(二)フィエンテ渓谷の戦い
ヴァインヘッセ城
東の塔――
砂粒のような星々がくっきりと見えるほど澄み渡る空。
その銀景が切れ味を増すほどに、窓から入り込んでくる夜気の冷たさは格段に厳しいものになっていく。
肌を刺す冷気に身を晒しながら、それでも身震いひとつすることもなく、何かを探し求めるように星空を見つめる少女。
その蒼白い面差しに細長い影が差す。
「そのままにして――」
少女の呟きは窓辺に立つ人影へ向けられたもの。
だが、どこか切実とも取れる少女の願いは聞き入れられることもなく、高地特有の分厚い板窓がかすかな軋みを上げながら堅く閉ざされた。
少女の意に反して暗がりに包まれ。
それでも板窓から視線を外さぬ碧い瞳に、失望の色はない。
囚われの身の不自由さを十分すぎるほど知っているからだ。
「……高地の夜を甘くみない方がいい」
少女の身を案じる言葉とは裏腹に、人影――オーネストの声は夜気の冷たさ同様に冷え切っていた。
壁掛けランタンの放つ暖かみのある灯明が色褪せるほどに。
それが生き物としての根源的なところで、決定的に相違するためだとは、少女もすでに気付いている。自分を見つめる双眸に、細長く灯る蒼白き燐光を目にすれば、嫌でも理解させられる。
まだ青年の面影を残す彼が――まぎれもない人外なのだということが。
だからこそ、こうして気遣いを示すオーネストの態度には違和感を覚えずにいられない。
「辺境生まれでも夜は厚着をするものだ。まして平地人の貴女に耐えられる寒さではない。……せめて、私と同じ【冷気耐性】があるなら別だがな」
本気とも冗談ともつかぬ言葉に少女は窓板を見つめたまま。
「……もう少しだけ、星を見たかったの」
「公城でも見れるだろう」
「ええ。だから見たかったのよ」
どこか噛み合わない問答に、オーネストが疑念や不快感を表すことはない。少女の求めるものが“日常”であると読み解いているからだ。
脅迫に近い形で城から連れ出され、遠く離れた辺境の地で軟禁生活を強いられれば、大人の女性であっても精神的に参ってしまう。まして年端もいかぬ少女ともなれば。
「……城が恋しいか」
「帰れると思えば、我慢できるわ」
それが強がりであることは言うまでもない。
背中に分厚いクッションをあてがい、ベッドの上で上半身を起こす少女――エルネの姿は、ここ数日ですっかり様変わりしているのだから。
金糸のような髪だけが艶やかなほどに、目の下を黒ずませ痩けた頬との対比が際立って、それ以上に――絹のごとき白く滑らかな首筋と右手首に巻かれた大仰な包帯の痛々しさに、思わず目が吸い寄せられてしまう。
拷問の痕ではない。
無論、単なる怪我とも違う。
とはいえ、彼女にとってはそれらと同義であったに違いない。
まだ12歳にすぎぬ小柄な体躯から、少なくない量の血を抜けばどうなるか――その答えが、今のエルネの姿なのだから。
気丈に振る舞うほどに痛々しさが増すその姿を、わずかな感情の揺れも見せずにオーネストは見つめ、静かに語り出す。
話題を変えた理由を彼自身掴めぬまま。
「取り込み中で伝えられなかったが……先日、陛下の病を癒やそうと『大浄化の儀』を執り行うとの発表が公都で為された」
「?!」
「そうとも、それは虚言にすぎない。本命は、儀式を始めるにあたり、療養中の陛下を迎えに送迎団を辺境領に向かわせるとの発表にある。
ご丁寧にも、療養先を提供してくれた辺境領に謝意を示した上でな」
そこで唇を歪ませたのは苦笑のつもりであったろうか。オーネストはそこで「だが」と反意する。
「それは我が父が望んだ展開でもある。いかに精鋭を選抜したところで、送迎団として許される人員規模はたかだか30人程度――たったそれだけの戦力で敵の腹中に挑むは、戦略的にみて無謀と云わざるを得ない。
こちらの仕掛け処を間違えなければ、勝負は見えたも同然だ」
「……それで、その話を聞かせて私に絶望を味わわせたいと?」
蒼白い顔を精一杯引き締めて、強気で皮肉るエルネに、オーネストはなぜか自身の見立てを撤回した。
「“不利”であることくらい、中央も分かっているはずだ。それでも打って出る必要があり、そうする以上は何かの策を練ったに違いない。
つまるところ、勝負の行方はまだ――両陣営にとっても霧の中ということだ」
そうでなければ困る、と云わんばかりの口ぶりにエルネの顔に若干の困惑が広がる。
敵の無能さを嘆き、好敵手であることをこそ望む――オーネストが抱く武人の本懐を少女に察せられるはずもなく、話しは先へと進められる。
「送迎団はすでに我が領土内を進んでおり、明日の昼頃には『フィエンテ渓谷』に到達する見込みだ。
貴女も道中体験してきたはずだ。切り立った崖の淵を走る街道の危うさと、そこから眺める息を呑むような絶景の素晴らしさを――」
山深くに位置する領都までは、アル・カザル山岳ならではの絶景ポイントが旅人達をあらゆる手段で楽しませてくれる。
もちろん、行楽気分を味わえるのと同じくらい、危険な事象にも見舞われるが、それでも商人だけでなく旅人があえて訪れるだけの魅力が辺境街道にはある。
『フィエンテ渓谷』もそのひとつ。
切り立つ崖の中腹に奇跡的に生み出された道中は、一歩踏み外せば谷底まで平均三百メートル――最大でも倍近くある高さの断崖となっており、場慣れた旅人でさえ初見で一歩も進めなくなる者はざらにいる。
その一方で、対岸側が途切れる頃に振り返れば、そこから見下ろす辺境低地の壮大なパノラマが、まるで空を飛んでいるような錯覚に陥らせ爽快な気分を堪能させてくれる。その落差にやられた旅人もまた多かった。
エルネも道中、その景色に心を動かされたに違いなく、白ちゃけた表情が何かの変化を示す。ただしオーネストは、その瞳にきらめく“気づき”を悟る。
「12歳だったな……。素直に貴女を褒めるべきか、それとも大公家の教育に感心するべきなのか」
「……送迎団を襲うつもりなのね?」
「そのような大それた事、考えるはずもない」
「嘘ねっ。渓谷の終わりにでも待ち伏せすれば、どうとでもなるんじゃ――ぅゴホッ」
語気を強めすぎて咳き込むエルネに、オーネストは小卓に備えてあった水差しを奨める。
「戦術も解するとは益々興味深い。とはいえ、貴女も公女であるなら、両家が公然と敵対するのが好ましくないことも理解できるだろう。当然、昼日中に兵を差し向けるなど愚の骨頂――」
「コホッ……なら、どうすると?」
「辺境は貧しい。それ故に賊も多い。だが、あの辺りに出没するのは賊よりも獣の方が相応しい」
獣と耳にして、エルネが軽く眉をひそめる。その疑念は最もであったがオーネストは真剣な面差しを崩さぬまま、ふいに話を切り上げようとする。エルネの咳き込みが止まらぬためだ。
「――何か温まるものを持ってこさせよう」
「いら、ゴホゴホッ――ないわっ」
「身体を冷やしすぎだ。今は体力を戻すためにしっかり食べて寝ることだ」
「誰のせいで――ゴホホッ」
咳き込みながら上目遣いでオーネストを睨むエルネ。苦しげに上半身を折りながらも精一杯の嫌味を絞り出す。
「まだ、私の血が――?」
「――そうだ」
オーネストの肯定にエルネの表情が固まった。咳き込む身体まで硬直し、それを切っ掛けに症状がぴたりと落ち着いてしまう。
彼女を驚かせたのは、たった一言に込められた彼の心情だ。今のエルネに負けぬ病的なまでの蒼白い相貌に、一切の感情を表さぬ彼が、初めてみせた切実さにエルネは心底驚かされていた。
「貴方――」
「“新たな部隊”の創設に貴女の血を必要とし、その採取を許可したのは、他でもないこの俺だ。だが、これほど身体に負担を掛けるものとは正直思ってもみなかった」
それは弁明というよりも悔恨の言葉に聞こえたのは気のせいか。
異界の血が流れる身にも、人であった頃の感情がわずかに残っているのか、オーネストは視線を逸らさず驚きの決断を口にする。
「当分、この計画は中止にするとしよう。それでも、俺自身が貴女の血を求めることまでは止められない。いや、貴女がいさえすれば、もう代替えを容易する必要がなくなる」
「それって――」
寒さを感じなかったはずのエルネが肩を震わせる。
その慄きは、領民を守るために領民を犠牲にする狂気に対してのものか、あるいは犠牲になったであろう領民の数を想像してのことかは分からない。
少なくとも、自分を労る素振りを示す人物が“人外のモノ”であることをあらためて感じたからこそ、エルネは口にしたのだろう。
『吸血鬼』――と。
紫色に変色した唇を震わせ、碧き瞳に恐怖と嫌悪を浮かべるエルネ。その彼女が発した呼び名をオーネストはまるで拒絶するかのごとく語気強めに指摘する。
「厳密には違う」
「……?」
「儀式は未完に終わったが、完全であれば、俺は別格の存在になれるはずだった。いや、未熟であっても別の存在になったのだ。少なくとも、彼らの間で伝わる話では――」
血に呑まれ、血に飢える者達を“マガイモノ”や“至らぬ者”と呼んで区別してきたという。それに対し、真性の『吸血鬼』は血乏症で狂うことはなく、定期的に月光浴を行い、己に宿る星幽界の力を安定化させるだけで不老不死を保持するのだと。
彼らは自称する。
我『蒼月鬼』と――。
「――『吸血鬼』をも越える身体能力。強化された耐性。素晴らしい全能感を与えてくれる肉体だが、施術の不備が悔やまれる。
そうだ。
俺が自分を不完全だと云ったのは、肝心の“月光浴”による自己保存能力が備わっていないからだ」
そうなれば“マガイモノ”の『吸血鬼』とさほど違いはない。
結果誰かの血を求め、それでも老朽を抑えられず、ついには森精族の血を必要とした。月の力に反応する銀血ならば、“月光浴”と同じ効果が得られるだろうと。
救いの主に心当たりはあった。
ある意味、生みの親とも言えるエルネへオーネストは一歩近づく。
「俺には貴女が必要だ」
「――」
まっすぐエルネの目を見つめてオーネストは繰り返す。恐るべき吸血の素性に身をやつさなければ、甘く魅力的なはずの顔立ちに真剣味を帯びさせて。
「誤解なきよう断っておくが――陛下を我らが城へ招いたのも、殿下の不義理な企みを潰し、再び大公の座に返り咲いていただくため」
「!!」
「そうとも。奇しくも貴女が為そうとしていたことは、我らのそれと重なるところがある。協調はあっても対立する理由などない」
味方に成り得るのだと。
不必要に怖れるなと。
「この身がどれほど忌まわしくとも、大戦に勝利をもたらしたのはこの俺だ。そうであれと望んだのは、我が父だけでなく貴女の父親もその一人だ。
どうして目を反らす――我らほど大戦で国に尽くし、今また陛下の窮地を救おうとする忠臣は他にいないというに。
ただ、中央が辺境を顧みること――それを我らが望むは強欲か? ならば俺自身の望みは――生ある限り、この国に尽くし続けたい念いは、化け物による戯言か? 欺くための妄言か?」
そうではあるまい、と。
すべてを否定させてたまるかと。
まるで冷血な面貌がひび割れたように。その下から滾る意志を荒々しく噴き出させ、オーネストはそこで言葉を切る。
呆気にとられたエルネが我に返る前に。
彼は静かにこう告げた。
「陛下をお救いした暁には、貴女に求婚するつもりだ」
「――――え?」
目玉がこぼれ落ちんばかりに見開くエルネへ、オーネストは瞳に宿す蒼白き燐光を輝かす。
「これは以前から決められていたことだ。だから、こんな形で貴女を連れてきたくなかった。このような状況で口にしたくなかった。だが殿下の謀反ですべてが崩れてしまった――」
想定外の申し出に思考停止したエルネをよそに、オーネストは淡々とした声音で、相反する情熱的な言葉を紡いでゆく。
「俺は民を守るため、この身体を捧げた。その戦いは大戦終結と共に終わりを告げたかに見えたが、間違いだ。
むしろ公国の寿命は縮められたと云ってもいい。
誰も気付いていない――『鬼謀』がこの国に打った深い楔を。それがまだ生きているという事実を」
「――!」
二度目の衝撃は、エルネにとってひとつのショック療法と成り得たらしい。正気に返った彼女が強い疑念を顔に出すのを目にしながら、オーネストは言葉を続ける。
「そうだ。戦いはこれからだ。俺の力を本当に必要とするのは、これからだ。だからこそ、滅びを受け入れるわけにはいかない。
再び民を守るためにも、そしてこれ以上、誰かを傷つけることがなきよう、俺の妻となり――その血を分けてほしい」
ベルズ辺境伯が「奪う」と宣言したのに対し、オーネストは「頼む」と理解を求めるに留めた。新設部隊を創設するため奪い取っておきながら。
今さらではあるのだが。
「……何の真似? 私がどう思おうと、勝手に血を奪うくせに」
「これまでは。ただ、好きで他者に犠牲を強いてきたわけではない。叶うなら――理解し合いたいと望む」
それは詭弁か、ただの詐術であったろうか。
疑惑の眼差しを向けるエルネ。
オーネストがおもむろに差しだした右手には血の色をした小瓶が載せられていた。見る間に眉間を険しくさせるエルネに渡して彼は告げる。
「それは貴女から採った血だ。まだ呑んでいない」
「なぜこれを――?」
「選ばせるからだ。俺が代替えを求める行為、そして公国に迫る危機――それらすべてを天秤に掛けた上で、それでもなお、俺の力を必要とするか否かを」
「――」
そこで息を呑むエルネは気付いていたはずだ。
オーネストの左手がかすかに震え続けているのを。いや肩も両足も。
そして今、その理由を知った。
想像できぬ克己心でオーネストが自分の衝動を抑え付け、あるいは自壊に耐えていることを。
「これが俺を斃せる、最初で最後の――」
最後まで言葉にできず、がくりとオーネストが膝を着く。その面貌に脈動する青筋が無数に沸き上がっては消えるを繰り返す。
それはどうみても演技ではない。
「――選べ」
呻くその底冷えするような瞳には、エルネの選択を受け入れる“覚悟”がなぜだか感じられた。
今さら本当にそんなことをするつもりなのか?
だとすればこれは、すべての悲劇を終わらせる絶好のチャンスに他ならない。
なのに。
握りしめた小瓶を床に打ち付ければ、それで終わりにできるのに。
目の前で苦しむオーネストをエルネは唇を噛みしめたまま見つめ続ける。
ふいに、縋るような眼差しを堅く閉ざされた板窓へ向けて。
エルネは窓向こうの星空を――その下にいるであろう若者の面影を思い浮かべる。
(あの方なら――)
暖かく、力強い言葉で背中を押してくれるのに。
躊躇している自分の気持ちに戸惑いながら、エルネはいつまでも板窓を凝視し続けていた――。
*****
某日未明
公都キルグスタン――
ルストランが公国全土に向けて『大浄化の儀』を執り行うと公表したその翌早朝。
『送迎団』は自身の存在をアピールするかのように都内をゆっくりと練り歩き、大公復調を願う都民に見送られながら、公都を出立した。
目的地である辺境領都までは三分の二が山野部の地形に占められており、地図でみる距離感以上の労力を要し五日はかかる行程だ。
さらに、内情としては辺境側の襲撃を避けるため、できるかぎり街や村での宿泊を心がけることも踏まえれば、実質一週間の旅程となるのは避けられない。そのため、物資搬送用の荷馬車まで用意する必要が出てきた。
そうなれば、『送迎団』の組織構成もルストランが提示した形から修正を余儀なくされ、“貴族の思惑”が絡んで見映えや実益などのバランスを調整した結果、次のとおりに落ち着くこととなった。
まずは二列縦隊の近衛騎士20名が、燦然と輝く鎧も誇らしげに先導を務め上げ、続く大公専用の重厚な四頭立て馬車が公国とスタン家の旗章を靡かせて威厳を知らしめる。
最後に伴連れの馬車と10名の第三軍選抜騎士らによって、輜重用馬車の警備も併せて油断なく殿の役目を果たす。
正直、辺境山野の危険性を考えれば、今少しの増員も可能なはずであったが、公表から一夜を空けず、ベルズ辺境伯から“出迎え部隊”との合流案を申し込まれたことから、見合わせざるを得なかった。
公国の実態が“各所領の群集化”にすぎぬ以上、大公家といえど一定戦力の立ち入りには配慮せねばならず――辺境伯の申し出を公然と断れぬルストランが歯噛みしたのは言うまでもない。
「反応が早すぎる。それに――」
「――手綱を握られたも同然です」
辺境伯の返しに、人知れずルストランとメルヴェーヌが呻いたのは、その意図を十分に理解してのもの。
両者の水面下での戦いはすでに始まっており、間髪入れずに厳しい楔を打ち込んできた辺境伯陣営の即応力をこそ褒めるべきだろう。
もはやルストランとしては、一度番えた矢を今さら放たぬ道理はなく、祈るような気持ちで、現場指揮官達の対応力にすべてを委ねるしかなかった。
それから数日――。
公都周辺の平穏な旅路は当然のものとして、天候に恵まれた『送迎団』は、前半の旅程を彼らの緊張感とは裏腹に順調に消化していった。
その流れが変わり始めたのは、辺境領との境界峠において、待ち構えていた“出迎え部隊”と合流してからのこと。
巨漢の老騎士を筆頭に30は下らない騎影の数を見て、送迎団側の騎士達が表情を強張らせたのは無理もない。
しかも先頭で一人泰然と佇む老騎士が――
「我が名は辺境伯軍長のネイアス・エル・グァルと申す。ご高名なバルデア卿にお会いでき、光栄に存じる」
「こちらこそ、大戦における貴殿の活躍は寝物語に聞かせていただいた。彼の豪傑に先導いただけるとなれば、これからの旅路に安堵を覚える」
互いに敬意を示す穏やかな会話とは裏腹に、二人は近づくこともなく、一定の間合いを保って対峙する。その距離こそが、疑心の表れであることを胸中承知していながら。
ことにバルデアからすれば、辺境軍との合流は懐に猛獣を抱き寄せるようなもの。
彼の大戦で武名を馳せた豪傑が、いつフル装備の騎士30名と共に襲いかかってくるか――夜襲は特に警戒せねばなるまい――そんな危惧を胸中に抱くバルデアの両腕に老騎士の目が向けられる。
「……それが音に聞く準国宝級の『魔術工芸品』か」
“力”と“技”を司る魔力を帯びた二種類の腕輪は、“三剣士”たるバルデアの強さを象徴するものだ。感性に優れぬ凡人でさえ秘具が放つ銀の微光は嫌でも目に付いてしまう。
当然、手指を彩る指輪にも気付いたであろうが、老騎士の双眸には武人らしい嫌悪感や侮蔑の色はなく、「ふむ」と何か納得したように声を洩らす。
「秘具の強力さにばかり噂が立つが……やはり実物を自分の目で見るべきだな」
「貴殿にはどう見えた……?」
その感想にいかなる期待も示さずバルデアが問えば、老騎士は裏表なき声音で静かに応じた。
「純粋に――そちらは剣、儂は槍で愉しめる」
得物同士の相性を加味した上で。
秘具から視線を外し、白髪白面の薄弱な見てくれとは裏腹に力強いバルデアの双眸を老騎士は見据えた。
戦場で鍛え抜かれた眼力が武人としてのバルデアの力量を見抜いたのか、あるいは磨かれた肌感覚で強者の放つ空気を感じ取ったのか。
さらに、バルデアの武力を高く評価した老騎士は「戦であったなら――」なぜか惜しむ眼差しで相手を称える。
「肩を並べるにこれ以上の頼もしさはあるまい。だが――」
「だが?」
「――いや、仮定の話をするべきではないな。ともかく、この国に新たな猛者が育っていることを素直に喜ぶべきなのだろう」
それは先の大戦を経験した者ならではの感慨であったろうか。
岩塊のような硬い表情からその心中を読み取ることは難しいが、少なくとも、その言葉に偽りがあるとは思えない。だからバルデアも讃辞に対し讃辞で応じるのだろう。
「辺境にも貴殿を筆頭に優れた武人がおり――国全体で見れば、まだ知らぬ強者も育っているだろう。上に立つ者が道を見誤なければ、この国はいつだって安泰だ」
意図的か否かは別にして、バルデアが繊細な部分に触れたのは間違いない。一瞬、両者の間に見えない緊張が走って、さりげなく、だが真意を探るように老騎士が投げ掛ける。
「共に戦うと――?」
「戦うならば男も女もない。まして中央と辺境の区別など愚の骨頂」
辺境人が何を気にしているか。
承知の上で躊躇なく応じる白髪の騎士。
それでも噂に名高い騎士の立場を老騎士が脳裏から忘れ去ることはない。
「……貴殿が前線に立てるなら、説得力もあるのだが。ただ――そうか。そのように考える者が中央にもいるのだな」
ほんの少しだけ、何かを噛みしめるように目元を緩ませて。老騎士のバルデアに対する“空気の角”のようなものが取れた感じがする。
それはわずかな間に過ぎなかったが。
すぐに表情を引き締めた老騎士の姿には、先ほどと同じ刺々しさが戻っていた。あるいは“壁”のようなものが。
「――さて、今は重要な役目を果たす時。互いに己の任務に集中するべきだろう」
まるでこれ以上の会話を固辞するがごとき老騎士の態度に、バルデアもまた、儀礼上の対面を終わらせにかかる。
「我らとしては、ここで休息するつもりはない。これより先の山間部こそが、旅路の正念場と承知しているからな。そこで、日のあるうちに距離を稼ぐべきと思うが、いかがかな?」
「慧眼だ」
山岳民らしい野太い声で老騎士は同意する。
「まずは丘陵地にいるうちに距離を稼ぎ、麓で一泊する旅程でご案内差し上げよう。そうすれば、日中のうちに最初の難関『フィエンテ渓谷』を抜ける段取りができる」
「異論はない」
「では――」
そこですぐに踵を返すことなく、わずかな沈黙の後に老騎士は注告を発した。どこか挑むように、まっすぐバルデアの目を見つめながら。
「辺境の難所はどれも厳しい。――心して、臨まれよ」
「お気遣い感謝する」
無骨な印象の武人が、ただの儀礼を口にしたとは思えない。
そこに武人ならではの配慮が込められているとすれば、ネイアスの本意が別にあるとしても、職務を全うすると宣言したことになる。
バルデアが部下達の下へ戻ると、真っ先にロイディオが駆け寄ってきた。今回も並々ならぬ熱意で自薦し団長補佐として同行していたのだ。
「――団長。機先を制する手もあります」
不穏な策をほのめかすロイディオに、バルデアは老騎士の背へ一瞥くれながら「否」と却下する。
「戦端を開くのはこちらからではない。あくまで自衛を通せとの殿下のご指示だ」
「それでは、“地の利”がある連中にあまりにも有利すぎます」
「そうだとしても、我らは降りかかる火の粉を払うのみ。それに――対応策を練るのは、我らの役目ではない」
その視線が伴連れの馬車へ移るのを見て、ロイディオは表情を渋らせる。
単純戦力ならともかく、実戦の豊富さなら確かに彼らが勝るのだろう。上官が“剣”に徹しようとするのなら、ロイディオもそれに従うしかない。
「――ただし、辺境軍の背中から目を離すな」
「ハッ」
伴連れの馬車へと戻ってゆく上官にロイディオは面を伏せたまま、上目遣いに気遣う視線を送る。
上官の足取りに不安は見られない。
それでも先のエンセイとの戦いで、バルデアの体調がいまだに万全でないことをロイディオは承知している。その原因を「生命根源に関わる何かが極度に消耗しているからだ」と司祭エスメラルダは云っていた。
一体全体、何をどうすれば魔法薬や教会の回復術で治らないダメージを受けるのか。
あるいはせめて、公国稀少の宮廷術士達が不在でなければ――そう思うものの、ないものねだりをしたところで始まらない。
少なくとも、軍属の優秀な召喚導士を一人帯同させているだけでも良しとすべきだ。
(こういう時にこそ、俺たちが支えなければならないんだっ)
その点のみを重視すればこそ、第三軍団の騎士達に頼ることも厭うつもりはない。まして田舎士族のスワ家とやらも、実力があると云うのなら、何だって利用してやろうとロイディオは拳を握り込む。
そうして『送迎団』は新たに合流した辺境部隊による道先案内で進み、早くもその旅路は後半を迎え、周囲の風景も平野部から凹凸の激しい山間部へ――辺境らしい景色へと移り変わっていく。
それは戦いの足音が近づいているのを誰しもが予感させるに十分な変化であり、事実、老騎士ネイアスの注告が予言となったかのごとく『フィエンテ渓谷』にて最初の波乱が起きることになる――。
*****
旅程後半【一日目】
フィエンテ渓谷
送迎団一行――
吹き上げる谷風で剥離した石塊が、はるか百メートル下の谷底へと落ちてゆく。
見る間に落下の速度を上げ、拳大の大きさが種子ほどになり、すぐに砂粒となって消え去った。
まるで宙に溶けゆくように。
当然、谷底で砕け散る音など聞こえてくるはずもなく。
その想像を超える高さの体感に、初見の旅人ならば、先に進むことを躊躇わせる崖道の難所へ『送迎団』は足を踏み入れていた。
「もっと、崖から離れろっ」
「よそ見をするなっ。前の者の背中だけを見てればいい」
悠然と先行く辺境軍とは対照的に、公国側の警護者達は硬い声で後続に指示を出す。必要以上に声を荒げるのは、胸中に湧く恐怖心を無理矢理抑え付けるため。
その割に、崖際へと目線を向けてしまいたくなる誘惑を必死で振り払い。
馬車一台が優に通れるほどの道幅にも関わらず、できるだけ断崖から遠ざかろうと壁面をこするように馬を寄せる。
その馬たちも乗り手の緊張に煽られて、時折嘶き苛立つように前足で地面を掻く。
だが、彼らの異常な緊張感は地理的危険性のせいばかりではない。
「――いよいよ『フィエンテ渓谷』に入ったな」
馬車の動きがより慎重になるのを感じたか、車内で腕を組むカストリックが誰にともなく現状をアナウンスする。
対面に座るバルデアは“我関せず”と目を閉じたまま、隣席する深緑衣に身を包む女性が緊張の面差しで相づちを打った。
「連中が動くならここですね」
「おそらくな」
唸るように同意し、カストリックは小ぶりな長卓に広げられた辺境地図の一点へ目を落とす。
取り寄せた情報を基にこれまで何度も話し合い、辺境伯が仕掛けてくるであろうポイントを吟味してきた。その結果、複数ある候補地の中で最も可能性の高いポイントがふたつに絞られている。
ひとつは領都近郊にある『ゴルトラ洞穴門』。
今ひとつは山間部最初の難関となる『フィエンテ渓谷』だ。
どちらも辺境切っての名所奇所であるだけでなく、戦術的要所と言える側面を持つ。
すなわち、人目を忍んで事を為すに容易であり、事故に見せかけた罠を仕掛けるにも適しているという点で。
仮に土属性の精霊術を使役すれば、任意の場所で崖崩れを起こし、都合の良い状況を自在に作り出せる。特に『フィエンテ渓谷』との戦術的相性は抜群だ。
だからこそ、術士らしい女が“使役の制約”を念頭に一例を挙げてみせるのだろう。
「術の発動範囲は“目視”ができ、かつ、精霊の存在を感応できる近場が相場と決まってます。必然、敵の仕掛けてくるタイミングは『送迎団』の姿が確認できる崖道の終わり間際となるでしょう。
まずは“馬車より後続の部隊”を崖崩れで殲滅すると同時に残存部隊の退路を断ち、混乱に乗じてネイアスの部隊を反転――攻撃に転じさせれば、いかな精鋭たる近衛騎士といえど討ち取るのは容易と考えるはず」
「悪くない考えだが、崖崩れのコントロール精度に不安が拭えまい。おそらく陛下専用の馬車は無傷で入手したいはずだからな。そうなれば、もっと確実なやり方を選ぶ――」
力強くカストリックが指し示すのは、崖道の半ばで奇跡的に存在する“離れ小島”のごとき樹林帯だ。
「ここはキツイ斜面に覆われた袋小路で、難所を渡る利用者にとっては丁度良い休憩点でしかない。しかし、予め奇襲部隊を伏せておけば、正面部隊との連携で挟撃が可能となる」
あるいは三方からの攻撃さえも。
今もこちらが気付かないだけで、ゆっくりと背後から辺境軍の別動隊が尾けてきているかもしれないと。
思わず背後へ視線を向ける女に、「それも我々が無策でいればの話しだが」とカストリックは最後の同席者である黒髪黒瞳の異人を意味ありげに一瞥する。
気付いた異人――諏訪弦矢は承知と顎を引く。
「万一潜伏していれば――“樹林帯の敵”は我らで排除する。そちらはネイアスとやらの動きにのみ注意していただければよい」
「……大した自信ですね」
その堂に入った応対ぶりがかえって鼻についたのか、疑わしげな目を女は向ける。
「彼の御仁が根回しされているとはいえ、ギドワ族領を迂回して樹林帯を山越えで急襲するなど――失礼ながら“無謀”だと云わざるを得ません」
「モーフィア」
カストリックが咎めるのも構わず、彼女は猜疑心も露わに言葉を続ける。
「辺境領の山岳地帯は平野部のそれとは違い、危険生物の脅威度は『怪物』相当と云って過言ではありません。ギドワ族の立ち入り承認を得たくらいで、山岳踏破の危険度はさほど下がることはないのです。
その上で、急峻な地形に体力まで削られ、その先で待つ相手は――樹林帯の狭さを考慮すれば――よほどの精兵か召喚導士、あるいは強力な武器を組み込んだ部隊であることは間違いないでしょう。
そんな兵力を相手にただ勝つのでなく、きっちり無力化することが求められているのです。私はむしろ、勝敗云々の前に、そもそも間に合うのかさえ疑念に感じるのですが――」
「モーフィア殿といったか――」
憤るどころか安心させるように、弦矢は軍属らしく髪を切り詰めた女召喚導士を見つめ返す。
「懸念されるは尤もだが、何も案じることはない。我ら諏訪家の『抜刀隊』こそは、古今東西に類を見ない林野山岳にて力を発揮する希有なる侍集団。
“個”にして一騎当千の戦果を挙げ、“群”にして林野無敗の戦歴を重ねる。
負うた役目は果たしてみせるし、そうでなければ――」
そこで区切って弦矢は切れるような笑みを口元に浮かべる。
「――格好悪いにもほどがあろう?」
「――」
この男はどこまで本気なのか?
言葉の端々に感じさせる自負は“魔境士族”の触れ込みに偽り無しと思わせるもの。しかしその一方で、山岳越えの策が弦矢の案だと知り、外部に依存しすぎる計画に本能的な不安を抱かずにはいられない。
そうした心情がせめぎ合い、モーフィアに戸惑いを浮かべさせる。その様子にカストリックがフォローを入れる。
「疑うのは尤もだが、彼らの実力は本物だ。この身で体験したから分かる」
「え……?」
思いがけない分団長の言葉にモーフィアが口を半開きにする。
『精霊之一剣』の遣い手でもある歴戦の騎士は、自身のレベルが高いだけに、そう簡単には誰かを強いと感じることはない。逆に言えば、そう感じさせるほどの腕があると保障したに近い。
同じ軍属にいる彼女にとって、カストリックの発言は何よりも重い。その彼が驚くべき言葉をなおも連発する。
「不謹慎だが、これから先が少し楽しみでもある。向こうの待ち伏せ組が強者であればなおさらだ」
カストリックの視線はモーフィアでなく弦矢へと向けられている。
期待に満ちて。
あるいは、どこか挑むように。
「間もなく樹林帯に差し掛かる。スワ家の力とやら――拝見させてもらおう」
*****
同時刻
フィエンテ渓谷
途上の樹林帯――
「――おい、そう緊張するな」
樹木の影で背を預け、明らかに顔を強張らせている男へデネムは声を潜めて注意した。だが耳にすら届いていないようだ。
「聞いてるのか?」
「……」
「ちっ。あんたが冷静でいてくれないとコイツらが動揺するんだよ」
背後に控えているモノタチを暗に示すも男の緊張が和らぐことはない。その目線は注視すべき崖道でなく真逆の林奥へと――そこに潜む獰猛な生き物の群れに釘付けになっていた。
体長2メートルはある『森大猫』に上半身が異常発達している『吊り手猿』。一番奥で濃密な存在感を発しているのは、人里近くで滅多に目撃されないはずの『絞り熊』だ。
いずれも肉食系の捕食者で、特に『絞り熊』に関しては、人の気配を察しても遭遇を避けるどころか積極的に襲い掛かってくる凶猛さで知られている。
辺境地域で初冬における失踪事由の大半が、猟期に入った奴らが原因であることを知れば、男に緊張するなという方が無理な話しであったろう。
だからこそ、こちらの腕前を見せつけてやり、今もこうして襲われずにいること自体がその証左となっているはずだが――目前に“猛獣の群れ”がいるストレスは常人には耐え難いものであるらしい。
それでも為すべき仕事がある以上、肝心なときにヘタを打たれては困る。
「おい――」
「放っとけ」
なおも強めに声を掛けるデネムへ別の木立から陰鬱な声で止められる。
「そいつの出番はお前の後だ。震えてるだけなら邪魔にはならん」
「そういうがな。“怯え”は捕食本能を刺激するんだよ」
苦い声で応じるデネムは、厄介事を招くのだと訴える。
「コイツらの気が立ってくると奇襲を台無しにしちまうぜ?」
「そのくらい抑えてみせろ。けしかけるだけが能じゃあるまい、調教師よ」
三者の間では立場が上なのか、陰鬱な声に窘められて「調教師じゃねえ、調教闘士だ」デネムは語気強く訂正しつつ、懐から何かを取り出した。
それは紐に括り付けられた短い骨笛だ。
レベル4――『庭園』級である『怪物』の骨から削り出した逸品物の管楽器で、使いこなせれば生き物の本能に訴えかける音色を鳴らし、骨主からみて格下の『危険生物』を使役することが可能となる。
驚くべきは、通常、一人一体あるいは一種の使役が限度であるはずを、三種数頭を操るらしい彼の言動にある。
それも彼の職業を知れば当然か。
『調教闘士』――大陸でも稀少な職業である調教師にあってなお、さらに稀少な戦闘型の調教師が彼の正体だとするならば。
「目覚めよ」
デネムが骨管を握りしめ、『鍵語』を呟くと同時に一定量の魔力を掌中に捻出――骨管に透す。
馴染みの反応が掌に返り、デネムは紐の端を掴んで軽く振り回しはじめた。
骨笛にくり抜かれた穴に空気が流れて振動し、柔らかな風の音となって樹林の中に響いてゆく。
フォン
ファン
フォォン――
フォン
ファン
フォォン――
手首を滑らかに回し、回転力に強弱を織り交ぜデネムは巧みに制御する。それによって生み出される風の音が、三種の獣それぞれが反応する音階で構成されているなど、素人に分かろうはずもなく。
同じ調教師であれば驚愕する技巧を当然のように駆使してデネムは獣たちの昂ぶりを静めようとする。
フォン
ファン
フォォン――
その独特な調子が獣たちの耳にどう届いたのか、息が荒くなり身動ぎしていた気配が次第に収まってゆく。
あとは獣たちを興奮させた元凶を断つ必要がある。
「シラト、目を閉じてろ。お前も音に耳を傾けろ」
陰鬱な声に命じられ、シラトと呼ばれた男も従った。
視界から獣たちを閉め出し、数度、深呼吸を繰り返す。
「すぅ――、はぁああ――……」
繰り返すうち、次第に落ち着きを取り戻すシラト。その様子を横目に見ていたデネムが嘆息混じりに揶揄する。
「世話の掛かる相棒だな?」
「そういうな。お前は“襲撃”、シラトは“細工”。自分一人で仕事は成立しないことを忘れるな」
「なら、あんたの役目は何なんだ?」
ただの“監視役”とは思えない。
「連絡係だ」と一方的に宣言し、こちらと距離を取ってはいるものの、このような袋小路にまで帯同する不自然さしか感じない。
「……お前は金貨30枚分の仕事をこなすことだけ考えていればいい」
「云われなくとも」
一拍置いた“陰鬱”の返答に、デネムの不信感はますます高まる。
(やっぱクロだな……)
なにしろ実際の請負額はさらに20枚上乗せたレート外の大金になっており、しかも前金で30枚を受け取っていた。逆に言えば、それだけヤバい仕事であることを示している。
冷静に考えればヒントはある。
例えばここが辺境領都までの道中で、標的の戦力レベルに最近の情勢を加味すれば、嫌が応にも誰を相手にするかの察しだけはつけられる。
(大公家の護衛団にちょっかいとか――正気の沙汰じゃねえな)
仕掛ける側である雇い主も想像通りの人物なら、仕事人としては避けるべき厄介事であったのだが、“大金の魅力”と“仲介人への信頼”でデネムに断る理由はなかった。
むしろ『請負人』の世界では、獲物のデカさなど名を挙げるチャンスでしかない。
(それに、万一の“逃げ道”は確保してある。きな臭くなったら逃げるだけだ)
注意すべきは“仕事の放棄”とみなされる行為をしないこと。その見極めは意外と難しいが、上手にこなしてこその一流であろう。
そこまで考えを巡らしたところで、ふいに場の異常をデネムは察した。
「――どうした?」
不審げな“陰鬱”にデネムは片手を挙げて制す。
おかしい。
静かすぎる。
『森大猫』や『吊り手猿』だけでなく『絞り熊』までその存在感を薄めているのは異常と言えた。それではまるで、息を潜めているみたいではないか?
「――」
「――」
周囲の異常に気付いた“陰鬱”も森の奥へ目を凝らしている。いまだに状況が分かっていないのは目を閉じたままのシラトだけだ。とはいえ、緊張状態が解けたなら、そのままでいてもらうのが好都合か。
「……」
職業柄、林野山岳に特化して鍛え抜かれたデネムの視認力をもってしても、異常をみとめることはできない。
だが、間違いない。
自分達以外誰もいないはずの樹林帯で何かが起きていた。
いや、何かが現れたのだ。
――――ザザッ
周囲で草擦れの音が鋭く響き、樹上で枝がしなる。
それが『森大猫』や『吊り手猿』の警戒行動であるのは当然として、まさか森の王者たる『絞り熊』でさえ興奮させるとは驚きだ。
フッ
フッ
フッ……
凶猛な獣の荒い息。
王者の緊張が樹林の奥から伝わってくる。
辺りに響く唸り声の合唱は『森大猫』のもの。それに呼応してザンザンと枝葉を揺すらせながら甲高く啼く猿の声は、もはや悲鳴に近かった。
「……どうなってやがる……」
懸命に何者かの影を捜すデネムに“陰鬱”が無責任に要求する。
「新手の獣だ。何とか使役すればいい」
「馬鹿云うなっ。俺がどれだけ駆けずり回って最強チームを作ったと思ってる? 山岳に今いる以上のヤバイ奴がいるわけねえんだよ」
自身の正体を秘匿する関係上、『請負人』である調教師の使役獣は常に現地調達を基本とする。ここ数日、デネムが一帯の山岳を練り歩いて選りすぐった使役獣達が最強チームであることは自信を持って断言できた。
それだけに、最強チームを動揺させるほどの存在に彼も戸惑っているのだが。
「お前の腕を疑ってるわけじゃない。目の前の事実を受け入れろと云っている」
「だが『絞り熊』も興奮させるなんて――」
その言葉は途中で切れた。
理由は“陰鬱”にも分かっただろう。
樹林の切れ間に浮かぶ人影を目にしたからだ。
「人……?」
「そんなわけが――」
それこそあり得ない状況に二人は戸惑う。
きつい斜面に覆われた樹林帯の奥から、人が現れるなど想定外もいいところ。この地に自分達が一番乗りしたことは間違いなく、事実、下調べはとうに終えていた。
グルルルル……
『森大猫』が唸り声を上げ始め、「キギャー」と『吊り手猿』が啼き喚く。
使役獣たちの興奮が抑えきれないレベルに達していると察したデネムは、即座に決断する。
再び骨笛を振り回し始めた彼へ当然のように“陰鬱”が詰問する。
「何のつもりだ――?」
「俺のせいじゃねえ。こうなったら、やるしかねえんだよ」
使役獣の直感は人間のそれを凌駕する。
連中が危険を察知したなら、それを信じ、積極的に使役術で支援してやるのが最善策となる。それが結果的に自分の身を守ることにも繋がるのだ。
「使役術『本能の滾り』」
デネムが腕を大きくゆっくりと回しはじめると風切り音が重く低く変わった。
ブォン
ブン
ボォォォン――
先ほどと打って変わった腹に響く重低音。
ぶおん、ぶおんとまるでひとつひとつを区切り叩くような音の出し方は、太鼓のそれを彷彿とさせる。その力強い三種の音階がそれぞれの使役獣を鼓舞し、闘争心を掻き立てる。
恐怖や不安からくる怯えが、生存意欲や怒り、食欲に塗りつぶされてゆき。
血流の増加と本能の覚醒からくる変化は、身体能力のアップに留まらず、彼らが有する魔力が無意識に張り巡らされ、爪と牙、皮膚の硬度だけでなく耐久度までをアップさせる。
それはもはや『危険生物』の枠を越えた『怪物』級の戦闘力へと底上げされたも同然だ。
「――いいぞ、お前達」
戦闘意欲に溢れる使役獣の興奮をデネムは肌で感じ取り、さらに背中を叩いてやる。
「荒ぶれっ、開放しろっ。自慢の爪と牙を、存分に叩きつけてやれ!!!!」
使役獣の昂揚感がそのまま絶体の自信へと繋がって、デネムは殺戮の開始を声高らかに宣言した。




