら、絶体の自負を込めて扇間は告げる。
「これでも『第八席次』でね――」
振るうが定めの“武”だ。
ぶつけ合って初めて感じれる“己の武”だ。
それも祖父が成し得なかった扇間流を世に知らしめるため、骨肉を削り、磨き上げた技の数々は、いくつもの戦場で扇間や味方を救い、敵の首級を挙げることでその実力を示してきたものだ。
そうして辿り着いたのが『第八席次』の座。
すきる?
せいれい術?
荒事師?
いかなる技や敵であろうとも、勝ることはあっても劣ることなどありはしない。
まして多対一なら、我が手裏剣術の見せどころ。
今やその黒き双瞳に揺らめく闘志の炎を見て取った鬼灯は、それでも何かの心情を表に出すことなく、さらりと謝意を述べるのみ。
「――失礼。普段の貴方を見てると、武辺者であることを忘れてしまうもので」
「いや応援してよ」
平然と水を差す相棒に扇間は言葉ほど憤ることなく苦笑を浮かべる。「今回は退屈しそうです」と呟く鬼灯に胸内で感謝しながら。
もちろん、強引な行動であることに自覚はある。その理由の一端に、一度言葉を交わしただけの小男が絡んでいるとまでは当人も分かっていないが。
少なくとも扇間の胸にあるのは、“ある種の縁を持ったという感じもなくはない”という程度。
だから微妙な己の心持ちを扇間は憮然と言葉にしたのだろう。
「……奢られたのが、意外と高くつきそうだね」
*****
現在
公都キルグスタン
いずこかの路地裏――
通りから枝道へ入ったところで、扇間が予定通りに案内役の捨丸と相棒の鬼灯を後に残し、ひとり先行することとした。おおよその位置は捨丸から聞いているため、迷う心配はしていない。
故に、丁字路の角で壁にもたれ掛かっている男を目に留めた時、扇間はそこが当たりと確信した。
「待て」と制止する見張り役の顎先を手早く拳で弾いて意識を刈り取り、路地の端にて奥を窺えば、果たして、陽のあたらぬ地べたに倒れた数名と誰かを取り押さえているらしい一群の姿を目にすることとなる。
問題は、すでに争いの大勢が決していた点と相手の仕打ちが憤りを覚えるほどに陰惨だった点か。
扇間の認識できる限りでは、おそらく事切れているだろう者の中に小男らしき姿はなく、そうなれば悪質な制裁を加えられそうになっている者が――ということになる。
そう判断したときには、すでに扇間の腹は定まっていた。
「この人数差でその態度……愚かでないと云うのなら、援軍の当てでも?」
互いに二、三の言葉を交わした後、もはやどちらが先手をとってもおかしくない状況となった中、冷静に探りを入れてくるぼろ切れ覆面に、「さてね」と扇間がはぐらかす。
「まあ、いたとしても必要を感じないけど」
さらりと告げるその言葉が、明らかな挑発と知っても「そうですか」とぼろ切れ覆面はやけに淡々と受け止めた。
いや、そう見えただけだ。
「ジュッダ」
「へい」
「レイゾルに“貸しを今すぐ返せ”と伝えなさい」
「はい?」
「……“人手がほしい”と云ってるんだよ」
ぴんときてない手下の愚鈍さに、ぼろ切れ覆面が低い声に怒気を押し込めて狙いを説く。
「俺のやり方を忘れたか? 今の人数を倍にして、あの若造を後悔させ、苦痛で悶えさせてやるんだよっ。分かったら、さっさと行け!!」
「は、はひっ」
まるで仮面が剥がれ落ちたような変質振りに、血相を変えたジュッダが悲鳴のごとき返事を洩らして走り出す。
その様子を見ていた扇間だけが、嫌そうに口元を歪めてため息を吐いた。
「……参ったね」
「そうですか? “まだまだ足りない”と顔に書いてありますが」
言葉遣いを戻しても、明らかにこれまでと違った陰を含んだ低い声質に、敵対する扇間よりも味方であるはずの手下達の方が恐れ慄き表情を一変させる。
追い詰められた獣のごとき形相に。
それは自分達でさえ下手を打ったらどうなるか、身に染みているが故の反応であると、扇間にも容易く感じられるもの。
どうやら踏んではいけない凶獣の尾を扇間はしっかり踏み抜いてしまったらしい。
じわり、と。
ぼろ切れ覆面の身から陰湿で嫌な気配が滲み出し、それが周囲にいる手下達に纏わりつく。
無論、本当に見えるわけではない。
ただ、気配なぞ目にすることはできなくとも、手下達が感じる怖気は確かなものだ。
事実、何名かが額にその頬に冷や汗を浮かべるのを扇間だけが気付く中、粘りけのある気配と同じ陰湿な声が、奇妙なほどはっきりとその場にいる全員の耳に洩れなく届く。
「分かってますね――お前達」
ぼろ切れ覆面の台詞はもはや蛇足でしかなかったろう。
ザザ――――ッ
背にのしかかる重圧に耐えられなかったか、手に手に殺しの道具を携えて、誰ともなしに手下達が一斉に動き出す。
対する扇間はどうしたか――。
右へ左へと留まることなく小刻みにその位置取りを変えるのは、迫り来る手下達の身体に遮られ、一瞬でも、ぼろ切れ覆面の挙動を見逃すことを避けるため。
この異様な状況にも呑まれることなく、扇間が敵と見なすは、ただ一人。
「くあっ」
直近の手下がナイフを振るうのを、ぼろ切れ覆面から視線を外すことなく扇間は一歩だけ下がって回避した。
すぐに横から躍りかかってきた別の手下の小剣を手首のところで片手受けし、間髪入れずに空いてる拳を『一本拳』――中指がわずかに突き出る感じに握り込む技法で、鳩尾に叩き込む。そこへ――。
「……っ」
「!」
相手を一撃で悶絶させた刹那、唐突に扇間の頭が後ろへのけぞっていた。
(――奴も?!)
それがぼろ切れ覆面の手元から放たれた“見えない凶器”を回避するための行動だと知っているのは互いのみ。
さらなる追い打ちを想定し、扇間が咄嗟に悶絶している手下の腕を掴んで引き寄せ、“肉の壁”にすれば、そこへ第二第三の攻撃が立て続けに撃ち込まれていた。
「……っ、……!!」
「お構いなしかよっ」
びくびくと震える手下から伝わる苦悶の感触を扇間は苦々しく思うのと同時に、躊躇いなく殺傷目的の攻撃を叩きつけてくるぼろ切れ覆面の狂気とその冷淡さに、怒りよりも薄ら寒いものを感じる。
確かに有効な手段であったろう。
少しでも扇間の動きを鈍らせれば、射殺可能な戦力をぼろ切れ覆面は有している。だがだからといって、これほど簡単に他者の命を使い捨てにできるものなのか?
それも裏びれているとはいえ、まがりなりにも公都のど真ん中で殺し合いをはじめるなど。
まるで何かの感情が欠落しているとしか思えぬ冷酷な所業に、思うところがあろうとも、扇間が気後れすることなぞありはしない。
こちらもまた、戦場で揉まれた修羅の一人。
あしらう術は持っている。
「ま、手伝ってもらえるなら利用しない手はない」
平然とそう告げれば、“肉の壁”を手放して、扇間は巧みな位置取りで次々と手下共を凶器の射線上に誘い込む。
敵に敵を葬らせるために。
当然、その狙いをすぐに気付いたであろうぼろ切れ覆面は、しかし、手下を退がらせるどころか逆に脅しをかけて、さらに攻撃の圧力を高めてきた。
「退がるな、組み付けっ。――お前らも剥がされたいのか?」
「「ぅ……おおおあ!!!!!」」」
「――っちい」
もはやなりふり構わず、必死の形相で跳びかかってきた二人に、扇間が両手を振るって次の瞬間、彼らの眉間に鈍色の手裏剣が突き立てられる。
「?」
ぼろ切れ覆面の側からは何が起きたかは視認できず、ただ二人同時に倒れた光景に明らかな動揺を示す。
特にこれまで体術のみで相対してきただけに、なおさら扇間が飛び道具を駆使したなど想像もできやしまい。
それに対して、何度も飛来する“不可視の凶器”を目にする機会を得ていた扇間は、その技の正体をすでに看破していた。
「『弾き』か――そんなものが武器になるなんて思わなかったよ」
「……!」
扇間の思わぬ感想に、虚を突かれたようにぼろ切れ覆面の動きがぴたりと止められる。その感想が的を得ているからこそ、相手は思わず攻撃すら忘れて、扇間をまじまじと見入ってしまったのだろう。
いや事実、これまで対戦中に見破った者は彼を含めて三人しかいない。
『指弾』――
公国だけでなく周辺五国を含めても、同様の技を駆使する遣い手を耳にした者はおらず、それには必然的な理由がある。
ひとつは四肢を鍛え駆使するならば、直接攻撃による体術に重きを置くのがごく自然な発想であったこと。
もうひとつは飛び道具ならば、飛ばす道具を使った方が射程も威力も有利だからという、実に単純な二点が大陸における一般的な考えであったためだ。
だが、ぼろ切れ覆面は“生まれ持った才能”を切っ掛けとして、体術や飛び道具でもない三つ目の手法に新しい可能性を見出した。
それは体術の習得過程で鍛錬された強靱な指力を用いることで、小石などを弾き飛ばす原始的な小技を主役級にまで向上させたもの。
無論、高名な戦闘士ほど眉をひそめたくなる話しには違いない。
古今東西、砂利を蹴飛ばし、砂を撒き、唾を飛ばすのは喧嘩殺法であって武術の技法として認められるものでなく、わざわざ学ぶ対象ともされていないのだから。
少なくとも、あらゆる武術に潜在的に共通する“一撃必殺”の理想を追い求める技の構成に、小手先のまやかしにすぎぬ手法が“技”として仲間入りすることなどできようはずもなく。
しかしそれがもし、“一撃必殺”足り得る威力を宿すなら――近距離で茶を濁す程度の効果しかないその脆弱振りを、指力に特化した『異能』と過酷な鍛錬とを重ねることで飛躍的に威力を殺傷レベルにまで、射程を実践的なレベルにまで高め伸ばすことができたならば――。
想像すれば分かるはずだ。
どこでも手に入る小石等を尽きることのない矢弾として使い、十分な射程と威力を持った攻撃を、容易に視認できぬ速さで叩きつけてくる敵がどれほど恐ろしい相手かを。
路地奥でひとり悠然と佇むぼろ切れ覆面こそ、まさにそれを体現する敵なのであった。
「――隠れるものがなくなりましたね」
「それはあんたの方だろ?」
ほとんど自滅するような形で二人の間に誰もいなくなっても、怒りや動揺あるいは焦りなど、ぼろ切れ覆面にいかなる変化も表れることはなかった。
それは己に対する絶体の自信からくるものなのか、あるいはすぐにでも増援が来るという“読み”があるからなのかは分からない。
いや、この場合は明らかに前者だ。
「どちらが不利かはすぐに分かりますよ」
「いいのかい? まだ援軍が見えないようだけど」
揶揄する扇間に「不愉快ですね」とぼろ切れ覆面は苛立ちを含ませる。
「誤解があるようなので云っておきますが」
「誤解?」
「この距離です」
ぼろ切れ覆面が、まるで二人の間に大きな川が流れているがごとく両手で指し示す。
「これは貴方と私の埋めることのできない絶対的な距離――」
詞を口ずさむがごとく。
「すなわち――貴方と私の力の差」
「同感だね」
「……」
「文句がないと云ったんだけど?」
「ここまで愚鈍とは」
あくまで自分が有利と断じる扇間にぼろ切れ覆面が押し殺した怒りで言葉を軋ませる。
「いかな体術とて、この差を一瞬で埋めれるものか。いい加減、分かれよ黒炭がっ」
「?」
黒髪黒目を差してのことだと、さすがに扇間は気付かず思い切り眉をしかめるが、それをわざわざ解説することもなく。
「もういい――増員はお前を苦しめるための演出であって戦力として期待などしていない。はじめからお前如き、眼中にないんだよっ」
「それはよかった」
「あ?」
「確かにこの距離は厄介だからね。ただ、手がないわけじゃない」
そう小首を傾げたところで。
扇間が安堵したぼろ切れ覆面の過信が油断を生み、いつの間に放たれていたのか、飛来する手裏剣の察知を遅らせた。
「! ――くっ」
それでも反射的に放った『指弾』の迎撃が、まだ数歩先のところで銀の凶器を見事に捕捉して弾き飛ばす。
まさに間一髪。
だが次の瞬間、唇を歪めたぼろ切れ覆面の冷笑が驚愕に凍り付く。
「……な、んだと?」
胸に突き立つ見知らぬ鉄の武器を呆然と見つめるぼろ切れ覆面に、「『翳裏』――大した技じゃない」そう扇間は軽く告知する。
だが、投擲した手裏剣の陰に隠すように、もうひとつの手裏剣をわずかの間を空けて疾らせる技法は、云うほど容易いものではない。
それも構える姿勢もとらずに、手首を捻る力だけで、不意打ちで投げること自体がどれほど至難の業であるかなど、ぼろ切れ覆面が理解したかどうか。
いや、『指弾』を編み出すに至る経緯を想像すれば、彼だからこそ、その凄さが理解できるはずであろう。
「名を、聞いておきましょうか」
これまでと違った静かな声。
それは、投擲の妙技だけでなく、すでに扇間が五歩以上の距離を縮めている事実に気付いた上でのものでもある。
いつの間に――
いや、そう驚愕した時点で相手が上と認めたようなもの。それをぼろ切れ覆面自身、気付いてはおらず、むしろ今のを何度も繰り返せるはずがないと“距離の牙城”に絶体の信を置く。
それも当然――距離が縮まるほどに、互いの攻撃に対する体感速度がいや増すものだから。
飛び道具を互いに駆使する戦いで、距離を詰め合うなど自殺行為に他ならない。あくまで戦局を打開するのは技倆と戦術眼が常道なのである。
だのに、それを承知しているはずの扇間は口元に笑みを浮かべ続ける。それをもはや、ぼろ切れ覆面が嘲ることはなかった。
(この男、本気か――)
自信があるというのだ。
距離を詰めるほど速まる凶撃を相手に、もはや一分の隙も互いに見せられぬこの状況にあって、なお前へ進める自信が。
それを支えるのは身体能力か、『異能』かあるいは技なのか――そのいずれであっても。あるいは別の理油であったとしても。
だからこそ、この者の名を聞いておかねばならぬ。
その意気込みが伝わったのか、扇間がようやく名乗りを上げた。
「扇間 藤五郎――」
伏せておくべきかもしれぬ名を告げたのは、この場で斃すという彼ならではの意思表示。少なくとも、まだ相手を斃してないことを扇間はようやく気付いていた。
「鎧か――」
「なにせ小心者ですから」
深手を負ったはずのぼろ切れ覆面が、苦痛に顔を多少は歪めても姿勢を崩さず立ち続ける、それが理由というわけだ。
確かに飛来した速さと胸に突き立つ手裏剣の浅さには違和感がある。それが着込んでいた何か――はっきりと鎖帷子とまでは分からずとも、防がれた事実だけは理解できよう。
「……あと何回で届きますか?」
「試せば分かるさ」
声量を確保する力にも隙が生まれるとでもいうかのように、二人はそろりと囁きあう。
やれば先ほどを上回る体感速度に見舞われる。それが分かるからこそ、二人の間にひりつくような緊張感が張り詰める。
ふいに。
――キ、キッ
――キン
二人の体躯を断面に、わずかの空間で瞬時にいくつもの火花が舞い散った。
それは生と死を分かつ運命の煌めき。
だが二人の明暗を決するまでに至らず、散らされた凶器は地べたに土煙を上げ、木製の壁に穴を穿つか突き刺さるのみ。
「くくっ……これは凄いっ」
「……こっちは嫌な汗が止まらない」
扇間の弱気な台詞を耳にしてもぼろ切れ覆面の唇は裂けたように吊り上がる。
それは、二人の距離がさらに数歩縮まっている事実に気付いたからこそ。
今のわずかなやりとりで。
己の持つ最速で放ち、相手を攻め、あるいは受けるのに神経を削り合う最中。そこに全霊を注ぎ込んでいる最中のどこに、歩を進める余力が絞り出せたというのか?
理解の範疇外の出来事に、胸の奥から震えが来て止まらないっ。
それは恐怖か。
あるいは悦び故のものか。
「私が有利のはず」
「ああ、認めるよ」
ぼろ切れ覆面の云わんとすることを扇間は珍しく茶化すことなく受け止める。相手がはじめて真摯に告げるのを誠意で応じるのが当然とばかりに。
二人が認め合うのは動作の優劣。
その仕組みとして、『指弾』の“弾く”行為より、“投擲”せねばならぬ手裏剣の方が攻撃動作が遅くなるという話しだ。
事実、互いの凶器が激突した位置のほとんどは、中央より扇間側へ寄ったものばかりであり、その威力もまた手裏剣の方が劣っていた。だが、扇間に歩く余裕を与えたもうひとつの事実が、ぼろ切れ覆面の自負を歪ませる。
安堵を許さぬのだ。
「どうしても殺したくなりましたが、でもだからこそ……ひとつよろしいですか」
「なんだい、藪から棒に」
突然の質問に、扇間が怪訝そうに眉をひそめるのをぼろ切れ覆面は構わず問い質す。
「その男とはどのような関係で? 偶然とは思えませんが」
「別に」
大したことでもないと扇間は素っ気なく答える。
「都に初めて来たと云ったら、酒を奢られてね……ただ酒をもらったのはいいが、名前も聞いてないことに気付いてさ」
「それで追いかけてきた?」
馬鹿馬鹿しいと呆れ気味にぼろ切れ覆面が質せば、「ま、そんなところ」と扇間が憮然と頷く。命懸けになるなんて割に合わないと今さらながらに文句を添えて。
「……くくっ。嘘だと云いたいですが、貴方の場合あり得そうで困ります」
「どういう意味だい?」
扇間の仏頂面をおかしそうに笑いながら、ぼろ切れ覆面は「いいでしょう」とその身に張り詰めていた緊張感を霧散させ、殺気もきれいに消し去る。
その予想外の行動に、戸惑い疑る扇間。
「一度だけチャンスを与えましょう」
「ちゃんす?」
「ウチはね……貴方のような“強者”が必要なのですよ。勝つためなら何でもできる強者がね」
その言い回しに早くも忌避感を漂わせる扇間に構わず、ぼろ切れ覆面はさらに奇妙な提案をしてくる。
「その男を連れて行きなさい」
「……いいのかい?」
「そもそも、こちらにとってはどちらでもよい話しですからね」
ならば何のための死闘だったのかと云いたくなるものだが、扇間は黙ってぼろ切れ覆面の真意を探るようにその眼を見つめる。
きれいに殺意が拭い去られ、この辺ではよく見かける碧い瞳からは気になる感情の機微を窺い知ることはできない。
「早く立ち去った方がいいですよ。このまま続けて増援が間に合えば、その男が巻き込まれて死ぬこともあるでしょう」
「……確かにそれでは寝覚めが悪いね」
そこで意を決して扇間が歩き出しても、提案通りにぼろ切れ覆面は見守るのみ。それどころか、近寄りやすいように身を退いて適正な距離を空けてくれる。
「これは“借り”じゃないよ?」
「それより、次に会うまでに決めておきなさい」
本気だからこそ見逃すと。
「断るならそうしなさい。ウチにとっては残念でも、私にはとっては望むところ――再会を楽しみにしてますよ」
そうして実にあっさりと、ぼろ切れ覆面は踵を返して立ち去ってゆく。もう二度と振り向くことはなく。
「……それで、何をしてるんですか?」
しばらくして、喧噪の気配が落ち着いたことを察してやってきた鬼灯に問われると、扇間は横たわる遺骸から身を離して黒い総髪をぼりぼりと掻いた。
「いやあ、それがね」
「間に合いませんでしたか……」
淡々と尋ねる鬼灯に「否」と扇間が言葉を濁す。
「……いないんだよ」
「いない?」
「とりあえずその辺に倒れてるのを検めてみたんだけど、あの人がいなくって……いつからだろ」
肩をすくめる扇間に「凄い命懸けの報酬があったものですね」鬼灯もさらりとした感想を述べる。
「……やっぱり高くついたなぁ」
意外に軽い扇間のぼやきが、路地裏にぽつりとこぼれ落ちた。




