(十一)銀髪の鬼⑦
「者共、出遭え、出遭え――い!!」
真っ直ぐ前を向き、あらん限りの力で危機の到来を訴える若き当主の姿よりも、月ノ丞が目を奪われたのは別の景色。
それもまた悪夢に溶けたかのように、城内の建物どころか目に映るすべてが輪郭をぼやけさせ、当主が出てきた部屋の入口のみが、くっきりと際立って見えた。
透かして見えるのは夜陰に沈む樹林のみ。
気のせいか、日頃より手入れしている植生と違って見え、そんな馬鹿なと目を凝らすもさすがに月明かり程度では判然としない。
まわりを見渡せば、蔵も塀も透かし絵のごとく朧となり、現実感さえ失いそうになる。
まるで当主の寝室が、突如として“異界への扉”と化し、自分達はそこから迷い込んでしまったのではと、倒錯に身を委ねてしまいたくなる奇々怪々なる悪夢的その光景。
「これは、一体――?」
あり得ない。いくら何でも。
諏訪の窮地に心労が祟ったのか。
あるいは、自分で気付かぬうちに寝落ちしてしまったのではないか?
「おい、月ノ丞っ」
ただならぬ臣下の様子に庭へ下り立った弦矢も異変を体感する。
「む、どうしたことじゃ?!」
「どうされました、兄上」
動揺が立場を忘れさせたか、身内呼びをしてしまった近習長も実兄の視線を追って愕然と動きを止めた。
「これ……は……?」
肩幅広い肉厚な胸と太い首。
石塊を思わすごろりとした拳に“技”より“力”の武人を匂わす豪傑漢が、夢幻のごとき異常な光景にぽかんと口を開け、驚きに目を剥いていた。
だがその時、誰もが耳にした唸り声のようなものは、その太い唇から洩れたわけではない。
ごぶるるるるぅがあ
ぶごるごぶ
ぎあぶるごぶ
間近に迫る異形の気配。
はっとしたように全員が振り返るのは、乱世の武士ならば当然の反応。
生存の危機に、常識に囚われた頭よりも、戦いが染みつく肉体が先に反応する。
そうとも。
今は異人さえ逃げ出す、あちらの脅威に対すべき時。
「兄上、あのケダモノは――?」
「さて」
首をひねる弦矢。
「『犬豪』の物好き当主めが、またぞろ厄介なヤツを山奥から引っ張り出しよった、というのはどうじゃ?」
弦矢が皮肉げに唇を歪ませるのは、苦い実例があるからだ。
犬豪 塁――。
これまで何度も煮え湯を飲まされてきた敵将は、元は西の霊峰『大白山』に人知れず棲みつく狩猟族の族長であった。それをいかなる経緯があったのか、犬豪の現当主が一族ごと山より降ろし、味方に引き入れ一軍を担わせたのだ。
その無謀とも思える登用は大当たり。
林野での戦いを得手とする諏訪家と林野戦で互角に渡り合い、諏訪勢の死傷者数は段違いに上昇、弦矢達を苦しませる元凶となっていた。
「まさか、あれも『犬豪』が誇る『四爪四牙』の一軍と?」
「そこまでは。じゃが、白山に息づくモノならば、人であれ獣であれ、尋常ならざる能力を発揮するのは間違いない。ならば、軍と云わず“兵具”と見立て、戦いに用いるのも有りかもしれぬ」
「そのようなこと――」
非常識な弦矢の見解に、反射的に否定しかけた近習長も、一度食い入るように観察した上で、最もな懸念を洩らす。
「しかし兄上。とてもあのようなモノの手綱をとれるとは……」
悍ましい食欲を見せつける餓鬼の群れに、飼い犬に噛まれる危惧は拭えない。むしろ手を出すべきモノではないと、犬豪も直感で判じれよう。
さすがに弦矢も頷いた。
「同感だ。じゃが『犬豪』や『白縫』の仕業でないとすれば、いよいよもってこの状況、儂らに理解しがたいものになってくる……」
あるいは本当に悪夢が現実になったとか。
馬鹿げた妄想に首を振り、弦矢は表情を引き締めた。それよりも今は、皆に活を入れる時。
窮地に当主が為すべきことを、弦矢は体現してみせる。
「これが悪夢であろうとなかろうと……攻め入られて黙する道理はない。よいか、皆っ。亡者共に諏訪の力を見せつけてやれっ」
「「「御意」」」
侍達が呼応する。
例え相手が物の怪であろうとも。
城攻めする者あらば、ただ返り討ちにするのみ。
あまりにも唐突に、諏訪の侍達と異形との熾烈な戦いが、始まるのであった――。




