(八)泡沫の約束
ギドワ属領境界の戦い
ヨーンティ――
「……男ってほんと、不愉快な生き物ね」
脳裏に過ぎる忌々しい記憶。
朧に浮かぶのは誰かの面影。
それらを力強く振り払い、ヨーンティは苦々しく呟いた。
これまでせっかく愉しい思い出を積み重ね、深い記憶の奥底に埋没させたのに。それをわざわざほじくる真似をしくさって。しかも――。
「あたしを想う男……?」
あまりに空虚で、胡散臭すぎる言葉に「どこの世界のお伽噺よ」とヨーンティは知らず半笑いを浮かべる。そんな男が存在しないことは身を以て知るだけに、片桐の偽善が鼻について仕方がない。
「男が女に求めるのは、悪趣味な“性人形”としての振る舞いよ。
いつでも薄ら笑いを浮かべて。
変態プレイも受け入れて。
ただ頭の中で歌だけ歌ってれば勝手に満足してくれる。
必要なのはあたしじゃない。男は都合のいい人形がほしいだけなのよっ」
ああ、ほんとに。
頭にきすぎて血の気が失せる。
実際、ヨーンティの身体は血肉をたっぷりと消耗し踏ん張りも利かず、今にも膝から崩れ落ちそうであったが、冷たい怒りがその倦怠感や痛みを麻痺させてしまう。
「分かった? そんな薄っぺらい演技じゃ、このあたしを騙せやしない。男を騙し、利用するのは、あたしの方。いつでも男を好きにしていいのは――あたしだけなのよ!!」
掌を自分に向けて強調し、ヨーンティが唾を飛ばし言い放つ。
同時に発動させるのは『瞬歩』の体術。
迂闊に近づかず、左へと――。
しかし、いまだ鞭で結ばれているために片桐を支点に弧を描き。その勢いを殺さず、ヨーンティはスキル発動後も走り続ける。
ぐんぐんと遠心力が増し、引き込まれそうになる片桐が、負けじと両足で踏ん張り堪え忍ぶ。
「……むぅっ」
「あっはは!! その必死な顔――」
片桐の慌てぶりを目にして、喜悦をこみ上げるヨーンティ。男を責め苛むほどに、彼女の胸奥にある厭なものが愉悦の彼方に遠ざかる。
気をよくした彼女は一周しても足を止めることなく、それどころか足の回転力を上げてゆく。
「ほらほら、もっとイクわよ――――!!」
「……っ」
一段と高まる遠心力に堪えきれず、じりじりと引きずられ始める片桐。その身を風車の軸のごとく錐揉みさせながら、辛うじて破綻を防ぐ必死の姿にヨーンティのテンションがブチ上がる。
「すごいすごい、やるじゃない?!」
「……っ」
長躯族でもなければ、三周と保たずに腕が抜けるのに。これが“魔境士族”? 辺境の男よりよっぽど骨がある。
「なら、もっとイケるわね!!」
興奮が興奮を呼び、噴き出る昂揚感を力に変えて、前傾姿勢を取るヨーンティが地を抉る勢いで蹴り込んだ。
ダンッ――――
残像を引いてヨーンティが再加速する。
小気味よい足音をズダダダと地に叩きつけるような打音に変化させ、跳ぶように駆ける足は、地にさえ着かなくなってゆく。
タン、
タン、
タン――
地を蹴り、樹の幹を蹴り。
時に味方を踏み台にして真円を描くようにヨーンティが宙空を翔け回る。
ぎゅん、ぎゅんと勢いづくその身に轟風を纏わせて。
それは正しく、二人で織りなす“人間風車”。
「……あはっははははーぁっはははひゃはひゃはははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!」
感情の制御を失ったように滅茶苦茶に笑い声をぶちまけるヨーンティ。
心底愉しんでいる彼女とは対照的に、顔を朱に染め死に物狂いで堪え忍ぶ片桐の表情は、度が過ぎる子供の悪戯にブチ切れた大人のように見えた。その頬を膨らませ、首筋に太い血管を浮き上がらせて、血走る双眸を鬼気迫らせて。
無論、愚鈍に振り回されるだけの片桐ではない。
恐らくは、彼もまたこの先の展開を予測し見極めようとしているはずであり、奇矯なヨーンティの言動も駆け引きのひとつと言えなくもない。
その読みの正しさは、すぐに明らかとなる。
まさに両者の限界間際――遠心力の最大到達点で片桐が手を放そうと狙ったその刹那。
鞭を通して微細な兆候を察したヨーンティが一手先んじていた。
「――――ふんっ!!!!」
走る勢いそのままに体重をぐいっと外側へ預け、片桐を引っ張り込むように――しかも若干自分と同じ右回りさせるように、大きく腕を振って引きずり込まんとする。
「――っ」
咄嗟に片桐が抗うも、そこは『紅の暴乱』が生む超人的なパワーが相手だ。男一人大地から引っこ抜くなど造作も無い。
ふっ、と片桐の身が浮いて。
次の瞬間には、その姿が真横へとかき消えていた。
同時にヨーンティが吼える。
これが最後だと残る力を注ぎ込んで。
「――――っりゃぁあぁあぁあああああああ!!」
大鬼女のごとき怒声を炸裂させ、ヨーンティが最大加速させた片桐を思い切り振り飛ばした。
轟――――――!!!!!!!!
唸りを上げて人影と思しき塊が疾った。
敵味方問わずに蹴散らして戦場をぶっちぎり。
そのまま横断するかと思いきや、ふいに爆裂したように腐葉土をまき散らしながら、地を縦に切り裂いて人体弾が急停止した。
――――ズザザザザザザ!!!!
勢いを失ったところで、宙に浮いていた片桐らしき人影が地に落ちる。その手に握りしめるのは地面に突き立つ一本の剣。
あの瞬間、あの状態で――?
剣を抜き放ち、そして地に突き刺したのか。
無論、できたからこそ、直線距離にして三メートルほどの地を切り裂き、吹き飛ばされる勢いを殺せたのだろう。
それがどれほどあり得ぬことなのか、凍り付いたヨーンティが口を開くのにしばらくの間を置いたことで窺えよう。
「……しぶとい、わね」
弱々しく、かすれた声にヨーンティは悔しさを紛らせる。
全身を襲うどうしようもない脱力感に、もはやこれ以上の戦闘継続は望めないと知って。頼みの右腕も、指先を動かすだけで精一杯。
最後にして渾身の攻撃を防がれてしまっては。
どうする――?
体力の枯渇で攻撃手段を失うヨーンティ。
それでもむくりと起き上がる片桐を目にすれば、彼女の小柄な身中に闘志と力が不思議と湧き上がってくる。
暴乱の影響で、この瞬間も血肉を削られ続けてボロボロのはずの肉体に、どこに隠してあったのかと驚くほどの異様な力が漲ってゆく。
それはヨーンティの深奥からの訴えだ。
あれを放置しするなと。あれは――
真しやかに甘言を弄する男。
ああいう手合いが女を一番苦しめる。
だから。
「……もう、あたしもバカよね。あんたを仕留めるまでは、どうしても退く気がしないのよ」
頭では、指揮官として隊の立て直しを図るべきと分かっている。
今後も好き放題やるために、何が何でも生き残るのが最善だと分かりきっている。
エッリもそうすべきと主張するだろう。
なのに。
戦いの続行を示すように、鞭持つ手に自分でも驚くほどの力を込めたところで、戦場の一角がざわついた。
「……が、殺られた……」
何だって?
「嘘だろ」
「エッリ様が……」
思わず、ヨーンティは声のする方を見た。
樹林が邪魔で見えるはずもない。
だが最悪の想像を避けられたとしても、彼女が負けたのだけは間違いあるまい。兵達の士気の衰えと戦況が劇的に変化しているのを感じられれば。
「エッリ――」
ヨーンティは知らず部下の名を口にしていた。
自分と似た境遇の女戦士。
底辺から抜け出すために『俗物軍団』という地獄に身を投じ、これまで以上の苦痛を味わうはめになった愚かで憐れな女。
副官候補として配属されてきた時は、丁寧な言葉遣いとは裏腹に小生意気な口を利いていたくせに。
◇◇◇
「……こうして私が這い上がれたのも、貴女が示してくれた“光”あってこそ」
まるで信者のごとき物言いを“嫌味”とヨーンティが捉えたのは、自分を見つめる彼女の眼差しに異様な光を認めたからだ。
そこに畏怖の念が含まれるのは当然として、妬み嫉みを露骨に表すのは、まともな団員ならば絶対に避ける態度。『幹部』が躊躇なく私刑を下し、その内容が陰惨を極めることを知っているが故に。
すでに壊れかけている兆候か?
「あたし男は嫌いだけど、女だからって馴れ合うつもりもないの。まして面倒なんて見てらんない」
しっしと野良犬を払うように手を振れば、彼女は同意するかのごとく深々と頷いた。
「私は貴女に施しを受けるつもりもなければ、跪くつもりもありません」
「へえ……?」
云うじゃない。
自殺行為としか思えぬ台詞も、傲慢でなく、卑屈さも見せずに堂々と口にされれば、むしろ小気味良さを感じるだけだ。ヨーンティは彼女に多少の興味を覚える。
「強気な台詞もいいけれど、こっちの配属を希望したのはあんたでしょ?」
「私は“蛾”ですから」
「はん?」
意味不明な返答にヨーンティが小首を傾げれば、彼女は神意を告げる託宣者のごとく説いてみせる。
「語弊を畏れず例えるなら……貴女は“光”。私は“蛾”。蛾が光に誘われるのは当然でしょう」
「あたしが“光”ね……」
自虐的に唇を歪めるヨーンティに「男をねじ伏せるその姿に、光を見たのです」と彼女は臆面も無く言ってのける。正に託宣だ。
「なら尊敬してもいいんじゃない? 崇められるのはゴメンだけど」
「別に貴女自身には――」
興味がない。
喉元まで迫り上がったであろう不穏当すぎる発言を、ヨーンティは精確に予測する。無論、その言葉が吐かれることなどない。しかし、言い直したはずの彼女の言葉は変わらず挑戦的であった。
「――私はただ“貴女の道”に共感を覚え、その傍若無人なまでの強さを心の底から羨望したまで。いいずれその域に立ち、力を振るってやると」
聞きようによっては“蹴落とし宣言”ともとれる発言よりもヨーンティが気になったのは別のこと。
「あたしの道……?」
なにそれと面食らうヨーンティに彼女は妖しく告げる。その瞳に昏い狂気を孕ませて。どうやら彼女の受けた託宣は“闇の啓示”であったらしい。
「世の中の男という男を、嬲り、刻んで、徹底的に貶める。必要なら、我々に服従を強いて隷属させる――その“実践の道”です」
自分の掌に異様なほど熱っぽい眼差しを向けながら、彼女は同じ熱量で言い切った。それこそが自分の望みだと。
「“貴女の道”こそが私の歩むべき道。いずれ軍団初の女だけの部隊を創設し、国内外の男共を食らいつくす。私たちならそれができる。ただ、そう望みさえすれば。……その手始めに、団内の男共を飼い慣らしてやりました」
「……どういうこと?」
耳を疑う発言にヨーンティが視線を鋭くすれば、彼女は平然と成り行きであったと主張する。団内の揉め事を団の慣らいに従い収めただけだと。
「あくまで“力には力で”応じたまで。その結果、この部隊も他の部隊も……『俗物軍団』に属する部隊はすべて、我らに服従する者達で大半を占めることになったのです」
逆に言えば、それだけの男共に彼女は襲われ、すべてを返り討ちにしたことになる。それが事実だというのなら、彼女は尋常でない生存力を身に付けたことになる。
「……あなた、覚醒させたわね?」
異能抜きでできる話しじゃない。核心を突いたつもりのヨーンティに、意外にも彼女は不満そうに顔をしかめただけだ。
「注目すべきはそこですか? 部隊の枠を越え、貴女の命令ひとつで命を投げ出す強力な死兵をたっぷりと手に入れたのですよ? もはや貴女は、団の実質的な支配者だと言えるでしょう」
「ああ、そうだったわね。なら、ヨーンティ王国でも築いちゃう?」
そのぶっ飛んだ妄想にヨーンティが戯けてみせれば、彼女はあくまで生真面目にゆっくりと首肯した。
「それもいいでしょう」
「くふ」
思わず笑ってしまう。だって。
「――本気なのね」
「その気概無くして、この場に届くはずもありません」
入団して早二年。
飢えに苛まれていたはずの彼女の胸中は、男への憎悪で黒々と塗り潰されていた。むしろ、そうでもなければ廃人か自殺の末路しかなかったろう。
肉体強度に劣る女が、たった二年で副官候補にまで上り詰める奇蹟には、それなりの理由があるというわけだ。
面白い――。
ヨーンティは内心ほくそ笑む。
惰弱な女に用はないが、骨のある女なら飼ってもいい。それが潰しの利く女なら、なおさらだ。
「……悪いけど、あたしは王国に興味なんてないわ。世の中の男を根絶やしにする覇業にもね」
彼女の願望を鼻で笑い、ヨーンティは自分の望みだけを歌い上げる。
「あたしはただ、好きなときに好きなだけ、男を料理できればそれでいいの。男に縛られず、自由に生きて――気が向いたときに遊べればね」
まるで少女のように無垢な笑顔で、白い肌の薄皮一枚下に、どこか淫靡で陰惨な狂気をひそませる。
それがヨーンティにとっての快楽だと。
その快楽を追求するのが自分だと。
何人の指図も受けるものか。
「……文句など言わせない。嫌なら別の部隊に入るのね」
そうして突き放してやると、「問題ない」と彼女はあっさり受け入れた。それどころか。
「意図しようとしまいとも……貴女の歩んだその道を、いずれ“覇業”と呼び、築き上げたその場所を“王国”と呼ぶのですから」
すべては掌の上――新人下士官と思えぬ挑発的で剛胆すぎる含みを持たせながらも、彼女は胸前に片手を持ち上げ、頭を垂れる。
恐らくは顔や首筋、四肢だけであるまい。
全身を血が滲む擦り傷で鎧う彼女の敬礼は、傍目に隷属を示す下層民にしか見えないが、すぐにそれが誤解と気付くだろう。
なぜなら、その丁寧な所作に裏打ちされた立礼に感じるのは“誠実さ”や“ひたむきさ”だから。
まるで十年来の付き合いとなる忠義の部下を思わす佇まいに、ヨーンティは意表を突かれる。
「ねえ、何の真似? ……傅くのはイヤじゃなかった?」
「団の規律を守るだけです」
形式的なものだと口にしながら、彼女は生真面目な口調でさらに留意事項を付け加える。
「配下となる以上、貴女の剣として露払いをすることになります。なので、貴女は私のおこぼれで遊ぶことになりますが、そこは我慢していただきたい」
生意気な。
だが、ヨーンティは口元をかすかに弛めてしまう。
「……いいわよ、別に。でもあなたのお漏らしだったら自分で拭くのよ?」
その後、ヨーンティは彼女が思わぬ拾いものであったことを知ることになる。
なによりも、手間の掛かる業務のほとんどを彼女がそつなくこなしている利便性にすっかり慣れてしまった自分がいた。
もはや当たり前だったのだ。
彼女がそばにいることが。
◇◇◇
「あたしの剣、折れちゃったか……」
軽い口調とは裏腹に、ヨーンティの底冷えするような視線が片桐に向けられる。
分かっている。
エッリは討たれたのだと。それを為したのが片桐でなかったとしても、胸中に湧き上がったものをぶつけずにはいられない。
その念いを汲んだかのように。
剣に縋るようにして膝立ちになる片桐に、襲い掛かる兵がいた。
「けえっ」
「くっ」
振り下ろされる斧に片桐が上半身を倒し気味に避け、剣を引き抜きざまに首を薙ぐ。
――ッキン
小気味よい音がして、片桐の手に残る剣が短くなっていた。先の無理な使い方で剣の耐久値を越えていたのだろう。
剣の半身を首元に潜り込ませた兵は事切れてしまっていたが、十分な働きをしてくれた。
「――あら。あっちも折れたみたいね」
部下の命など気にもせず、ほんの少し溜飲を下げるヨーンティ。剣士にとっての剣がいかなるものかくらい理解しているからだ。
無言で折れた剣を見つめる片桐の姿に、「ふん」と鼻を鳴らす。
「……まったく、こっちの方が割に合わないっての。どーにもこーにも、何が何でも……あんたをぶっ殺さないと、収まらないのよっ」
苦しげに吐き捨てて。
来なさいよ、とヨーンティが誘う。
――もう歩けないから。
「あんた、女を大切にできるんでしょ? なら、あたしから出向かせないで……くれる?」
まずい。
意識が朦朧としてきて、気付けば『紅の暴乱』も勝手に解けていた。
呪術のごとき疾患はヨーンティの身体から根こそぎ養分を搾り取り、まるで数百年を耐え抜いた枯死寸前の古木然となるまでに彼女を追い詰めていた。
本音は立っているのもやっとで、もはや鞭を振るう余力もない。
だからあっちから近づいてもらうしかなかったのだが。
「……早く、来なさいよ……」
亀のごとき片桐の歩みにヨーンティは苛立ちを覚える。慎重にもほどがある。それとも何らかの支障をきたしているのか? 全力で抗った反動で筋肉が疲弊しきってしまうのはよくある話しだ。
それだけでなく。
やがて、剣持つ右腕を左腕で押さえる姿に違和感を感じて、その理由にヨーンティは気が付いた。
「……あらあら。“脱臼”まで……?」
ツイてる。
利き腕を失った剣士など怖くもない。
やっぱり男の末路はこうでなくっちゃ。
笑みこぼれるヨーンティを憮然たる声が否定した。
「……左でもやれる。案ずるな」
「そぅお? さっきまでの余裕が……どっかでお散歩してるみたいよ」
もっとツツイテやりたいが、こっちもこっちでしゃべるのもきつい。
耳も少し遠くなってきた。
なのに対話を途ぎらせず、片桐が話を振ってくる。
「そういうおぬしはどうだ? 挑発し、拙者が来るのを待ち望んでいよう」
「バカね。あたしは、期待なんてしない。期待させるのが……女なの」
もう片桐の顔は霞んで見えなくなっていた。
ヨーンティが認識できるのは男の朧な影。
その影が近づくのをじっと待つ。
早く来い。
焦らすんじゃない。
心臓の鼓動が高鳴って耳障りだ。
だが近接すれば、わずかでも暴乱の作用が働き、その力で喉笛に噛みついてやれる。心臓の高鳴りはチャンスが巡ってくることへの期待感。
なのにヨーンティが気に障るのは、別の理由が頭を過ぎるためだ。
これは、どこかで体験した覚えのある状況だと。
ああ、そうか。
「……皮肉な話し、ね。あれほど……待っても無駄と、身に染みた……はずなのに」
待っても何も得られない。
頭で分かっていても自分の身体は微も動かず、あの時のようにヨーンティは今も待つだけの身。
息が苦しい。それもあの時と同じ。
だが胸の苦しみは別の理由。
ぼろぼろになった身体のせいではない。
待ったところで、心から欲するものを手に入れられないと知っているからだ。
違う、これは現実。あの時じゃない。
あの時と同じなら――
「……おぬし、本当は何を待ち望んでいる?」
何を察したのか。
探りを入れてくる片桐の声をヨーンティは別の意味に捉える。
判然としない意識の中で彼女は答える。
「……誰も……」
「誰かを?」
添えられる相の手に、ヨーンティの胸裡に秘められていた念いがするりと導かれる。
「待っていない。……待っても、無意味」
「されど、おぬしは待っている」
うそよ、とヨーンティは弱々しく首を振る。
どんなに待っても。
どんなに期待しても。
だって――
「彼はあたしを……必要としないからっ」
胸が苦しい。先ほどよりも。
影が目前にまで迫っている。
あの男の影が。
――あの若者が。
近づくほどに心臓の鼓動が早くなり、高まる期待感に押し潰されそうになる。その後に訪れる唐突な虚無感をヨーンティは知っている。
埋める術のない――底なしの寂しさを。
嫌だ。
あんなのは、もういい。
待っていたくないっ。
なのに逃げ出すこともできず、ただ胸を突く激しい後悔にヨーンティは責め立てられる。
ああ、そうだ――。
後悔だ。
忘れたくもなければ逃げたいわけでもなく。
自分が後悔したのは自ら動かなかったこと。
それに突然気付いたヨーンティは、胸の奥底に押し込めていたはずの激情が、熱水のごとく噴き上げてくるのを抑え付けることができなかった。
ねじ切れんばかりに腹筋に力を込め、張り裂けそうなほど咽を震わせて。
「……ぁぁぁぁあぁあぁああああああっ!!!!」
雄叫びを挙げた後、胸中にある想いとは裏腹で、支離滅裂な言葉となった激情を一気に迸らせる。
引き留めればよかった。
「誰も、あたしを必要としないっ」
泣いて縋ればよかった。
「あたしのそばにいてくれないっ」
身体を与えてでも、ものにすれば良かった――。
「だから男のすべてを、この手で、ぐちゃぐちゃにしてやるのよ!!!!」
ヨーンティは若者に手を伸ばした。
胸奥に埋めた念いを解き放って。
秘鞭『虚空打ち』――。
避け得ぬ距離とタイミングで、ヨーンティの激情が片桐の首へと放たれた。
*****
ギドワ属領境界の戦い
片桐 十三――
尋常ではないと思っていた。
一際甲高い声で昏き情念をぶちまけた女は、鬼気迫る形相で失くした右腕を前へ突き出し、そのままぴたりと動きを止めた。
その一瞬片桐が感じたのは首筋を撫でる冷気。
それは女の妄執が生んだ錯覚かもしれない。
血走る瞳には片桐とは別の誰かを映しているように見え、だからこそ疑念を抱かずにはいられない。
女は一体何と戦っているのかと。
そして、今や目前で頬を濡らし悄然と佇むその姿に、片桐は戸惑いながらも、ようやく合点がいっていた。
――どこの世も同じか。
それは何度も目にした姿だ。
泣くのは老人であり子供であり、女であった。
力ある者が争い、力なき者が踏みにじられる。
踏まれた者が、鬱屈した捌け口を求めて彷徨い、さらなる弱者を踏みにじる。
女もそのひとりにすぎない。
ただただ、憐れさしかない。
それはおそらく、他の者もそうなのだろう。内で腐れた行き場のない情念を相手にぶつけ、好き勝手にまき散らしているから戦場に漂う空気が濁るのだ。
「……この戦場は腐臭が強い」
志無き戦場に片桐の声も苦くなる。
戦場とは往々にしてそういうものだが、此度は格別だ。
その胸中の悲哀など女に届くはずもなく。
絶叫後、憑き物が落ちたように戦意が抜け落ち、さめざめと頬を濡らし続けるだけの女を片桐は冷たく見据える。
このまま捨て置く方もあろう。
だが片桐は左手に半身になった刀を握り、腰を落とす。
先ほど、極限まで力を絞り出した全身の筋肉が、悲鳴を挙げている。腕や太腿を小刻みに震わせながらも、片桐は息を整えた。
『想練』で心気を練り上げて。
「せめて、その邪気を祓ってやろう」
例え気休めにすぎなくとも。
研ぎ澄ました心気を剣身に乗せる心持ちで。
片桐は踏み込んで、左手を振るった。
――――キッ
その剣が刎ねたのは、いずこからか投げつけられた手斧だった。
無防備に立ち尽くす女は無傷のまま。
誰が邪魔立てしたのかと片桐が捜すまでもなく解決する。
「――――させるかよっ」
思ってもみない方角からの声に片桐が顔を向ければ、そこには肩で息する兵士がただひとり。
よほど全力で駆けつけたのだろう。荒い息を吐きながら、兵士は剣を抜き放つと覚束ない足取りで近づいてきた。
「ゼイゼイ……お叱りは、ハァ……後にしてもらいますぜ、隊長殿」
年は四十半ば。
頬に引き攣れたような傷痕を残す兵士は、片桐に鋭い視線を向けたまま、油断なく近づいてくる。
装備に目新しい何もなく、特別な力があるようにも見えず、単なる一般の兵卒と思われるが身に纏う空気が只者ではないと告げる。
後続の気配はないが何者か?
先に出されていた斥候がこのタイミングで帰隊しただけと考えるのが普通だが。
そうして剣の間合いに詰め寄ってきた兵士が、あらためてヨーンティを一瞥し、そこでぎょっとした顔で立ち止まった。
「隊、長……?」
そのまま絶句したのも当然だ。
異常に痩せ細り、片腕を失って満身創痍の姿だけでも想像し得ない状況なのに、その上――一部感情が欠落しているとしか思えぬ女幹部が、まさか、さめざめと泣き腫らしているなど驚天動地もいいところ。
片桐という敵の存在を失念したかのごとく間を置いて。
「……ああ、クソッ……」
失意も露わに兵士が吐き捨てる。
「間に合ったと思ったんだが、な」
そう告げる兵士が片桐に視線を戻した。その目にあるのは怒りではなく悔しさ。今し方口にした台詞と女の心を労る姿に、兵士にも事情があるのだと察せられた。
とても一兵卒とは思えぬ落ち着き振りで構えを解いて、兵士は片桐に訴えかける。
「見ての通り、勝負はついている。何も命までとる必要はないだろ?」
「そうもいかん」
都合の良すぎる兵士の訴えを片桐は毅然と撥ね付ける。一度きりの手合わせとはいえ、女が背負っている罪深き業を知ったのだ。
「そやつには引導を渡す必要がある」
「……相手は女だぞ?」
「今さらだ。本気でそう思っていたのなら、ここまで歪むこともなかったろう」
「!」
兵士の頬が引き攣れた。
周囲に彼女を気遣える者がいない――痛いところを突かれ、それも敵による指摘となればすぐには言葉も出まい。
だが少なくとも、兵士だけはここに来た。
その事実を良しとして片桐は告げる。事情を承知している者の言葉として。
「そやつはもう戻れぬ。ならば終わらせてやるのも、救いのひとつ」
「だめだ」
片桐の言葉を兵士が反射的に振り払う。
その身を一歩片桐の下へ近づけ、強引に女から距離を取らせるように差し向けて「それだけは、絶対にさせん――」とはっきり拒絶した。
だがそのような身勝手を許せるはずもない。
「ならばどうする?」
「……」
「その女の業を捨て置くと――?」
静かに、裁定者のごとき厳然たる声音で片桐が詰め寄るものの、『俗物軍団』の団員ならば十人中十人が素知らぬ顔で首肯したことだろう。
だが、その兵士は「わからん」と明言を避けた。その憮然たる口ぶりに、団員ではあり得ぬ葛藤を滲ませて。
「分かるのは、それでも死なせるわけにいかねえってことだけだ」
すべて理解した上で、あくまで我を通すと兵士は言い放つ。その理由が女のためだけにあるものと思えぬが、これ以上会話を続けたところで進展は望めまい。
だから問答無用で片桐は女へと歩を踏み締めた。
それを見逃さぬ兵士が抜群の反応を見せる。
「やらせないと云った!!」
四十歳と思えぬ踏み込みの切れ味で。
兵士が横から斬りかかり、片桐が上半身のみで躱しきる。その間も前へ。
先読む兵士も立ち塞がらんと歩を進め。
「止めるっ」
牽制であろう振り回される剣を片桐は易々とくぐり抜け、歩をさらに進める。
だが相手も熟練の兵士。
「だったら――」
斬撃の不利を悟った兵士が突きに変えた。
素早く二度。
浅いが速さを優先させた突き技に、疲弊しきった片桐もさすがに歩みを鈍らせる。そこにつけ込んだ兵士が強引に間合いを潰し、片桐の半剣に切り裂かれながらも肩をぶち当ててきた。
「おうっ」
「……っ」
肉を切らせて骨を断つ、覚悟の体当たり。
踏ん張りの利かぬ片桐が当たり負けして、己の血しぶきを右頬に浴びた兵士が「やらせるものかよ」と気を吐いた。
「そうでなけりゃ――寝覚めが悪いんだよ」
わずかに意識を背後の女へ向けたように見えたのは気のせいか。荒々しく息をつき、兵士は立ち塞がるように両腕を広げる。
その気概はまるで仁王か弁慶。
高められた闘志は実力以上の力を発揮させるという。まさに目の前の兵士がそれに当たるだろう。
厄介な敵の登場に、それでも片桐の視線は兵士を貫いた背後の女にあった。
「邪魔立てするなら斬る」
「俺はそのつもりでやってるよ」
一歩も退かぬ兵士。
睨み合いつつ、片桐が軽く左手の握りを確かめる。
利き手以外の抜刀術はない。
それでも振るえる剣術はある。
ならば――
そう思ったところで、さらに予期せぬ乱入者が現れるとは。
ヨ――――――――ンティイィィィ!!
どこか怖気を震わせる声の響き。
反射的に片桐と兵士が視線を飛ばすと、獣のごとき俊敏さで跳躍し、呆けたヨーンティに躍りかかる黒い影があった。
わっしと小柄な身体を掴み取った影は、二人が反応する間もなく、包帯で隠されたヨーンティの細首に顔面を叩き込む。
そのまま勢い余って地面へ倒れ込む。
すべては一瞬の出来事だ。
「はぁあっ。これだよ――」
すぐさま上げた顔の口周りは血で濡れ光り、両眼を三日月に歪めて影が恍惚の表情を浮かべる。
「この温かさ。この滑らかさ。むせるような鉄臭さこそ豊潤さの証。あぁ……熱い。肉も骨も熱を持って、俺の身体が喜びに震えているのが、すごく分かるっ。
もっとおくれよ、ヨーンティィィ。助けあおうじゃあないかぁ! なぁあぁあ?!」
再び首筋へ噛みつかんとする寸前で、影の血濡れた口に兵士のナイフが絶妙のタイミングで差し込まれる。
「はぎ?!」
「なにやってんだ、あんた?!」
信じられないと咎める兵士が驚くのも無理はない。人相はがらりと変われど、迎撃部隊副隊長の顔を見間違えるはずもないからだ。
「副隊長のあんたが、なぜ隊長を――?」
「上官だから、助けてもらうんだろ?」
血相を変える兵士に影――テオティオはナイフを吐き捨て、訝しげに答える。こいつなに云ってるんだと。
「手強い相手がいるんだよ。けど、血さえあれば俺は不死身だ。まだこの肉体に慣れてないけど、それも時間の問題だ。だからお前も俺を助けろ。俺さえいれば、戦いに負けることはないんだからなぁぁああ!!」
狂気じみた言動のテオティオに兵士は動揺も露わに訴える。
「そうは云っても、隊長はもう戦えねえ。今すぐ撤退させなきゃならねえんだ」
「だから勝てばいいと云ってるだろ?」
こてりと真横に首を倒して、不機嫌そうに兵士を睨むテオティオ。その下敷きになっているヨーンティの首筋からは、今もなけなしの血がゆっくりと流れ出ている。
今にも消え入りそうな命の灯火。
焦る兵士が懇願する。
「頼むから、どいてくれ。早く隊長を――」
「黙れ」
テオティオから兵士は離れていたはずだ。
なのに、気付けば兵士の胸が三本の鉤爪に似た何かを刻まれていた。むしろもっと近くであったなら兵士は絶命していたに違いない。
それも味方による攻撃で。
その味方であるはずのテオティオが、怒りも露わにたっぷり侮蔑をこめて言い放つ。
「人間ごときが俺に口答えするな。俺は真人のテオティオだぞっ」
「……くそがっ、本気でイカレちまったか?!」
味方を襲うだけでなく、血を求める異常ぶりに兵士の動揺と困惑が表情にありありと浮かび上がる。その様子を尻目にテオティオはヨーンティの首筋に視線を落とした。
欲望に濡れた眼差しで、優しく語りかける。
「君なら分かってくれるよね……」
無反応のヨーンティに疑念すら浮かばないのか、テオティオが口を開き異様に長くなった犬歯を披露したところで。
咄嗟に動いた片桐が、首筋に犬歯が届く寸前で、その胴を思い切り蹴り上げていた。同時に踏み込んできていた兵士の蹴り足もテオティオの脇腹を抉り抜いていた。
「ぎゃう?!」
犬のような呻き声と共に蹴り飛ばされるテオティオ。それを鋭い視線で見守りながら、片桐が隣の兵士に疑念を向ける。
「なんのつもりだ?」
「あ? 守るためだ、仕方ねえ」
兵士も前を向いたまま憮然と答える。理由はどうあれ、軍において上官に蹴りを入れるのは覚悟のいる行為だ。その気概を見せられて片桐の腹も決まる。
「……剣を貸せ。おぬしでは相手にできん」
「丸腰であんたとやり合う自身はねえ」
「次のことよりも、今を見ろ」
ゆらりと立ち上がったテオティオがあらぬ方角を見つめている。何の痛痒も感じていないらしい佇まいに、片桐は武器の必要性を痛感すると共に、湧き上がる疑念があった。
彼は一体何を気にしているのか、と。
そこにテオティオにしか分からぬ危機を察したか、その首がくるりとこちらへ向けられ、背筋を寒くさせる声で呟いた。
「……味わってる暇はないね」
悪寒を走らせた片桐が兵士に叫ぶ。
「早く寄越せっ」
「隊長を助けると誓え!」
片桐の催促を無視した兵士が、あろうことか剣を振りかざしながら突進した。
「なっ――」
「おおっ」
絶句する片桐を置き去りにして兵士が果敢に踏み込んでゆく。
左手に握った手斧を指に引っかけたか、地面へと叩きつけ、すかさず右手の剣をぶん回す。
テオティオの身体が一瞬ぐらつき――地面に叩きつけられたと思った手斧が足の甲を縫い止めていた――その隙に剣が肩口に叩き込まれる。
「……ぅあっ」
腕に走ったあり得ぬ衝撃に呻く兵士。
何をどうされたかなど兵士には一生分かるまい。
テオティオの軽い腕のひと振りで剣が弾き返され、勢いよく後背へ投げ出された右腕に兵士の体勢までが崩されてしまう。
次の瞬間、テオティオの手刀が兵士の胸を容易く貫いていた。それが急所を外れたのは熟練兵士ならではの勘によるものだ。
だが兵士の善戦はそこまで。
「ごぶっ……」
「邪魔だ」
テオティオが貫いた腕を怪力に任せて打ち振るえば、わら人形のごとく兵士の身体が投げ飛ばされる。それでテオティオは異変に気付くことになる。
「!」
兵士の影から滑り出るように現れた片桐の姿に。その手には兵士の剣が握り締められていた。
「……けぁっ」
片桐が気合いを発した。
刀と剣では斬撃の技法が異なる。その上自身の体調も大きく崩れていれば、まともな攻撃などできるはずもない。
それらの差異を埋めるために己を鼓舞し、刃先を用いて成果を上げられる有効な箇所を狙った。
即ち――狂人の眼を。
「――ぁかあっ」
一瞬で視界を断ち怯ませたところで二の太刀を。
片桐は剣柄を両手で握り、鎧に守られていない狂人の喉笛に突きを放つ。
ごつりとした鈍い手応えと共にテオティオが仰向けに倒れた。
やったか――?
「――まだ終わりじゃない」
わずかな気の緩みを聞き覚えのある声に引き締められ、同時にテオティオの首に追い撃ちとなる斬撃が叩き込まれた。
そこまでする必要が?
だが、その仕打ちが正当であることを示すように、じたばたしていたテオティオの手足がぴたりと動きを止める。
転がり離れた首の方へも片桐は何気なく目を向けて低く呻いた。
見間違えでなければ、切り裂いたはずの両眼が治りかけていたのだ。
自分達はこんな悍ましい部隊と敵対していたのか。分かっていたはずなのに、片桐は薄ら寒いものを感じて眉をひそめる。
いや、それよりも。
「悪いな。美味しいところを持っていって」
片眼をつぶる無精髭の男に、片桐は返事もせずに兵士のそばへ寄る。必死に自分を呼ぶ視線に気付いていたからだ。
死相が浮かぶ兵士の顔に淡々と告げた。
「……内臓に達している」
「ああ、話せれば……いい」
そのために急所を外したのだと云わんばかりに。
その意図は聞くまでもない。片桐の予想通りに兵士が訴えてくる。
「隊長を、助けろ」
「……」
「似てるんだよ。……死んじまった、姪っ子に」
その姪は子を持てぬ自分のクソみたいな人生で、ささやかな慰めであったと。
純真で明るく、子供らしい笑顔を見せる姪。
腐れた戦場で荒み渇ききった彼の心に、潤いをもたらす清らかな一滴。
なのに幼くして死んじまった。
「俺が知った、ときは……その兄も。妹に似た女のために、揉めて……大火傷して」
死に際に云っていたらしい。
火傷の筆舌に尽くしがたい痛みよりも、ずっとそればかりを気にして。
「その女が……幸せになれるかと」
救えなかった妹を重ねたのか。それとも別の情動が彼を動かしたのか。
すべてと云わなくとも、甥の気持ちを察すれるところが兵士にもあったのだろう。
兵士が自虐的な笑いを浮かべる。
「ばかだろ……俺も、甥っ子と同じさ」
勝手に頭ん中で繋げて、その妄想を振り払えずに命まで張って。
よりによって残虐非道な性悪女を助けようとする。そこまで分かっているのに。
兵士の手が片桐の腕を掴む。震えるその手は容易に振り払えるほど力なく。
「……戦士の、最後の頼みだ。……聞いてくれる、よな……?」
「……」
片桐の唇は堅く閉ざされたまま。
兵士の瞳は諦めを知らず、力強く片桐の黒き双眸を注視する。
実際は短い、息詰まるような睨み合いの中。
「――任せておけ」
やけにさらりとした言葉が紡がれたとき、他ならぬ片桐自身が、驚きと敵意すら込めた視線で声の主を差し貫いた。
「相変わらず堅物過ぎる」
抗議の視線をそよ風のごとく受け流し、無精髭をさする秋水が呆れたように応じる。それに片桐が異論を唱えようとしたところで、秋水の視線が兵士へと向けられた。その意味に気付いて片桐も続けば、横たわる兵士の双眸が光を失っていた。
その名前さえ聞いていないのに。
「逝ったな。言い直しはできぬぞ」
ぬけぬけと秋水が宣告するのに片桐は苦々しく反論する。
「おぬしがした約束だ」
「けど、死者はそう思っておらん」
「ならば、この女の業を見過ごせと――」
さすがに苛立ちを覚え、片桐が近くに横たわるヨーンティへ目をやり、そこでまた言葉を途切れさせる。
ヨーンティもまた、冷たい骸となっていた。
男に災いを振りまいていた女が、最後は味方の男に噛みつかれて息絶える。
はじめから、救いなどなかったのかもしれない。
「……だから、堅物だと云った」
「……」
果たされることもなければ、覚えておる者もいない泡沫のごとき約束。ならば、いくら結んでも不都合はあるまい。
そんな含みを持たす秋水の言葉など片桐には届いていなかった。
胸に蟠る靄がある。
いまも女を斬るべしとの念いがありながら、亡くなったことを無念に感じる己がいた。
その心情も秋水は察したのだろう。
「これも戦の倣いだ。収まるところに収まるのさ」
「なにも――」
片桐は秋水の気遣いを撥ね付ける。
それだけは迷いなくはっきりしていた。
濁してはならぬと。
だから言葉にする。
「あの男との約束は、果たされておらん――」
すでに争いの絶えた戦場に、片桐の重苦しい声が溶けて滲んだ。
ちらほらと隊員達が集まってくる。
敵の姿はない。
戦果は次の通り。
ベルズ辺境伯陣営『迎撃部隊』――殲滅。
ルストラン陣営『送迎班別働隊』――残り14名。
人数差と相手の質を考えれば圧勝と誇れるだろう。
それでもルストラン陣営の思惑から外れた戦果なのは言うまでもない。
想定外の戦闘は、送迎班別働隊の出鼻を挫く結果を招き、しかもその課された試練が、まだ終わりを告げていないことを彼らが知る由もなく。
『ゴルトラ洞穴門』を決戦の舞台と想定した奇襲作戦の行方には、重苦しい暗雲が垂れ込め始めていた。




