(二十三)八真の憂い
亥の刻
羽倉城周縁の森
――同盟軍『本隊』
同盟軍が夜陰に乗じて諏訪領へと侵攻し、諏訪の本城――羽倉城を取り囲む広大な樹林の影を視界に捉えたのは、夜半を前にした亥の刻。
戦の本番を前に繰り出した斥候より「森に潜む敵影あり」との知らせを受け、一時進軍を停止させた軍本営は、奇襲の利をあっさりと投げ捨て、そのまま一夜を明かす決定を全軍に発した。
そう。
彼らは諏訪家の読みと異なり、兵力のほとんどを“明朝の決戦”に備えさせたのだ。ただし――一部を除いては。
その秘められし意図が、兵士の末端にまで明かされることはなく、本営が命じたのは、あえて森東の進入口前に本陣を置き、そこから左右へ軍を偏在させる陣を敷くこと。
建前として、周辺村部より集まるかもしれぬ敵援軍に備えると共に、森に潜む敵の奇襲を誘う巧妙な布陣を構築するのだと知らされた。
しかしやはりと云うべきか、数で劣ると黙される敵側から仕掛けてくる気配はなく、夜は静かに更けてゆく。
そんな状況にあって唯一、最左翼の部隊だけは見張りの数を倍に増やし、細やかすぎる監視網を敷いていた。
少し過敏にすぎる指示を出した指揮官の意図を計りかねるのは、側近だけでなく、寵愛を受ける若き小姓とて同じであった。
「何か気掛かりでも、八真様……?」
こんな夜更けに安全な陣奥を離れ、驚く歩哨に見守られながら最前線まで歩いてきた隊頭を、色白の少年が不安げに見上げる。
腰まで届く長い黒髪を右に寄せ、赤・蒼・翠の三色紐で結った男――犬塚八真は、眼前に広がる森を静かに見つめるばかりで答えてはくれない。
だから余計に少年は気になるのだ。
いつもより、冴え冴えと輝く月の青白さにも。
そして、草地に吹き込む季節外れの風の冷たさにも。
「今宵はどうにも寒ぅございます。戦前にお身体が冷えては――ぁ」
短い悲鳴に艶がまぎれるのは、少年の胸元の合わせ目から八真の白い手が滑り込んだためだ。
「もう暖かいから、問題ない」
「でも――ぁ」
触れれば意外に筋張っていると知れる八真の腕を抱きかかえるようにして、少年の細面が見る間に朱に染まってゆく。
だが、少年の胸元をまさぐる手はすぐに止められる。
「八真様……?」
なぜか名残惜しげな少年の問いに、やはり八真が答えることはない。
夜風に当たりにきた、と云われれば納得してしまいそうな佇まいでいながら、ふと垣間見せる真剣な面差しが、あるじの意図を煙に巻く。
もちろん、知ったからとて何ができるものでもない。
少年に課された役目は、“慰め”でしかないが故に。にもかかわらず。
「敵が森から出ることなど、ありませぬ」
毅然とした少年の言葉に、初めて八真の顔が己の半生にも満たぬ年少者の小顔へと向けられる。
今の今、わずかに情欲の翳りさえあった面影は消え失せ、理知的な黒瞳とどこか酷薄ささえ漂わせる薄い唇を持った、別人としか思えぬ少年の顔を。




