(三十九)『白狐』の鬼手④
ギチギチギチ……
まるで威嚇するように、頭部らしき部位から生えたふたつの牙を擦り合わせて。
手下より頭ふたつは高いそれ――大熊のごとき巨体を誇るバケモノ蟻が、手近にいる者に素早く抱きつき地べたに押し倒す。
「くそっ、この――」
囚われた手下が夢中で暴れるも、肉に食い込む蟻の手肢は思いのほか力強く、身動きすらとれない。そのまま、
「――が?!」
骨を断つ鈍い音がして、手下の首がいともあっさり転がった。
大鎌のごとき牙の為せる業。
その威力を目の当たりにしても、いざ戦いとなれば、無様に怖じ気づくような犬童隊ではない。
「今だっ」
「野郎!!」
「喰らいやがれっ」
無防備に背をさらすバケモノ蟻の隙を突き、数名が得物を振り上げ躍りかかる。
「な?!」
「ぐぅ……」
しかし叩きつける刃が硬く跳ね返され、武器落とし、または手首を押さえて呻く始末。さらに。
「……おがぁああああ?!」
何をされたのか、別の蟻と戦っていた者達が突然顔を押さえて仰け反った。
そのまま受け身も取らずに倒れ込み、身も世もない苦鳴をあげて、地面の上をのたうち回る。
「何か飛ばしたぞ?!」
難を逃れた数名が、ぱっと飛び退るのはさすがだが、あまりに苦しむ仲間の異常な様子にすっかり及び腰になってしまう。
「分かんねえが、あれに絶対当たるなっ」
「当たるな、ったてよぉ」
「ち、ちくしょう。これじゃ近づけねえ」
攻めあぐねて手下の戦意が萎えようとも、
ギチギチギ……
バケモノ蟻は容赦なく襲いかかってくる。その動きは巨体とは思えぬほど素早く、誰もが転げるようにして身を投げ、必死に逃げ回る。
「ぅおお?!」
「おうっ」
ぎりぎり躱すので精一杯。
反撃すらもままならない。
だからといって、全力で走ってもバケモノ蟻相手に走り勝つのは不可能だ。
背を向けた途端に襲われ、三歩と行かずに追いつかれてしまう。だとすれば。
「どうせ逃げれねえなら――」
顔についた枯れ葉を拭い、ひとりの男が腹をくくった声を出す。
「こいつぁ、殺るしかねえぞ?!」
それが合図となって顔つきを変えた全員が足を止め腰を据えた。そのため、混乱が収まり、一方的な殺戮が途絶える。向き合う者達の顔に生気が蘇り。
「この、くそったれ――」
「おらあああっっ」
しかし悲愴感漂う決意も虚しく、手下らの振るう刃はまたも黒光りする甲羅に阻まれ、逆にバケモノ蟻による暴威には何の抵抗もできず、ただ蹂躙されてゆく。
ひとり、またひとり。
雑兵のようにばたばたと駆逐されていく。
その誰もが、飛び道具もなしに猪一頭仕留められる腕自慢であり、それを戦場で兵として叩き上げた強者だというのに。
その、あまりに一方的に倒されてゆく展開に、状況を把握しようと見守っていた塁の唇が怒りで引き攣れた。
「やってくれるじゃねえか――」
云うなり、形など崩れることはないと思われた鋼の弓を、まるで通常のそれと等しく鮮やかに撓らせていた。
ぴりりと張った強靱な弦が、太くてごつい塁の指により高強度の緊張を保つ。
成人男子の三人掛かりでやっと絞れるような弦力を、塁は純粋なる腕力で容易くねじ伏せながら、構える弓にはわずかな震えも見せることはない。
そして息ひとつ乱さぬ肉体が、狙撃に影響を及ぼす拍動を――それによるゆるやかな揺動を極限まで抑え込めば、“必中”は彼の掌の中にあるも同然であった。
それでも、絞りはあくまで三割ほど――。
放とうとしている“通常の矢”では、全力で引くと速度に耐えきれずまともに飛ばすこともできないため。
だが、これで十分。
きぁ――――っ!!!!
空気にかぎ爪を掻き立てるかのような、金切る矢鳴りが走りぬけ、次の瞬間には、手下の攻撃を撥ね除けた蟻の背に、矢身の三割までを突き立たせていた。
ギチギチギチギチ――――ッ
それでもまだ浅かったか。
蟻の苦鳴とも憤怒ともつかぬ金切り音が林内に鳴り響き、天高く掲げた牙をすり合わせる姿に好機とみた塁が鋭く言い放つ。
「今だっ。狙うなら四肢の関節、あるいは内側の胸や腹を狙え!!」
「へ、頭ぁ?!」
「バカ野郎っ。とっとと、言われたようにやれっ」
思わぬ援護に驚き、一斉にこちらを見た手下らを塁は叱り飛ばす。
その一方で、背中の痛みも感じさせぬ蟻の素早い反応に気付き、二度、三度と追撃の矢を放つ。
どっ
がっ
ごっ
恐るべき勢いで矢が突き立てられてゆき、三撃目が頭部に突き立ったところで化け物蟻がびくりと動きを止め――ゆっくりと前のめりに倒れ込んだ。
「ぅおお?!」
「さすが、頭――」
感嘆する手下を無視して「次――」と塁の愛弓が別の獲物を狙い定める。
間髪置かずに頭部へ一撃。
「――またっ」
沸き上がる歓声に「否」と塁は胸中で否定した。
バケモノ蟻は頭部に矢を受けながら、ぬか喜びした手下を前肢で突き飛ばし、下顎の挟みをガチガチ鳴らす。
「ちいっ」
手下の喉元に達する寸前で、塁の第二矢がバケモノ蟻の頭部を再び貫いた。そうなってようやく絶命する。
「油断するなっ」
塁が今一度、念を押す。
バケモノ相手に一撃で決まるかと。
「俺の弓を足止めくらいに考え、自分で仕留めるつもりでやれっ」
「「「へいっ」」」
「次――」
そこから手下達の気合いが俄然盛り上がった。
塁が猛撃を浴びせ、絶命するなら良し、しなければ衝撃で動きを鈍らせるバケモノ蟻へ、今度こそ、手下達が襲いかかっていく。
前肢を、後ろ肢を切り飛ばし、柔らかい腹をめがけて身体ごとぶつかるように跳び込んでゆく。
それでも倒れぬバケモノ蟻を数名がかりで押し倒し、頭部の付け根に何度も得物を叩きつけ、ようやく力任せに断ち切った。
「おおしっ、やれるぞ!!」
「びびらせやがって、虫けらがっ」
自ら留めを差すことができた自信が、手下達に歓喜をもたらし、さらに士気を高める。そうなれば、形勢は一気に変わってゆく。
頭部。
背部。
脇腹。
腹を震わす重い音を響かせ、次々とバケモノ蟻に突き立つ矢。
夜闇に躍動する人影。
そして暴れる巨虫の姿は、もはや最後の足掻きにしか見えなかった。
その戦況を生み出す射撃の手並みは、ある種異様な光景でさえあった。
はじめから終わりまでの所作が流れるように、それでいて寸分違わぬ軌道を描いて繰り返される射撃術。
一族の者でさえ驚嘆なしには目にできぬ、恐るべき精度で以て、塁は事を成し遂げる。
一体。
二体。
着実にバケモノ蟻を葬り去り、または追い込んでゆく――たった一人の弓士による圧巻の制圧劇。その戦いは終わってみれば、実に呆気ないものであった。
「しかし、何なのだ、あれは……?」
仕事を終えた後も、塁の険しい相貌に安堵の気配が訪れることはない。
少なくない犠牲を強いられたこともさることながら――あまりにも大きすぎる蟻の姿影に畏怖すら抱く。
「まさか諏訪者め……。『大白山』の奥地に棲みつく物の怪でも、飼い慣らしてやがるのか?」
あるいは尋常ならざる何かが起きている――それを何より痛感させられたのは、帰途についた塁が、荒され半壊した塒を目にし、情婦が消えたことを知ったときである。
残された血だまりの量から判ずれば、女の生存は望めない。ならば。
「……何のために骸を持ち去った?」
塁の太い眉根を大きく歪ませたのは、先ほどの巨大蟻とは明らかに別種の足跡を発見したためだ。
「……バケモノだらけか……」
塁は思わず周囲へ首を巡らす。
手下が初めて目にするような、神妙な面持ちで。
「まずいな」
「へ……?」
「これでは諏訪の喉くびに、刃を突きつけるどころではない。むしろ、俺達が無事に今宵を乗りきれるか否かが……」
ふと見上げた樹上――枝葉の隙間より見えた満月に、塁の双瞳がぎゅっと窄められる。
そこには妖しく重なり合う月の姿があった――。




