【幕間8】大戦の追憶
月夜の会談後
領都郊外――
領都の街門が間近に見えてきたつづら折りの途中、ベルズ辺境伯は視界の片隅に蹲る人影へ何気なく一瞥をくれた。
丘陵地に広がるジャガイモ畑の真ん中でこちらに向かって深々と頭を下げているのは農作業着姿の母親と子供のふたり。
領主一行に気付いた彼女らが、仕事の手を休め敬意を示して見送る振る舞いは特段不思議なものではない。
ただその少し前、道端で作業していたはずの親子が慌てて畑地の奥へと駆けてゆく姿をベルズは気付いていたのだが。
避けるように距離をとった理由は明らかだ。
先日、ドイネストが指摘したことは何一つ間違っていないのだから。
(怯え、か――)
確かに、以前とは違う。
日々土の匂いを嗅ぎ領民と交わす他愛のない会話はベルズにとってありふれたものだった。
今日のように雲一つ無い晴れた日など、上半身をはだけて鍬を振るうのが最高に気持ち良かった。
照りつける太陽に流れる汗。
熱を持った身体に心地よい風。
ふいに聞こえた子供の声は、幻聴にすぎぬことをベルズは分かっていた――。
◇◇◇
「はくさまー、すっごい大きいのとれました!」
幼い声に呼ばれ、ベルズは振り上げた鍬を下ろして額の汗を腕で無造作にぬぐった。額に砂がこびりつくのも構わずに何度も腕で拭った後、「どれ」と皮の厚い掌を幼い子供に差し出す。
「すごいでしょ-?」
「うむ。見事だな」
不格好だが通常の倍以上はある変わり種のジャガイモをしげしげと眺めて、ベルズは神妙な顔つきで品評する。
大きすぎるものや二つに連なったものなど、変わり種を発見しては誰かに吹聴して回る。そんな子供の素朴な反応にベルズは自然と口元をほころばせる。
幼い子供は満足げだ。
遅れてやってきた母親も嬉しげに微笑んでいた。
「伯様、今年はイモの育ちがよくって――」
「そのようだ。この調子で来年以降もイモの出来が安定するといいのだが」
何気ない言葉に、母親の顔が途端に曇ってしまう。
何かおかしなことを云っただろうかとベルズが訝しむのへ。
「帝国が攻めてくるって本当ですか……?」
「……」
「隣の国では戦が始まったと耳にしました」
先行きに対する母親の不安げな声。その手が幼い子供の肩を強く抱いているのを目にしながらベルズは慎重に言葉を選ぶ。
「噂は本当だ」
「じゃあ……」
「隣国には『一夜城』と謳われる特殊工作隊がいる。彼らの働きがあれば、帝国といえどエーレンド軍をそう簡単に打ち破れるものではない」
隠したところで母親の不安は拭えまい。ならば安心できる材料を並べて気持ちを落ち着かせてやるのが得策というもの。
「仮にエーレンド軍が破れようとも」とベルズは言葉を続ける。
「ひとつの国を呑み込むのに多くの時間と兵力等を注ぎ込むことになる。この国に刃を届かせる頃にはさすがの帝国軍も疲弊し勢いを失っていることだろう。その状態で立て続けに戦争などできるはずもない。そうは思わぬか?」
「……え、ええ。そりゃあ、そうなのでしょう」
戦のことなど分からない。
それでも何となく、領主に大変だと云われればそうなのだろうと母親は頷くだけだ。まだ半信半疑ではあるようだが。だからベルズは強気の言葉で締めくくる。
「案ずるな。この険しい山岳地帯を大軍の利を活かして抜けることは不可能だ。帝国軍にできるのは、せいぜいが雑兵をちびちびと送りこむ程度。例え帝国自慢の『鬼謀』がいようとも、策を封じられた策士家など恐るるに足らん。
やってくるひょろ臭い帝国兵共はぜんぶ、このベルズが蹴散らしてくれるっ」
そうして不敵に笑ってみせれば、いつの間にか、まわりで不安げな顔して手を止めていた農夫達が安堵の吐息を漏らしていた。
よく分かっていない幼い子供だけが目を輝かせて問いかけてくる。
「はくさまが、やっつけてくれるの?」
「ああ、任せておけ。お前達の命は必ず、この私が守ってやる――」
◇◇◇
あの時と同じ晴れた日。
農作業に勤しむ母親と子供。
それらがベルズの記憶を刺激したのかもしれない。
あの時の誓いは果たした。
辺境諸侯が一致団結し領地領民を陵辱する帝国軍を撃退してから早十年。馬上から眺めるジャガイモ畑はあの時よりも広くなっている。
この地を覆う暗雲は取り払われたはずだ。
なのに、鍬を握り土を踏み締める感触から離れて久しく、いまだ視線を一切合わせぬ領民との距離がそのまま心の隔たりとなって埋まっていないことをベルズは痛感する。
確かに守れたものはある。だが――。
胸を占める寂寥感を微も感じさせずに、ベルズは視線を街門へと向けた。
ベルズの横顔に後悔の念は一切見られない。
当然だ。
あの時決断していなければ奪われていたかもしれない命を、今こうしてしっかりと目にできるのだから。
それにそうでなくては――息子さえ捧げた決断を今さら後悔するわけにいくものかっ。それだけは決して。
再び記憶が刺激されるのを感じながら、ベルズ辺境伯は厳しい眼差しを過去へと向けるのであった。
*****
十年前
旧エーレンド領との国境付近――
小国エーレンドを瞬く間に呑み込んだ帝国の大軍勢は、勢いそのままに公国東端の境界まで押し寄せ、境界にへばりつくように幅広く展開していた。
だがそこから先はアルカザル山岳の険しい地形が行く手を阻み、山岳戦に長けた公国の辺境軍が巧みな戦術で翻弄する。
細い山道や獣道は言うに及ばず、主要道を用いても二列縦隊の行軍を余儀なくされる狭小な山岳の地形――辺境軍は先細った帝国軍の先頭を山中に点在する盆地の平場にて待ち伏せし、局地的な包囲戦を繰り返す戦略に打って出たのだ。
当然、大軍の利を活かせぬ帝国軍は地味な消耗戦を強いられ、山岳戦の経験不足も露呈して進軍を足踏みせざるを得なくなってしまう。
これで長期戦に引きずり込める――ベルズ辺境伯はじめ辺境諸侯の誰もがそう胸を撫で下ろしたのは当然であり、興味深げに傍観する周辺国首脳陣も同じ考えを持っていたのは想像に難くない。
それがまさか、たった三週間の沈黙を代価に新たな局面が開かれようとは誰が予想し得たろう。それも帝国側による会心の一手があるなどと。
「何の悪ふざけだ?! 帝国軍がどうして北から攻めてくるっ」
最前線砦の作戦司令部。
声を荒げた幹部のひとりが唇をわななかせているのは、内心では事実と認めているからこそ沸き上がる恐怖のためなのは言うまでもない。
他の面々もそうだ。
一笑に付すどころか報告を聞くなり顔色を変えたのは、公国軍の指揮官が『鬼謀』と怖れられた人物だからである。
ヤツならばさもありなん。
どんな術策を用いたか見当もつかなくても、『鬼謀』であれば空に橋を架け、湖に道を造ることも可能とするだろう。
だから事実との前提でベルズ辺境伯が口を開く。
「喚いたところで事実は変わらん。ヤツは何かの策を使い、北から兵を送り込んできた――そう捉えて対応を考える」
「対応と云うが、これは致命的な状況だ」
そう呻くのは毛むくじゃらの辺境士族長。彼の指摘する通り、北から現れた帝国兵はほどよい広さの平場を陣取ることに成功しており、その上部隊の兵数が徐々に膨らんでいる。ゲリラ戦を展開するために小部隊に区分けしてしまった辺境軍では、潰すのに相応の時間消費と犠牲を強いられるほどに。いや、今や刻一刻と潰せない規模の部隊へと膨らんでいるのが現状だ。
「分散している各部隊を集めれば――」
「いいや、間に合わん」
「それより帝国本軍の突っつきがしつこくて、迎撃部隊が撤退もままならず足止めされているのが拙い」
このままでは、北の帝国軍に横っ腹を叩かれる。
そこまで考えて誰もが言葉を失った。あることに気付いたからだ。
「……助けにいけばその部隊も食われるぞ」
「北の兵力が増えているからな」
続々と兵が送り込まれてくる印象に、あらためて居並ぶ面々は『鬼謀』の繰り出した魔術に意識を向けさせられる。
「“道”が開通しているとしか思えん」
「それが不可能だと分かっているから、分散奇襲のゲリラ作戦を取ったのだぞ?」
「だが、ヤツは道を造った――それが事実だ」
再びベルズ辺境伯がこれも事実と断じると、「問題はそれが一過性のものか否かだが」と思案に沈み込む。
仮に無茶な策故に“期限付きの道”であるならば、戦力を集中させて叩く方策を練れるかもしれない。しかしこれが“永続的な道”ならば、辺境軍も消耗戦に付き合わされることになる。それだけ北の帝国軍が出現した位置が厭らしく、正直、体制の立て直しを念頭に即時撤退も視野に入れる必要が生まれていた。
つまり、ここで見極めを間違うわけにはいかないのだ。
実に面倒な話になった――。
見極めには、どうしても『鬼謀』の術策を看破する必要があるのだが、そもそもそれができるくらいなら今の窮状に直面するはずがない――追い込まれ重苦しい沈黙が場を占める中、司令部で一番年若いオーネストが唐突に「――そうかっ」と叫んで皆の注目を浴びる。
何名かが集中を乱されて憤りを露わにし、また何名かが不信感のこもる視線を投げつける中。
「どうした、オーネスト……?」
父の訝しむ声にオーネストは「道ですっ」と勢い込んで広げられた大判の地図に指を突きつける。
「北の山岳地帯は峻厳で高レベルの魔獣も巣くっていることから踏破は不能とされています。ですが、この地下に延びる『ユリシダ大洞穴』ならそこまで怖ろしい怪物はいない」
「それは皆分かっている。その洞穴が山腹の方ではなく地下へ向けて広がっていることも、その奥深くで行き止まりとなっていることもな」
『ユリシダ大洞穴』に関しては昨年攻略されたばかりで皆の記憶にも新しい。そして娯楽の少ない辺境では刺激的な話題に飢えている面もあり、それなりに詳しい情報を誰もが知っていた。
無論、山岳突破となる“道たり得ない”ことも。
だからこそ、誰もが除外していた案を得意げに口にしてどうなる――そうした苛立ちを押し殺し、辛抱強く説いて聞かせる父親に、だがオーネストは唇の端を吊り上げる。
「問題はその地下二層目です、司令殿」
「それがどうした?」
「二層目の範囲は公国領内にまで広がっています。確かに地上に繋がる出口はありませんが、山腹近くまで延びているルートもあるのです。つまりそこを繋げてしまえば――」
「だがどうやって? 掘るにしても三週間で完成するわけがない」
確かに『鬼謀』は何かの道を造ったのだろう。
だがそれはオーネストの言う地下ではない。例え水平距離に問題なくとも地下から地上までの垂直距離がどれほどになるか――誰もが不審げに眉をひそめているのは、あまりに現実性が乏しいからだ。
「アイディアは悪くないが」と痛ましげに首を振る者達にあって、それでもオーネストの自信は揺らがない。
その理由は実に単純――これまでなかったものが、今の帝国軍にはあるからだ。
「お忘れですか――『一夜城』の存在を」
「「「!」」」
それで全員が声にならない声で大口を開けた。
今や亡国となったエーレンド自慢の土属性に特化した精霊術による技術者集団『一夜城』。その名の通り、何もない平地に一夜にして砦を築く技倆を持つ工作部隊であり、これまで通常では不可能とされる戦術を脅威の技術力で実施可能なものとし、弱小国を生き長らえさせる原動力となってきた。
その築城技術を応用すれば、土中を素早く掘り進む作業などお手の物。今や彼らは帝国軍の庇護下でその真価を存分に発揮しているのだとオーネストは確信を込めて論説する。
「……なるほど、理屈はそうかもしれんが」
「いやそれ以前に、地下二層目にそんな場所があるなんて、地元民でもなければ分かるはずがないっ」
「だが偶然で、これほど大胆な策を生み出せるわけがないのも事実」
「そうとも。相手はあの『鬼謀』だぞ?」
「だから、我らが考えもつかない方法で大洞穴と無関係に道を造っているかもしれん。ここで読み違えると、もっと大きな罠にハマる可能性もある――」
肯定と否定のシーソーゲーム。
皆の意見が一向に定まらぬのは、ただひとりの謀略家を大いに畏れ溢れる疑心を抑え付けられぬせいだ。
この一戦に賭けられた辺境領の未来。
のしかかる重圧が『鬼謀』の術策を見破らねばならぬ焦りを生み、さらなる罠を勘繰る慎重さが決断することを躊躇わせ、建設的に論じることさえも辺境軍陣営から奪い去っていた。
そんな硬直した状況に、またしても若きオーネストの柔軟さがひとつの光明を導き出す。
「偶然じゃないかもしれません。これまで公国にとってもエーレンドにとっても、僻地の洞穴は探索効率が悪すぎて本腰での攻略を検討するに値しないとされてきた。それが昨年あたりから急にスポンサーがついて、話題性が上がっていました」
そこに違和感があるとオーネストは告げる。そしてその違和感からある想像をしてしまうのだと。
「もしかして、『ユリシダ大洞穴』を攻略させたのも『一夜城』を手に入れたのもすべては計画のうちだったんじゃないでしょうか。公国まで攻め落とすことを目標とした『鬼謀』が描く大きな戦略の一環として――」
すべては偶然でなく、意図的に仕掛けられた必然なのだと。
それは実にご都合主義な作り話と言えよう。
いくら辺境伯の長子であろうと、若輩の浅慮を叱り誹ることに躊躇う者などここにはいない。
なのに反論どころか異論の声すら上がらず、場は驚くほど静まり返っていた。
皆の顔はひどく深刻で、まるで己の首を締め上げる『鬼謀』の手の感触を実感しているように青ざめている。
そう、誰もが“事実”と受け止めていた。
過酷な辺境で生き抜いてきた戦士としての直感がオーネストの正しさを認めるが故に。それと同時に、自分達は『鬼謀』と互角に渡り合っている――つい今し方まで自分達を支えていた強い自負が、実は幻想にすぎなかったと示されて、誰もが衝撃を受け気力を失っているように見えた。
視線を下げ顔を上げている者は一人もいない。
全員が悟ってしまったのだ。この戦は負けるのだと。
「……どこへ行く?」
立ち去ろうとする毛むくじゃらの士族長にベルズ辺境伯が気付く。返されたのは曲げるつもりのない力強い言葉。
「無論、迎撃部隊の下へ。粘れば北の兵が食いついてくる。一度その針路を取らせれば自軍を撤退させ策を練る時間が大いに稼げるだろう。――ヤツが周辺地理に疎ければの話しだが」
「それではお前が」
「ギドワ族の流儀だ」
答える士族長の目に“死ぬ覚悟”はあっても諦観はなかった。彼はあくまで“勝つ”ことだけを見据えていた。
「俺の死が皆に力を与える。それはこの戦で勝つための“鍵”となる。――だから必ず、ギドワを使った“必殺の手”を見出せ。必ずだっ」
ベルズを信じるその声、その瞳。
これまで最もぶつかり合ってきた男だからこそ、ベルズの力量に期待を込めるのだろう。
敗色濃厚な空気が満ちる作戦司令部に士族長の覚悟が熱を与えたのは間違いない。自然と皆の熱い視線が辺境で名高き勇士に向けられる。
ベルズが己の胸に拳を叩きつけた。
こういう時に掛ける言葉はひとつしかない。
「屈せぬ心、頑強な身体――」
「「「辺境人の力」」」
士族長と共に全員が唱和する。
あまりに短い別れ。だがそれで十分だ。
胸を張って去る士族長に一切の憂いは見られなかった。
「司令殿。少し二人で話せませんか?」
「フォルム……?」
再び司令部に熱気が戻り撤退の準備に大わらわとなる中、思わぬ人物の発言にオーネストは振り返った。
本来であれば、この場に立つことも許されぬ立場であった。だからこそ、オーネストの補佐役と仮付けしていたフォルムが口を開いたことに親子は驚き、ベルズは申し出を受け入れ、オーネストははっきりと記憶に残すことになる。
この後、いかなる談義が行われたかはベルズ辺境伯とフォルムの二人にしか分からない。
それでも容易に想像はつく。
それは『鬼謀』が繰り出す“思考の網”から逃れ、わずかな勝機を手繰り寄せる秘中の一手についてなのだと――。
*****
ベルズ辺境伯帰還の夜
ヴァインヘッセ城
オーネスト自室――
彼であっても夢は見る。
例え心拍数が常人の十分の一になり、体内を流れる血液が冷え切っていても、周囲の人々と同じように夢は見る。
ただし見る内容は“十年前の大戦時”に限られているのだが、彼に不満などあろうはずもない。
決して忘れてならない、彼が彼であるための根源がその夢にはあるのだから。だから繰り返しその夢を見るのだろう。
「……――」
目覚めたオーネストは光も差さぬ闇の中を不自由なく歩いて窓辺に立った。
陽射しを遮っていた分厚いカーテンを開け窓も開け放つ。ゆるやかに吹き込んでくる夜風を昔より鋭敏になった蒼白い肌で愉しんで。
ふと、窓枠に掛けた右腕へ視線を落とした。
かすかな腕の震え。
紫色に浮かぶ草の根に似た細やかな血管が明滅するように脈打っている。
「もう、血が必要か……」
単純な“飢え”であれば咽の渇きとして感じる。だがこれはそれとは違う。違うからこそ、問題なのだ。
これは彼が払った代償だ。
どうしても必要であった代償だ。
だが、多くの領民を救うための代償が、少ない領民の命を消費すると知っていればこんな事には――いや、とそこで彼は首を振る。仮に拒んで異なる道を選んだところで。
「今頃、拒否したことを悔やんでいたはずだ――同じだ。どれを選んでも」
あるいは、この身を滅ぼすことも考えなかったわけではない。だが、未だ公国は周辺五カ国の脅威に晒され続けている。その脅威を抑え付けている力が、帝国軍を撃退してのけた『俗物軍団』であり、その団長である自分なのだ。
例え“三剣士”といえど、『俗物軍団』や彼の“大剣士”の代わりにはなれず、他国から侵略を思い留まらせるほどの兵力たり得ないとなれば。
「まだまだ退場はできない。いや、この魂ある限り護り続けると誓った――」
あの日のことは鮮明に覚えている。
肩を並べるふたつの満月がすべてを蒼白く染め上げる幻想的な夜であったことも。
◇◇◇
暗く冷たい洞穴を抜けた先。
松明が照らし出す石堂の光景にオーネストは思わず目を奪われた。
「こんなところに――」
床一面に描かれた幾重もの同心円と五芒星の織りなす紋様の複雑さ。そこに絵柄や古代文字が混じり合うように羅列され、現代魔術では構築できない壮大な世界観が表現されていた。
無論、それが高度な儀式魔術に関する何かだとオーネストに分かるはずもない。ただ、荘厳さを漂わせる教会とは、別種の神秘的な力を感じるだけである。
そしてもうひとつ。
石堂中央に鎮座する石の寝台を軸にして、左方向に双月の彫刻が形を変えながら嵌め込まれており、それが壁を伝って天井に繋がり、そこから反対側の右方向へ降りていき、最後はまた寝台に戻る形になっていることに気付く。
それが月齢を示していることなど、やはりオーネストに分かるはずもなく。
「知っていたかい? 大地には陽光神アル・ラグルの力が昼も夜も降り注いでいることを――」
寝台へと真っ直ぐ歩みながらフォルムが語りかけてくる。
「ただし、夜だと“月の照り返し”になってしまうため、陽光神の力は真逆の性質を持つことになる。これを魔術師達は『鏡月大反転』と呼んでいる」
教会も魔術師もそれぞれに用いる言葉は異なれど、本質的には同じ解釈をしている。教会は“生死”であり魔術師は“正負”であるというように。
「すでに気付いているだろうが、この祭壇は『鏡月大反転』の効果を増幅させ活用することを目的として造られている。魔術学園都市『アド・アストラ』をはじめとしたいかなる識者も再現不可能な古代の叡智によって」
「古代……それは『深沈の森人』の?」
「それも回答ひとつ。けれど、この試験場を造ったのは他にいる。――“銀翼の民”を知っているね?」
知らないわけがない。
大陸史上最も栄えた文明を築いた謎多き種族。力の象徴として記憶に残ることから、探索者の格付けにも称号として用いられている。その一時代を築く原動力となったのが『魔術工芸品』に代表される高度な魔術体系だ。
今では失われている攻撃魔術に死霊魔術、時空魔術。そこには難度の高い儀式魔術も当然含まれる。
確かに彼らであれば、これほど複雑怪奇な魔方陣を構築することは可能であろう。
気になるのは、その儀式で取り扱うであろう忌避すべき“力”のこと。陽光神に正対する者を想起してオーネストは不信感を露わにする。
「月の女神の力を使うのか……?」
「そうだ。けど、君は何か誤解しているようだ」
オーネストの危惧を察しているようにフォルムは丁寧に説明をはじめる。
「教会の恣意的宣伝を鵜呑みにしてはいけない。教義の原文には“陽光神は生を月の女神は死を司る”とだけある。決して聖邪の区別じゃない。だから宗派によっては敵対する者でなく兄妹や夫妻として語られているわけだ。
魔術師の視点では、陽光神の力は言うなれば“活性化”を示し、月の女神はその真逆となる。一番分かり易い例えは“死”あるいは“老いず朽ちず”かな」
即ち“不老不死”――。
死を克服した者が手に入れる幻想の極致。魔術師達が求めて止まない夢のひとつ。その相反する事象を同じと捉えるフォルムに矛盾を感じたのが顔に出たのだろう。
「“死”と“不老不死”は同じ理屈だよ。どちらも生き物にとっては広義において“停止”を意味する。当然ながら、この儀式を構築した者達が目指したのは“不老不死”だ」
はっきりそう言葉を口にされオーネストは身を震わせた。自分は今からその力を得ようとしているのだから。
しかし、緊張感に水を差すようなことをフォルムは付け加える。
「――というのが彼らの狙いだと耳にしているがね。完成したかどうかは実際に試してみないと分からない」
「それって――」
「儀式の成否は保証しない。いやできないってことだ。それでも今の窮地を脱する術があるならば、私に沈黙する選択はなかった。それだけは理解してくれるね?」
寝台の傍らでフォルムが振り返る。
招くように。
いや、選択を迫っているのだ。
「ここから先は君が責任を持って判断してくれ。やるならここに寝るだけでいい。月明かりがあの天井から差し込む前に」
軽く顎を上げた視線の先は寝台の真上。そこに丸くくり抜かれた穴があることをオーネストは初めて気付く。
「どうするね――?」
フォルムの言葉を待たずして、オーネストは寝台へと歩き出していた。
覚悟はとうに決まっている。
アルカザル山岳の難関地域を突破した帝国軍は、すでに幾つかの小村を踏みにじり最東の街に迫っていた。
殺戮は始まっている。
飢えきった野犬の群れがごとき帝国軍の暴虐ぶりはすでに辺境中に知れ渡っていた。
生半な戦力では対等に戦うことすらできず、辺境の勇士達をもってしても、同数で互するのが難しいと目されるほどだった。
だからこそ、自分はここで“力”を手に入れ、直接敵の将軍を叩くしかない。それしか狂暴無比で大軍を擁する帝国軍を打ち破る術はない。
一計を案じ、敵将軍との彼我の距離を詰め、その上で馬鹿げた特攻を成功させるには、どうしても絶対的な力が必要なのだ。
「――成功したら、共に戦ってほしい」
寝台に横たわる前、オーネストは密かに考えていた案をここしかないと切り出した。“共に”というのは“最後の作戦”への参加を意味していることが彼にも伝わったようだ。
「どうして私に?」
「辺境人の勘さ。変わった私と肩を並べられるのは貴方しかいない――とね。おそらく、貴方もそうなのだろう?」
出会った時から不思議な男だった。
持病で苦しんでいたオーネストの陣幕にある日ふらりとやってきて魔術印を施し完治させたのが彼だった。
それ以来、“かかりつけ医”のごとく側仕えにしていたが、彼の才能は医療に留まることはなく、いつの間にか頼りにする補佐官として彼の意見を常に求めるようになっていた。
初戦における司令部で色々と発言できたのも、影で彼による具申を受けていればこそ。さらにはこれまでに二度、帝国軍を足止めするための戦いに参戦し生き残れたのも彼の尽力なしには語れない。
軍略に深い見識を持ち、槍持てば武力の底を見せぬその力――そうして今またこのような遺跡の仕組みを理解し操れると知れば、色々と想像は付く。
彼が何者であるかという興味は置いといて。
「“必殺の部隊”はギドワ族の精鋭で構成される。そこに二人も超人が加われば、あの『鬼謀』の喉元に刃を届かせることも夢じゃない」
「ずいぶんと控えめな発言だな」
暗灰色のローブの奥でフォルムが笑ったように見えた。
「そこは“届かせる”と言い切りたまえ」
「力を貸してくれるんだな?」
「これは私にとって貴重な実験でもある。被験者の行く末を見届ける必要がある」
聞き慣れぬ言葉を特に気にすることはなかった。
オーネストにとって肝心な答えがもらえたと思ったからだ。
「これを呑みたまえ」
オーネストが納得したのを察したのだろう。差し出された小瓶をオーネストは黙って受け取る。薄暗がりで液体が入っているのが分かっても色までは判別できない。その中身をわずかな疑問と共にオーネストは呑み込んだ。
「……これ、血か……?」
「貴重な血だ。大陸中をくまなく捜しても滅多に手に入れられるものではない。それが触媒となって反応し、君の骨肉に変容を促す。さあ寝たまえ」
オーネストはゆっくりと横たわり、そこで丁度、天井を吹き抜けた遙か高みに双月が顔を出していることに気がついた。
時間だ。
蒼白い月光が降り注ぎ寝台が輝き出す。
フォルムがいつの間にか古びた書物を手に取っていたことも、朗々と魔術的言語を唱え始めたことも気付かずに、オーネストは淡く輝いて見える双月に魅入られていた。
「!」
ふいに視界がぼやけ、身体の輪郭が薄らいだような不思議な感覚を覚える。
背に感じていた寝台の冷たい感触も消えていて。
何も聞こえない。
なぜか真円を際立たせる双月が間近に見える。表面に浮かぶ模様までくっきりと視認できるほどに。迫る月に身体が包み込まれるような錯覚すら覚えて。
今、オーネストはこの世にあってこの世になかった。
水の中をたゆたうように、オーネストは闇の中で揺らいでいた。
真上から包み込むような月光を浴び。
身体を冷たい闇に浸して。
その冷気が皮膚を冷やし、肉を冷やし流れる血を冷やすに至ってオーネストは身震いした。
言い知れぬ恐怖によって。
その冷気には何かがあった。
誰かの意志が。無数の何者かの意志が。
それらの意志に自分の身が侵される感触――オーネストは怖気を振るい沸き上がる拒絶感を懸命に抑え付ける。
直感したからだ。
これが求めた“力”なのだと。
どれほど忌むべきものであっても受け入れねばならないと。
それでも逃げ出したい恐怖に全身を揺さぶられる。
民を思った。母を友人を。
追い込まれてゆく戦局に苦悩する司令部の面々を。
それでも顔を上げ続け、陣頭指揮を執る父の姿を。
残された秘策は“死の特攻”だ。
生きて戻ることを考えず、誰かの刃が届けばよいとする策とも呼べぬ策。
その秘策を成就させるためには、旗振り役として“絶体の力”と“辺境の顔”という二つの条件を満たす必要がある。それは父でなく自分が負わねばならぬ役目とオーネストは信じていた。それが周囲の期待でもあった。
今や持病は克服した。
病弱がために振るわなかった不甲斐ない盟主の長子――それだけで終わるつもりなどオーネストにはない。
だからこそ。
何者かの手が内臓を這いずり回り、魂まで冷え切る苦行にオーネストはひたすら耐え凌ぎ続けた――。
◇◇◇
オーネストを追憶から呼び戻したのは、フォルムの来訪を告げる召使いの声であった。
「すぐにゆく」
召使いを下がらせ、手早く身支度を整える。
応接室で待っていたフォルムはあの時と変わらず暗灰色のローブに身を包んだ姿。十年経っても汚れが目立たぬローブには、防汚魔術が施されているのかあるいは買い換えているだけなのか。
どうでもいいことから意識を戻し、オーネストは無言で対面に腰掛けた。
「顔色が優れないようで」
無論、皮肉ではない。
似たもの同士、平常時との些細な違いを感知できるというだけだ。
「間隔が短くなっている」
「当然です。必要に応じて摂取しなければ」
これまで何度も指摘されてきたフォルムからの言葉に、オーネストは反発するように黙って睨み付ける。それを意に介さずに。
「我慢すれば“渇き”は酷くなり、状況は今以上に悪化してゆく。はじめの頃にそう申し上げたはず」
「はじめる前に云ってほしかったがな」
この皮肉った会話も何度繰り返してきたことか。
どのみちどのタイミングで告げられてもオーネストの選択は変わらない。互いに分かった上でのそれは茶番であった。
「今日はひとつ朗報を届けにきました。明日にでも公女をお連れします」
「……彼女はまだ12歳だ」
喜ぶどころか無表情で押し殺したオーネストの声にフォルムは今さら何をと声音を変えることはない。
「団長も承服しているはず。公女の血であれば症状を抑えることができるのですよ?」
「『北魔』の女はどうだ?」
「悪くない。ですが、この先何人消費しても構わないと?」
その皮肉というか嫌味にオーネストは押し黙る。それが嫌だと云ったのは自分であり、別の解決法を求めた結果が今の状況だ。
「いい加減受け入れていただきたい」
子供を諭すようなフォルムの言葉。
「何事にも対価は求められます。12歳の少女でも蛮族の女でも誰をどう選んでも、貴方の肉体は女の命を奪わねば維持できないのです」
「……」
「むしろ、たった一人の少女で多くの命が救われると考えれば、それこそ迷う必要はないのでは? 決断願いましょう――貴方の父上がそうしたように」
聞き入るオーネストの表情に変化はない。
だがその病的な仮面の下で別の一面が激しく強張っているのをフォルムならば感じ取っていたに違いない。
本来であれば彼らに無縁の“激情”を。
「まったく、同士とは思えませんね。貴方の冷えたはずの魂に温もりを感じるとは。いや、これは素直に感心しているのですが」
興味深げなフォルムの声にオーネストは無言を通す。
「もう少し時間はある。よく考えてみることです」
そこでこの件に関する話しをフォルムは打ち切った。続けて「“例の件”ですが」目下の懸案事項を取り上げる。
「素体とする候補を絞り込みました。今夜、儀式を執り行います」
「満月には早いぞ?」
「仕方ありません。時期尚早であっても状況は動き出し、こうして公女を手に入れる幸運にも恵まれました。そうであればこそ、今度の戦いで負けるわけにはいかないのです。
例え半端物でも、いえ半端物だからこその使い道があり、備えられる備えはしておくべきでしょう」
フォルムの考えに異論を挟む余地はない。
大きな内戦をはじめるわけにいかない以上、両家とも少数精鋭の部隊構成が必須の情勢だ。しかるに、頼みの『俗物軍団』の戦力は落ちており、自分達二人が存分に力を振るうにも活動時間帯に制約がある。
だからこそ、兵士の強化策が必要なのだ。
分かってはいるのだが。
「成功率に問題はないな?」
「素体と触媒が万全である以上、失敗することはありません。問題は効き目の程でしょう」
「どの程度劣る?」
「まず、潜在能力の解放で身体能力が向上することは同じです。ただし肉体面においては、しぶとくなるだけで通常の攻撃で傷つき、常人と同じく死を甘受します。だからこそ、日中の活動に忌避感はなく、陽射しを浴びることさえ致命的になりません。そこが一番の違いかと」
純粋な能力強化――そう捉えてよい内容だ。
細かくあげれば“老化の遅延”や“血の渇き”など眷属に特有の症状は薄れていても存在するらしいが、不死性の有無はあまりに大きな違いと云えるだろう。
所詮はマガイモノ――というわけか。
それでもオーネストの表情に不満は見られない。満月を待っていては間に合わなくなる以上、計画を進めるしか選択肢はないのだから。
「触媒として団長の血もいただければと」
「?」
「血で結びつきが強まるようです。団長の指令を効かせ易くする程度でしょうが」
はっきり明言できないとフォルムは云うが、不利益がないなら好きにやらせてみることにする。
「大公陛下に公女も手に入れた。だというのに、この余裕の無さは何だろうな」
「あらためて俯瞰してみるに――一見して妄動としか思えないルストラン殿下の最初の一手で、我々の思考や行動を誘導されてしまったように思えます」
大公ドイネストに注意を払うあまり、実弟の動きを見過ごしていたのは確かだ。だが、あの頃のルストランは権謀術数とは無縁で義心のままに生きる若き獅子だった。だから此度の一件も何かを切っ掛けにした血気に逸る衝動的な行為と捉えたのは仕方がない。
単なる暴挙だと。
「人は動物と違う。何かの切っ掛けで化けることがある――俺のように」
「殿下にも何かがあったということですか」
「あれほどの戦争だ。誰もが何かを失っている。どうしたって変わらざるを得まい」
確信を込めるオーネストの声はひどく枯れ果てていた。敵も味方も磨り減って、それでも新たな争いを生み出している。変わり果てたオーネストでもその胸に何かの感情が去来せずにはいられない。
そうした念いを振り払うように。
「いずれこの国は、“来たるべき時”に備える必要がある。新生『俗物軍団』の礎たり得るか――今宵の成果を心待ちにするとしよう」
「ご了承いただき感謝します。これは『真人部隊』創設への第一歩。必ずや団長のご期待に応えましょう」
立ち上がり恭しく礼を取る副団長に、オーネストは無機質な視線を向ける一方で、内心の不信感を拭えずにいた。それは暗灰色のローブに身を包むその姿が、どうしても狂気に堕ちたいかがわしい魔術師にしか見えないからであった。




