(三十七)『白狐』の鬼手②
「「「――な?!」」」
つい今し方まで、前にいたはずの仲間の姿が消えてしまっていることに気付いた者はいない。
ただ目の前に突然現れた、不気味な影絵に誰もが息を呑む。
目線を上げねばならぬその偉容に誰もが本能的に危機を感じ取る。
影が揺れた。
いや、こちらに向かって動いていた。
そう理解した時には、影の一番近くにいた仲間の首が、柿の実をもぎるようにボトリと落ちていた。
「あ――」
「佐吉?!」
唐突な仲間の死に、目を奪われる者。
その死を強制した、禍々しき大鎌の正体に気付いて顔色を失う者。
そう。それは――
「――化け物だと?」
「へいっ」
神妙なツラで大きくアゴを上下させる手下を塁は穴が空くほどにじっと睨みつける。
はた目には作り話めいた手下のそれを、戯言と蹴飛ばすか否か、考えているように見えなくもない。
睨まれる手下も思わず視線を反らし、額に浮かべる汗の珠が増えてゆき、「そりゃもちろん」と早口で付け加える。
「ほんまもんだなんて、云いやせん。もしかしたら、図体のでけぇ“番兵”だったかも。
だ、だからあっしは、“仕掛け”と云ったんで。ええ、そうですよっ。諏訪の奴らぁ、化け物みてぇに強ぇ『門番』を置いてたんでさ!!」
「それでお前らは、その『門番』によって隊を分断されたというわけか」
「そ、そうですっ。そういうことでさぁ!」
やっと分かってもらえたと、手下が嬉しげに何度も首を振る。
「そっからすぐ正三も殺られちまって、とにかく手が付けられねえんで……そんで、犬千代の旦那はと思ったら、『門番』よりもっと奥にいたはずだ。こらもう話しができねぇってんで、頭に報せるしかねえと、こうなったわけでして」
「だから犬千代の安否が分からぬと」
「そうですっ」
手下の返事を背越しに聞きながら、塁は腰に鉈と小剣を挟み込み、手早く身支度を整えた。
急がねばならない。
“隠し通路”の発見に逸る気持ちはあるものの、それ以上に塁を急き立てるのは、すぐに騒ぎを収めねば取り返しがつかなくなるやもとの焦燥だ。
実は、手下の語る“化け物じみた相手”に心当たりがひとり。
(まさか、万雷じゃあるまい……)
塁でさえ、戦場で、真っ正面から立ち向かいたくないと思わせる巨漢の老将。まさにモノノケの類いととしか思えぬバカげた武力が立ちはだかるとすれば、連れてきた人数だけではどうにもならない。
――塁がその命を賭けなければ。
これまで幾度も戦場に立ってきたが、本当にぎりぎりの勝負になることは滅多にない。その数少ない死闘を覚悟させるのが、諏訪の『軍神』万雷だ。
(くそっ。まさか、あのジジイに裏方をやらせるとはな。諏訪のやつら、何を考えている)
奥歯を噛みしめる塁の鼻筋にシワが寄る。
あの時に味わわされた――心臓を捻り込むような苦しさ、視野の狭窄、骨肉の強張りがまざまざと蘇り、気付けば全身がうっすらと汗ばんでいた。
塁が何気に視線を落とす。
彼の緊張など知らぬげに、白くやわらかな女の肌が、ゆるやかに波打っていた。
この騒ぎにあって、女は目を覚ますことなくぐっすりと眠りこけている。戦を前にした激しい情事のあとは、いつもそうだ。
戦う昂揚が、塁の性欲を掻き立てる。
己を奮い立たせるように女を貪り、女が寝入っているうちに、戦いへ赴く。
戦い終われば、内にて燻る火を消し込むように、もう一度、女を抱く。
それもまた、いつものとおり。
(そう。いつものとおりだ――)
戦う場も、戦う相手も関係ない。
猟をするように、獲物を定め、ただ狩るだけだ。
表情から緊張がほぐれた塁は、手近に置いた矢筒を肩掛けにし、立て掛けてある愛弓を手にとった。
通常の弓ではあり得ない――製法の観点から見ても明らかに常識の埒外にある――鉄の細板を束ねて生み出された特別製の剛弓を。
その一撃は、生きた鎧とも呼べよう熊の背中から心臓を撃ち抜き、また、硬い眉間をも貫く。当然ながら、大人二人掛かりでも弦を引くことなど不可能なバケモノ弓であった。
だが塁はこれと瓜二つの試弓を用いて、一睡もせず、丸一日かけて不動の構えをとり続ける荒行を己に課している。
それも季節ごとに一度づつ。
その“行”が成し得なくなった時こそ、弓士としての退き時と胸に秘めながら。
そんな彼にしか扱えぬ、見た目にも重量感を感じさせる鋼の弓を軽々と扱う姿に、手下が恐る恐る声をかける。
「頭……?」
「俺も出る」
塁にとっては何気ない一言でも、手下にとっては有無を言わさぬ迫力に、思わず身を避ける。その脇をすり抜けて、塁が小屋の外へ出た。
「どっちだ?」
「へ?」
一瞬戸惑った手下が、すぐに我に返って力強く指を差す。
「こ、この奥にちっせぇ丘がありやして。その向こう側へ廻ったところに」
手下が指差す方は、いかほどの距離も見通せず樹林の壁に阻まれる。その上、頼みとする月明かりは枝葉の合間から零れてくる程度で、視界があまりにも悪すぎた。
なのに塁は案内までは求めず、手下から得られたわずかな情報を頼りに走り出した。
「ちょ、待って――」
慌てて追いかける手下も、なかなかのものだ。
顔に当たる枝葉を時に避け、腕で払い、息も切らせず二人は深夜の林中を駆け抜ける。
そのようなマネができるのも、一族ごと『犬豪』の傘下に降る前、人が踏み入らぬ霊峰の山中で、猟を中心に暮らしていたからこそ。
この特技を現犬豪当主に買われ、“犬”の一字を与えられると共に、集落ひとまとめに武家として迎え入れられたのだ。
あれから四年。
気づけば、犬豪が誇る八人の剛将『四爪四牙』のひとりとして塁が位置づけられたのは、つい昨日のことのように思われる。
ならばこそ、“諏訪の伐り倒し”と呼ばれた此度の戦に参戦するのは必定であり、本任務で諏訪の急所を突けるのは塁達『犬童隊』しかいなかった。
その目論見は当たり、彼らは隠し通路を見事発見することができた。しかし。
(ただ手練れの者を配置するだけなど。奴らの仕掛けにしてはおかしい……。しかも、大将に据えるべき人物を、まことに戦場の僻地へ配置するものか……?)
言い得ぬ不審感が塁の胸中に沸くものの、だからどうすればよいとも考えがつかない。
当たってみるしかあるまい、そう腹を決めたところで件の丘に辿り着いた。
「頭……」
「黙ってろ――」
前に出ようとする手下を制して、塁は目を閉じ耳に意識を集中させた。すぐに。
「――!!」
誰かの叫び声を捉え、塁の眉をわずかにひそめさせた。すぐに耳を疑いたくなる絶叫が丘の向こうから響いてくる。
聞き違い?
いや違う。
狩猟者ならではの研ぎ澄まされた聴覚に、判別不能なギチギチと耳障りな音がはっきりと聞こえたのだ。
「――なんだ、今のは」
「へ?」
あの猛将とは違う。
そう確信するも、塁の胸中に安堵は湧き上がらない。むしろ、背筋を寒くする何かに駆り立てられるように、塁は丘の麓を廻らず――決して口にすることはないが、正対するのを避けたのが本音――丘をやや登り気味に足を踏み出した。




