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【幕間二】忌み子の言葉

一方、羽倉城では。

忠臣四人による上申が一段落したものの、彼らの主である弦夜には気にかかることがあった。

上申の際、一言も語ることのなかった『支柱』の一人――その真意とは?


丑の刻

羽倉城『御寝所』――



 悪夢のような“餓鬼騒動”を切り抜けたあと、当主弦矢が真っ先に命じたのは、同様の怪異が城内各所でも起きているのか、安否確認を含めた現状の把握であった。

 各人が務めをこなしながら、血で汚れた者は身なりを清め、再び集ったのは一刻も経たぬ前。


「常より城詰めしている者は元より、同盟軍侵攻の一件で新たに駆けつけた者を含め、城内にいる者全員の無事を確認してございます」


 はじめに報告するのは、家宰として実質的に城内をまとめあげる白髪隻眼の無庵だ。

 初老に相応しき皺の数を、さらに増やした相貌に内心の苦慮を滲ませて、配下を奔走させた成果を手短に総じてみせる。


「さすがに化け物に襲われた話しは我らだけのようで。ほとんどの者が、何も気付かず過ごしておりました。ただ不思議なのは、我らの体験した騒ぎに気付いた者がおらぬということ。いえ、厳密には少数ではありますが、“奇妙な夢を見た”と語る者がおりまして」

「夢……か」


 薄々察したらしい弦矢に無庵は意味深に頷く。


「“獣とすら思えぬ奇っ怪な声を耳にした”というのは、餓鬼共のことかもしれませぬ。耳にした者全員が空耳と思い、念頭から振り払ったのもやむを得ぬこと。目覚めたまま見る夢(・・・・・・・・・)に職務怠慢との叱責を受ける怖れがありますからな。

 他の話しも五十歩百歩――酔いどれが夜道にて目にするそれ(・・)にございます。とは申せ、身に危険が迫る怪事でなかったことを、喜ぶべきかと。

 おかげで城内に混乱は見られず、皆の意識はあくまで対同盟軍戦に向いたまま。正直、今しばらくは、この状態を保つのが上策と存じます」


 情報統制を言に含める無庵に弦矢も「やむなし」と同意する。

 

「この戦時下に、怪談めいた話しをしたところで百害あって一利無し。儂らでさえ、何が起きているのか不明なくらいだ。今少し状況が分かるまでは、伏せておかざるを得まい。ただし――」


 弦矢の視線を受けて、城内警護を司る弦之助が承知とばかり口を開く。


「“庭の件”については『夜廻り衆』に言い含めております。あくまで敵の間者を葬ったまでと。それを理由にして、歩哨と城内巡視の組を増やさせております」


 いまだ寝所前の庭には血生臭い戦いの跡が残っており、身体を細切れにされた骸もあれば、それなりに原形を留めたものもある。じっくり注視すれば、その異形さに気づき不審を抱く者も出て、騒ぎに発展する怖れまであった。

 しかし“間者”と云われれば話は変わる。忍びの者は、他者からすれば一種の“怪人”だ。ならば奇態な存在もいるだろうと、人は安寧を求めて勝手にこじつけ、納得する。それを見越しての弦之助の言であった。


「それともうひとつ。“ふたつの月”については、無庵殿の知恵をお借りして、“今宵は百年に一度の大凶殺なのだ”と“星詠みにそうある”のだと説き伏せております。それ故に、一層気を引き締めろと尻を叩いてやりました」

「大丈夫か? 『大凶殺』を諏訪の凶事と捉え、かえって動揺させるようなことは」

「ありませぬ」


 弦矢の不安を取り越し苦労と弦之助は力強く言い切る。


「亡領の危機と承知すればこそ、むしろ“そうはさせぬ”と息巻いておるほどで」


 そこには侍らしき心情も要因として含まれる。

 これまで居城が敵の脅威にさらされることはなかっただけに、城警護の役に目立った活躍の場が与えられることはなかった。本来であれば窮地がないことを喜ぶべきところだが、戦で華々しい戦歴を重ねる者達を遠巻きにする彼らの身中に、鬱屈した気持ちがなかったと云えば嘘になろう。

 それが今や、諏訪の存亡を賭けた一戦が自分達の肩にのしかかろうとしている――そう感じるほどに発奮せずにはいられないのだ。

 そんな『夜廻り衆』の気概を透かすように、月ノ丞が平静そのものの口調で城内警備についての捕捉を加える。


「念のため、『抜刀隊』の隊員も城内四方に分散させております。明日のことも踏まえ、数は控えておりますが」

「できれば、本格的な戦いが始まるまでは、少しでも休ませてやりたいが……また同じようなことが起こるとも限らん。悪いが、ぬしらにも付き合ってもらう」

「支障はありませぬ」


 当主への気遣いというよりは、ただ事実を口にしたような月ノ丞の返事。


「短眠に慣れることが戦の基本。二刻で熟することを常としております」

「うむ。では、城内警備もこれで憂いはないな。なら、あとは――」


 弦矢の視線が右方へ流れて、再び無庵が己の番と口を開く。


「やはり、外の様子も知りたいところ。それも含めてもう一度、万雷へ伝者を送るべきでしょう。それと『尾口』へも」


 無庵が当主の顔色を窺い、特に異論なしと見るや人を呼びつける。

 万一の危険性を考慮して伝者は二人一組とし、実際に送り出すのは城外本陣、『尾口』の他に城の周囲を探る二組の計四組とした。

 伝者を送る仕事が一段落したところで、弦矢が一時散開を告げる。一夜も経ずして、疲労の色が隠せぬ面々に休息の必要性を感じたからだ。


「あらためて、儂らの出陣は取り消しじゃ。まずは何が起きているのか把握することを先決とする。それまで、各々《おのおの》身体を休めろ」


 無論、自室に戻ったところで、戦に慣れた者達であっても、さすがに気を休めることなどできはしまい。

 同盟軍の侵攻による亡領の危機。

 さらには怪異なる餓鬼共の襲撃。

 何よりも、今なお天夜に浮かぶふたつの月が、()も終わっていない(・・・・・・・・)と弦矢達を嘲笑えば。


「……もしやするとこの戦、長くなるやもしれぬ」


 散開間際の弦矢の呟きを、誰もが頭から離れずにいた。


 ◇◇◇


「――――なぜ、何も仰られぬ」


 散会となってしばらく後。

 当主に呼び止められ、ひとり、御寝所に居残った小柄な影がようやく口を開いた。

 長い年月の経過を感じさせる皺深い声とは裏腹に、言葉は滑らかで歯切れ良く、明晰さに翳りを感じさせることはない。

 齢七十を迎えたと公言したのは、つい一月前のことだ。

 弦矢の父弦九郎に二十年仕え、今なお『諏訪の支柱』として健在なだけに、『諏訪の翁』として頼りにされている面もあり、家中では既に多少のぞんざ(・・・)いな(・・)振る舞いを暗に容認されている節があった。それ故、弦矢の了解も得ずに影――禿頭の古老は勝手に膝を立てた。


「御用なければ、儂はこれにて――」

「なぜ、何も言わぬ」


 立ち去らんとした古老に、返答ではなく、影と同じ問いで弦矢が呼び止めた。

 こちらも片膝立てたところに腕と顎を乗せ、空いた片手に小杯を持つ、およそ当主らしからぬぞんざ(・・・)いな(・・)振る舞いでいるのは、それだけ古老に気を許していることの表れでもある。

 故に、一人勝手に酒をり、多少意地悪げに目元を歪めてもみせる。


「おぬしこそ、皆の前で何も語らなかったのは、なぜだ? のう――無庵・・よ」

「……」


 寝所を訪問してから変わらぬ下座の位置(・・・・・)で、先ほどまで上座にいた初老と同じ名前で呼ばれた古老は、そこで初めて若き当主を真っ向から見つめ返した。

 小粒だが、齢七十を感じさせぬ潤った瞳。

 その物静かな瞳からは何も読み取れず、実際、古老は口を閉ざしたまま何も語ろうとはしない。代わりに弦矢が言葉を続ける。


「そもそも……いつものおぬしなら、“出陣”を口にする儂を真っ先にいさめるだろうに、なぜそうしなかった? 本来ならば叔父上の策を後押しするはずだ」

「……」

「おぬしは影。いついかなるときも、本家を立てんとする“真行寺の忌み子”が、なぜに今回ばかりはその宿業に背く――」


 さぐるような弦矢の声音に古老の表情は微も揺るがない。

 激動の白山で『諏訪』を守り抜いてきた『支柱』のひとりだ、その積み重ねで及ばぬ弦矢が、そう容易に崩せるはずもない。

 だが弦矢だからこそ、こう問える。


何を視た(・・・・)、無庵? あの“靄”の向こうに、あるいはこの天夜に、“靄”を産み出し者の気配でも感じたか――?」


 その指摘に、井戸の水面を思わす静まり返った古老の瞳が確かに揺らいだように見えた。

 しばらくして、かすかな吐息にあわせて古老の小さな肩がわずかに下がり、立てた膝を元に戻した。


「聞きなさるか――“忌み子の言葉”を」

だからこそ(・・・・・)、だ」


 確認するまでもない。

 迷いのない真っ直ぐな視線を向ける若き当主に、古老の小柄な体躯に秘められし頑固な対抗心が雪解けのように消え去る。


「……ほんに、変わった父子だ……」


 小粒な瞳に先代の面影を映しているのだろう。

 本来ならば“凶事”と忌み嫌われて、一生を“離れ”で終えねばならぬところを、逆に“賜り者”として遇された大恩を、古老は一時ならずも思い出し、噛みしめていたのかもしれない。


「先代同様、貴方様も不思議な方よ……真行寺家が当主代理となるに伴い、一度は政務から身を退いた儂を、再び登用するなぞ酔狂といえば酔狂」

「じゃが、今なら(・・・)どうであろうか?」


 不敵ともいえる光を湛えて弦矢は目を細める。


「敵の大軍に迫られ、おどろしげな月夜の凶事に見舞われる驚天動地の渦中にあって、同じ事が云えるのか? なあ、無庵。儂は、今こそ確信しておるぞ――ぬしが居てよかったと」

「…………」


 心の底から――

 忌み嫌われるだけだった“力”をこれほど真摯に頼られて、口を噤む理由などあろうはずもない。


(これぞ諏訪の血か……)


 それでも古老は迷いを示すかのように間を空け、ようやく語り出した。


「あのとき――」

「?」

「若達が異形の者共と相見あいまみえる前、若の進退を皆で話し合っていたとき」

「うむ」

「この無庵めは、ここにおると同時に、おりませなんだ。そう。儂はその時、別の者共と(・・・・・)相対しておった――」


 弦矢の眉がきつくひそめられる。

 古老の瞳に曇りなく、表情も自然石を思わす朴訥ぼくとつなもの。

 なのに正気なままで、妄言を口にしていた。

 それでも弦矢の瞳に疑心はない。


「別の者……それはどのような物の怪だ?」

「さようなものでは。いえ、そうといえばそうなるか」

 

 はっきりしない物言いのまま、古老は話しを先に進める。


「気づけば儂は、二十か三十畳はあろう大広間に居並ぶ侍達の前に佇んでおった。いや、まるで儂自身が――どこぞの領主にでもなったかのごとく。そう。その視点で見ているのだと気付いた」


 弦矢の眉根がさらに大きく寄せられる。己で求めておきながら、あまりに不可解な話しに、理解が追いつかないためだ。


「“星”や“茶柱”の話でもするとお思いか? 儂の力は“易占”でない故、吉凶を述べぬのはご承知のはず」

「無論だ」


 決まり悪げに軽く顔をしかめて、弦矢は小杯を傾ける。


「まあ、困惑されるはご尤も。されど、皆に見えずとも儂の小さき瞳に、明瞭に映ったのは確かなこと。

 まるで陰影のみで象ったかのごとき、見る者を不安にさせる黒づくめの侍達。その禍々しき気質が、体臭のごとく匂い立ち、双眸の奥に穿たれた暗き穴に――この老体が芯から冷えきった」


 そうして自身を抱きしめる古老の姿は何とも儚げに見える。

 この世の辛酸と苦しみを知り尽くす彼でさえ、心胆寒からしめる異形の侍。妄想に過ぎる古老の話はさらに付け加えられる。


「儂は思うた。あのような者共、いかなる国に在りしかと。例え遠き地にあり、海を跨ごうとも、いずれ天下を食し、諏訪をも喰らわんと欲するのなら、それを束ねる自分は(・・・)、何者かと」


 そう怖れる何かを感じたと。

 思った途端、古老と重なっていたらしきその者(・・・)が、すぅっと前へ滑り出た。古老の身より魂が抜けたように滑り出て、その者の姿を目にすることができた。


 黒き鎧に朱線を走らせる異形の具足姿。


 おもむろに振り返ったそれの面貌もまた、朱塗りの鬼面。


「何者ぞ――」


 その声を耳にして、古老はぞわりと鳥肌を立たせていた。声も出ない。囚われたように鬼面の双眸から目も離せず。

 だが、これは幻視。日ノ本の何処か、あるいは異境の地を覗き見たところで、何がどうなるわけでもないと己を必死に励ませば。


「儂を観よるか」

「……っ」


 気付かれている。

 そう思っただけで、毛穴という毛穴から汗が噴き出し、古老の身体が、心が、魂が早く逃げよと警鐘をかき鳴らす。

 それを逃さぬと鬼面の言葉が縛り上げる。


「いずれ逢うものぞ――ならば、首になって(・・・・・)報せるがよい」


 いつの間に、鬼面は腰の太刀を手にしていたのか。

 迫る凶刃に古老は夢中で手を翳し、そのたなごころに己のすべてを傾けた。理由はない。ただ、そうしなければならないと直感しただけだ。


 まばゆい白光が炸裂する。


 瞳の奥に突き込まれた衝撃の凄まじさに古老の頭が仰け反り、そのまま意識を失った。


「……それで?」


 言葉を途切らせた古老に弦矢が続きを促す。返された言葉は素っ気ないもの。


「それ以上は何も。気付けば、これまた別の者共が迫るを感得し、若にお知らせしたまで」


 それが銀髪の異人や餓鬼共だったということか。そして最後に古老はこう付け加える。


「……あの“靄”は、うつつと異境の地を結ぶ“道”でもあったと言えようか」

「――――」


 今の話しをどう解釈すべきか。

 口元から小杯を離し、じっと古老を見つめる弦矢の真剣な眼差しに“疑い”の二字はない。

 むしろ、某かの道理を導かんと熟慮するが故の沈黙――“餓鬼の騒動”に加えて今度は“異形の侍集団”――それをどう捉えるべきか必死に頭を働かせているのだろう。


「――その侍達はどこの国の者だ?」


 独白に近い弦矢の呟きに、古老はゆるりと首を振る。


「白山でないのは確かかと。広間の大きさからして、どこぞの大名家とさえ思えるが、さて、どうであろう。あれはとても……この世の者とは思えぬ異形」

「黄泉の国を覗いたとでも? さしずめ“六道の餓鬼”に“獄卒の鬼”。美しき髪の異人は何であろうな? それにぬしの一字一句を信ずるなら――鬼面の言い草は、まるで儂らを狙っているかのように聞こえるぞ」


 それはあまりに常軌を逸した妄想だ。

 その一方で、一連の出来事が腑に落ちるような印象を抱かせもする。そのせいか、弦矢の口調には古老を責める気持ちは、まるで感じられない。

 これは第三者による介入か。

 やはり同盟軍が陰で糸を引いているのか。

 無論、他者からすれば諏訪の者達が正気を失ったと見えるのかもしれないが。


「少なくとも、すべてが幻覚でないことは、はっきりとしておりますな」

「“あの月”や“餓鬼の屍”を見た後ではな」

「失礼ながら、その前には」


 やけに自信たっぷりで古老が訂正した。


「そもそも幻覚とは、夢と現の狭間はざまを曖昧にするもの。今こうして若と語り合っているように、夢か幻かなどと思考すること自体がありはせぬ。なにより――」


 おもむろに懐から和紙を取り出し、古老は口元を覆った後に弦矢へと差し出す。

 突然の奇矯なふるまいに、弦矢の訝しげな視線が古老の顔と手元をいったりきたりする。

 真っ白い和紙に滲んだ黒い染みは、口から吐き出された“血”であった。


「これほどの痛みで、“醒めぬ幻”があると若はお思いで?」


 口の端から血の糸を引かせる古老に、「無茶をする」弦矢が驚くよりも嘆息する。

 真っ先に幻覚を疑い、咄嗟の対処法として老人が取るには豪毅すぎる手段だが、乱世に生きるとはこういうことだ。 

 ここであらためて、古老が先の件で詫びを入れる。


「話しに混ざれず申し訳ありませぬ。されど、その後は若もご存じのとおり、異形の者共と戦う流れ。そうなれば、この老体が出る幕ではござらぬ故、分相応に静観した次第」

「戦いはそうであろう。だがこの一件に関しては、ますますぬしの力が必要と確信した」


 明言する弦矢に古老も応じる。


「請われる限り、この老体に鞭打つ所存。『諏訪の支柱』である以上、『無庵』が何よりも優先するのは“己の家”ではなく『諏訪』であると、あらためてお心に留め置き願いたく」


 いつもの不遜さを潜めて、この時ばかりは古老が真摯に頭を垂れる。そのまま、


「されば、若。申し上げるべき事がひとつ」

「なんだ?」

「我らが気にすべきは“月”や“靄”よりもやはり、“物の怪”にありましょう」

「だろうな」


 当然と同意する弦矢に“意図するものが違う”と古老は告げる。


「儂らが“黄泉に迷い込んだ”のか、あるいは“黄泉がこの世に顕現した”のか定かではないが……現に、かような生き物が跋扈ばっこしているのだとすれば、“城の外”は我らが思う以上に危険なはず。そして、それは我が軍に限らず、敵方の軍にも(・・・・・・)同じ事が言えるのでは」

「まさか……」


 その示唆するところに気づいたか、弦矢の目がわずかに見開かれる。一方で、思惑より過敏な反応に古老が訝しげに目を細めたのだが、弦矢は無論それどころではなかった。


民に知らさねば(・・・・・・・)

「何と?」

「外が――領内が危ないと言うならば、武力を持たぬ民はどうなる。すでに同盟軍の件は知れていようが、他に危険があることまでは、さすがに皆も分かっておるまい」


 見る間に表情を険しくする弦矢の言葉に、「なるほど」と古老が何度も頷き、自嘲めいた笑みすら浮かべる。


「それこそ諏訪の主――儂などそこまで思い至っておらなんだ」

「ん? ならば、ぬしは何を思うていた」


 聞きとがめた弦矢が古老に問う。


「恥ずかしながら、戦のことしか頭にありませなんだ。つまりは、そう……敵も侵略どころではなくなるのでは、と」

「それは――無論だ」


 今度は弦矢が一瞬、虚を突かれたような間を置いて重々しく頷いた。恐らく戦局が念頭になかった故に違いないが、察したはずの古老は無論、指摘するはずもない。


 弦矢は“民”を――。

 家臣は“お家”を――。


 そのすれ違いを“家中の不和”と危惧されるが、逆に“補い合える”と捉えるならば、この二人は最も理想的な組み合わせなのかもしれない。

 承知しているからこそ、むしろ、それをこそ“良し”とするからこそ、古老は何も言わぬのだろう。

 だからこそ、古老が口にするのは“お家存続”を念頭に置いてのこと。


「正直、この怪異がどこまでそうなのか、いつまでそうなのか、あるいは真にすべてが元に戻っているのかも分かりませぬ。それでも最善の策は、城内に籠もり、このまま刻を稼ぐこと」


 そうすれば刻が経つほどに、敵陣が危険な物の怪に襲われる目算が高まるは必定。早晩、陣構えを引き払うことになるとの算段だ。


「見立て通りであれば、な。確かに“籠城”の一択だ。それで一先ず安心といえる。そうなれば、後は民をどうするかだが、早急に考えねば――」


 そう焦りを滲ませる弦矢に、「残念ながら」と古老は居住まいを正してはっきりと明言する。


「仮に領内全土が危険となれば、敵方への対処も含めてあまりに我らの手が足りず、今更じたばた(・・・・)したところで、どうにもなりますまい」

「じゃが――」

「万雷の手勢を回せば万雷がもたぬ(・・・)。“最悪”については覚悟なされるがよい」

「…………っ」


 自身もまた“覚悟”を決めているのだと察すれる底光りする瞳を向けられて、弦矢は怒鳴ることもできず、音を立てそうなほど歯噛みする。

 民を見捨てよと同義の発言を素直に承服できるはずもない。


「そうじゃっ。『慧眼』ならば何か方法が――」

「――若」


 勢い込んで腰を上げる弦矢を古老はたった一声で呼び止める。

 『諏訪の支柱』として二十年――古老の声には若輩の当主を抑えるに十分すぎる重みがあった。だが、続く言葉には『諏訪の翁』としての深い慈しみが。

 「気を静めなされ」と穏やかな口調で無庵は弦矢の腰を落ち着かせる。


「城に参じれなかった者達も多い。奴らが捨て置くはずもないし、民は民で“侵略”に対する身の処し方を心得ておる。そしてそれは“あらゆる危険から身を守る術”でもある。今はただ、我らが行ってき(・・・・・・・)た取り組み(・・・・・)が民の力になってくれると信じるのみ」


 それはただの祈りではない。

 諏訪の初代からどれだけのまつりごとを為したか、知る古老だからこその自信――いや“確信”だったのかもしれない。

 不動尊を顕現させたような、超然とした古老の佇まいに、弦矢の強張った身体から次第に緊張が解けてゆく。

 焦りに強張っていた弦矢の口角が緩まるのをみて、それに、と古老は続けた。


「そもそも、儂が申したのはあくまで推論。物の怪が跋扈すると決まったわけではなく」

「気休めを――ぬしらしくないぞ」


 毅然と返す弦矢に――今度こそ内心安堵したであろう――古老は小さく頷く。


「ではあらためて――ひとつはっきりしている事は、今や『慧眼』が画策した策の根底を揺るがす事態になっているということ。それ故、当初の目論見に固執するは下策と考える次第」

「それならば、“城落ち”を取りやめ、“籠城”すると先も申したはずだが?」

「いえ。そのことではなく」


 そこで、はったと弦矢が膝を叩く。


「『防御林』による防衛策――万雷を呼び戻せ、ということかっ」

「正直、それが正しいとは申せませぬ。どちらに転ぶかは、五分五分かと」


 古老は神妙な面持ちでそう述べる。


「すべては“外の脅威”如何に掛かっておる……何とも情けない話ではあるが、この無庵、若には軽々に判断なされぬよう、申し上げるのみ」


 おどけたように禿頭をぴしゃりと叩くのは、大した助言もできず、結局は賭博のような判断を弦矢に預けてしまう己の無力さと恥辱をごまかそうとする無意識の発露であったか。

 そう捉えれば、古老自身も図りかねているからこそ、二度目の会合でも“軍の帰城”を口にしなかったのかもしれない。

 ここで初めて、そっと目を伏せる古老に、「任せい」と弦矢は力強く応じる。

 古老の目が上げられる。

 精悍で活力に満ちた若き当主と視線が交わる。


「ぬしは意見を述べ、判断するのは儂の役目だ。案ずることなく胸襟を開いてくれた――おかげで良い判断ができそうじゃ」

「若」

「それよ。いつまでも、ぬしらに“若”と呼ばせるわけにいくまいよ」

「若――」


 言われたそばから思わず口にして、古老が思い切り渋面をつくる。


「はっはっは――よい。まだまだ、先のことであろうさ」


 古老へ手を振り、弦矢は愉快げに手酌で酒を呷る。


「よし。先ずは今一度、ほかの三人を呼び戻し、意見を求めよう。問題なければ“籠城”の備えと万雷へ帰城の遣いを出すものとする」


 なかなか休めぬな、と苦笑する弦矢の下へ思わぬ一報が転がり込んでくる。


「恐れ入りますっ。火急、知らせの用が――」


 寝所の向こうで切迫した声が高々と上がり、密談の終わりを告げる。


「何用だ?」

「はっ。それが――」


 なぜかそこで言いよどみ、すぐに思い切ったように伝者が告げた。


「くもの襲撃にござりますっ」

「何だと?」


 思わず弦矢と古老が顔を見合わせる。


「嘘偽り無く――見たこともない大きなくも(・・)に襲われまして……」


 語尾が掠れる伝者の声に、まぎれもない“恐怖”を弦矢と古老は感じ取ったのだった。

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