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(六)『第九席次』の剣

ギドワ属領境界の戦い

     葛城 剛馬――



(よもやここで出番、とはな――)


 互いの戦力が拮抗し、消耗戦の体を為しはじめたと見るや、葛城剛馬は躊躇なく戦いへの介入を決断した。

 副隊長の指示など待つまでもない。

 全体的な流れとそれに対する主立った者の動き。それさえ掴めば必然的に己が役目も見えくてる。ただし、『席付』の誰もがそうではない。一剣士の域を越え、卓越した戦術眼を発揮するのが葛城剛馬。


「敵のおさは副隊長殿が、撃ち手はあの方(・・・)が抑えよう。ならば儂が相手すべきは――」


 そうして剛相に似合わぬ理知的な視線を留めるのは、倒れ伏している味方の多い一画に、異彩を放つ拳打の士。

 荒ぶる中に繊細さが垣間見える動きを見ずとも、起伏の豊かな姿態に女と知れる。驚くべきはその疾さ。


「ほう。あるいは紅葉よりも俊敏か……?」


 むしろ踏み込みの速さに限って云えば、記憶にある朋輩のそれを上回る。それよりも。


 そこかしこに倒れ伏す侍達には、まだ息があった。

 問題は呻きに混じる切なげな(・・・・)吐息。

 あるいは、ぐったりと身を横たえる様に媚態を感(・・・・)じるのは(・・・・)何故なのか?

 その疑念もある者の表情が満足げに上気しているのを見とめれば、喘ぎであった(・・・・・・)と理解する。決め手は、今また感に堪えぬ悦を洩らし、力なく倒れる若き志士の有り様だ。

 そして鼻腔に漂う雄の臭い。


(むう。“精”を抜かれたか――)

 

 例えば女忍びが“色”を術として用いる話しは剛馬も耳にする。ただしそれは、相手を籠絡するための蠱惑術あるいは性技であり、攻撃手段として(・・・・・・・)成立するものではない。

 なのに、あの異人の女はそれを可能としたらしい。

 即ち、触れるだけで勝負を決定づける――至近距離でしか発揮せぬ制約はあるにせよ、それでもどれだけ理不尽な力であるかは言うまでもない。

 その上、精を搾り取るたびに女の動きが良くなっているようにも見える。その意味するところを瞬時に理解した剛馬は、だが、脅威を抱く前に喜悦を洩らしていた。


えぐい(・・・)術を使うなあ、姐さん」


 責める言葉とは裏腹に笑みこぼれる内心を隠すことはできなかった。そのまま二、三やりとりすれば相手の警戒心を高めるだけであった。

 女の疑念も当然だ。


「貴様、何者だ――?」

「ただの下っ端だ。九つある『席付』のな」


 それは剛馬流の冗談であり皮肉でもあった。

 格上の『席付』達に己が劣るなど微塵も思っておらず、昇格戦を無意味と切り捨て、ただ実戦に己を置き練り上げた“武”にのみ絶対の信を抱く。

 その揺るぎない念いが言葉に乗って、耳にした相手を痺れさせる。


「――!」


 女の反応は見事であった。

 その視線から感情の機微を消し去り、瞬時に闘争意識へ移行――両腕を胸前で構えて腰を落とす。

 同時にひりつく緊張感が実体化したかのようにきれいな“球体”を幻視させる。それを感じさせ、感じ取るのは互いに一流ならばこそ。

 この後に及んでなお、得物を持たぬ女に剛馬が念を押す。


「……それ(・・)で儂と殺り合うつもりか?」

「……」


 女は無言。

 細身から放たれると思えぬ“圧”に揺らぎはない。それが返事と受け止める剛馬は、すでに相手の戦力を分析し始めていた。


(腰にある物は飾りか? あの細腕では拳打よりも柔ら――いや、触れれば終わり(・・・・・・・)の妖術主体が順当か。防具の方は手甲に脛当て……鎧は胸当てのみの軽量重視……)


 構えや重心の置き方から攻撃偏重の型と知り。

 “守り”は刃物傷が多い手甲に任せ。

 “動き”は攪乱よりも突進に重きを置いて、“攻撃”は渾身の一手(・・・・・)で解き放つ。

 そこから見えてくるのは――


(踏み込み自慢の一撃重視。仮に、踏み込みに攻撃を合わせられても、手甲で防御、交差気味の一撃で仕留める――そんなところか)


 対峙しただけで、剛馬は即座に相手の戦闘法を丸裸にし、有効策を模索し始めていた。当然、そこには想像と現実との不具合が生まれもする。その不具合は実戦を通して急激な速さで修正が図られる。

 そしてすべての修正を終えたとき、天啓のごとく撃破までの“詰み手”が彼には示される。


 それが葛城剛馬の『対象流』。

  『天羅看破』の極意である――。


 『陰流』の目録を得た人物を師と仰ぎ、相手と己との心気合一を独自に目指して辿り着いたこの境地。それを完成させるのが己の道と定め歩んできたのだ。

 その力を発揮させるにも、手合わせしないことには始まらない。


「……どうした、来ないのか(・・・・・)?」


 これまで、女との短い対話の最中、さりげなく隙を作り誘ってみたが乗ってこない。初顔合わせでありながら、視線に憎悪すら込める女に疑念を覚えつつも、容易に釣り上げられると思ったが当てが外れたようだ。

 あるいは罠と感じたか? 別に先手を譲ったところで対応してみせる自信が剛馬にはあるだけなのだが。


「まあ、いい。儂からゆこう――」


 刃の分厚い段平だんびらを左の肩口から首の後ろへと乗せながら、女に近づいてゆく。

 隙の多い大胆な構えは女への挑発であり、油断を誘うためでもある。そしてこちらの手を読ませぬ意図も含まれる。

 その歩みは大股でありながら繊細に地を滑り。

 並の男に倍する体躯の厚みで空気を静かに押し退ける。

 まるで岩が迫ってくるような重圧に、しかし、女は微も揺るがず足に根を生やす。その白き相貌に浮かぶは退くことを拒絶する剛馬への殺意。

 そこに女子おなごと思えぬ強固な気概を感じて、「見事――」と剛馬は心から感嘆し一刀を放っていた。



 ――――ギッ!!



 女が目を瞠るのは、先手を取れなかった故。

 鈍重な巨漢の機先を制するつもりであったのは疑う余地もない。

 事実、彼女は踏み出しかけた姿勢で(・・・・・・・・・・)剛馬の剛撃を受け止める羽目になっていた。むしろ、咄嗟に右腕を掲げ防いだ彼女の反射神経にこそ、驚嘆すべきであったろう。

 それでも受けきることは叶わず、大人に殴り倒された幼児のごとく女は軽々と地べたに打ち据えられて二、三転する。

 続けて叩きつけられる剛馬の次撃。

 それも転がり躱して、あろうことか女は両足を畳み、剛馬の顔面へ向けて蹴り込んできた。突風に顔面を叩かれ――


「――おっと」


 半歩身を退いて顔面すれすれでやり過ごす剛馬。すぐに身の危険を察して慌てて大きく跳び退るも一歩及ばず。


「――遅いっ」


 女の勝ち誇った声。

 蹴り足こそ虚撃で本命は手による接触――『情渦インモラの手(ル・ハンド)』。

 克己心の強い幾人もの隊士を劣情の渦に呑み込んだ悪夢の五指は、剛馬の腹にしっかりと添えられていた。なのに眉をしかめさせたのは彼女の方。


「……貴様、鎖帷子チェイン・メイルを?!」

「ひとつ、解したぞ(・・・・)


 それは驚愕と確信の交差。

 妖術の発動阻害でその特性がひとつ明らかとなり、同時に勝敗の天秤が幾ばくかであっても剛馬へと傾くことになる。

 その確信が自信溢れる表情を剛馬につくらせ、これみよがしに胸元を掻き開き、特製の鎖帷子をちらつかせてみせる。

 それもすべては、心的優位に立つための打算にすぎない。


「自慢の術も防具越しには効かぬようだな」 


 その追い打ちも心算のひとつ。


「ふん。好きに捉えるがいい」


 負け惜しみか否か、再び間合いを空けた女が硬い声で吐き捨てる。ただ、強がってみせたところで剛馬に通じるはずもなく。

 集中力の乱れを見抜いた剛馬は相手の土俵に乗る覚悟で大胆に詰め寄った。その無謀すぎる行動は、狙い通りに女の敵愾心を煽る。


「――舐めるなっ」


 剛馬の無造作な一歩を盗み(・・)、足が宙にあるうちに懐へと跳び込んでくる。それに反応した剛馬が強引に足を中途で踏み下ろして一歩を半歩に(・・・・・・)切り替えた。


「?!」

「むんっ」


 そのまま最短で――刃を振るわず左の剣柄で女の腕に叩きつけ、すかさず右の脇差しを抜いて首を刈りにゆく。



 殺った――

「!」



 勝利を確信するもまさか、初見であるはずの二刀使いを見切られるとは。それだけでなく。

 女は仰け反るように躱しながら、足を脇差し握る右腕に絡ませ、両手に抱え込もうとする。

 速い。

 咄嗟に出たとは思えぬ滑らかさで彼女の四肢が絡みついてくる。


「――ちぃっ」


 極まれば『腕ひしぎ』――靱帯を挫く術理は扇間との仕合で苦い経験がある――一瞬早く剛馬が右腕を抜き、難を逃れる。

 しかしギリギリで獲物を逃した女は、宙で身を翻すや地面に片膝着き、そこから立ち上がる勢いのままに――



 拳技スキル『三才撃』――



 天(咽)、地(膻中)、人(鳩尾)から為る三つの要衝を下から雷のごとき連撃で撃ち抜いた。一点でも極まれば大打撃。しかして女は千切れんばかりに唇を噛む。


「……ちっ」


 苦々しい表情で睨み付けてくる彼女に、段平の腹で受けきった剛馬は思わず感嘆を洩らしていた。


「……いい反応だ。二刀を抜いて斬れなかったのはいつぶりか」


 称賛のつもりでも言葉に自慢が含まれていては逆効果。当然、彼女の癇に障ってしまう。いや、それも彼の心算か。


「おい、さっきから舐めたことばかり云ってくれるね」

「?」


 不審げに目を細める剛馬に「そういうところ(・・・・・・・)がだよ」女の怒気を孕んだ視線が打ち込まれる。

 上から目線が気にくわないと。


「どこの男も皆同じ。女を必ず下に見る。その肥大しきった“傲慢”、このエッリがぶち折ってやるよ――」


 啖呵を切るなり、女――エッリが半眼に閉じた。

 腰の両脇あたりから掌を上向けてゆっくり息を吸い、胸前で両腕を交差させ、一気に下方へと振り払う。


「呵っ――」


 息吹。

 ただ一発で、エッリの裡に何かが溢れ、細身から放たれる“圧”が一段増す。普通はそうならない。しかし、数名の男から搾り取った精気は、彼女の裡で混じり合い、特殊な息吹によって容易に密度の濃い戦氣へと昇華される。

 明らかに“脅威”が跳ね上がったことに気付きながら、それでも剛馬はしれっと尋ねてみせる。


「……それで、何が変わるんだ?」

「変わりはしない。いつものように、あんたわたしにひれ伏すのさ」


 確信に満ちた顔で、今度は女の方から歩み寄りはじめた。

 力強い踏み込みを封印し、ゆるやかな歩みに絶大なる自信を覗かせて。

 しなやかに片手を挙げる様も美しく。

 掌を天に晒し、高みから睥睨するがごとき表情で声を響かせた。


服従せよ(オーダー)


 周囲の空気が変わった。

 何がかは分からない。

 だが、エッリが掲げた掌を“ぐっ”と握りしめると、周囲にいた数名が一斉に剛馬へ向かって躍りかかってきた。

 斬り結ぶ最中であったため、安易に背中を見せて斬られた者もいる。それでも委細構わずに、女王の命に絶対服従する蟻のごとく、敵の男共は躊躇なくその命を投げ出した。


「おいおい……」


 捨て身と気付いた剛馬が厄介そうに呟き、左右へ二刀を持ち上げ待ち構える。それへ急な命令にも関わらず、駆け寄る勢いを止めるこなく、敵が息を合わせて斬りかかってくる。

 呼吸を計る剛馬。


「むおぁ!」


 右からくる者の武器持つ腕を左の段平で斬り飛ばし。


「ぢいっ」


 左からくる者の両手首を、段平を斬りつけた勢いで回転しながら右の脇差しで斬り飛ばす。その回転力を維持して――


「――っ」


 背面から、わざと無言で斬りかかってきた者に、気付いていた剛馬は二回転した勢いで二刀を叩きつけていた。

 攻撃してきた剣諸共に敵の胸部に押し込んで。

 ミシメキと胸骨を複数折られた敵は肺をやられて吐血し、白目を剥いてぶっ飛ばされる。

 攻防は一瞬。

 無傷は剛馬ただひとり。


「……っぐおお」

「……ふぐっ、ふぐっ……」


 腕を断たれ前屈みに苦しんでなお、女王の命を遂行しようと顔だけは上げる二人へ、剛馬が介錯をせんと視線を向ける。そこへ。


「――無駄だ」


 音もなく、すぐ背後まで忍び込んでいたエッリ。

 それを“先の繰り返し”と断じる剛馬。

 しかして振るわれた剛馬の一刀を、先ほどとひと味違う鋼の打ち合う響きが否定した。


「む?」

「馬鹿が」


 エッリが薄く笑う。


「“女が男に力で劣る”と誰が決めた?」


 それが不遜だと。

 虫酸が走ると。

 右腕一本で確実に受け止めたエッリの左足は、腐葉土が堆積する地面に深々と埋まっている。剛馬の放った段平による一刀が軽くはないことの証左でもある。

 ならばこれは偶然ではない。


 『鎧体がいたい』――『絞り』の技術を防御に応用した技である。

 『拳闘家フィスト・ファイター』の上級職には『掌術士』があり、そこで基本であり、かつ極意とされているのが『絞り』の術理。

 攻撃においては、地を蹴り生まれた力を攻撃として解き放つ一点へいかに素早く絞り込むか。

 防御においては、同様の術理でいかに受けの一点へ素早く絞り込むか。

 単純にして奥深いその技法を、彼らは生涯を掛けてひたすら練り上げる。そうでもしなければ実戦レベルまで体得することさえ難しいからだ。

 故に『掌術士』の門戸を叩く者は、創設者であろうと信じられている修道僧が大半であり、即戦力を求める者は実践重視の『拳闘家フィスト・ファイター』を目指すのが通例であった。当然ながら熟練に時間を要する『絞り』の術理など教えるはずもない。

 ならば彼女はどうしてそれを会得しているのか疑念が湧くも、今の問題はそこではない。

 剛馬の優位となる一点が削られた(・・・・)という事実。それが対戦において、確かな負の要因となる。


「私には見える(・・・)――お前がひれ伏す瞬間がな」

「そうか――?」


 意に介さず剛馬が段平を持つ手に力を込める。丸太のごとき腕が膨らみ“握り”が軋む。

 エッリが防御に左手を添えた。ただそれだけで傾きかけた右腕がぴたりと止められる。剛馬の半分にも満たぬ細腕で。それも妖術かと剛馬が挑戦的に歯を剥き出し、さらに力を込めれば。



 ふっ



 エッリの姿が消え、勢い余った段平に剛馬の身体が平衡を崩される。構わず剛馬が右の脇差しを真横に薙ぎ払えば、そこにエッリの姿が。


「!」


 乗り出しかけたエッリが足を止め、刃を鼻先で掠めさせる。それが回避でなく攻撃のため(・・・・・)と知ったのは、直感が先。

 牽制の効果があるうちにと、剛馬が体勢を立て直そうとしたところで、ぞわりと悪寒が走ったのだ。

 その予見は正しい。

 牽制程度の攻撃なら捌ける――そこまで読み切ったエッリの策と技倆が剛馬を窮地に追い込んでいたのだから。


「――っ」


 咄嗟に腕を縮めて逃げる分、エッリは切れ味鋭い『踏力』で短く踏み込んで、今度こそ確実に接触を果たしてのける。


「ぐむっ」


 脳天へ突き抜ける悦楽。

 耐え抜く暇もなく、出し抜けに洩らしかけ、剛馬は呻いた。それは苦痛か快楽なのか。もはや判別付けられぬ感覚の乱れも効能の一種と言えようか。

 しかも、まだ放っていないのに、精気だけは抜かれたように剛馬の目元がわずかに隈をつくる。代わりに艶を増すのはエッリの相貌。

 だが血色が良くなるにつれ、無数に走る蚯蚓腫れのような傷痕がまざまざと浮かび上がる皮肉さよ。

 ただ当人だけは委細構わずに、耐え抜く剛馬を追い込むことにのめり込む。


「しぶといね。けど無駄な足掻き」

「……ふぐ、がぁっ」


 今度こそ、しっかと掴まれた。

 手首を握りしめる白い指も掌もひんやりと冷たいのに、そこから伝わる波動は滾るような熱を持って体中を駆け抜け、蕩けさせる。

 歯を食い縛り懸命に抗う剛馬。


「よしなって」


 厳しくも、いたわるように。

 エッリは妖しく誘い込む。


「いいのよ、味わって(・・・・)――」


 エッリが初めて唇の端を綻ばせた。

 艶然と嗤う表情は自身も愉悦を感じているように。それが歪んだ悦びであると傍から見れば気付くであろうが。今の剛馬に察する余裕などあるはずもない。

 それでも想像以上に粘る剛馬にエッリがさらなる力を込めようと視線を鋭くさせた時、それが驚きに見開かれた。


「――?!」


 剛馬が笑みを浮かべたのだ。

 顔は煮滾る鍋のように朱に染まり、明らかに唇を引き攣らせながら、それでも大きく笑みをつくり。


「……こんな、一方的なのは(・・・・・・)……好きじゃねえ」


 別嬪さんが相手なのは嬉しいけどよ、と。

 信じがたい我慢強さ。

 並の男なら立て続けに五度は精を迸らせ、血すら滲ませ倒れ伏している。それほどの情欲の嵐に呑まれながらなお、自我を保つ化け物に、エッリは唖然と口を半開きにする。

 そして思わずエッリが手を放せば、途端に剛馬が大きく荒い息をついた。エッリの前髪が揺れるような激しい吐息を。

 何度も。何度も。

 それでもなお、今にも倒れそうでありながら、意識を毅然と保つ剛馬にエッリは唇を歪める。


「くそっ、なんで……」

「……聞こえなかったか?……」


 額や首筋に汗を浮かべ、流しながら訝しげに眉をひそめる剛馬。


「さっさと……終わらせたいだけのまぐわい(・・・・)じゃ、納得できぬのさ」

「……この、減らず口をっ」


 エッリが怒りも露わに再び腕を取ろうとする。

 剛馬は逃げなかった。

 素直に腕を取らせ、囮にした成果としてエッリを抱き寄せる。

 狙いは『胴締め』。先に見せたエッリの防御がいかなるものかを体験したからこそ、瞬間的な力で拮抗しても純粋な腕力勝負では自分に叶うまいと察していた。

 戦場剣術として磨き上げられた抜刀隊の戦い方は、概して武器すら拘らず勝利のみを求める傾向にある。故に剛馬は平然と『胴締め』を敢行する。しかし。



「――?!※○▲――」



 太い両腕で抱きすくめた途端、エッリの細身がびくりと震え、筆舌に尽くしがたい形相の変化にさしもの剛馬も驚いた。

 その一瞬の隙にエッリは飛び退き、狂乱じみた動きで一気に間を空け、背後の樹木に激突する。


「……ぉぉ……あっ」


 樹の幹に容赦なく後頭部を打ち付け、首を振る。まるで頭に張り付く何かを振り払おうとするかのように。


「がぁっ、がぁっ……」


 足りずに腕を掻き毟り、見る間に血みどろにさせて、頬にも爪を立てる。

 半狂乱の自傷行為。

 いや、必死に何かを擦り落とそうとしているだけだ。その手法が過激すぎて傍目には異常行動に映るだけ。


「男がっ、カスがこの私に……っ」


 女とも思えぬドスを効かせた声。

 それはなぜか嗚咽にも聞こえ、剛馬に眉根をきつく締め上げさせる。


「お前、一体……」


 怒りに見え隠れする底なしの恐怖。自分に、いや男に対する絶対の拒否。そしてそれ以上に強烈で昏く煮詰められたような怨嗟と憎悪の熱がその碧い瞳を焼き締めていた。

 

「させるものかっ。二度と……私にっ」


 剛馬でさえ圧倒されるどす黒い熱量。

 実際目の錯覚か、エッリの身より薄く黒い靄のようなものが沸き立つように見える。

 黒い『戦氣瘴』。

 剛馬はそれを知らず、ただ、エッリの中の“闇”が決して拭えぬものだと悟るだけだ。

 そう。

 彼女は彼と戦っているわけではない。

 あるいは人類の半数を死滅させても、終わりは見えないのかもしれない。

 永遠に闇に苛まれ、同じように他者を責め続けるだけだ。

 苦痛を味わうだけの果て無き旅路。

 そうと気付けば剛馬の昂揚感は霧散していた。

 確かに彼女は強い。だが、その強さの正体を知った今、素直に愉しめる気になれない。それだけだ。ならばもう。


三手だ(・・・)――あんたは紛れもない強者だよ」


 『天羅看破』の告知。

 通常は一手。

 抜きん出た手練れが相手であれば二手まで粘る。

 だが三手を超える者は稀である。

 剛馬は三手を要するエッリの実力を心から称え、そして憐れんだ。それが例え身勝手な同情だと責められても。


「儂はあんたを救えぬし、その義理もない。だがせめて、その悪夢を終わらせてやることはできる」


 剛馬に敵と心通わせるつもりはない。

 だが憐れと思う女を救うて何が悪い。

 この者は、戦乱の世で時折(まみ)えてきた亡者・・と同じ。生き地獄に疲れ果て、身も心も擦り切れてしまった生ける死人だ。

 思えばそれを成仏・・させたことが、剣を握る切っ掛けでもあった。ならばこそ、彼に迷いはない。

 剛馬が駆けた。


「おおっ」


 腹にわだかまる何かを吐き出すように気を吐いて。

 エッリもそれに呼応する。


「――かぁあああ!!!!」


 迫る男に身震いするかのように。

 ぶわりと黒い靄が毛穴という毛穴から洩れ出で、その身を包む。

 見る間に痩けていく頬。

 無意識のうちに、溜め込んだ精気を強力な『戦氣瘴』に食わせ育て上げ、身に余る“力”を手に入れる。

 存在感が、二廻りほど大きくなったエッリの異常を、剛馬は“芯に変わりなし”と気にせず突っ込んだ。


服従せよ(オーダー)


 エッリがまたも捨て身を命じ、新手が招かれる。

 剛馬は脇差しで受け流し、強引に前へ出た。肉体が黒い靄に触れ――脳内が桜色に染まる異常を察知する。

 鼻腔をくすぐる甘い汗の臭い。

 目が落ち窪み、さらに頬を痩けさせたエッリの相貌がすべてを物語る。


体臭か(・・・)――?!)


 剛馬が黒い靄に紛れ込む罠に気付いた時には遅かった。

 甘美な愉悦が全身を駆け巡り、鈍った感覚で背面からの攻撃に気付けただけでも御の字。

 直感頼みに段平を背に回して防ぎ、隙を突くエッリの回し蹴りに脇差しを翳して迎撃を試みる。



 ――クンッ



 それが直前で軌道を変化させるとは。


「――っ」


 咄嗟に歯を食い縛り、首筋を締める剛馬。

 戦氣瘴で威力が増した蹴り足が側頭部に炸裂し、その衝撃で視界に火花が飛び散った。

 だが体重差で威力が制限されたのが救いとなる。

同時に味わうはずだった戦氣瘴の侵食や劣情の猛威を防いだのは、自信に満ちる気力のなせる業と気付くこともなく。



  ――ザッ

「――させんっ」



 懐に潜り込もうとするエッリに一瞬早く気付き、剛馬は咄嗟に脇差しを唐竹割りに振るった。

 エッリを狙いの位置に避けさせ(・・・・)、意表を突く前蹴りをぶち込んで。それでも腕の交差で受け止めてみせるエッリ。

 だが、すべては『天羅看破』の導く二手。


「――!!」


 わざと持ち上げるような角度で放った強撃に、当然小柄な身体は為す術もなく浮き上がり、後ろへ吹き飛ばされる。

 すかさず前蹴りからの踏み込みで、追いすがる剛馬。

 浅く背中を斬りつけられるのも織り込み済みで。


「これで“三手”――」


 出だしを見せぬ背面から、段平を袈裟斬りに見舞っていた。

 だが戦氣瘴で受けの強さが増したエッリは左腕一本で凌ぎにかかる。狙いは着地ざまに放つ反撃の一手。その策略が根本から崩れ去る。



 ――――ひぃん!!



 掲げられた腕輪に直撃する寸前、変則蹴りの意趣返しとばかり段平の軌道がするりと変化する。



「奇剣『空枝垂からしだれ』――」



 それを手向けとするように。

 断ち割ったエッリに背を向け、剛馬は襲い来る新手に脇差しを振るう。

 それで終わり。


 この場に立つは剛馬ただひとり――。


 血振るいし、さらなる敵はいぬかと周囲へ油断なく視線を巡らせる。

 もはや斬り捨てたエッリを一顧だにすることもなく。

 剛馬は戦場の局面に思いを馳せる。

 その実、胸中にいかなる念いを抱いているかの真実は、当人にしか与り知らぬことであった――。


         *****


ギドワ属領境界の戦い

   秋水とその弟子――



 不死の者――。

 いずれ相見えるであろう化け物の存在は、しかと言い含められてきた。

 しかしいざ目の前で、損壊した部位が見る間に治っていく奇怪な現象を見せつけられると、身に染みついた常識が、人としての本能が認めることを拒絶する。

 秋水をはじめあらゆる修羅場を体験してきた陰者三人も、さすがに唖然と見守るばかり。

 それが彼の者に猶予を与えることとなろうとも。


「「「――!」」」


 気付いたときには、男の顔に血の染みひとつ残されていなかった。代わりに違和感を覚えるのは、そう――見た目に少し痩せているくらいか?

 そんな雑念に構わず、追い打ちをかける機会はそれでも十分にあった。

 だが、“不死身”という呪言と信じがたい速さで治癒する怪現象が、その簡単な対処すら三人の頭から失念させてしまう。

 ふらりと出された一歩に三人がようやく我に返った時には、すべてが遅きに失していた。



 フッ、と――。



 三人の鍛え抜かれた眼力でさえ、相手の姿を容易に見失ってしまうのも集中力が欠けていたせいだろう。

 居場所を教えてくれたのは誰かの苦鳴。


「――っぁあ゛あ゛あ゛?!」


 抜刀隊と斬り結んでいた異人が、味方であるはずの男に組倒され、さらにはその首筋に噛みつかれて身悶えしていた。

 突然降りかかった信じがたい凶事にか、あるいは噛まれた激痛にか、異人は無我夢中で引き剥がそうとするが、いかに鍛え抜かれた戦士といえど人外の膂力に対抗できるはずもない。


「お、ああぁあぁっ!!」

「……」


 半狂乱で喚き散らし、四肢をばたつかせる異人。

 鮮やかな金髪を鷲掴みにされ、腕に爪を立てられても、動じず首筋に顔を張り付かせている吸血鬼の狙撃手。

 その異様な光景を誰もが呆気にとられて見守る中、異人の頬が見る間に落ち窪み、その指先がぴんと突っぱねられる。



 ――っか?!



 首を絞められた鶏のごとく。

 短い呼気を放ったかと思えば、それきり大人しくなる。だらりと弛緩した身体の意味するところは、ただひとつ。

 同時に気付く。

 静けさの中で何かを飲み干す音だけが、やけに耳につくことに。

 そう、男が嚥下しているものは――

 想像が頭の中で明確に形作られる前に、狙撃手が顔を上げ、振り向いた。


「――む?!」

「……っ」

「――」


 三者三様の呻きを発し、唇を血で濡らす狙撃手の凄惨な顔を凝視する。ただ、死んだ異人の相手だった隊員だけは位置的に目にすることは叶わず。それが油断を招いたのか。



 ――――ポン



 場に似つかわしくない軽妙な音が響いて、直近にいた隊員の首が宙へ飛んでいた。

 振るわれた凶器は狙撃手の手指。そこから鋭く延びる爪で切り裂いたと視認できたのは秋水ただひとり。

 首無し遺体を鷲掴み、化け物の正体を露わにした狙撃手は、遺体を口元に引き寄せ溢れる血潮を堪能する。


「……生臭い……」


 その声に嫌悪をたっぷりと含ませて。


「だが――漲るぞ(・・・)


 ああ、成り立て(・・・・)といえど、やはり『吸血鬼ヴァンパイア』。

 今度こそ、その変化は明らかであった。

 頬骨が目立つほど痩けていた顔の輪郭はすっきりと滑らかになり、蒼白い肌はそのままに、艶の違いは明瞭であった。

 何よりも力強さを取り戻した瞳の燐光。

 この場にトッドがいれば、自分の知る『吸血鬼ヴァンパイア』とひと味違うと気付いたであろう。


「秋水様――」

「ああ。それが(・・・)、奴の急所やもしれぬ」


 今の悍ましき一連の光景を目にしても、秋水らが感じたことは真逆の兆し。恐怖にあてられ、絶望を抱くべき状況に相応しくない期待感。その空気が気に入らなかったのか。


「なにを色めき立っている……?」


 狙撃手が声に苛立ちをまぎれさせる。それだけで耳にした者の抵抗心をへし折るほどの昏き力を感じさせて。


「まさか分からないわけじゃないだろ? この圧倒的“力”の差で、何ができる!!」


 云うなり、首無し遺体を投げつけてきた。

 あまりの速さと遺体の大きさに避けきれず、陰者のひとりが吹き飛ばされる。その結果など見向きもせずに秋水ともう一人は狙撃手を挟み込むように展開していた。

 化け物相手に後手を踏めば追い込まれる。

 豊富な実践経験が二人に最善手を選ばせる。

 

「無駄だ。今のオレなら、お前達二人を相手取るなど造作も無い」


 自信が確信へと変わった狙撃手は、冷静そのもので、両手の指弾を無造作に放つ。

 もはや通常弾が『流星弾シューティング・スター』の威力に跳ね上がっており、こうなれば、この者の『指弾』という武技は厄介極まりない。当然、精度の高い鉄砲の弾を生身の反射神経で躱せるはずもなかった。


 陰者のひとりが撃たれ。

 しかして、秋水だけは躱しきる――。


 「何?!」あり得ぬ事実に驚く狙撃手。その隙を見逃さず、一息に詰め寄る秋水。

 さらに一歩――

 今度こそ、秋水の動きを見極めるべく、狙撃手が『幽視キルリアン・アイズ』に人外の動体視力を重ねて凝視するなど、秋水に知り得ようはずもなく。   


 その時、確かに秋水の肉体は左に移ろうとしていた。

 だが、結果は左だけでなく(・・・・・・)

 

「な――」


 狙撃手が戸惑い、絶句する。

 彼の目にだけは、左右両方へ(・・・・・)移ろう秋水の肉体が見えていたからだ。


 “偽体”――。

 他流ではあるが、忍の術に“空蝉うつせみ”と呼ばれる有名な術がある。己の身代わりを立て、相手の注意を逸らす詐術の一種であり、それは流派を越えたすべての忍術の基礎であると同時に極意のひとつでもあった。

 その勘所かんどころは、人の有する五感に訴えかけ、相手の意識や思考を惑わし欺いて、事実の誤認を誘導させることにある。

 それは諜報工作のあらゆる任務に必要不可欠な技術の根幹であり、大概が己の潜伏先を秘匿、誤認させる野外任務にまで応用させる熟練度を求める。

 しかし、さらに一歩先――対人戦にまで踏み込むのは、限られた忍びの才人にのみ許された領域だ。

 つまりは秋水もその一人。

 敵の目前で――いや、敵が自分に意識を集中させるからこそか――目線や身体の微細な動き、意識の向け方のみならず、布や植物に己の“意”を置いて(・・・)、気配を纏わせることで巧みに誘導することに秋水は長けていた。

 それ故、生物の波動を感知する『幽視キルリアン・アイズ』でさえ眩惑させられることになったのは、あくまで結果論にすぎない。


 少なくとも、二つに別れた(・・・・・・)秋水に、躊躇し思考停止した一瞬が命取りになったのは確かであった。


「――くっ」


 咄嗟に刃を掴み取ろうと手を掲げる狙撃手。その予測を上回る速さで秋水の一刀が振り切られる。



 斬――――っ



 断ち切られる腕。頭部の狙いは外れても支障はない。

 次は胴を。

 だが渾身の一撃に返しの次撃がわずかに遅延する。その短い時間が、狙撃手の命を長らえさせるとは。


「――?!」


 横薙ぎの一刀が浅いと知り、秋水の眉間に皺が寄る。そこへ――


 至近距離からの指弾。


 必中のタイミングで放たれた礫は、狙い過たずに咽と人中へ、しかしそれは翳された和刀によって防がれる。


「なぜ、当たらん?!」


 噛みしめた歯を軋らせる狙撃手に、秋水は当然のように応じる。


素直すぎる(・・・・・)――急所を狙うと知れば、避けるは容易い」

「そんなことでオレの『指弾』が」

「それだよ」


 ふいに鋭くなる秋水の指摘。


「技に溺れ、磨くをやめた時から、お前の成長は止まっていたのさ。力、速さ、それに不死身といえる回復力は化け物同然だ。だが、いかに能力が高くてもお前の強さそのものは、“並より上”ってところだな」

「黙れ――」


 再び指弾が放たれる。それを予期していたがごとく身を躱す秋水。


「オレの指弾は無敵だっ。指弾があればオレは最強なんだ!!」


 続けて次弾、三弾と放たれるも結果は同じ。

 否、躱すと同時に秋水が詰め寄り、斬りつけていた。

 

「――二度もっ」


 迫る白刃を睨み付け、狙撃手は刃先に礫をぶち当てる。



 ――――ヂッッ



 ただ一発で斬撃の勢いが殺され、秋水の心臓を狙う次弾は、しかし、再び刃の平で防がれた。


「む――?!」


 ビシリ、と掌に伝わる嫌な感触に秋水は何が起きたかを察する。逆に歓喜したのは狙撃手。


「馬鹿がっ」


 嘲笑する狙撃手がもう一発と追い撃ちしかけたところで、「――つおっ」横から誰かに襲われる。

 跳びかかってきたのは小柄な影。

 狙撃手の首を狙うも、頸骨を断つまでに至らず血がしぶくのみ。本来ならばそれで致命傷だが『吸血鬼』相手では痛痒ともならず。


「邪魔するな――」


 放たれる裏拳を、小柄な影は曲げた腕にもう片方で補強する変則の十字受けで防御し――力負けして飛ばされた。

 だがそれで十分、仕事を果たす。

 秋水が一撃見舞うだけの“隙”を作りさえすれば。

 ――――!!



 肩口から深々と和刀で切り裂いて。

 肺を断ち、心臓に届く直前で刀の苦鳴を耳にした気がする。


「……ちっ」

「……ははっ……」


 舌打ちする秋水に乾いた嗤いを洩らす狙撃手。

 先手を取ったのは狙撃手の凶弾。

 秋水の懸命な回避は、辛うじて急所を外すので精一杯。

 二発が着実に撃ち込まれ、後ろへたたらを踏んだ秋水との間が空いて。


「このっ――」


 珍しく秋水が眉間に皺寄せれば、折れた刃を胴から生やす狙撃手の方が、嘲るように唇の端を吊り上げる。


「お前もその程度だ」

「……」

「そしてそれがお前達の限界だ」


 周りでは、首を振り振り立ち上がる一人と脇腹を押さえながら身を起こす別の一人が。そして正面には片膝着く秋水が痛みに顔を強張らせている。

 人外の暴威によって受けた傷は、人体を容易に損傷し、あるいは一定時間麻痺させる。それに対し、首と胴に致命傷を負っても、戦闘力を保ち平然と会話を続ける真性の化け物。

 両者の戦力差は歴然だ。

 例え秋水の指摘が的を得ていたとしても。

 そう。

 総合的な戦闘力では、三対一でなお、狙撃手が上回るという紛れもない現実。


「まったく――」


 秋水が小さく嘆息する。

 そして信じがたい台詞をこぼす。


「――勘違いさせてしまったか」

「?!」


 その時、狙撃手は秋水の瞳に何を見たのか。


「勘違いなものか」


 わずかに狼狽えを見せた狙撃手は、こちらも考えられない行動に出る。

 人外の力で地面に爪先を打ち込み、その一点が炸裂したかのように腐葉土や枝葉もろともに巻き散らかした。



 ――――ボンッ



 視界いっぱいに、まるで軽い礫のごとく土砂等が襲い掛かってきて、秋水は両腕を交差させて頭部を守る。

 当然、警戒するのは奇襲攻撃だが。

 土砂の散弾を浴びながら、懸命に冷静さを保とうとした秋水は、すぐに読み違えたことを悟る。


「――そうきたか」


 やや呆れ混じりに視線を送る先には、恥も外聞も無く、猛然と逃げる狙撃手の背が。秋水の威圧を受けて、奴は万全の体制を整えることを優先させたらしい。それは確かに良手であり、秋水からすれば悪手になる。


「おぁああ?!」

「よせ――」


 逃げた先で次々と上がる阿鼻叫喚。

 敵も味方も関係なく、凶器の手指が振るわれ、狙撃手は浴びるように血に浴す。そして始まる回復の悪夢。


「糞っ」


 不意打ちを食らい斃される隊員に秋水が悪態をつく。

 悔恨の失態。

 まさかこの後に及んで逃げを優先するとは。

 狙撃手の生への執念、あるいは無様を晒しても力を取り戻し、討ち果たさんと願う勝利への執念を甘くみていた。


「狂いやがった――」

「副隊長?!」


 敵の叫びには驚愕や困惑が多分に含まれる。

 多少の混乱であったものが、すぐに戦場の一画に劇的な変化を起こし、それが瞬く間に全体の戦局を変えてゆく。だが、化け物狙撃手のせいばかりでないことまでは、秋水にも分からない。ほぼ同時期に、戦局を支えていた要の者が斃されていた影響もあったなどと。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 豪快にして緻密、剛馬の見事な戦いでした。後味は、まあ苦いのか酸っぱいのか…。 [一言] テオ必死の逃走(不死だけど)。いやこれは戦略的撤退! 間合いを取って仕切り直しせばワンチャンあるかも…
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