(三十六)『白狐』の鬼手①
亥の刻
羽倉城周縁の森
――同盟軍『別働隊』
「大変だ、頭ぁ――うっ」
断りもなく顔を出したかと思えば、急ぎであろう知らせを口にすることもなく、露骨に顔をしかめる手下に男――犬童塁は不機嫌を露わにした。
「おい、せっかくの余韻を邪魔するな――」
暗がりの中、筵の上で気だるげに裸の上半身を起こし、塁は視界の隅で横たわる白い肉をむんずと掴む。
「ん……」と艶めかしく耳朶をくすぐる女の呻きと、手の中でかすかに身動ぐまだ熱い肉のやわらかさ。
塁が思わず唇の端をゆるませ、手下の視線が豊かな女の尻に吸い付いてしまうのも無理はない。
戦のたびに塁が伴連れにする女は、顔立ちよりも肉付きの良さに重きを置いたかのような、震い付きたくなる上玉ばかり。
その上、枝葉で組んだ簡素な小屋には、饐えたような男女の臭いが熱を持って絡み合い、むせ返るほどに立ちこめている。
この狭苦しい密室で、どれほど性情の乱れがあったかと連想させずにはいられず、手下の指先は知らず股間へと延びている。
「頭……あ、あっしも……」
「用があったんだろ?」
望とした表情で欲求に耐えかねた手下の言葉を塁の声が遮った。
ごつい顎に太い首。そこから発せられる太くて重いよく響く声には、塁の強烈な意志が圧力となって込められている。
その力強さは、塁の見事な体躯にも表れていた。
ただの百姓暮らしでは決して発達することのない胸の筋肉が、分厚い粘土を貼り付けたように盛り上がり、木の根のごとく背を這う広背筋と共に、惚れ惚れするような逆三角形を造り上げていた。
それは“男”が理想とする肉体像のひとつ。
そして“女”が惚れずにはおかない野性の造形美でもある。
強さの象徴を体現する塁からの発声に、手下は顔面を叩かれた途端、夢から目覚めたようにはっとする。
「何やってんだ、おれぁっ」と眠気を吹っ切るように首を振り、こびりついた情欲を払い落として。
「大変なんです、頭っ。やつら、とんでもねえモンを仕掛けてやしてっ」
口にしながら、つい先ほどまで抱えていた感情が蘇ってきたのだろう。手下の表情が険しくなり、息を荒げはじめる。
「あの佐吉も正三も殺られやした。早く何とかしねえと、もっと殺されちまうっ」
「わかった」
「――ぇ、へ?」
藪から棒に騒ぎはじめた手下の報告を、塁はろくに聞きもせず、あっさりと頷いた。あまりにあっさり応じられて、逆に手下の方がマヌけた声をあげてしまう。
「か、頭……?」
「この森は他の森とはちがう。端から端までが、やつらの巣だ。何があっても不思議じゃない」
表情ひとつ変えずに手下を諭すと、塁は脱ぎ捨ててあった薄衣を引っ掴み、おもむろに立ち上がる。
彼ら『犬童隊』が『白狐』の密命を帯びて送り出されたのは、諏訪の本城を取り囲む広大な森林における“西の林野”。
“東の林野”からの進軍を図る本隊に合わせ、敵の脇腹を突く役目を負っていた。
だが、そう簡単に事が運ぶはずもない。
敵にとってもこの樹林帯は最後の防衛線であり、当然、林野戦に秀でた奴らのこと、森には様々な罠が仕掛けられているとみるべきだ。
だから、凶悪な罠の発動があったとの知らせに塁は驚かない。まして、この犬豪と渡り合えるほどの希有なる存在が相手ともなれば。
「それでも」と発する塁の体躯に見えない圧力が漲った。
「俺たちの芯にあるのは、“狩猟の民”だ」
「!」
「例え今は山を下り、『犬童』の名を冠する侍となろうとも、森で平地の奴らに後れは取れん――違うか?」
「……っ」
違わないっ、もちろんでさ。
声も出さずに手下が夢中で首を振る。それに、隊頭が何を云わんとしているのかを気付いたこともある。
「お、俺たちぁドジは踏んでねえ! 本当でさっ」
手下が唾飛ばしながら必死に訴える。
一族の誰もが狩猟の民としての矜持を持ち、樹林帯の探索に細心の注意を払って取り組んでいたのだと。
なのに、罠にかかった。
しかも、死者が増え続けている。
塁が眉間にシワを寄せたのは、不甲斐なしと憤るよりも、鍛え抜かれた手下たちが変事に合わせ対処し切れていない事実に疑念を抱いたがため。なぜなら――
「犬千代はどうした。あいつが俺を必要とするなんて、それほどの仕掛けか?」
「いえ、頭に報せようと思ったのは、あっしらの判断で」
一兵が独断で動いていると知り、塁の眉間のシワがさらに深くなる。
「いえ、違いやす! もちろん犬千代の旦那なら、きっと無事とは思いやすが……正直なとこ、あっしらにも分からなくって」
「無事? 分からない? 一体何を云っている」
予想だにしない返答の連続に、塁の語気も強くなる。
そもそも、副官である犬千代に陣頭指揮を任せているからこそ、このような場所でも塁は女としけこめるのだ。それがどうして部隊とはぐれてしまうのか。
「とにかく――」
「待て、はじめからだ。はじめから、分かるように話せ」
このままでは話しが見えぬと塁が説明のやり直しを命じる。その有無を言わせぬ迫力に、手下が顔を強張らせながらも、何とか伝えようと努力する。
「はじめからってぇと……ま、まず、頭に言われたとおり、“諏訪の隠し通路”ってのを必死に捜しやした」
「ああ」
「したら、旦那がそれらしいもんを見つけたとかって話しで」
「ほう」
そこで塁が一段低めの声で相づちを打ったのは、それが値千金の情報であったから。
情報によれば、森を意のままに形作っているとされる諏訪の『防御林』には、彼らだけが知る“抜け道”があるという。
犬千代が見つけたのは、その秘道に違いない。
これで戦局の天秤は同盟軍へ大きく傾くことになる――塁はこみ上げてくる喜悦をしかし、グッと呑み込んで、大人しく聞き役に徹する。
「そこで早速、人数集めて念入りに調べることになりやして。いつものように、旦那が先頭切って踏み込んだら……」
「罠に掛かったのか」
「へいっ――いや、その」
一端頷いた手下が、慌てて首と両腕を振るう。
「違いやした、すいやせんっ。そうじゃなくって、すんごい“靄”が出たんでさ。こう、あたり一面にぶぁーっと!!」
腕いっぱいに広げた勢いで顔を突き出す手下が、辺りを見回すふりをする。
また話しが反れてしまったのかと思わせるが、そうではないようだ。彼なりに起きたことを詳しく伝えようと、情感たっぷりに身振り手振りする。そう察した塁は辛抱強く口を閉ざし、手下の話に耳を傾ける。
「なんだって、突然。すっげぇ靄がわき出して、そらぁもう、なんにも見えなくなっちまって……」
動くなと犬千代からの指示が放たれ、手下らは足を止めた。
自然、身を屈めたのは本能的な防御反応にすぎない。
むせ返るほどの濃霧は、手下らの鼻腔や耳から体内に入り込み、胃の腑や肺を満たして体中をくまなく犯し尽くすかに思わせた。
それでも、誰も呻き声すら発さない。
まるで聞かれてはいけない何かに警戒するかのように。
じっと息を潜めて。
獣であれば、目視を諦め、耳や鼻に頼る。
『狩猟の民』である彼らも、物音に耳を澄ませ、気配を感じ取ろうと懸命に意識を集中させた。
幸いにも、隠し通路らしき森の回廊は、天上が開けているために、月明かりが十分に採れている。
だから、しばらくして靄が薄れはじめ、それに併せて前方に大きな影が揺らめくのを、そこから後方にいたほぼ全員が目にすることになった。




