(七)もたらされた天啓
ありし日の記憶
辺境にて――
「いいのかい、エルザ? あんただってそんなに種籾を持ってるわけじゃないだろう」
「うちは弟とふたりだけだから」
そんなに必要ないのよと少女はやさしく老婆の背をたたく。
「そうかい……? 悪いねえ。いつもなら何かとできるんだけど、今回はね……」
「また何か壊れた時、直してくれればいいわ。そうやってうまくやっていけばいいのよ」
そう言って少女は老婆の隣にいる老爺にウインクする。それを受け止めた老爺は破顔した。
「お、おお、いともさ。そん時は気兼ねなく云ってくれ!」
自信たっぷりに右腕を叩いてみせる老爺は村でただひとりの兼業鍛治師。小さな村では仕事量が少なく農業との掛け持ちをしているが、鍛冶の腕は一級品だ。
「エルザのためなら、タダでもいい」
「ちょ、お爺さん! そんな余裕ウチにはないよ」
慌てる老婆をおかしそうに見るエルザも一応のフォローを入れておく。
「ふふ。気持ちだけありがたく」
「まったく爺さんときたらっ」
小言がはじまる老婆に顔をしかめる老爺。
ふたりの仲を持とうとなだめるエルザ。
そんなどこの村でもありふれた、他愛のない和やかな場に、唐突に声をかけてくる者がいた。
「わりぃ、エルザ!」
二軒先の隣家から焦ったように駆けてくるのは、たっぷりヒゲを生やした中年だ。
肉厚な体躯のせいか小走り程度で息を切らせ、やけに真剣な顔つきで迫ってくるものだから、ちょっとした迫力がある。
思わず身構えるエルザも慎重に尋ねてしまう。
「どうかしたの、ダフィさん……?」
「フゥフゥ……いや、なに……ちょいと急用で母ちゃんと出かける必要があってな。悪いんだが、少しの間、ジェイムの面倒を見てて欲しいんだ」
「ああ、ジェイムの」
まったく何の用事かと思えば。
ジェイムはまだ三歳になったばかり。
連れ歩くわけにいかない用事なので、どうしても子守が必要だと、ダフィはいかついカラダを折り曲げ頼み込んでくる。
「頼むよ、今すぐ出発したいんだ」
「え、今から……?」
さすがに躊躇するエルザ。
「いいだろ? 頼めるのが、おまえしかいなくってよ」
「おい、おまえさん――」
見かねたように老婆が口を出したところで、
「――ええ、いいわ」
一瞬、悩ましげな表情を見せていたエルザが頼み事を引き受けてしまう。
眉をしかめる老婆。
ほっとしたように笑顔になるダフィ。
「よかった、助かる。――んで、早速で悪いがこのまま出発するからよ。あとは頼んだぜ?」
「え、ほんとに今?!」
「おう、今からだ。――じゃあ頼んだからな!」
云うが早いか背を向けるダフィ。
あまりの素早さにエルザが呆気にとられているのを、
「だったら、土産くらい用意するんだよ! 分かったのかい、ダフィ?!」
唖然と見送る少女を代弁して老婆が大声で要求する。それにダフィが応える様子もなく、小躍りする感じで駆けていった。まるで街に買い出しに行くのを心待ちにしていた子供のように。
「まったく……相変わらず調子のいい男だね」
「そのくらいでないと、村の特産をうまく売りさばくなんてできないんじゃない? きっとまた、いい商売相手を見つけたのよ」
肩をすくめるだけで納得してしまうエルザに老婆が眉をひそめる。
「……あんたも、何でも前向きに受け止めればいいってもんじゃないよ。あんたにだって用事があっただろうに」
「ご心配ありがとう」
でも、とエルザは笑顔で返す。
「そっちは後回しでも何とかなるから」
「そうは云ってもね」
もどかしげな老婆にエルザは後悔のないさっぱりした表情で告げる。
「誰かに優しくするとね……まわりまわって私に返ってくるから、大丈夫。それに、こんな小さな村だからこそ、みんなで助け合っていかないと」
「それよ、それ」
うんうんと頷く老爺の肩を軽くはたきながら、老婆は神妙な顔で少女を見る。
「そんなこと云ってるから、うまく使われるの。時には断ることも大事だよ? いいかい、ババの忠告はちゃんと聞いとくもんだ」
「ええ、本当にそれね」
「?」
「こうしてレミ婆が世話を妬いてくれる……皆を想って行動していれば、やっぱりちゃんと回ってくるのよ。ふふ」
そうしてエルザは口元をほころばせる。
人のぬくもりに幸せを感じて。
信じるものが正しかったと実感すれば、なおさら感じるものがあるだろう。
早くに父母を亡くした苦労の影はエルザの赤みが差すほっぺには見られず、老婆をいたく感心させるほどに心温かな少女へと育っていた。
そんなエルザの笑顔が少年は好きだった。
父母のいない寂しさをエルザの笑顔は癒やしてくれ、胸の中を晴れた日の陽だまりのようにぽかぽかと温めてくれるから。
村のみんなもそう思っているはず。
エルザのもたらす優しさが村にあふれて皆を幸せにしているのだから。
それはまるで魔法のよう。
優しさはまわりまわる。
まわりまわって帰ってくる。
そう信じて行動するエルザの言葉は正しいのだと確信し、少年は誇らしい気持ちでいっぱいになる。それをどうにか伝えたいと思うようになるのも、少年にとっては自然な流れであった――。
「……私に?」
ある日、少年が差しだした花かざりをエルザは驚き、それでも喜んで受け取ってくれた。その流れで思い切って感謝を口にする。
「ボクを……みんなを幸せにしてるから」
「ほんとに突然ね」
それに大げさだわと苦笑するエルザが膝を曲げ、少年の顔をのぞきこんでくる。
「あなたにだってできるコトよ」
「いや、無理だよ……」
力仕事もできないし、手つきも不器用だ。
赤ん坊の世話も結局は泣かせたまま、テンパって自分も一緒に泣き出す始末。花かざりだって、ほんとは友達に手伝ってもらったのだ。
うつむく少年の頭をエルザがそっと撫でて。
「難しく考えないで。だって、こんな素敵な花かざりをつくってくれたじゃない?」
「これは、だから、その……」
「スープを温めてくれた時も、寝床の干し草をお日様に当ててくれた時も。私のために何かをしたいと思い、してくれた。同じコトを村のみんなにしてあげればいいの。あなたにできることを」
簡単でしょ、と。
でも無理してはダメとエルザは注意する。
「無理をすると続かないし、相手に見返りを求めるようになってしまう。だから無理せず簡単に、素直な気持ちで――あなたができることをしてあげればいい。それでいいの」
特別な優しさはいらない。
自分にデキることをするだけとエルザは云う。
「うん……まあ、やってみる」
見返りうんぬんとか、話のすべてをわかったわけではなくとも。
でも彼女に「できる」と言われたのだ。
なら、できるのだろう。
少年にとって、尊敬する彼女の言葉は天啓のようなもの。
だから優しくあろうとした。
より優しくできるように、力をつけた――。
やがて成長を遂げ十代後半になったふたりは村でも評判になる。
猟師として力をつけてきた少年。
エルザの世話焼きは、“もうひとりの村長”とからかい半分で揶揄されるほどに村を支えていた。
だから、エルザに相応しい男性が現れるのも少年にとっては必然だった。
「また迷惑をかけたね、エルザ。でも助かるよ」
「迷惑なんてことないわ、ロジェ。おかげで食べ過ぎ解消できるもの」
ジャガイモいっぱいのカゴをテーブルに置くエルザが額の汗をぬぐう。輝く笑顔に不満の影はない。
それを見た義足の青年は苦笑を浮かべる。
「――それに、荷運びの謝礼としてジャガイモを分けてくれる、から?」
「そういうこと!」
分かってるじゃないとウインクするエルザにたまらず青年は笑い声を上げた。
「ハハ。まったく愉快な女性だね。善意なのか強かなのか、分からないのがいい」
「分からせないのがテクニックよ」
「ああ、ほんとに君は理想の人だ……」
さらりとしたセリフを聞き咎め、「え?」と戸惑うエルザ。
「銅貨一枚にもなりゃしないのに、君はいつでも何度でも、“優しさ”をタダで振る舞う……実に献身的な女性だ。どこぞの修道女だって、私が裕福だと知っていれば寄付金をせがんくるご時世だ」
「大げさね」
「本当のことだし、本気で思ってる。君はボクの理想だ」
「そう……?」
どこか意味深なセリフにどう返せばいいのかとぎこちない笑みを浮かべるエルザ。
そんな村娘の純朴な反応を楽しむような青年の笑み。
穏やかな眼差しと、戸惑いに揺れる瞳がしばし重なり合って。
「……あー、おふたりさん」
呆れたような声は玄関口に立つ村人から。
「手伝っているのは、ワシらも何だがねえ……」
「あ、とエルザ。ジャガイモはそこのテーブルに」
「そうね、ロジェ。ジャガイモはどこに置く?」
問答の順番も逆なら、肝心のカゴはとっくに置き終わっている。
すっかり動揺するふたりを横目に村人達はドヤドヤと入ってきてカゴを置き、「手伝っているのに邪魔してる気分だ」と皮肉って、ますますふたりを動揺させる。
「云っとくが、恥ずかしいのはこっちの方だぞ?」
「まったくだ」
「あっつくなるのは、今夜にとっときな!」
好き放題に囃し立てながら、くったくない笑顔で愉しげに去ってゆく。もちろん、「まったくだ」と相づち打った、すっかり大人びた少年も一緒にだ。
これまでで一番の幸せに包まれたエルザの笑顔に満足を覚えながら。
彼女は境遇にめげることなく懸命に働き、村に尽くし、そして何より素敵な女性に成長した。良縁があって然るべきだと少年にだって思えるほどに。
その最有力候補が、義足でも裕福らしい街からの移住者だ。
すぐ村に馴染んで街との交易に一役買っている立派な青年――ロジェ。特にエルザと馴染んでいるように見えるのは少年の穿った見方ではないはずだ。
エルザも満更ではなさそうだし。
きっと、この青年とであれば。
エルザの積み重ねてきたすべてが報われると少年は勝手に思っていた。
誰かを幸せにする人が、幸せになる。
それこそエルザの口にする言葉どおりのことではないか?
そうなれば少年自身も村も、ずっと幸せが続くような気がする。
素晴らしい未来が待っている。
(本当にいい出会いがあってよかった)
神にもロジェにも少年は感謝する。
ほんの少しだけ寂しさを感じながら、それでも少年は心の底から安堵した。
――そう、本当に安堵していたのだ。
その人にとっての、世界の崩壊は突然訪れる。
予兆があるのは大半が自業自得。
ただ当人だけが気付けないだけ。
逆に予兆がないことの大半は凶運で、つまりは天災だ。
いくら当人に非がなくとも暴威にさらされ、避けることさえ許されない。
ならば、この日の出来事はどれに当たるのか?
村人に振る舞うつもりで猪狩りに出かけた日、夕暮れに戻った少年は、初めて見る二頭立ての優美な馬車の存在に、なぜか不吉な予感を抱いた。
それは村を包む不穏な空気を感じたからかもしれない。
「レミ婆、何かあったのかい?」
「あ、ああ……それが……」
目を反らす老婆に少年の不安は大きくなる。
それが元凶だと云うかのように、少年の戻りとすれ違う形で去りゆく馬車を自然と目で追う。
まるで嵐が過ぎるのを待ち望んでいたように、ちらほらと顔を覗かせはじめる村人達。
「それでエルザは?」
「……」
「レミ婆?」
不信感をつのらせ、老婆を見やる少年。そこへ声を掛けてくるのはダフィ。
「おい、どこ行ってたんだ、こんな時に!!」
詰め寄るダフィが少年の両肩を掴む。
「エルザが城に喚ばれたぞっ」
「城に……?」
意味が分からない。
だが馬車に掲げられた紋章入りの小ぶりな旗は、貴族でもないかぎり付けないことくらい少年にも想像はつく。
「なんで城なんかへ?」
「こういっちゃ何だが、城主の目に留まる美人てわけじゃねえからな。こき使える“城働き”を欲しがってるだけだろう」
この際、ダフィの遠慮無い物言いは置いといて、確かに村一番の献身的な女性なら、使い勝手はいいのかもしれない。
でも、そうなると村での暮らしはどうなる?
いや、それより村を包む厭な空気の理由がようやく分かる。『城』といえば、この近くにあるのは辺境伯領の別邸とも言える城しかなく、時期によって子息のオーネスト様が訪れるからだ。
あの、『俗物軍団』を率いて。
実際、ダフィの声は暗く沈み込む。
「本来なら、すっげえイイ話だが……まさかよりによって、あの城じゃなあ……」
「里帰りも許されないって話だからねえ」
そう同調する老婆の声も沈鬱だ。
「そのくせ、頻繁に城働きを召し抱えてるってウワサだよ。いくら大きいたって、数としても雇える限度があるわね。キナ臭いったらない……それに、領都も良くないウワサを耳にするし」
若い娘が消える話だよと老婆。
いつの間にか、様子を見にやってきた老爺も顔をそろえて不安そうに云う。
「昔はそんなこともなかったがなあ。“伯様”がいれば、何の心配もなかったのに……エルザはどうなっちまうんだろう」
「ちょ、あんたっ」
余計なことをと老婆が肘でつつく。
老婆の話も大概で少年からすればどっちもどっちというだけだ。
実際、耳にした少年は顔色をなくして気が気でない。
「それでエルザは? ロジェはどうするんだ?!」
思わず声を荒げる少年に、
「どうたって、断れねえだろ」
しかめっつらで腕を組むダフィ。
貴族からの『要請』は『命令』と同じ。
特に人足の要求は金や食料で代わりが利かず、今の場合なら、同質の娘に替えることを許されるだけで、根本的な解決にならない。
むしろ父母のいないエルザの方が収まりが良いと言えるのだ。
さらに追い撃ちをかけるようにダフィが続ける。
「村長の話じゃ、明日の朝には迎えが来るって話だぜ」
「そんな、急に――」
絶句する少年。
一瞬で頭が真っ白になり、さらに続けられるダフィの言葉も耳に入らない。
「ちなみに、あの『グレムリン』が直々に護衛役で来るそうだ。ゼッタイ、抵抗させねえための手段だぜ」
そうして厄除けのつもりか、祈りの言葉を二度口にする。
近頃、『グレムリン』の話をしたときの所作が小さなブームになっている。戦後十年が経つ今になって過去の英雄が民衆の話題に上るのはいいとして、それが悪い噂での復活となれば凶兆でしかない。
今の『グレムリン』には、それほど“死の匂い”が纏わり付いているのだ。
「……こんなことって……」
腹の底から呻く少年。
「せっかく、ロジェという人に出会えたのに。きっと幸せになれると思ったのに……」
「あたしらもそう思ってたさ」
老婆の言葉に同意するダフィ。
「ああ、エルザはそうなるべきだってな」
「村中のみんなが、そう思ってたよ」
老婆の声は冷えてきた大地に落ちて消える。
まるで村から灯火が途絶えたように、すっかり葬式のような空気になる場。
「……っ」
少年は拳を握り締めて肩を震わせるだけ。
ただ嘆くことしかできない。
老婆は立ち尽くすだけの少年を見かねて優しく背をさする。
「エルザはロジェのトコにいるよ。あの男も死人みたいな顔になって……ちょっとコワイくらいだったが無理もない」
それでも想い想われてのふたりだと。
どちらかといえば、エルザが青年を支えるようにして自宅へと送って行ったらしい。
「あんたも彼女と話したいことがあるだろう。でも今夜はそっとしてやりな。エルザにとって……悔いの無い夜にしてやらんとな」
少年だってもう大人だ。
老婆の云いたいことはよく分かる。
だからモヤモヤした気持ちを胸の奥に仕舞い込んで、紅に染まる天を仰いだ。
ぽつ、ぽつと。
珍しいにわか雨。
いや、驚くほどの早さで山の方から暗い雲が流れてきていた。
雨滴の顔を叩くリズムが速くなる。
そのひどく冷たい雨は、気まぐれな天の無慈悲さを少年の胸に深く刻み込んだ――。
降り出した雨は、若いふたりの男女の哀しみを表すように激しくなった。
いや、村中の嘆きも含まれているに違いない。
なぜなら、眠れぬ夜を過ごす少年の苦しみだけでも、言葉に表せないほどなのだから。
「……」
少年は悪友からひそかにもらった酒を、この時とばかり口にする。
頭の中をめぐるのは、『グレムリン』に関する黒い噂。
領都に巣食う殺人鬼の影。
夜ごと若い娘の魂が邪神に捧げられるというカルト教団の存在。
どれもこれも噂にすぎない。
けれども若い娘が消えていることは事実。
「……くそっ」
少年はほてった頬をぴしゃりと叩き、気付けば家の外に飛びだしていた。
(行ってどうする――)
でも朝になってしまうと、すぐ迎えが来る。
二度と会えなくなるかもしれないのだ。
(だからって、行っても怒られるだけだっ)
想い人との最初で最後の夜を邪魔するなんていいはずがない。
例え少年であっても、そんな権利はない。
なのに、理屈では分かっているのに止まれない。
「せめて、一言だけ――っ」
当然じゃないか。
ずっと二人きりだったんだ。
ずっと面倒をみてくれたんだ。
今度はボクが支えるって思ってたんだ。
だって、この世でたったふたりの――
月明かりのない闇の中、どうして辿り着けたのか分からない。
雨は容赦なく少年のカラダに叩きつけられ、全身ずぶ濡れで泥も弾いてひどいありさまだ。
いつ転んだのか、膝と肘に滲む血や鈍痛にも少年は気付かず走り通すことができていた。
――――!!
闇を引き裂く稲光で我に返った少年の目に、一瞬だけ、ロジェの家が映り込む。
またすぐ闇に塗り潰されたが、見失うことはなかった。
なぜなら玄関の扉が開け放たれ、人の影が浮き上がったからだ。
「ロジェ……?」
少年の呟きは激しい雨音に掻き消される。
少年に気付かぬロジェはふらついた足取りで外へ出ると、雨に打たれるまま、離れの井戸まで歩いて行く。
水なら、今もたっぷり降り注いでいる。
こんな土砂降りの中、わざわざ水汲みに向かうおかしな行為に不気味さを感じ、かつ、厭な予感を覚え、思わず少年は家の中へ視線を飛ばした。
「……っ」
声にならない声を発して。
勢い込んで暖かな光を差し出す家の中に踏み込んだ。
夢中でエルザを捜す。
心臓の鼓動が速い。
なのに顔は血の気が失せたように冷たくなっているのを感じる。
それが一瞬で逆転した。
ひゅっと口笛のように息を吸って。
硬直する少年が凝視しているのは、壁に張り付けられた、一糸まとわぬエルザの白いカラダ。
否、それは正しい表現じゃない。
白地の肌には赤や青みがかった腫れの斑模様が浮き上がっていたのだから。
「……姉さ……」
それだけが少年の唇から洩らされる。
何があった?
どうしてこうなった。
何をどうすれば、こうなるんだ――?
あまりの展開に、少年の頭はついていけない。
それでも一歩、二歩と足を動かして。
ようやくそばについて、夢中で縛り付けられていた片方の腕を自由にしてやる。そのままもどかしげにもう片方を放置して、エルザの顔に手を添える。
「姉さんっ、姉さんっ、オレだ、大丈夫か?!」
「……」
エルザの目は虚ろに前を向いたまま。
焦る少年は、そっと、でも強めにエルザの頬をこする。
「頼む、姉さんっ、しっかりしてくれ! オレだよ姉さん、何があったんだ?!」
「……っ」
必死の叫びが届いたか、エルザの唇がかすかに蠢き、瞳がわずかに少年へと向けられた。
「ああ、姉さんっ」と感極まって呻く少年。
「どうしてこんなことに……っ」
「どうしてもこうしても、ないさ」
「!」
だしぬけな背後からの応えに反射的に振り返る少年。
玄関口に立っているのは、ずぶ濡れのロジェ。
「想い合ってる男女がすることはひとつだろう。ただ少し……激しくしすぎたけどね」
そうして浮かべるのは、いつもの笑み。
エルザを見つめる時の温かな笑顔。
普段通りの対応だからこそ、少年は身震いする。
「いくら弟でも蜜時を邪魔するのはいただけない」
そうして義足特有の硬質な音を立ててロジェが一歩近づいてくる。
「ようやく見つけた、献身的に尽くしてくれる特別な女性だ。ここまで献身的な女性は、街にいたってそう簡単に出逢えるものじゃない。
君には分からないだろうが、彼女は千人に一人、いや万人に一人の希有なる存在なんだ。“質”を劣せば領都なら十人はいたかな。ただあまり長くは保たなかったけど。だから領都を出て街を渡り歩くことにした……けど正直、半ば諦めていたんだよ」
なのに最初の移住で見つけたと。
もう一歩近づくロジェは満面の笑みを浮かべる。
「正に天啓だよ。エルザを見て、それが分かった。神が私の献身に報いるために彼女を授けてくれたのだと!」
ロジェは天からの贈り物を受け止めるように、両腕を広げて恍惚の表情を浮かべる。そして自分を強く抱きしめながら。
「ああ、これが幸せだと感じたよ。エルザに毎日どうやって尽くしてもらおうかと、あれこれ考えるのが、たまらなくてね。
なのに、本当に――すごくすごく愉しみにしていたのに……」
そこで言葉を途ぎらせたロジェの目が少年に向けられる。
背筋を撫でられる狂気の光。
それは大事な何かを盗られた者が放つ妄執だ。
悔しさと恨みと憎しみと。
喪失に身もだえる魂の足掻きを感じさせて。
「……だから、今夜くらい彼女と水入らずで、たっぷり愛し合いたかった」
ロジェの言葉が床の上を這う。
「これから彼女が壊れるまで、何度もするはずだったコトをっ、朝までっ、徹底的に、ヤリ納めしようと思っていたのに!!」
ロジェの恨み辛みが狂おしい憎悪となって少年へぶつけられる。怒りに身を任せて腕を振るって壁に叩きつける。
だんっ
びくりと身を震わす少年。
「早く帰ってくれ!!」
「――ふ、ざけるな!!!!」
逆に怒鳴り返す少年。
「あんた、姉さんの恋人だろ?! 好きなんだろ! それを――何やってんだよ! わけのわからんことで誤魔化すなよ!!」
理解しがたいロジェの価値観や言動に、少年は耐えきれず、押し込めていた怒りを爆発させる。
年齢差など関係ない。
耕作と猟で鍛えられた少年の肉体は、義足の青年の運動能力を凌駕する。
さほど殴り合いにならずロジェは勝手に倒れ、呻きはしても起き上がろうとしなくなった。
「はぁはぁ……あんたになら……そう思ったのに」
歯がゆさと悔しさ。
よりによってこんなゲス野郎を信じたなんて。
自責の念に駆られる少年は、幻にすぎない義兄となるはずであった青年を睨み付ける。
そして胸の奥で何かが揺らぐのを感じずにはいられない。
城からの召喚。
青年が隠していた歪みの発露。
立て続けに起きる凶事に世の不条理を痛感させられる少年の背後で、その時、咳き込む音がする。
「……姉さんっ」
慌てて少年はエルザの下へ戻る。
「……」
エルザの唇が動く。
ちゃんと少年の目を見て。
「なんだい、姉さん? 何だって?」
「ごめん……さい」
「バッ――何で姉さんが謝るんだよっ」
エルザの手を握り締める少年。
「謝るのはボクの方だっ、ずっと守ってもらっていたのに。たくさん幸せを与えてくれたのにっ」
「……て……」
「ごめんよ、姉さん。ロジェなんか二度と近づかせない。城にも行かなくていい。村のみんなで考えれば、きっと良い考えが浮かぶからっ」
少年は必死で声を掛ける。
何とか姉を安心させたくて、声を掛ける。
「聞い……」
「しゃべらなくていい。帰って休もう。姉さんはこんな目に遭っていい人じゃない。あんなに皆を幸せにしてきた姉さんが、こんな仕打ちを受けていいはずがないっ。姉さんの暖かい思いは、きっと報われるから。まわりまわって、姉さんの下へ必ず幸せが訪れるから。もし神様が忘れてるなら、ボクがきっと――」
「聞いてっ」
腕に爪を立てられ、少年は痛みよりも鬼気迫るエルザの表情に驚いて口をつぐんだ。
眉を逆立て、目を血走らせて。
最後の気力を振り絞るように、エルザは身体を震わせながら、上半身を起こそうとする。
「姉さ――」
「聞きなさい」
絞り出すような、必死な声。
少年が初めて耳にする力強い姉の声に二度驚かされる。
「伝えるのは、これが最後」
ああなんで、そんなこと。
認めたくない姉の言葉に少年は顔を背ける。
それを姉は許さず、かえって耳元で語りかける形になる。
「間違ってた」
「?」
「ぜんぶ、間違ってた」
エルザはそう二度繰り返す。
「私はただ、願っていただけ。でも世の中は、そうじゃない……」
語尾に滲む哀しみ。
それがエルザからショッキングな言葉を紡ぎ出させる。
「幸せは、与えるものじゃ――ない」
「え?」
「掴むモノ、よ」
少年の腕に感じる痛みが増す。
とてもエルザの細腕で出せるとは思えぬ握り潰しそうな力がそこに込められていた。
だが少年は腕の痛みよりも、頭を木槌で殴られたような衝撃の方を強く感じていた。
目を見開き、呼吸も忘れるほどに。
それほど持論を真っ向から否定したエルザの言葉が信じられなかった。
そんな少年にエルザは必死で伝えようとする。
魂に届けと咽を振り絞って。
「掴みなさい、マルグス――」
幸せを、と。
出し抜けに、エルザの身体から力が抜けた。
彼女を支える何かが途絶したように。
しばし放心してから少年――マルグスは知る。本当にそれが、彼女が遺した最後の言葉になったのだと。
翌朝。
エルザを弔うことは許されなかった。
なぜなら『グレムリン』が彼女の遺骸を持ち去ったからだ。
「それはそれで愉しめる」と耳にした村人全員の怖気をふるうセリフを胸に刻みつけて。
さらに許せないのは、怒りに我を忘れるマルグスを羽交い締めにした村人達。しかも直接の当事者であるロジェの罪を免責したのだ。
「何を云ってるんだ、みんな?!」
正気を疑うマルグスの言葉に、「皆の合意だ」と村長が告げる。
「さんざん、姉さんの世話になっといて……っ。そうだろ、ダフィ?」
「けど、ロジェの人脈が村の生命線になってるのは事実なんだ」
頬を強張らせ、堅い声で断じる中年。
「おかしいって云ってくれよレミ婆! 姉さんが村の支えだって云ってたじゃないかっ」
「……そのエルザがいなくなったんだ」
老婆は顔をうつむかせたまま、それだけで口を閉ざす。
老爺も目を合わせてくれない。
他の誰もが。
今や村人全員が、エルザの世話になったはずなのに、そのエルザに惨い仕打ちをした罪人を罰するどころか庇い立てするなんて。
マルグスは知っているはずの村人が、別の異質な何者かに変わったように、信じがたい思いでもう一度ゆっくりと見回す。
やがて実感する。
姉の言葉を。
「確かに、勝手に期待して、くれたのはこっちだ。それをどうするかは、もらった者が決めること。何も間違っちゃいない。むしろ正しいよな」
マルグスは大きくため息をつく。
何をやってたんだろうと。
「幸せはくれたり、もらったりするもんじゃない。自分の力で掴み取るもの。当然、弱いヤツは掴めないし、強い者だけが手にすることになる。狩りでもそうだし、当たり前のことだ」
だから『グレムリン』は好きにできるし、村人は従うしかない。弱肉強食は自然の摂理。それは自然の中にいる人間にとっても変わらぬ真理。
「それでも、工夫次第ではオレより力のある猪を狩ることもできる」
そう考えれば、諦めたり卑屈になる必要は何もない。
「すべてはオレ次第――」
そう呟く少年の表情には何が浮かんでいたのか。
「マルグス……」
「そんな顔すんな、レミ婆。オレもこれで大人になったてコトさ」
むしろ清々しいほどの笑顔をみせるマルグス。
戸惑いながらも安堵の表情をみせる村人達。
「だからオレも、与えるのはやめだ。欲しいものがあれば、必死こいて掴み取ってやる。そうするっ」
マルグスは力強く宣言する。
それは村人に対してのものでなく、はるか天上にいるであろう愛しき人への手向けであった。
数週間後――。
その村は廃村となった。
野党に焼き払われ、村人が皆殺しにあったのだ。
それが人々の記憶に残されたのは、ただひとりの生き残りであった狩人による復讐劇が、後日談としてあったため。
彼は単身野党を全滅させ、その功績をもって『俗物軍団』への入団を果たしてのけたのだ。
そこで誰もが心躍る立身出世の活劇に、ハテと首をかしげる者がいたのは確か。
それはささやかな疑問。
なぜ、拠点から遠いその村を野党が襲ったか?
それ以上に、なぜ正義感あふれる狩人が、悪い噂の絶えない『俗物軍団』なんかへ入団したのか?
それは取るに足りない謎であり、事実、解かれることは永遠にない。
なぜなら、当事者以外の者にとっては、どうでもいい話であったから――。




