(二十九)よみがえる記憶
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そう、これだ。
人としての熱を失い色をなくした胸の奥――そこにさらなる深い暗がりがある。
その“深淵”と呼ぶに相応しい闇の底より“力の奔流”がわずかな時間生まれることをオーネストは感じとる。
火花を散らすような一瞬の煌めきを。
戦いの中で幾度も繰り返されていたそれが、スキルを発動させる根源なのだと気付いてしまえば。
(間違いない。これこそが眷属を眷属たらんとするモノ。この身を星幽界と繋げる闇の生命線――)
そうだ。
これが欲しかった。
この感触が。
そのために強き者との戦いを欲し、追い込まれ、訓練では出せない力を引き出させられることを必要とした。そうすることで曖昧だった“何か”を確かなものにできるとオーネストは信じていた。
(――分かるぞ。今ならば。これをもっと己に馴染ませ自在に操れれば――)
眷属としての完全体ではない。
その枠すらも越えて原種の存在にかぎりなく近づくことができる。
そうなれば魔境士族など目ではない。
公国頂点の三剣士を凌駕して、周辺五カ国で名を馳せる猛者たちすべてを我が前に跪かせられよう。
それすなわち、この身が名実共に公国の絶対的な“武の象徴”になるということ。
――そう、この自分が。
脆弱すぎて剣を持つことも許されなかった、非力な自分が。
辺境人であるというのに、そして次期当主でありながら“辺境の戦士”として歩むことさえできなかった不甲斐なき愚物が。
それが国内外の誰もが認める“公国の剣”となりて、再び戦士らを率いるのだ。
そう、あの時のように――。
「――若君」
丘陵から望む帝国の大陣営。
そこで無数に揺らめく灯火の群れを静かに見下ろすオーネストのかたわらで、付き添いの騎士が思い切ったように口を開く。
「たかが数戦とはいえ、若君を陣頭にいただき剣を振るえたこと、望外の喜びでありました――」
これを最後と覚悟する表情で騎士は謝意を口にする。そこに込められた万感の思いに反応するのは別の騎士。
「それはオレも同じです。いや――ベルズ兵の誰もが」
それはオーネストも承知の話。
志願で成り立つ決死隊の半数はベルズ兵で占められている。その士気の高さがどこからきたものかなど言われるまでもない。
「若君の決断にありったけの敬意と感謝を。おかげで『ギドワ』や『ギリョウ』のヤツらを見返せて鼻が高いってもンです。正直――ベルズ兵の強さは、他族への嫉妬を力にしていたところもありましたからね」
冗談ぽく付け加えた話は、まぎれもない騎士の本心でもあったろう。
リーダーが陣頭に立って指揮を執る――厳しい環境におかれる辺境人だからこそ、雄々しき勇者を求める気質がある。いや、切実な現実が。
しかしベルズ家でそれは叶わぬ夢だったのだ。
「……僕が弱かったばかりに、ふたりには苦労をかけた」
自覚があるだけに詫びるしかないオーネスト。
無論、それを騎士が求めるはずもなく。
「いえ、皆分かってますから。――それに、今はもう、違います」
それがすべて。
言い切る騎士の表情にわだかまりはなく、むしろ熱のこもる眼差しを向けられ、オーネストは応えるように力強く足を踏み出していた。
「しっかり、ついてくるといい――」
その一歩に先陣を切るのは己だと示して。
眼下に広がる自軍の数十倍はあろう敵の軍勢を前にしながら毅然と立つ。
その雄々しき立ち姿に。
騎士のふたりだけでなく、さらに背後で控える団員たちの視線が注がれる。その戦意昂ぶらせる軍気を心地よく背中で感じながら、
「いつでも僕は――――私は、前にいる」
オーネストは静かに宣誓する。
「誰よりも前を行き、侵略者共を薙ぎ払い、皆の進むべき道を切り開く――」
そのための力。
そのために捧げた魂。
これ以上の蹂躙を許さぬため己がすべてをしぼり尽くす。
その覚悟は自分だけでなく、共に“血印”を胸に刻んだ戦士たちも同じと承知する。
だからこそ。
「誰でもいい。ただのひとりでも。味方を見捨て肉壁とし囮に使おうとも――あるいはその逆となりても」
ただ前へ。
ひたすら突き進め。
「その血と肉をしぼり尽くして必ずヤツの喉元までたどり着け。そしてヤツの首に、心臓に、我らの刃を突き立てよ!」
それがためだけの、剣となれ――
そうとも。
忘れるはずのない昂揚が、あそこにはあった。
記憶を蘇らせれば、冷え切ったはずの胸中に強烈な疼きを感じるものが。
だが同時に、イヤな出来事も蘇る。
「――――我、及ばずか」
帝国陣営の奥深く。
カラスの濡れ羽根を縫い合わせたような漆黒の魔術服に身を包むそいつは、切り裂かれた胸の傷からとめどなく血を流しながら呟いた。
もとから白磁のような肌の透明感はさらに色を失い、そいつの最後が近いことを告げていた。
「やはり侮れぬ国。……辺境のみを相手取れば、と思ったが……すでに“遺跡の力”を復活させていたとは、な」
「おまえ――」
「知っているとも」
話すことさえ苦しいくせに、まるで勝利者のごとくそいつは上から告げてくる。そして当然のように付け加えた。
「周辺五カ国もな」
「……」
「当然だろう。手にすれば……残り四国から攻め立てられる、不利な地を……どうして各国が、狙うと思う?」
戦略拠点としての有用性――これまでならばそう答えていただろう。
だがそうではなかったと稀代の策士に気付かされた今は。
「――それが『遺跡』か」
「その遺跡を誰が造ったか、だ」
認識が足りないと。
注視すべき点は別にあると。
唇の端から血を流しながら笑みを浮かべるそいつは謎かけてくる。
「『銀翼の民』――」
そのくらいオーネストも知っている。
滅びてなお今に影響を及ぼす力だ。貴族としては必須とされた知識である。
「そう、だ。遺失技術のすべてに精通する……伝説の民。その痕跡の発見は……大きな利を生むが、簡単には望めない。しかし……この国ならば」
国の成り立ち。
各地に点在する曰く付きの名所。
一般的に知られていないそれらは、見る者が見れば、伝説との関わりを匂わすものにあふれているという。
事実、公国へとフィールドワークに訪れる学徒が多いのは知られた話で、ならば、あの学園都市『アド・アストラ』を懐に抱く帝国が有益な情報を得ていても不思議はない。
いや、不思議と云えば。
「……思ったよりしゃべる。時間稼ぎとは思えないが、何が狙いだ?」
「べつに。この私を倒した者への、報酬だ」
そこで頬をゆるませるのはジョークであったらしい。末期の状態でよくやる。一発カマして溜飲を下げたのか、そいつはすぐにいい直した。
「意趣返しだ――ああ、あんたにじゃない」
ならば誰に?
それに先の情報程度で“策”とするにはあまりに雑すぎる。そもそもそいつの“死”は西部侵略の失敗を決定づけるものであり、こちらの勝利が動かないというのに。
帝国最高の策士が末期にたわごとを……?
その意図が読めず困惑するオーネストに、そいつはあくまで勝利者然として物を言う。
「あんたに、は、必要ない。すでに仕込みは済んで……ゴホッ……“毒”は、回っている」
毒だと?
だから勝ち誇った態度をとっていると。
しかしこの身にそのようなものとオーネストが思えば、誤解であったらしい。
咳き込みが激しくなってきたそいつ――『鬼謀』は声を振りしぼる。
黒髪黒目の淑女と呼ぶにふさわしい清楚な面立ちにうすら寒い笑みをくっきり貼り付けて。
「……最後まで見よ。ゆるりと国が崩れてゆく、無残なさまを……その、滅びぬ……身で」
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激闘の続く
ゴルトラ洞穴門
――領都側出口付近
明らかに不調に陥ったと知れるゲンヤの動き。
慌てて足を速めようとするカストリックであったが、その足が逆に止められる。
黙って見ておれ――
そう云わんばかりに気迫を漲らせる背中に押し留められたからだ。
ただ、だからといってこの悪状況。
「――どうぞ、そのままに」
再びカストリックを押し留めたのは、真摯に請うてきた女の声。
今の今まで気配などなかったはずと。
反射的に剣を構えるカストリックの視線は、しかし、人影を見出せずに虚空を捉えるのみ。それでも確かに気配はふたつ感じられた。
何者か――?
カストリックが誰何しようと口を開きかけたところで、
「あるじの護持者、『胡珀』にございます」
「同じく『玄九郎』――」
先に答えを述べたのは姿なきふたり。その名は初めて耳にするが、士族長を護持する者の存在はカストリックも事前に教えられていた。
いや、それよりも気になることは。
「……よいのだな?」
「それがあるじの望みでございますれば」
「しかし、ヤツのあの様子――」
一方で、カストリックが危険視するのは突然棒立ちとなってしまった敵の姿。
ヘンに無防備をさらしている不気味さよりも、纏っていた不穏な気配が濃度を一段と増したことに、放ってはおけぬと不安を煽られる。
それは胡珀も同じであったらしい。
「見た目どころか、その中身までも……いよいよもって、正真正銘のバケモノに成り果てるようで」
「それでもゲンヤ殿を“見守れ”と?」
護り手の存在意義をカストリックが問いにこめれば、沈黙する胡珀に替わり玄九郎が応じる。
「あるじは敵の力を認め、切り札を切りました。つまりはこの戦い――我らの力がどこまで通じるかを問う戦いでもあるのです」
思わぬ話にカストリックは黙り込む。
これはつまり、あの魔術剣と思しき力を見極めることで魔境士族の底が知れるという話。カストリックとしても欲する情報ではあるのだが。
「それが必要なのは理解する。しかしその判断基準を、あれほどのバケモノに求めるのは……」
眷属というレベルを逸脱しようかと思えるほどの闇の濃い気配。これはジョイオミナへの参戦要請を選択肢に入ってくるような状況だ。
「それにゲンヤ殿の手にする武具……ただの武具ではあるまい? 不調を抱えて挑むのは、ただの自殺行為だぞ」
「他の者であればいざ知らず、あそこに立つのは諏訪弦矢――」
十六で初陣を飾った頃から仕える護持者は何を目にしてきたのか?
揺るぎない信頼を寄せながら玄九郎は告げる。
「その武威と心意気を以て諏訪のあるじと認められし者。その力の一端――示してくれましょう」




