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(七)生誕の産声

ギドワ属領境界の戦い

     片桐 十三――



 開戦から間もなく、葛城剛馬が妖女を討ち、秋水ら陰師が不死身の狙撃手を窮地に追い込んだことにより、戦局に大きな変化が訪れようとしていた。

 そうなれば自ずと、もうひとつの注目すべき対決の帰趨を気にせずにはいられない。


 方やルストラン陣営の別動隊を預かる片桐十三。

 此方こなた辺境伯陣営の迎撃部隊を任されしヨーンティ。


 紛れもなく戦場の中軸を為す二人の対面は、即座の激しい戦いを予感させたが、その予想に反してしばらくは、互いの隙を窺うようなまんじりともせぬ(・・・・・・・・)膠着状態が続いていた。

 いや、そう見えるだけか。

 実際は、必殺の『殺傷圏キリング・ゾーン』で不動の構えを見せるヨーンティに対し、その間合いを潰すべく片桐が果敢に仕掛けている構図だ。それが傍目に分かりづらいのは、前に出した利き足の爪先を巧みに動かし、少しづつにじり(・・・)寄るという慎重さのため。無論、片桐にはそうすべき理由があった。



 ひゅ、と。



 ふいに、宙空を何かが疾り抜ける音がして。




     ……――――ッパァン!!!!




 鼓膜を突き刺すような鋭さで空気が打ち震わされる破裂音に、片桐の足がぴたりと止められる。

 何が起きた?

 無言で鼻に触れた指先にほんのりと付いた血の滴。

 攻撃か――。

 剣先どころか槍の穂先さえも届かぬこの位置で。それも、片桐をして視認を許さぬ攻めの速さは、先ほどまで彼が認識していたものとは雲泥の速さ。

 隠していたのか?

 それが片桐の放つ圧力を受け、彼女を本気にさせたということか。その真実が何であれ、ヨーンティが見せつけた業前に、片桐の木彫りのごとき無機質な表情の下で強い緊張感を抱かせたのは間違いない。

 故に、ヨーンティのぷっくりした唇が得意げに笑みを象るのも当然だ。


「……あとから熱くなるでしょ?」


 云われて鼻先のひりつきに片桐は気付く。その表情に出ぬ内心の動きを敏感に察したのか、ヨーンティの笑みが深くなる。


「驚くことじゃないわ。みんなそうだから。一流の探索者も名うての暗殺者も……“音より速い”あたしの攻撃は、やられてから(・・・・・・)気付くのよ。躱せっこない。――うちの団長だってね」


 小さな顎をつんと上げ、ヨーンティは絶対の自信を覗かせる。それが挑発的な言動をとらせるのか。「さあ、いらっしゃい」と白い細指で艶めかしく誘いをかける。


「あたしがしっかり、きっちり、丁寧にあんたを刻んであげるから」


 鼻を削ぎ。

 耳を落とし。

 痛みを覚える前に陰嚢を破裂させてあげる。

 謳うように拷問の術を口にするヨーンティに片桐は表情を変えることなくじっと隙を窺う。

 そうせざるを得ない。

 ただでさえ軌道や間合いが読めぬ未知なる武器に手探り状態を強いられる中、片桐を慎重にさせる理由が他にもあるからだ。



 す、と。



 ふいに、片桐が半身だけ後ろに退いていた。

 上半身が揺らがぬため、はじめからそうであったかと錯覚させる見事な動きと同時に、胸前を唸り飛ぶ手斧が(・・・)通り過ぎる。

 茂みの奥へ消えた投擲は、明らかに片桐を狙ってのもの。敵は戦いに関して“一騎打ち”やそれに賭ける“誇り”など持ち合わせていないらしい。

 先ほどから、機会あれば割り込むように襲われ、その度に片桐は迎撃や回避を余儀なくされていた。とても目の前の敵に集中できる状況になく、どうしても動きを大きく制限されてしまう。

 何という歯がゆさか。

 ヨーンティの武器の特性さえ把握すれば、一瞬で終わりにしてみせるものを。


「嫌な目ね」


 傍目には打つ手無しの状況にありながら、なお戦意が小揺るぎもせぬ片桐にヨーンティの声ががらりと変わる。その一瞬だけ。いつもの少女を思わす愛らしく甲高い声から、肌に粘り着く古年増のごとき低い声音へと。

 すぐに、いつもの声音に戻して。


「あなたの実力なら、今ので何をやっても無駄と分かりそうなものだけど。見込み違いかしら? それとも何かのチャンス待ち?」


 それを是とすれば“力が及ばぬ”と認めるも同義であったが、事実には違いない。

 抜刀術に特化した片桐の剣は通常の二尺(約60㎝)に対し三尺(約90㎝)ある。“相手に届かせずして斬り捨てる”を旨とする長尺もヨーンティの鞭を相手に意味を失う。その絶対的な差異が生み出す牙城が片桐の前に立ちはだかる。


 いっそ思い切って踏み込むか。

 それこそ何かの切っ掛けを待つべきか。


 無言を強いられる片桐にヨーンティは図星を突いたと捉えたのか。


「あらら。こーいう時のだんまりはダメよ。男なら(・・・)、強気でいかないと。根性は? 誇りは? 小娘相手にビビってちゃ、あんたの面子に傷が付くわよ。それでも男なの(・・・)……?」


 ことさら男を強調して。


「せめて剣くらい構えてみせないと」


 しまいに苦笑すら交えて、ヨーンティは腰の剣に手を掛けたままの片桐を鼻先で嘲弄する。

 対する片桐の反応は小さなため息ひとつ。


「……何とも……」


 続く言葉が戦いの喧噪に掻き消され、ヨーンティが眉をひそめて耳をそばだてる。だから片桐は、わざとぎりぎり聞こえる音量に声を潜めて彼女の気を引く。意識を巧みに逸らさせる。


「何故、そう煽る」

「……」

「短慮な踏み込みを、なぜ誘う」

「……」

「思うに、その得物の扱いに難があるとみた」

「おかしなことを云うわね」


 その明らかな作り笑いに、片桐は表に出ぬ動揺をはっきりと感じ取る。


「図星か」

「……」

「――間合いだな」

「さっきから何なの?」


 またも低くなった声音が何よりの答え。踏み込むすべてに死を与える『殺傷圏キリング・ゾーン』には某かの欠点がある。そう認めたも同然の言動に気づけなかったのか、ヨーンティが語気を強めて言い放つ。


「云ったはずよ。“誰も躱せない”って」

「――!」


 隠しきれぬ動揺が彼女に大胆な行動を取らせたのか。自ら大きく一歩踏み出すことで、強引に片桐の身を『殺傷圏キリング・ゾーン』に呑み込んでしまう。

 ただそれだけで、前後左右に逃げ場無く、凶鞭の殺意が片桐の運命を絡め取る。

 刹那に空気の爆ぜる音――ヨーンティ最速の秘鞭『虚空打ち』が炸裂した。

 なのに。


「――?!」


 ヨーンティの瞳孔が驚きですぼめられた。

 右耳を狙った鞭先が空を裂き、数センチ横脇に削ぎ落とすべき獲物がズレていた(・・・・・)

 手元が狂ったのではない。

 持ち手が赤黒く変色するほどに重ねた修練は、ヨーンティが目を瞑っても、意図した一点を精密に裂いてみせる。

 ならば認めるしかあるまい。

 どれほど信じられなくとも、片桐が人の反応速度を超える凶鞭を躱してのけたのだと。

 だが本当に――?

 先ほどと同じ、利き足を前に別の足を後ろへ大きく引いて腰を深々と落とす『弓構え』。

 腰の物に手を添えた姿勢も固着したように崩さず、まるで瞬間転移したとしか思えぬ動きは、生身で可能な動きではない。


 ――まさか異能アビリティか?


 誰もが咄嗟に浮かべる疑念。

 その一瞬に過ぎぬ思考の停滞が片桐に勝機を掴ませる――はずなのに。

 まぎれもなく、胸中に走ったであろう驚愕や動揺に囚われず、ヨーンティの積み上げた戦闘経験が次打の発動を優先させる。



「――また?!」



 連打を可能とする『双竜鞭』。その切り札を使ってもなお、片桐は受けもせずに躱してみせる。二度目はもはやまぐれではない。


 そんな――


 バカなことが。

 それでも動揺がヨーンティの攻撃を鈍らせることはない。

 なのに瞬きひとつで、鞭の不得手とする近接距離にまで片桐の踏み込みを許していた。


「え……?」


 その困惑は、体術『瞬歩』の徴候を予期できなかったからに違いない。彼女らのレベルでは使われて当然の基本スキルであり、だからこそ、その対応に熟慮して決定打にさせぬのが常識だ。


 なのに、致命的な位置へ易々と入らせてしまうとは。

 しかし救いは、それが決定打と成り得なかったことだ。


 音もなく、認識もさせずにヨーンティの喉元まで滑り寄った刃先は、その目的を遂げることなく住処へと帰ることになる。


 チン、と。


 鞘に剣を納める音だけがなぜか聞き取れて。

 元の位置から(・・・・・・)数歩下がったところでヨーンティは大量の汗を顔に浮かべていた。それが冷や汗であるなど片桐に知る由もなく、同様に顔どころか全身汗まみれになっているなど、それが彼女を救った要因だなどと気づけるはずもない。

 『異性過敏症』――。

 あの一瞬、確実に断ち切られていた命を救ったのは、彼女の男に対する常軌を逸した拒否反応。それが片桐の接近に対し、無意識に距離を取らせようとさせ、その反応が寸での所で命拾いさせたのだ。

 事実、ヨーンティの咽に巻かれた包帯が横一線に切り裂かれ、今もじわじわと血が滲んでいる。ほんの少し反応が遅れていれば、勝負は決していただろう。


「……ぐっ」


 鋭い痛みのためか、呻くヨーンティが左手の鞭を落とし、その隙に乗じて再び片桐が踏み込んだ。それが彼女の“誘い”であるとも気付かずに。


「!」


 驚く片桐に確信めいて口端を歪めるヨーンティ。

 あろうことか、片桐の踏み込みに合わせて彼女も前へ突っ込んできたのだ。

 避けることもできずにぶつかり合う二人。体当たりを意図してなかったことと、存外に筋力の強いヨーンティの身体能力もあって、互いに肉体を支え合う形で拮抗する。

 それは彼女にとってはほぼ運任せ、勘任せの突進であったのだが、その命を賭したギャンブルは彼女の方へ勝機を大きく呼び寄せる。


「男が、……いい気になるんじゃ、ないっ」


 拒否反応と痛みで顔を歪ませ、声を掠れさせながら、それでも凄絶な笑みを浮かべるヨーンティ。その勝ち誇った表情に「……おぬしも攻めれまい」と片桐が指摘すれば。


「そう思う?」


 ヨーンティが嗤う。

 ぶつぶつと顔中に紅の斑点を浮かばせて。

 それが(・・・)彼女の真の狙いだったのだ。


 『紅の暴乱』――。

 男に対する拒絶反応の極みは、接触あるいは接触相当の行為で誘発され、早められた心臓の鼓動、血流の異常増速がヨーンティの潜在能力をあますことなく表出させる。 

 反応速度の増強に筋力の限界解除、五感の鋭敏化だけでなく自然治癒力も飛躍的に高められる。そこに戦氣による相乗効果も加われば、一時的な超人の降臨となる。

 しかしそれは両刃の剣でもある。

 超人化を支える大量の酸素は空気中にあるとして、水分や栄養素は摂取しなければ己の身から削り取る(・・・・)しかない(・・・・)

 端的に言えば、命を糧にした強化であり、やはり精神疾患・・・・にすぎないということだ。


 本人さえ原理は知らず、だが迎える結末は十分に予期しながらもヨーンティは自ら選択した。

 勝利か死か――あるいは勝っても死を免れぬかもしれぬ賭けに、彼女は己の運命をベットした。それは彼女にとって、これまで何度も繰り返してきた当然の選択にすぎなかったのだが。


「……おぬし」


 荒い息づかいと衣越しに感じる高熱に片桐が異常を察したところで、ヨーンティの殺気が立ち上る。

 彼女の左手が閃くのと片桐が身を退くのがほぼ同時。


「――くっ」

「シッ」


 腹を浅く裂かれた片桐が、再び振るわれる短剣を手刀で叩き落とす。――いや、びくともしないっ。

 すぐさま突き出される瞬速の短剣を咄嗟に下がって避ける。続けてもう三歩。それでも『紅の暴乱』で飛躍的に高められた速撃が、片桐を追い立て、胸と腹の三箇所に浅く差し込まれる。皮膚を貫き、内臓に届く寸前まで。

 あと半歩、いやその半分も踏み込まれれば――。


「ひゅっ」


 絶対の窮地に端正な面立ちを初めて強張らせ、片桐が口笛のごとき呼気を放つ。

 『想練』による瞬間的な集中力の上昇。

 片桐は引き足に腰の動きを連動させ、おそらくは数多の剣士が想像だにせぬ、神憑り――いや、奇術並みの変則的な抜刀を発動させていた。


 裏の太刀『引き波』――。

 あるいは見たままに『誘い斬り』とも云う。

 争いが常の乱世ならばこそ、戦場よりも日常での有事に対応すべく生み出された片桐の剣術は、襲撃を受けた場合も想定において組み立てられている。

 即ち、退避しながら追い縋る敵を払いのけ、あるいは迎撃し得る術までも。

 本来であれば非常識この上ない考えも、“万事に備える”、“意表を突くから有効である”そうした思想を有する先達によって育まれた剣術は、奇矯なる技を嬉々として誕生させていた。

 それが片桐の才と不屈の修練によって実を結び、窮地を救うどころか、逆転の一刀を可能と為さしめる。



 ――――っ



 完璧な片桐の奇襲に対し、しかし察知して踏み止まったヨーンティの動体視力や反射神経、筋力は正に超人的だった。

 だからこそ、とさり、と落ちた左腕が片桐の抜刀の冴えを際立たせる。


「――!」

「……っ」


 信じがたい出来事に目を剥くヨーンティ。

 対して狙った頭部を落とせなかった事実に胸中で呻く片桐。

 そこで決したはずの勝負を覆したのは、皮肉にも左腕の激痛を感じさせない斬撃の切れ味ともうひとつ――ヨーンティに根付く狂おしいほどの激情だ。


おまえらにだけは――」


 歯を剥き出しにするヨーンティが、大事な鞭を捨てざまに腰元の短剣を投げつける。

 矢よりも速い投擲にまたも抜刀一閃――片桐が難なく撥ね除けた。だが斬り終わりの納刀で、柄に何かが絡みつくのに気付く。


「……やっぱり。これなら、殺気で(・・・)気付かれないと思ったの」


 右手に新たな鞭を――それも短く切り詰めた特注の鞭を――握りしめ、刀を封じてみせたヨーンティが引き攣ったような笑顔を浮かべる。同時に浮かべる大量の汗は、症状のせいか痛みのせいか――おそらく両方であったに違いない。

 彼女の指摘は、片桐が鞭を躱してみせるカラクリに気付いた証拠。思わぬ逆転の目は、その対処法が片桐の攻め手も奪っている事実。


「武器さえ封じれば、パワーもスピードもあたしが上。左腕の借りも含めて、たっぷりとお返しさせてもらうわ。――ほら、大人しくしなさいよ!!」


 刀を奪われまいと腰を落とす片桐に、ヨーンティは無駄だと力を込める。その細腕からは想像もできない馬鹿力に片桐の踏ん張る両足がずりりと地を滑る。


「……ふふ。まるで首輪に繋がれた犬ね。痛み止めになりそうな、気持ちの良い眺めだわ」


 左腕から激しい出血をさせ、見る間に血色を悪くさせながら、もはや凄愴としか言い得ぬ鬼相でヨーンティが片桐を睨めつける。

 その鬼気迫る迫力に、彼女の妄執を感じずにはいられない。


「止血をせぬと死ぬぞ」

「あ? そのザマで、まだ戯言をぬかすのか?」


 青筋を立てるヨーンティ。

 どちらが“上”か分かっていないのかと。

 それを無視して片桐は言い募る。


「戦に出るなら、情けはかけぬ。されど、死にゆく(・・・・)に鞭打つ必要もあるまい」

「……ちっ。そーいうのが……」


 途端に目が据わるヨーンティ。

 心の底の琴線を無神経に触れられたように頬や唇を大きく歪め。


「虫酸が――」


 走る、と。

 激昂するヨーンティがそう叫び終える前に。



 ――――ざんっ


 隙を突く片桐が一息に踏み込んでいた。

 だが弛められるはずの鞭は伸びたまま(・・・・・)

 気付けばヨーンティとの間合いが詰まることはなく、彼我の距離を保持する彼女の目が「ざんねん」と嘲りで細められる。


「あたしに“言葉責め”は効かないわよ? だって、『束縛術』で何でも分かっちゃうから。鞭を通して(・・・・・)あんたの動きや意図さえも、ぜぇーんぶ……お見通しなの」


 その超常的な洞察に、『紅の暴乱』による反射速度の向上と身体能力の増強で実効性を確実なものとすれば。動きの起こり(・・・)を見極められた武人一人、封じることは容易い。


「理解できた? 死ぬのはあんた。勝つのはあたし。例え腕一本になったって、このあたしを相手にカマす余裕なんて、これっぽっちもないのよっ」


 そう傲然と宣言されたところで。

 片桐の双瞳に湛えられるのは“悼み”に似た何か。いかにヨーンティが強がってみせても、巻き付く鞭を引く力の弱まりが、消えゆく命の手応えを片桐に実感させるのだ。

 事実、ヨーンティの出血量が収まりつつある。

 紅の斑点までが薄れはじめ、頬骨は痩け、落ち窪んだ両眼の劇的な変化は体内の栄養素が枯渇しはじめていることの表れであった。


 術が解ける――呪わしき過敏症の過剰反応が。


 もはや手を出さずとも勝手にふらつくヨーンティに片桐は警告を繰り返す。


「血を流しすぎだ。止血し術を解かねば――」

「うるさいっ」


 ヨーンティが絶対零度の声音で拒絶する。


「戯言はやめろと云ったはずよ。男に屈するくらいなら、死んだ方がマシ。でもただじゃ死なない。死ぬ前に、あんたの目玉をくり抜いて、一生苦しませてやるっ」

「そうするお前が、一番苦しんでいては何にもなるまい」

「!」


 片桐の何気ない指摘で脊髄を貫かれたようにヨーンティが身震いする。


「憎き男より苛まれ」

「……」

「憎き男より身を削り」

「……」

「結局は憎き男と共に果てるのが、何よりマシだと申すのか――」


 そうして片桐はひたとヨーンティを睨み据えて断じる。


「それこそ戯言だ」

「……っ」


 聞いてられぬと。

 愚かしすぎると。

 そして「何故にそう歪む」と眉を潜ませる。

 死の間際まで狂った情念に固執する女へ、片桐は憐れみの目を向けて。


「おぬしが憎むべきは、“傷つける男”ではないのか。女を裏切り、痛めつけ、鬱憤と欲望の捌け口にする下劣な輩をこそ罰したいのであろう」

「男のあんたに何が――」

「分かるはずもない」


 遮るように肯定して。

 「だが、傷つく女にこの身を寄せれば話は別だ」と予期せぬ台詞を片桐は口にする。


「は……?」

「女の親やその兄妹。あるいは仲の良い隣人でもいい。繋がり合う者としての立場ならば、気持ちを汲める」


 ぽかんと口を開けるヨーンティに、片桐は神妙な顔つきで想像を膨らませる。乱世に生きるからこそ、さんざん目にしたことがある。


「仮に――」


 そう口にしながら浮かぶのは、妻の面影。

 それは忌避すべき妄想であり、しかし一度、戦場いくさばで目にした惨状と妻を重ねてしまえば――想像だというに片桐の身体はおこりのように震え出す。

 さあっと血の気が失せ、胸の奥が冷え切り。

 愚劣な――と。

 想像の仇敵にか、あるいは妄想した己にか、片桐は胸中で罵り、全力で脳裏の光景を斬り捨てた。

 それでも自然と、剣柄を強く握りしめ、噛みしめた歯の隙間から怒りが洩れていた。


「想いを寄せる女がそうなれば(・・・・・)――元凶を斬り捨てずにはおれん」


 腕を落とし。

 足を落とし。

 想い人の苦しみの分だけ責め苛んでやると。

 その激情はヨーンティと鏡映しのごとく。

 触れる者皆、切り裂く空気を纏う片桐が、静かに問いかける。


「分かるか?」

「……」

「誰かを想うとはそういうもの。男であっても、女のために怒りもする。それは決して拙者だけが特別なわけでなく、相手を大切に思う気持ちは男女の間にて自然に育まれるもの。つまり――」


 そこで一呼吸置いて。


「拙者と同じように、おぬしを想い、大事にしてくれる男が現れるということだ。――これまでにいなくとも」


 そういうものだと。

 すべての男を拒絶する必要はないのだと。

 とくと聞かせる片桐の言葉は、しかし、ヨーンティに届くことはなかった。

 それはやけに沈んだ彼女の瞳が、諦観に浸っていることでも明らかであった。


 ◇◇◇


 不快な汗と脂のにおい。

 首筋に吹きかかる耳障りな息づかい。

 それらが世界を震わす一因でもあったのか、一際激しい律動の後、息苦しい圧迫感の消失と共に薄れて消える。 

 ベッドが軋み。

 身繕いする男の気配。

 誰かの悲鳴に似た扉の軋む音がして、足音が遠ざかるのに合わせて彼女はむくりと起き上がる。


「……」


 涎が付着するぷっくりした唇。

 咬み痕を薄く残すふくらみはじめた胸。

 白磁器を思わす滑らかな肌は、幼いからこそ瑞々しく透明感があり、男の劣情に汚されても美しさを損なうことはなかった。

 乱れた髪を整えず唇をぬぐうこともなく、彼女はベッドから軽く飛び降りて、ただの薄布としか思えぬ服を引っ掴む。

 扉を開けると、とは反対の廊下奥へ足を向けて。


「次がお待ちだ。とっとと支度しな」


 部屋で待ち構えていた恰幅のいい熟女に、息つく間もなく急き立てられる。それはいつもの台詞。同じ口調。効率よく商品・・を回すのが熟女の仕事らしい。

 用意されていた水桶の前に座り込むと、小さな水面に彼女のあどけない顔が映し出される。


 白い仮面に薄く笑みを貼り付けた人形のそれ。


 「愛くるしい」と客に褒められる表情は、近頃どうすればそれができるのか、自分でも分からなくなっていた。どうやら今日もうまくできたらしい。

 気付けば、隣の水桶に別の少女がいた。

 生気に乏しい頬。

 黒ずんだ目元。伏し目がちな姿は仕事終わりのせいばかりではない。少女もそろそろ(・・・・)なのだろう。


「……」

「……」


 互いに挨拶を交わすこともなく、使い古された布きれで黙々と水あみ(・・・)をする。

 慣れた手つきで。

 清めた身体をまた汚しにゆく。

 今日だけで何度繰り返すのか、数えたこともない。

 いつものこと。

 変わらぬ毎日。

 なのに、彼女は知らずため息をついていた。


「――たい」


 会いたい。

 お父さんに会いたい――。


 それは彼女の口癖。

 決して声に出されない、小さな胸内で繰り返される彼女の思い。この暮らしを続けられるただひとつの理由。


「みんなで、お母さんにプレゼントを贈ろう」


 ある日、三人目の(・・・・)父親に提案され、彼女は素直に頷いた。

 働き口を捜す父。

 送り迎えをする兄。

 そして働くのは実の娘である彼女と役割を分担することにして。

 身を差し出す行為には慣れてしまっていた。

 ただ、どうしても慣れないのは、肌を重ねるたびに纏いつく、不快な臭いと感触だ。それも二人目の(・・・・)父親の助言を得たことで何とか耐えられる。終わるまで(・・・・・)、声に出さずに歌を歌っていればいいからだ。


「このままだと効率が悪いな」

「泊まり込んだ方が稼げるみたいだね」


 働き始めてすぐ、父兄との相談で、彼女は住み込みで働くことになった。そのうち。


「畑が猪に荒らされてな」

「退治するまで、しばらく来れないんだ」


 面会に来る回数が次第に減っていき。

 ひと月経っても音沙汰がなくなっていた。


「――帰りたい? 何言ってんだい、あんた」


 恰幅のいい熟女が呆れた顔で彼女を見つめるに至り、彼女の不安はこれ以上なく大きいものとなった。

 ふた月過ぎても状況は変わらず。

 自分に向けられていた周囲の小馬鹿にしたような目が、苛立ちを帯びるようになり。

 季節が変わる頃には、彼女もようやく認めるよう(・・・・・)になっていた(・・・・・・)

 自分は、また(・・)、捨てられたのだと――。


 自分の何がいけなかったのか?

 自問自答を繰り返すも答えは見つからず、次第に考えることも億劫になってくる。

 その頃には、あの時、隣り合った少女を見かけることはなくなっていた。

 水桶の水面に映る自分の目元が、黒ずんでいることに彼女が気付くこともなく。

 伏し目がちな彼女の世界に映るのは、誰かの足下と擦り切れて冷たい床板だけ。

 彼女は、自分がどうしてここにいて、何をしているのか分からなくなっていた。そうしたのは自分。そのことに少しでも思いを馳せると、寂しさが募るからだ。

 苦しくてもいい。

 痛くてもいい。

 誰かが与えてくれるのは、一人じゃない証。

 でも狭隘な個室に、ひとり放置される寂しさだけは――

 埋められない穴から目を反らし、彼女は求めることさえ諦めた。

 ただ染みついた動作を繰り返し、促されるままに応じるだけ。水の冷たさや不快な臭いも、感じなけ(・・・・)れば(・・)楽になれる。

 そうしたことを彼女は少しづつ学んで、ごく自然にできるようになっていた。


「――おい、どういうつもりだ?」


 次の季節に移ろうところで。

 かけられた声に彼女は反応できなかった。

 視界の端に誰かの細い両足が見えてはいた。それは彼女たちを監督する熟女のものでなければ、体罰を与え、教育・・と称して奉仕を求めてくる肥満男のものでもなく。そこまで気付くも、彼女にはどうでもよかったのだ。なのに。


「聞いてるのか?」


 苛立ちを強める声が、彼女の身にぶつけられ、予想だにしない台詞が後に続いた。


「ちゃんと食べろよ、お前」

「?」


 視界の端の細足がこちらに近い付いてきて。力強く踏み出されると同時に、見えぬ圧力を感じて彼女は思わず顔を上げた。


「食えよ」


 初めて見る若者だった。

 彼女よりは年上で、だが少年の面影を残す彼は、茶髪の癖ッ毛に丸い鼻。

 決して整っているとは思えないが、どこか愛嬌のある顔立ちをしていた。

 茫と自身を見つめる彼女の視線を避けるように、若者が顔を逸らして「ほらっ」と促す。

 不機嫌さを表すように無造作に突き出された腕。

 手に掴む木皿には、具のない冷め切ったスープとパンの欠片。


「早くしろ、俺だって暇じゃねえんだ」


 どうしても動かぬ彼女に、見かねた若者は皿を強引に押しつけてくる。顔を逸らしたままなので、突き出された木皿が彼女の頬に当たってスープが跳ねた。


「……ぁ」

「……」


 手応えで気付いたのだろう。

 汚れた彼女を見た彼は、一瞬、口を開けたまま硬直して。何か言いかけるも歯を食い縛り、ベッドの上に皿を置くや、足早に部屋を出て行った。

 それきり戻ることはなく。

 次の日、久しぶりに客から苦情が入ったところで再び顔を合わせることになる。


「痩せすぎなんだよ――」


 湯気の立つ木皿を片手に、手の付けられていない木皿を見つめる若者はそう告げた。

 干涸らびた人形に勃つものか――。

 値引きまで要求する苦情に肥満男が怒っていると。

 彼女にはどうでもいい話しだ。

 それで済まされないのが店の立場。

 怒り狂う肥満男を熟女が宥め、新人教育の一環と称して若者に厄介事を押しつけた――そこまで彼女は頭が回らなかったが、何となく想像はできた。

 なのに若者の言葉は、想像の斜め上をいく。


「もったいねえよ……キレイなのに」

「え?」

「ちゃ、そうじゃねえ!!」


 慌てて両手を振る若者。

 勘違いするなと。


「店の大事な商品だ。栄養つけて、キレイにしてもらわなきゃ、困るんだよっ。そうだろ?」


 彼女に確認されても。

 まあ、云いたいことは分かったが。

 それでも滑稽なほどの若者の狼狽えぶりが、やけに新鮮で。


「……っ」

「何がおかしい?!」


 噛みつく若者の言葉に彼女は目を見開いた。

 笑った――?

 自分がか。

 思わず自分の頬に触れ、撫で回す。

 そんな彼女の奇行に若者が怪訝そうに眉をひそめる。


「なんの真似だ?」

「笑ったから……」

「あん?」

「笑うの、どんなだったか忘れちゃって」


 大した話しではない。

 なのに若者の顔が見た目にも強張って。

 何かをぼそりと呟くや、我に返ったように木皿を交換するとそそくさと出て行った。

 昨日と同じ展開だ。

 また、自分は失敗したのか。

 だがそれよりも、彼女が気にしたのは些細なこと。

 あれは(・・・)どういう意味だったのか。

 確かに「シュリ……」と若者は口にしたのだ。


 それから幾度、季節が変わったろう。

 彼女の身長はあまり伸びることなく、それなりに身の起伏は目立つも色気に結び付かず、同年代に比べれば、ほっそりしていた。


「気にすることねーよ。それなりに需要はあるし(・・・・・・)

「そうかな」

「そうだぜ」

「なら、教育・・してみる……?」


 彼女が上目遣いに見やれば、若者は足を滑らせ、強かに背後の壁に頭をぶつける。


「おい、大人をからかうなっ」

「ふふ。その顔でそりゃないわ」


 彼女に似て若者も童顔なまま。

 少なくとも、五歳は年上だと思うが彼女たちにタメ口を許している時点で、分別の付く社会人とは言い難い。

 色んな意味で、二人とも成長しきれないところがあった。


「俺に舐めた口を利くんじゃねえ。来週には監督官を任されるんだ。本当だぞ?」


 その子供っぽい言い草に、「疑ってないわ」と彼女は悪戯っぽく笑みを浮かべて(・・・・・・・)受け流す。


みんなも(・・・・)賛成よ。あなたって、可愛がるより可愛がられるタイプだから、ちょっと心配しちゃうけど」

「おい?!」


 相変わらずの癖ッ毛。

 懸命に整えた眉をいくら吊り上げてみせても、丸い鼻がせっかくの威圧感を台無しにしてしまう。

 実際、見てくれだけでなく若者は非情になりきれず、店側と彼女たちの間に立ちすぎるきらいがあった。

 だが、監督官候補も所詮は下っ端、いつ切り捨てられても不思議でなく、不必要な対立は若者の身さえ脅かす。


「もう少し……筋肉を付けた方がいいかもね」

「……やってるよ」


 そうして若者は右腕に力こぶをつくってみせるが、筋張るだけで“山”どころか“丘”にもならない。


「うん、こっちも可愛い」


 彼女に鼻先で笑われて、顔を背けた若者が苦々しく吐き捨てる。


「ちっ。誰のおかげで……」

「分かってる」


 すかさず彼女は真顔になって肯定する。

 心から、感謝を込めて。

 昔あった出来事を、いつものように思い出す。


「あなたのスープ、おいしかった」

「……別に、作ったのは俺じゃねえ」


 分かっている。

 でも、冷めているはずのスープが温かかったのは(・・・・・・・)、若者がこっそり温め直してくれたから。

 その後、叱られて左頬を絶対にみせなかった理由も彼女には分かっている。

 時折、彼女のことをじっと見つめていることも。


「いいと思う」

「何が?」


 いつにない優しげな若者の目線に気づき、彼女は小首を傾げる。


「今の方がだよ。客は“人形のような微笑み”が好きだっていうけど、あんなのはお前じゃない」

「……」

「いつか――」


 そこで我に返ったように、若者は口を閉ざした。

 あまりに真摯な眼差しに彼女は息を呑む。

 彼女の瞳の奥に手を伸ばし、内なる何かに触れかねないその視線。そこに込められた想い。


「……」

「……」


 彼女は待った。

 何をかも分からずに。

 でも、おそらくは、きっと……彼女を満たすもの。

 無意識のうちに、彼女が長い間、求めていた何か。

 若者が動いた。

 高鳴る心臓の鼓動。

 視線を反らすことのできない彼女は、息することもできずに身構える。

 なのに。

 期待した何かは、彼女の前を通り過ぎる。

 若者の背が扉の向こうに消えても、彼の面影が残る空間を彼女はずっと、見つめ続けていた――。


 それから若者の姿を彼女が見ることはなかった。

 監督官就任に向けた準備で若者が忙しかったこともあろう。それでも避けられた理由の心当たりはひとつしかない。

 自分はどうしても失敗を繰り返す。

 本当は何をどうすべきであったのか、彼女には後悔することもできぬまま。

 あの時、確かに触れ合った何かの続きは、永遠に失われた。

 それというのも十日と経たず、店が大火事に見舞われ、そのどさくさに紛れるように、彼女の身が解放されることになったからだ。

 街の一角を焼失させるほどの事件。

 失火の責めを怖れた関係者はそれきり行方をくらまし、若者と顔を合わせることもないまま、彼女は家路につくより他になかった。

 彼女に選択肢などなかった。

 それでも帰るべきではなかったろう。

 久しぶりに帰った家に、彼女を待つ者などいなかったのだから。


「……キレイになって……」


 彼女の頬がかすかに強張る。

 自分が今まで何をしていたかなど、相手は感付いているだろうに。

 嫌味でなく本心からの言葉は、これまで気にも留めていなかった自身の身体を意識させ、仕事に対する後ろめたい気持ちを実感させた。

 自分でも驚くほどの動揺を抑えつつ。


「それで、お母さんはいつ……?」

「二年も前かね……」


 見覚えのある近所のおばさんは、哀しげに目を伏せる。それが演技でないと分かっても、なぜか彼女の癇に障った。


「酷いもんさ。病気した途端に、あの父兄共、いなくなっちまって」


 家には食べ物以外何も残されていなかったという。

 聞けば、母親に渡したはずの贈り物もないようだ。

 いや、最初から渡していなかったのかもしれない。

 頼りの娘はおらず、父兄には捨てられて、誰もおらず何もない家で、母親は独り寂しく苦しんで……死んだのだ。


 お母さん――――


 なぜ、自分は今の今まで、ただひとりの母親を思い起こさなかったのか。

 母も自分のことも顧みない、薄情すぎる父や兄だけを想っていたのか。


 寂しがる娘のために、新しい家族を作ってくれたのに――。


 彼女は左腕に右の爪を立て、唇を強く噛んだ。

 そうしなければ震える足を止めることなどできなかった。立ちくらむ身体を、とても支えていられなかった。

 そんな彼女の状態に気付くこともなく、近所のおばさんは薄情な父兄を罵り、次いで、看病が大変だったと自分の肩を揉む。


「……ご迷惑を……おかけして」

「いいのよ、もう」


 言葉を絞り出す彼女の気も知らないで。

 それでも苦労話をひとしきり口説いた後に。


「あなたも大変だったわね」

「私は――」

「無理しないで。カリヤさん家も同じだし」


 覚えてないかしら?

 そうして娘が売春宿に売られたことを話し出す。


「シュリっていうんだけどね」

「……え?」


 聞き覚えがあった。

 軽い衝撃を受ける彼女に構わずおばさんは話を続ける。


あんたに似て(・・・・・・)可愛らしい女の子さ。愛嬌があって、お人形さんみたいだから、病気のお兄さんを助けるために身売りしたらしいよ。それを今度は元気になったお兄さんが、助けに行ってね」


 二人で稼いで、妹を身請けするのだと。

 だが。


「……ダメだった」

「そう。あれ、誰かに聞いたのかい?」


 そんなわけがない。

 単なる当てずっぽうだ。

 でも、気になる点があったせいか想像してしまったのだ。もしや(・・・)と。


「シュリちゃんが病気だか何だかで、亡くなってたらしくって……そしたら替わりに助けたい娘がいるって言い出したのよ!」

「!」

「まったく男ってもんは。女に色目でも使われてその気になったんだろうが、誰に入れ込んじまった(・・・・・・・・)んだか」


 おばさんはやれやれと首を振る。

 どうしようもないねと。

 「誰に」と云ったその目が自分に向けられたような気がして、彼女は思わず視線を反らしてしまう。

 想像は確信に変わっていた。

 そんなやりとりの後、ふいに、おばさんが探るような目を向けてくる。その時、彼女が感じた不快感の正体はすぐに知れた。


「あんた、何か知ってないかい?」

「……何をです?」

「例の火事騒ぎだよ。あれは、その兄が店に火を点けて、女と逃げたから(・・・・・・・)だって云うじゃない――」


 逃げた?

 思わぬ発言に「彼が生きている」と一瞬喜んで。

 すぐに自分がここにいる(・・・・・・・・)事実で知りたくもない事実を察してしまう。

 彼女の受けた衝撃は、なぜか母親の死よりも大きかった。


「だ、誰と(・・)……です?」

「し、知らないよっ」


 食ってかかるように彼女に強く肩を掴まれ、おばさんが驚き狼狽える。でも必死な彼女はそれどころではない。


「誰と、逃げたの……?!」


 彼女はおばさんを睨み付けた。

 だが、その瞳におばさんの姿は映っていない。引き攣れた顔を通り越し、街並みを抜けて、少女期の大半を過ごしたあの店跡を透かし見て。 

 あの時、若者が口にしなかった理由は明白だ。


 自分じゃ……ないから。


 別の誰かを選んだから。

 いや、はじめからそうであったのか。

 一瞬、胸を躍らせた喜びは、奈落に落とされて失望へと変わり、彼女の大事な何かに致命的なヒビを入れた。

 ああ、そうだ。

 若者は非情になりきれなかった。

 若さが彼に異性を意識させていた。

 彼女に示した優しさは、他の少女達にも等しく振る舞われ、勘違いした自分が(・・・・・・・・)、勝手に都合良く解釈していただけだ。


 あたしは、バカだ――


 本当に、どうしようもなく。

 父や兄に欺され。

 若者に翻弄され。

 そうして何年も、無造作にこの身を男に捧げてきたのだ。

 あの糞共にさんざん好きにさせて。


 その挙げ句にお母さんまで――


 失ったのは自分の愚かさのせい。

 でも直接の原因は、男達にある。

 そう思った途端、これまで自分の肌を撫で回し、身中に潜り込んできた男達の感触が、生々しいまでに蘇ってきた。

 まるで男の群れに放り出され、どっぷりと呑み込まれたような想像を絶する不快感。

 目や耳、口に鼻だけでなく、下腹部の穴という穴すべてに男の指や舌先、器物が挿し込まれ、汚穢な液で汚される。

 その感触の奔流に。


「……ぅ、ぉごぉええええっ」


 急に咽を何かが迫り上がり、堪える間もなく彼女は吐き出していた。びたびたと。碌な物を食していないため、黄色い胃液ばかりが唇から大量にこぼれ落ちる。

 おばさんが何か言っていた。

 放っておいてほしい。

 だが血相を変え、両肩を掴まれることで初めて気がついた。

 自分がえずきながら(・・・・・・)、両腕を掻き毟っていることに。


「ちょっと、あんた――」

「ふぐぅ……ぉぉごおええぇ!!」


 彼女は無視する。

 これでよかったから。

 自身を雑巾のように絞り込んで、裡にあるすべてを吐き出す必要があったから。

 そうしなければ、正気を保てない。

 いや、保つ必要など――。 


「…………っ」


 おばさんが硬直する。

 彼女が吐きながら、笑っていることに気がついて。


「げぇ……くふっ……ふぐぉ、ああ、はは!!」


 えずきが次第に、笑い声へとすり替わってゆく。


「はははっ……がはっ、げぇっへ……ははっははははははは!あはははは!!!!」


 血の混じる胃液を迸らせ、痛みで涙を滲ませながらも。

 不協和音の笑い声は止めどもなく咽から溢れてくる。

 それは彼女の何かが壊れてゆく音。

 そして新たに生まれ変わった彼女――ヨーンティの産声でもあった。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 火をつけたという彼は、本当に他の誰かと逃げたのかな?今となっては真相は闇の中…。 [一言] 消費され続ける日々の果てに、この絶望。
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