(十)重ねた月日
シュレーベン城
三階『小広間』――
そろそろ目覚めようかとする城の一画で、その戦いは静かに始められていた。
足下を窓外から差し込む朝陽に清められながら、対峙するのはバルデアとエンセイ。
公国最高峰の“三剣士”と称えられた両雄が、誰に見とめられることもなく、抜き身の剣を携え、眼光鋭く睨み合う。
「――――」
「――――」
瞬きすら許さぬ緊張感。
いつ白刃が疾駆してもおかしくない対峙はしかし、差し込む光の角度が目に見えるほどに変わっても、終わりをみせる気配がない。
それは二人がいまだ互いの“隙”を探り合っていることの表れであり、それだけ二人の力が拮抗していることを物語っていた。
当然と云えば当然か。
その戦闘スタイルは異なれど、同じ高みに至った“三剣士”。
そして同じ血を引く父と娘。
まるで“一対の彫像”と錯覚させるほど、二人の構えさえ鏡映しに相似していれば。
胸骨の心中よりやや左――すなわち心臓の前にて剣柄を掲げ、剣身を右前方へ伏せ気味にする形で構えと為す。
人呼んで『泰山揺刃』の構え――。
肉体は裾野を下ろす山地のごとく不動とし、剣はひとところに留めず、万事柔軟に変ず。
剣をあえて崩し気味に構えるのも、あらゆる事態に即応できるよう、固着化させない心意を体現させるがため。
その一点さえ抑えれば、構えは剣士の数だけ生まれるはずが、実際には多くの剣士によって創案者が見せる“エンセイの型”が広く流布されていた。
公都最大派閥の剣武場であるオルティア流然り。
同じくシルドネ流然り。
バルデアとエンセイの二人であれば、その構えに互いの面影まで重ねてしまえるのは、むしろ必然であったろう。
いや、彼女がそれを馴染ませている姿は、二人の関係を考えてみても――特に父エンセイにしてみれば驚きであったに違いない。
「――お前がそれを選ぶとはな」
ぽつりと洩らしたエンセイに「戦術的選択だ」と冷ややかな声が返される。必要に応じて使っているにすぎぬと。
「だが十分だ」
刃を合わせてすらいないのに、用済みであるかのように確信を込める。
すでに見極めたのだと。
バルデアの声が鋭さを帯びる。
「何も変わっていない。手堅く、守りに重きを置く構え。“不敗”というに聞こえはいいが、その実、自ら行動することのない“待ち”の剣」
そう父の剣に対し棘を以て評す。
冷淡に、しかしわずかな侮蔑を滲ませて。
「だから、去りゆく母を留めることもできなかった。母にそう――決断させた」
「……」
口ぶりは淡々としながらも、明らかに糾弾するその言葉に、エンセイは身動ぎもしない。だがその瞳の奥の変化をバルデアは察知する。
「詫びるな。憐れむな」
自身に向けられる何かを拒絶し、断ち切るように。そして「悔いてもならん」とバルデアは語気強く言い添える。
「そんな暇があるのなら、お前はここにいず、母を連れ戻しに行くべきだ」
「お前のようにか――?」
「!!」
それは痛烈なしっぺ返し。
あの男を見つけておきながら、剣すら抜けずに逃げてしまった恥ずべき過去を嘲笑う一言。
揺さぶりをかけていたつもりが、逆にやり返されて、バルデアのやつれた頬がぴくりと引き攣った。
冷徹であった彼女の声音に怒りの熱がわずかに帯びる。
「いいだろう、乗せられてやる」
る、と口にしたときには、バルデアの姿はエンセイの眼前にあった。
右肩、左肘、さらに右の爪先で三つのフェイントを瞬時に差し込んで。
首筋狙いで走らせる。
ヒュア――――ッ
――ギィン!!
叩き込むは、変形の『双牙斬』。
それを最適な一剣に絞り込み、エンセイ得意の攻勢防御『牙落とし』で打ち落とす。
強制的に無防備を晒すバルデア。
手首の返しでエンセイの剣が跳ね起きて、必殺の刃がバルデアの首筋へ吸い込まれる。それが。
バルデアの姿がかき消え、空を薙ぐ――。
白い首筋に刃が触れ、意識が凝集するその一瞬に、彼女は軽やかなステップでエンセイの認識を目くらまし、その脇へ逃れていた。
その一瞬を見極める胆力、眼力、積み上げた経験値――さらには装着者の理想を顕現し神業的運足を可能とする準国宝級の秘具『剣巫女の舞踊靴』があればこそ。
真横をとったバルデアが、死角から胴を狙い、
動じぬエンセイが左足を引いて“受け”を取りつつ滑らかに転身する。
――――ッキ!!
噛み合う剣と剣。
衝撃の威力に澄んだ金属音が小広間に響き渡る。
「――甘いっ」
バルデアのこめかみに青筋が浮かんだ。
受け止めたはずの剣がエンセイ側に押し込まれ、咄嗟に剣を斜めに逃がすも、バルデアがそれを許さないっ。
エンセイの意図した逆側へとバルデアの刃が滑り上がり、剣の唾元に達してなお、迫り来る魔獣の顎がごとく暴れ狂う。
その圧倒的暴力に。
「……っ」
両腕に力を込めると同時に、全力で石床を蹴るエンセイ。
『大鬼を宿す腕輪』が生み出す馬鹿力とエンセイ自身の跳躍力が合わさって、軽々と後ろへ吹き飛ばされてしまう。
それでも空中で姿勢を制御し、わずかにたたらを踏むのみで抑え込む。すぐさま元の構えに居直るのはさすがの手並みというべきか。それがバルデアの追撃を思い留まらせたらしい。
「……さすがに崩れんか」
追い足を引き付けた状態で、動きを止めたバルデアが独りごちた。
剣をひゅるりと回して半円を描き、再び『泰山揺刃』の構えに戻る彼女へ、同じ構えのエンセイが当然のように応じる。
「編み出してから二十年以上の付き合いだ。そこらの剣士とは年季が違う」
創案者たる自負に満ちた声。
それをバルデアは鼻で笑う。
「負けはしないが、勝つこともない。それがお前の限界だ」
バルデアの手厳しい評価にエンセイが押し黙る。
心なしか沈んだ瞳と引き結ばれた唇の厳しさ――生み出された沈黙の息苦しさでその胸中は明らかだ。
そう捉えるバルデアの思考を否定するかのように。
揺らがぬ双眸でエンセイは誰にともなく静かに告げた。
「……今度はこちらが乗る番か」――と。
どういう意味だ?
眉根をわずかに寄せたバルデアが疑念を口にするより早く、エンセイの構えがゆるりと変化した。
創案してより二十年以上、一度として変わることのなかった彼の代名詞ともいうべき不動の構えが。
公国の剣士達が憧れた、あの不敗の構えが。
バルデアの目前で、たった一文とはいえ、剣の歴史が新たに書き加えられた。
剣柄の位置が上がる。心臓から顔前へ――視界を妨げぬよう、さらに上へと。
「――!」
バルデアの目がわずかに細められた。
自分に向けられた重圧が上がるのをはっきりと感じたからだ。
エンセイの戦意は以前と変わらず、その指向を絞ることにより、感じる重圧がぐっと増していた。
より前掛かりに。
その姿は、正に圧巻だ。
脇腹をさらす無防備さと引き替えに、はじめから“振り上げた状態”を保持するのは先手をとることを何よりも優先させるがため。
その超攻撃型の構えに“背水の陣”に似たエンセイの覚悟をバルデアは感じていた。それこそが、重圧を増した根幹だと。
あのエンセイが攻めの型を――。
“争いを避けよ”と“危険に近づくな”と説いた男が。
一剣に己を込めるような、捨て身ともとれる戦法を選択するなんて。
(それが、お前の二十年か――――)
あの日以来、己の剣を見失ったように、あるいはあの男に触発されて剣を振り続けたエンセイが血道を挙げた“剛の剣”。
自分を不安にさせ、父を失うことになった“破滅の剣”でもある。
その忌むべき剣を早々に見せたエンセイの姿にバルデアはどう対処するのか。
「――――」
様子見であったはずの構えを変えることはなく。
冷ややかなバルデアの表情にも変化は見られない。むしろいつも以上に冷徹な眼差しに見えるような。それだけ攻撃的なエンセイの姿勢に脅威を感じているということか?
あるいは、受けきる自信があるからこそか。
ザリ、とかすかに石床を踏みにじる音がして。
次の瞬間には、鎚の一撃を思わす踏み込み音を響かせて、エンセイは彼我の距離を消し去っていた。
「ヒュオッ――」
凄烈な意志宿る瞳と鋭い口笛のごとき呼気。
強引に押し入り、ただ一瞬、バルデアより先に初撃を叩き込まんと全神経を集中する。
その極小なる一点に――――
おそらくは互いに、まわりの景色が消え、相手の姿さえ霞んで――ただ振るわれる剣のみがくっきりと瞳に映る。
打ち下ろす刃。
あるいは、迫り来る刃。
研ぎ澄まされ、それ以上に“執念”を感じるほどの、エンセイの凄絶なる一剣。
――――ッ
空気が啼いた。
バルデアはそう知覚していたが、それに意識を向ける余裕はない。
剣技かと見紛う総毛立つ一撃に、彼女の両腕に秘められた二つの秘具が全力でその真価を発揮し迎え討つ。
――キッ――――……
打ち合った刃と刃の一点から、込められた猛烈な剣気が稲妻のごとく八方へ飛び散った。
壁や天井が浅く鋭く切り裂かれ。
バルデアとエンセイの頬に朱の切り傷が走り、その全身も数カ所ほど、同様の傷を負う。だが、より負傷度合いが軽微なのは、受け手であったバルデアの方。
「……ぐっ」
すぐに片足を退き、そのまま跳び退って距離を取ったにも関わらず、本来受けるべきだったダメージはあまり感じられない。
その原因を彼女の身体を所々で覆っている、淡く蒼白い靄のような輝きにエンセイは見てとったようだ。
「それも秘具の効能か……」
『聖天使の慈しむ手』――。
陽光神に使える聖天使の加護により、対象者が負うべき間接ダメージを常時2割程度軽減させる信仰系魔術のひとつ。それが秘められた秘具こそが、バルデアの中指に嵌められた『第二の指輪』であった。
近接職として、武器による直接ダメージよりも、魔術や戦気など特殊な力によって与えられるダメージへの対処法は必須だ。
故に聖天使の加護が付された逸品は近接職の間では強化系に次ぐ人気を誇る。バルデアが入手しているのも必然というわけだ。
ただし、この考えは探索者ならではの発想で純粋な剣士には持ち得ないもの。つまり多くの剣士が侮蔑すらこめる発想を彼女は肯定するからこそ、エンセイに指摘するのだろう。
「どうしても道具を嫌うのだな」
「別に――」
「だがそれがお前の弱さだ。お前の弱さは、“剣士の枠組み”を決めつけていることにある」
「剣士の枠組み……?」
奇異な言葉を聞かされたように、エンセイの片眉が上がる。彼女の教示せんとする姿勢も、立場が逆ではないかと違和感を抱かせる原因でもあったろう。それを彼女が気にするはずもなく。
「剣士の周りには、飛び道具だけでなく精霊術に魔術、異能や特殊アイテムなど剣のみで抗うには心細くなるほど、厄介な“力”に溢れている。
そういう意味では、『深淵を這いずるモノ』や星幽界の住人達もそうだ。
無論、剣の腕を磨くのはいい。だが剣士の目指す高みは、剣士の内だけで強者となることを望むものか? “内輪だけの最強”を本当に目指しているのか? 答えは否だ」
「確かに。だがそこまではっきりと認識していたかと問われれば怪しいものだ。つまりお前は、まわりを含めて最強を目指すべきだと云うのだな?」
確かめるエンセイにバルデアは「そうだ」と短く答える。それは今までで、何よりも真摯な一言であった。
「異論はないはずだ。お前は剣に拘りながら、剣に“戦気”を応用している」
「……」
「剣士だけではない。近接職のいずれもが操る“戦気”は精霊術や魔術を脅威とみなし対抗するため。あるいは『精励装具』や魔術付与が為された武具を使うのもそうしたことを意図してのこと。
だが“戦気”にしたところで、純粋な剣かといえばそうではない。例え修練の先にて得る副産物だとしても。一説によれば、戦気や精霊術に魔術などの不思議なエネルギーは、根源的に同じものと云われている。いや、そうでなかったとしてもだ」
“純粋ではない”という事実に変わりあるまいとバルデアが説く。そしてそれらを用いることについては、不思議と嫌悪する剣士はいないと。
「“戦気”を認める。すなわち剣以外を取り込む。そこまで許せるなら、それだけに留める必要はあるまい?」
「手に持つ剣だけでなく、防具や装飾品も剣士としての枠組みに捉えよというわけか」
その言葉を待っていたようにバルデアは嬉々として饒舌になる。
「剣士として大陸史に名を刻むものは、すべてがそうだ。森精人の『精霊之一剣』を操る『四門の剣士』に、影なる伝説『呪法戦士』。あるいはモディール王国の深山に棲まう『天空闘士』――彼らは剣のみを頼らず尋常ならざる“力”もまた行使する」
「それは剣士に似て剣士に非ず」
それが滑稽だとバルデアは嗤い、疑念を呈す。
なぜそのように区別するのかと。
「そこで否定するから矛盾が生まれる。意固地になるな。ただ認め、受け入れればいい。それは“剣士を越えた剣士の姿”なのだと――」
バルデアの声音には確信があった。
まるで女神から託宣を受けた奇蹟の体現者であるかのように。
その声に揺るぎはなく。
その細い身体を倍に錯覚させるほど、充実した気力が漲っている。
溢れる自信が剣に宿り、剣先から迸る剣気となってエンセイに押し寄せる。
「それがお前の二十年か――」
どこか暗く濁りを帯びて刺々しかった殺意の波動が、今や白く純粋な殺意に澄み切っている。
汚れた衣を剥いだように。
それを雑味がとれたとエンセイは認識する。
「ふっ」
「何を笑う」
いやなにと。エンセイは自身を笑ったのだと告げて。
「お前の言う“枠組み”とやら。考えてみれば、私が“戦気”を使っている時点で、自分で思うほど剣に拘っていないのだと思ってな」
「だが愛用する剣は通常のもの。“戦気”もどちらかといえば無意識に発動させているに近い。お前が重視するは剣の技――そうであることに変わりはない」
だからよ、とエンセイ。
訝しむバルデア。
「結局は、どこに力点を置いているのか。どこに拘るのか。それだけの違いではないか?」
「……」
この二十年、互いが大事と思うものに重きを置いて修練に明け暮れてきた。限られた二十年をどう使うかは人それぞれであり、それによって剣士を構成するパラメータに差異が生まれただけにすぎぬのだとエンセイは告げる。
「互いの二十年に、単純な善し悪しを当てはめることなどできまい」
そう思えるからこそ、エンセイは素直にバルデアの有り様を受け入れるのだろうか。
「お前の身のこなし、体術のキレを見れば分かる。叩きつけられる剣気にどれほどの苦難を乗り越えてきたかが、対峙するからこそ窺える。
卓越した剣の技に運足の安定感。所持する秘具はいずれも一級品の『魔術工芸品』で入手するにも困難。まして非の打ち所なく使いこなす所有者が世にどれほどいることか――」
そう紛れもない感嘆を込めてエンセイが評する。
娘であることへの贔屓目を抜きにして。
真摯に賛辞を送る。
「……よくぞ、ここまで練り上げた」
「……」
聞き入るバルデアは唇を引き結んだまま。
瞳を揺らさず瞬きさえすることもなく。
エンセイを凝視する。
彼女は嘲られると、幻滅されるかと思っていたのかもしれない。
あるいは否定されるかと、剣士として認められぬのではないかと思っていたのかもしれない。
その昔、素振りで荒れた手を咎められたように。
そう身構えていたかもしれないバルデアを肩透かしさせて、エンセイは彼女の有り様を肯定したと言えるだろう。むしろ、自分も大なり小なり剣士の枠組みを越えてしまっていたのだと認めさえして。
困惑か猜疑か、バルデアが厳しい表情で見守る中、「ところで」とエンセイが続けた言葉には肯定や否定とは異なる別の意図があった。
「すでにお前は完成されている。このまま、今のやり方を続けたところで伸び代はない。そうではないか?」
「……っ」
その指摘に、わずかだがバルデアの口端が歪む。
図星だったためだ。
基礎体力や身体能力においては三年前から頭打ち、秘具についても、そもそも『魔術工芸品』なぞ容易に出品されるものでなく、まして準国宝級を揃える彼女にとってはこれ以上を望めるはずもない。
彼女の旅はすでに進めるところまで進み終えていた。
それをこの短いが濃密な一戦でエンセイは気付いたらしい。
エンセイの指摘はさらに鋭さを増す。
「不可解なのは、これほど完成された強さを持つお前が、いまだあの男に挑まぬことだ。」
「!!」
「なぜ挑まない。今なお届かぬと思っているからか? それとも他に躊躇わせる理由ができてしまったのか?」
一瞬、バルデアが視線をちらつかせたのをエンセイは見てとった。だが、その動きが動揺の表れだとしても、意味するところまでは分からない。
それが彼女の主がいるであろう居室に向けられた、その意味など。
「お前こそ、どうなんだ――」
苦痛なのか何なのか、表情を堅く強張らせるバルデアが言い返す。
「お前こそ、あれだけの剣を振るえるというに、なぜ母を連れ戻しに行かない」
「……今さら」
「今さら?」
その言葉に、眉尻が怒りの炎に炙られ力強く吊り上げられる。瞬間的に腹腔から沸き上がり、喉元まで出かかった言葉を、だが、彼女は放つことができなかった。
先にエンセイに言われたためだ。
「今さら、どのツラ下げて会いに行けと? 妻の行動を止められなかった私に、そのような資格があるとでも?」
「――何を云っている」
バルデアの血の巡りが悪い頬がさらに色を失い、瞳から希薄だった感情がさらに拭い去られる。冴え冴えとした声音で、「お前の資格だと? そんなものよりも、なぜ母の気持ちを考えてやれないっ」と嗄れ声をさらに掠れさせる。
「あの時、お前があの男に会えばどうなるか――その結果が分かりきっているから、それを受け入れることなどできないから、だから母は自らあの男の下へ行った。違うか?」
違わない――。
相手の望みは剣士の頂点に立つこと。
“争わぬ剣”とは決して相容れぬ者。
故に斬られることを承知で、そうすれば、勝利に拘るあの男がそれ以上を望まぬとエンセイが出向くその心情さえ妻に見透かされ。
「やめるべきだった」
エンセイの口から固い声が漏れる。
「人身御供の真似事など妻に耐えられるものじゃない」
「それでも母は選んだ。他の選択肢がないかのように。剣士である夫に云うべき言葉があったはずなのに。覚えているか?」
「……」
「母がお前に戦えと云ったか? 一度でも、“剣を取れ”と訴えたか?」
訴えてない。
エンセイの脳裏に古い記憶が蘇る。
明朝呼び出しに応じるつもりだと告げた時、妻は困ったように苦笑しただけだ。そして初めて、妻から手を私のそれに重ねてきて告げたのだ。
「お身体を大事にして」と。
訴えではなく、それは願いであったかもしれない。
あるいは、別れの言葉だったのか。
バルデアの悲痛ともいえる声がエンセイの意識を引き戻す。
「少しは分かってやれ。母は好きでそうしたわけじゃない。あんたを守るためにそうしてくれたんだっ。誰よりも大切な、あんたのために――」
愛する者と死に別れても。
この身を捧げ、別れても。
いずれにしても引き裂かれる運命の選択に、気弱なはずの妻は躊躇うことなく自身を捧げてみせた。
その言葉に表せぬ献身を、何も感じぬはずがない。
だからエンセイは胸の深い深い奥底で声もなく慟哭する。
あまりにも愚かしい己に深く憤りながら。
奥歯を軋ませ、その双眸に宿る精気をどこまでも深く沈ませる。
「私は気付くべきだった。家族やまわりの大切な者達を守ることがすべてだと。“争わぬ剣”には振るべき時もあるのだと――」
遅きに失したが。そう諦観するエンセイに「遅いものか」とバルデアが叱咤する。
「あなたは自分の無力を嘆き憐れむより、幼き私に無理して愛情を注ぐより、もっと早く気付くべきだった。――母が待っているということを」
「――なん、だと?」
衝撃的な発言にエンセイは目を見開かせる。
それへ一顧だにせず、どこかにいる母に思いを馳せるようにバルデアは告げる。
「確信などないはず。きっと懸命に暮らして、子を……成しているかもしれない」
そこで少しだけ辛そうに言葉を途切れさせて。
「それでも、心のどこかで期待している。いつかあなたが迎えにくるかもしれないと」
「……っ」
エンセイの身体が震えた。
わずかに口を開き、激しく強張った頬が受けた衝撃を物語る。
考えもしなかったはずだ。
すでに運命を受け入れ、けなげに尽くしているかもしれない。そんな忌避すべき妄想すら時折浮かべては、鬱屈する日々。
「今さら」と口にしたエンセイのそれが実状であったはず。
それだけに、不安はそう拭えるものではない。
「……二十年だぞ……? あまりに長すぎる」
刻の流れほど無情なものはない。
その常識を二人が知らぬはずがない。
「その二十年、片時も忘れたことがあったか?」
「ない」
「私も、あなたも、いまだ剣士として己を磨く理由は二十年前に端を発する。あの時の失う痛みが癒やされたことがあったか?」
「ない」
「我らが諦めきれずにいるのに、なぜ母だけが諦めていると思うんだ?」
それでもと。
バルデアに繰り返し問われ、即答するエンセイはそれでも問わずにはいられない。いや、不安を抱かずにはいられない。
もし、いらぬ世話だと拒否されでもしたら、と。
「……本当に、待っているのか? なぜ、そのようなことが、分かる」
バルデアの雰囲気が変わった。
まるで触れられたくない何か――守るべき何かを攻められたかのように。
理由を質しただけなのに。
それでも、彼女はしばらくして口を開く。錆び付いた扉を無理にこじ開けるように唇を動かして。
「……女、だから……」
「なに?」
「私がっ……同じ女だからだ!!」
根拠などなかった。
嫌悪感いっぱいに顔を歪ませるバルデアに、だがエンセイは腑に落ちたような表情をつくる。
それ以外に明瞭な保証などあるはずがないと。
「二十年か。さすがに長すぎたな……」
先ほどと似た台詞でありながら、異なる心情でエンセイが独白する。
その双眸に輝くような精気を漲らせて。
その落ち着いた物腰に、常に沈んだ空気が纏っていたのが不思議なほど取り払われて。
エンセイの中で新たな目標が定まったのは言うまでもない。
これまでの、後悔を紛らわすための贖罪のような道ではなく。失ったはずのものを取り戻すための道が、その視線の先に延びている。
「――それで、この後はどうする?」
どこか清々しいほどの声音に、毒気を抜かれたようなバルデアであったが。彼女もまた、精気に溢れた声で応じる。
「無論、続けるに決まっている」
「あの男へは、私が挑む。それでは不服か?」
「勝てるかどうか分からぬでは、な」
不服でなく不安だと。
「それに、この先エルネ様お一人を通すことに納得しないだろう?」
「当然だ。あの方にとっては、この城は今や敵だらけ。せめて我らがいなければ、少女ひとりで耐えられる圧力ではない」
「ならば争うしかあるまい」
承知しているというふうに、バルデアは一度息をつき、リラックスさせながら剣を構え直す。
「私も、不穏分子ひとりとて殿下の御前に通すつもりはない」
「それは、不当な手口で大公の座を手にしたと知ってもか?」
「不当なものかっ」
その断固たる否定と決意を秘めた眼差しでエンセイは気付いたらしい。
「……お前も、グルなのか」
「言葉をあらためろ。殿下の意志は大公家と共にある」
「はじめの頃に逆戻りか……」
やはりこうなるしかない。
だがエンセイの面差しに鬱屈した感情はない。
憎悪や怒り、あるいは哀しみに蝕まれた先の戦いとはまるで違う。
今からはじめるのは、あの男への正当な挑戦権を賭けた戦い。かつ、届くか否かを見極めることも含まれる。
そしてエルネ姫とルストラン大公代理との対面がどちらに有利になるかが決められる戦いでもある。
そこにあるのは純粋なる使命感。
対峙するは、生涯最高の好敵手。
「娘とは思わぬ――」
父の非情なる言葉に、バルデアは唇の端を綻ばせた。実に満足げに。それは死力を尽くすと告げたも同義の言葉だから。
応じる娘がたおやかに剣を円転させて、ぴたりと斜め下に構え直す。
「あなたの二十年、喰らわせていただく」
膝まで包み込む朝陽に剣身を浸す姿は、冷たい池でひとり沐浴をする清楚な巫女を思わせた。
*****
シュレーベン城
二階客間――
いつもより早めに目覚めた理由は自分でも分からない。それでも身支度を整え、剣まで携え割り当てられた自室を出たのは、練武場で剣を振ろうと思ったからだ。
隣室の戸口まで廊下を進んだとき、自然とロイディオの目線が向けられ、少しだけ動悸が早くなる。
上官バルデアの部屋。
ロイディオ達若き騎士からすれば軍団長の肩書きよりも別の肩書きに魅了される。
即ち――公国武人界における頂点のひとり、と。
若くしてシルドネ流の免許皆伝を授かり、公国第三軍団に属した頃は国境警備の小規模戦闘で幾つもの武勲を挙げ、騎士長候補に課せられる『モルドール霊地』の試練においては、審査官達の度肝を抜く結果を残したという。
それは踏破することが目的とされるほどの危険地帯で打ち立てられた、異例の最長滞在期間という前代未聞の記録。
バルデアという武人が三日三晩、飲まず食わずで星幽界の住人共をひたすら滅し続けていた自殺行為に、審査官のひとりが疑念を持つのは当然であった。
それに対しバルデアは事も無げに告げている。
「限界を見極める必要があった」のだと。
これを狂気ととらず豪毅と受け止めたのは審査官に非ず、特別監査を担っていた当時のルストラン都市長ただひとり。それにバルデアを支持する部下や同僚達の存在もマイナス査定を避けれた要因であったのは間違いない。
そうした逸話も含めてバルデアの立身出世は若き騎士達の憧れだ。自分もそうありたいと、あるいは共に国に尽くしたいとそう思わせる存在だ。
だからロイディオは腰に下げた剣を見やる。
「俺はまだ、力が足りていない」
先日の特殊任務にあたりバルデアから助勢することを認められなかった苦い記憶を思い出す。
実際、共に剣を振るったつもりでも、強敵との戦いに対しては指をくわえて見守ることしかできなかった悔しさは忘れていない。
あの方に必要とされたい。
あの、どこか孤独を感じる背中を守りたい。
(今すぐは無理でも――)
ロイディオは立ち止まることなく、上官の部屋を通り過ぎる。
少し寝ぼけていた意識はすっかり取り払われていた。
◇◇◇
「何だ、誰もいない……?」
ロイディオが不審げに眉をひそめたのは、そこにいるべき歩哨の当番が見当たらなかったためだ。
常時城に滞在している警備兵は30名。それでも広いシュレーベン城を網羅するには要所を押さえた警備網を築く必要がある。城館の中心部に当たる階段ホールは、その警備の要となるため各階に二人づつ配置していた。――はずなのだ。
「何を――」
やっている、と。班長として憤るロイディオがホールに辿り着いたところで耳に意識を向けさせられた。
鼓膜に響く金属音。
鍛冶工房を訪れたときに耳にした澄んだ音に似たそれは、確かに剣戟の音であった。
あまりに激しい打ち合いに、はじめは何の音かと戸惑うほどの。
「――階上か!」
ロイディオは一段飛ばしで駆け上がる。
誰が戦っている?
いや、何者かが侵入し応戦しているに違いない。
すぐに想像してしまうのは、大公陛下の失踪事件との繋がりだ。念のため、ルストラン殿下の警備も強化し、だからこそ自分がバルデア共々、城館の方に滞在することにもなったのだ。それがこうした形で的中するとは。
「何が起きている……?!」
「ロイディオ……班長っ」
三階ホールで棒立ちになっている警備兵をロイディオは質した。その場にいるのは四名で配置人数よりも二人多い。二階の担当が様子見で持ち場を離れたようだ。
問題は、支援に駆けつけながらこの場でまごついている理由だ。
「それが、バルデア様が……」
「団長が? どうしたっ」
だが、その詰問は最後まで続かなかった。
顔色を変えて詰め寄ったロイディオが、産毛が逆立つ殺気を浴びて金縛りに遭ったためだ。
(何だ、これは……?)
耳に痛い剣戟の音よりも。
廊下奥から伝わる凄まじい緊迫感に、息もできなくなってしまう。
これが、彼らを足止めしていたものの正体か。
誰もが顔面蒼白で立ちすくんでいるのは、圧倒的なレベル差のある『怪物』に遭遇したのと同じ理屈だ。
完全に気を呑まれている。
廊下の奥で起きているのはそういうことだ。
団長が戦っている――。
それも、これだけの時間打ち合って決着がつけられないほどの敵を相手にして。
その意味するところに気付いて、ロイディオは初めて、ここにいる警備兵達と同じ心境を骨の髄まで味わっていた。
「は、班長……っ」
「この先に……団長がいるんだ、な?」
ロイディオはそれだけを確認すると「俺たちにできることはない」と先に進むことを断念する。
足を引っ張るわけにはいかないと。
「では――」
「できることをするっ」
ロイディオの言葉に、四人が気を引き締め力強く頷く。
「三階担当の二人は、大公代理のフロア入口を固めろ。二階担当は城館内の警備兵をこちらに集めるんだ。今すぐにっ」
金縛りが解けきらず、ぎこちない動きで命令を遂行しようとする四人の警備兵。そのうち階下へ向かう二人にロイディオは指示を追加する。
「それと――クロスボウを持ってこさせろっ。まともな武器じゃ止められないぞ!!」
ロイディオは焦る。
城館外の警備兵も集めるべきじゃないか? だが外からの侵入を容易にさせるのは戦術的にはあり得ない手だ。
残念なのは、呼び戻した第三軍団の連中を郊外の捜索に当てており、夜を徹しているせいか、誰も戻ってきていないということだ。
今ある兵力で凌ぐしかない。
「大公陛下にどこかへ移っていただくか……」
だがどこへ?
城館で一番安全なのはこの三階だ。本来なら、こんなところまで敵の侵入を許すことなどないはずなのだ。
「そうだっ。誰かひとり、この状況を大公代理へ知らせてくれ!」
「では、私がっ」
代わりに自身が入口の門衛に立ち、そこから正面奥のバルデアがいるであろう小広間を睨む。
「相手は誰だ?」
「分かりません。ですが――」
その先は聞くまでもない。
今もなお続く剣戟の凄まじさに、誰も立ち入れぬ領域でバルデアが戦っているのは明らかなのだから。
「おっ――」
「ああ?!」
少しだけ。
廊下側に二つの人影が現れて、目にも留まらぬ速さで打ち合い――いやロイディオ達には音だけが聞こえたのだが――すぐにかき消えたのだ。
まるで幻を見たかのように。
「――――凄いっ」
それしか言葉が出なかった。
バカみたいだが、それ以上に表現する言葉が見つからない。
「見たか――?」
「え、あ……いえ」
申し訳なさげに首を振る警備兵。
だが再び、ふたつの影が現れて。
何かがちらついた。
同時に石壁や床に見えない衝撃波が走って、砕けた土埃のような砕石が何カ所かで飛び散った。
「また――」
「く、おおっ」
金色の斬影は剣技の発動じゃないか? だが途中でそれが消えたような。
まるで一瞬の火花が飛び散るように。
「今、スキルを放ったよな――?」
「たぶんっ。ですが」
「ああ。スキルに、おそらくスキルをぶつけて打ち消したんだ」
「そんなことが?!」
警備兵が呆気にとられるのも無理はない。その上、周囲を巻き込む戦いの余波だけでも、まるで精霊術を駆使するかのような惨状だ。
あれも団長が関わって起きた現象なのか?
ロイディオさえも見たことがない戦い方に、バルデアの戦闘領域の途方も無さだけを実感する。
「一体、相手は誰なんだ……」
呆然と呟く警備兵にロイディオにも答えは分からない。いや、思い当たる節がないでもない。
「あのフード――」
「え?」
先日の、特殊任務で団長と互角に渡り合ったフードマンがいたことを思い出す。
強さというよりは、捉え所のなさが印象深かったため、強者のイメージとして残ってはいなかった。
だが冷静に考えてみれば、団長に傷を負わせた不可思議な術といい、十分すぎるほど化け物のレベルに入るだろう。
団長は『俗物軍団』の上位陣に違いないと推測していたが……しかし、さすがに今回の侵入者だとは思えず除外する。
「さあな。けど、誰が相手でも」
団長ならば勝つに決まっている。
それだけは二人の思いは同じはずだ。
だからロイディオはあえて声に出す。
「団長の邪魔は致しませんっ。ですから――」
遠慮なく戦って下さい、と。
勝利や無事を祈るのでなく。
勝って当然なんだと自分に言い聞かせる。
団長――――




