(二十九)月天の凶事③
「――っ」
新たに出現した異形の軍影に、間近にいた歩哨が絶句したのも仕方あるまい。その目前を斜めに駆け抜ける銀髪達は、もはや後ろを振り返ることもなく、逃げに徹するのみ。
「何をしているっ、お前も逃げい!!」
はっとしたように八真が棒立ちの歩哨に命じるも一歩も動こうとせず。
むしろ我に返った歩哨は、逃げるよりもまず、今度こそ己の職務を全うすべしと声を張り上げた。
「てき、敵襲――――!!」
全身全霊で咽を震わす警鐘に、先ほどのような困惑や戸惑いが感じられないのは、これが諏訪による奇襲であると判断したせいなのかもしれない。
「至急、隊頭に――」
だがツバ飛ばす発声は、最後まで為されることなく、叩きつけられたかぎ爪に薙ぎ払われてしまう。
ぼろ雑巾のごとく身を捩られた歩哨が草地に沈む。
その戦果に血塗れであろう両腕を広げ、誇らしげに胸を反らして、嘴を開閉させる姿は先ほど先陣を切った鳥頭のもの。
ほぶぅぉおおおおおお!!
ごぶる、ぶるぐ
ぎぶら、ぎゅぶる
獲物を仕留めた鳥頭の咆哮と怪猿の悍ましいわめき声の協奏曲が草地に響き渡る。
そうした一連の騒動を、すでに騒ぎを聞きつけていた兵達が目の当たりにし、信じがたい怪事が起きていることを強制的に呑み込まされた。
「何だ、あのバケモノは!!」
「それより、あの数――」
餓鬼に鳥頭の混成部隊が前陣となり、後陣には異形の騎馬が控える立派な軍容は、数にして優に百を超え、看過できるような数ではない。それが――
「おい、こっちに来るぞ?!」
向かってくる軍影の正体が、宿敵『諏訪』であれば腹も据えられる。
だが人外と思しき得体の知れない集団が相手とあっては、白山一の戦闘集団を自負する兵達も、動揺を禁じ得なかった。
正直、何をどうすればよいのか、途方に暮れてしまったのだ。
だからこそ、それに目を向けるたび、騒ぎ立てるか茫然と立ち尽くす者ばかりが増えてゆき、しかもこの状況を打破すべき将たる八真でさえ、頭が困惑に塗り潰されてしまう。
そしてまさかと、馬鹿げた妄想が口をついて出るのも致し方なかった。
「こやつら……これこそが“諏訪の秘策”なのか?!」
疑念混じりに吐き捨てる八真。
こんな常軌を逸した軍勢を敵は隠し持っていたのかと。
銀髪の存在も含めて、もっと冷静に状況を整理すれば、無理のある解釈だ。それすら気付けぬあるじの動揺に、むしろ平静さを取り戻したのは華美丸の方であった。
「そんなわけがありませぬっ」
「だが、あのようなもの――」
ある種、安易な答えに固執する八真の頬を「犬塚八真!!」気丈な少年の声が張りつける。
「華美丸……」
それを感じたというなら幻痛にすぎない。
目を瞠らせ、思わず右の頬へ手を添えそうになる八真に、
「どうぞ、冷静に」
華美丸は冷たいあるじの手をとり、きつく握り締める。
「諏訪者は、言うなれば皆が“夢追い人”のようなもの。語弊を怖れず語るなら――この乱世で高潔を貫こうとする、どうしようもないほど世間知らずな者達の集まりです。
そんな彼らが、あのように悪しく悍ましき異物の手を借りると、本当に思われますか?」
「……思わぬ、な」
思案は短く、八真ははっきりと否定し、
「卑怯ではなく、“狡猾”。残虐ではなく、“苛烈”。奴らと幾度も戦ってきたが、兵を殺された憎しみより、負けた悔やしさが胸に残る――真に不思議な敵だ」
感慨深げにそう告げる。
それに同意を示す華美丸。
「私より、分かっておいでです」
「……それが、“答え”か」
呟く声にでなく、迫り来る軍勢を見つめる瞳に、八真が得心した胸内が表れていた。




