(九)目指すべき剣
過ぎ去りし時
公都キルグスタン――
「これが奴の居所だ――」
相手が懐から巻物を取り出すタイミングで彼女が掌を差し出すと、手渡されるはずの巻物が宙でぴたりと止められた。
それは一瞬の停滞にすぎなかったが、鍛えられた彼女の眼を誤魔化すことはできやしない。無論、彼女の顔と掌とを二度も見比べるその相手――中年オヤジに隠すつもりなどさらさらなかったであろうが。
「何――? 報酬はいらないの?」
日々の生活で疲れ切った中年の頭に自身の目的を思い出させて、彼女は強引に取引を終わらせる。
内容を検めるふりをして、わざと顔前で巻物を広げてみせるのは、こちらを見つめるオヤジの顔を視界から締め出すため。
もっと云えば――向けられる不快な視線に彼女は内心苛立ちを覚えていた。
時々あることだ。
母親譲りだという清楚な面差しと、あまりに不釣り合いなマメで堅くなった荒れた掌に、気付いた男共は皆、奇異な視線を向けてくる。
女だてらに何の真似をしてやがる――?
そう言われた気がして、それだけで彼女の心中は腹立たしさで熱くなる。
だが他人から言われるのなら、まだいい。
他ならぬ剣士である父が、この誇るべき掌に咎めるような視線を向けるのが嫌で堪らなかった。
そもそも剣を握る切っ掛けとなったあの人が。
剣に興味を示す自分に目尻をゆるませ優しく接してくれたあの人が。
そして何よりも、最高峰の技倆を持つと称えられながら、肝心なときに何もできなかったあの人が。
いまだに剣を振り続け、時に血塗れで帰ってくる日々を送りながら、なお母を取り戻すこともできずにいる腑抜けが、なぜ自分のことを責めるのか。
そのような資格がどこにあるというのか――
誰にも文句などつけさせやしない。
この手には、自分のすべてが詰まっている。
擦り切れ、血が滲み、かさ蓋に覆われ堅くがさついてしまったこの掌は、自分の誇りであり、剣士であることの証明なのだ。
そして自分はこの手でやり遂げる。
父でさえない、この自分の力で母を――。
「気っ風がいいねえ、お嬢さん」
報酬として渡した小袋の重みを掌で堪能する中年オヤジが「そういえば」と追加の情報を耳打ちしてくる。
生臭い息を吹きかけられ、顔をしかめる彼女。我慢したのは、情報屋特有のニヤついた笑みに、特ダネの匂いを嗅ぎ取ったからだ。実際、その勘は正しかった。
「実は奴さん、この街に戻ってきてるんだぜ」
「――どういうこと?」
彼女が鋭く眼を細めれば、慌てたように「拠点を移したわけじゃねえ」と渡した情報が偽りでないと訴える。だが、一時的にせよ街に立ち寄っているのも事実だと。
「今なら『クイッドの溜まり場』ってぇ酒場にいるかもしれねえな。公都にいたときの馴染みだって話しだ。……なあ、今なら少しの追加料金で監視のサービスを頼まれてもいいんだが」
中年オヤジの提案を彼女は最後まで聞いていなかった。気付いたときには駆け出しており、夜の歓楽街に飛び込んでいたからだ。
あの男が戻ってる――。
痛いほど動悸が激しいのは走っているせいばかりではない。彼女の人生を、ケンプファー家の未来を粉々に砕いた元凶と対峙できるかもしれないと思えばこそ。
対峙して、斬り捨てるっ。
問答無用で、斬り捨てる――っ
頭にあるのはそれだけだ。
血の滲むような修練も、勝ち得るためのあらゆる術策も、入念に備えねばと分かっているはずなのに、剣を叩きつけたい衝動をどうしても抑えることができなかった。
彼女は駆ける。
少しでも早く元凶の下へ辿り着くために。
予期し得ぬ酔っ払いのふらつきにも、抜群の反応力とバランス感で滑らかに回避し、多人数が交差するシーンも鮮やかなフットワークで隙間を縫う。
これもすべては過激な研鑽が育んだ賜だ。
貴族子女としての日常を捨て去る代わりに、公都内の剣武場を練り歩き、探索者の真似事もこなして己の身体をイジメ続けた成果である。
荒れた父エンセイ共々、“あの親にして、この子あり”と陰口叩かれることも気に留めず。
血と汗と痛みにまみれて過ごした日々は、ついに彼女を公都の剣武界最大派閥である『シルドネ流』の免許皆伝にまで至らせた。
だからやれると思ったのは当然だ。
噂で聞く強さがどれほどのものだとしても、せめて一矢は報いれるものと彼女は勝手に思っていた。
今思えば、すべてはただの願望に過ぎなかったのだが。
「そこの貴方、『クイッドの溜まり場』がこの辺にあるって聞いたのだけど……」
「ああ? 目の前にあるじゃねえか」
爆笑する酔っ払いが自分の背後に向かって親指を突きつける。
確かに落ちかけた看板が目の前にぶら下がっており、そこに大きな文字で捜していた店名が記されていた。
「なあ、ここはあんたのようなキレイな嬢ちゃんがくるトコじゃ――っておい?!」
酔っ払いを無視して彼女は店内に踏み込んだ。
息を乱したまま汗ばんだ額を拭うこともせず、剣柄だけはしっかりと握りしめながら、彼女は戸口で仁王立ちになる。
店内はほどほどににぎやかだ。
飲み食いする男達のはしたない咀嚼音に下卑た馬鹿笑いが重なる。どんどん、と卓を叩く大男が給仕を呼びつけ、屈強な男に媚びを売る女が意味不明な嬌声を上げていた。
――――いた。
背を向けている一人の男に彼女は目を留めた。
剣士と思えぬ首の太さ。
常人に倍する背中の広さはいいとして、そこから立ち上る異質な気配を誰も気にしてなさそうなのが不思議でならない。
だが彼女には分かる。
彼女の立ち位置から顔は見えないが、この喧噪の中で独りきりにも関わらず、卓を貸し切る異様さで彼女は捜し求める男だと確信していた。
同時に、高揚で熱が籠もっていた身中が、音を立てて冷えていくのを感じ取る。
膝が震える。
かちかちという音は自分の歯が小刻みに打ち鳴らす音だと遅れて気付く。
――無理だ。
彼女には分かってしまった。
とても敵わない相手だと。
その背を目にし纏う空気を感じ取っただけで、彼我の戦力差をはっきりと理解してしまっていた。
普通なら、そうはなるまい。
彼女が免許皆伝に至るほどの腕前だからこそ、どうしようもないほどに己の実力不足を実感してまったのだ。
自分はあの男の足下にさえ届いていないと――。
彼女は知らなかった。
そして知ってしまった。
その存在感だけで、膝を屈すらせる化け物がこの世にいることを。
萎縮し立ちすくむ彼女に客のひとりが気付く。
眉間にしわ寄せるのも当然だ。
呑んで騒いで鬱憤を吐き出すだけのこの場所で、剣柄を強く握りしめ、どこか一点を凝視する女剣士の姿は異常に映る。
「おい、なんだアイツ?」
「――何かやらかす気か?」
ちらほらと、視線を向けられはじめたのが切っ掛けだったのかは分からない。
もそりと男が身動ぎした。ただ給仕に注文をしようとしただけなのかもしれない。
だがその何気ない仕草に彼女の鍛え抜かれた身体が、精神が敏感に反応していた。
まるで捕食者の動きを察した小動物のように。
「――っ」
凄まじい速さで踵を返すなり、店を飛び出す。
何人も酔っ払いを突き飛ばし、道端に放置された木箱を蹴飛ばして、無我夢中で彼女は走った。あらん限りの全力で逃げていた。
背中に張り付いた何者かの影――“恐怖”から逃れるように。
「はっ、はっ……」
どこをどう駆け抜けたのか覚えていない。
何かに躓き、無様に倒れ込んだのは体力が底を尽いたせいばかりではなかった。
小さな水たまりに映る、自分の顔を目にする。
汗にまみれ歪んだ顔はひどく醜く見えた。
「はっ――何が免許皆伝よ」
爪を立てて地面を握り込む。
「……剣さえ抜けないじゃない……」
元凶の男を目前にしながら、その無防備な背に切りつけることもできずに。
彼女は怯える自身を嘲り、責める。
現金にも、今さら沸き上がってくる怒りと屈辱が、より一層彼女を自虐的な念いに囚えてしまう。そうして打ちひしがれている彼女の傍らに、不穏な陰が忍び寄ってくる。
弱り切った獲物を見逃さずに。
東街区とはそういうところだ。
「何があったか知らねえが、ここが寛ぐ場所じゃねえことは分かってるよな?」
「……悪いけど、ひとりにして」
「そうしたいのは山々だが」
二人組のうちひとりが、しゃがんで顔を覗きにくる。卑しい笑みに親切心から声を掛けてきたわけでないことがはっきりする。
「ああ、勿体ねえ。一人になりたいんなら、いい場所を教えてやるよ」
「……だから、私に構わないでくれる?」
そうは云ってもな、と二人がニヤけるのを彼女は気付かない。細い二の腕を強く掴まれたところで顔を上げた。
刺々しく命じる。
「放しなさい」
「もちろんだ。だからな、一緒にこいよ」
片眼を白く濁らせた男が鼻息を荒くする。空いた方の手の指で唇に触れられ、彼女は咄嗟に払いのけていた。
「やめなさいっ」
「おっと。威勢がいい女は大好物だ」
心底から嬉しげに男が口角を吊り上げた。こういう時の表情は、不快なほど卑しい笑みになる。
「これでもそう言える――?」
彼女は立ち上がるなり、剣を抜く。その手際の良さに傍観していた短髪男が口笛を吹いた。
「多少は心得があるようだが、残念だ」
「?」
「どこの道場だ? オルティオかシルドネか……どちらにしたってお遊びだ。怖くない」
短髪男の嘲りに「そう、そう」とはじめの男がわざとらしく相づちを打つ。
「そーいうプレイならアリだけどよ」
「構うなと云ったわよ?」
いつもであれば無視できた。
しかし、今の彼女に自制は利かず、怒りのままに剣を振るう。それを待っていたかのように短髪男が鞘に納めた剣で受けていた。道場なら、彼女の初撃を躱せる者さえ稀だというのに。
「素直だな。か弱いのもいい」
「このっ……」
彼女が全力で押し込む刃はびくともせず。
かち割ってやりたい短髪男は接近したことを幸いに彼女の胸元を食い入るように見ている。
「なんだ、力がゆるんだぞ?」
「貴方がっ」
喉元まで出かけた言葉を彼女は呑み込んだ。
それは剣士が口にすべき理由ではない。
必死に睨み付ける彼女の胸中を短髪男は見透かしたのかもしれない。
「いいぜ。『荒事師』である俺様が、実戦てやつをちょいと教えてやろう。まあ、顔と腰が無事なら、腕の一本くらい問題ねえやな」
「ああ、その鼻っ柱を多少折ってやった方が燃えるってもんだ」
二人が歪んだ笑みを浮かべ、彼女の全身を舐め回すように視線を這わせてくる。それだけで全身を悪寒が走り抜け、彼女は剣柄を握る手に力を込めた。
「剣士を愚弄するその悪心――叩き斬ってやる」
「吠えるねえ……」
「精々頑張んな、剣士殿!」
二人組が位置を変え、彼女を挟んで対角線上に移動した。
見事な足運びは戦い慣れた者のそれ。
得物を構える姿にも隙は一切見られない。
下卑た表情も消し去って。
話しに聞く『荒事師』の実力がこれほどのものとは想定外もいいところ。
彼女は背を取られることを嫌い、先手必勝で斬りかかる。
巧みに受け流す男。それに合わせて斬り込む短髪男。
彼女は舞うような体捌きでやり過ごし。
「ちぇ――!!」
真っ向上段から叩きつけた。
切れ味鋭い皆伝者の剣に男の反応が追いつかず。
「ぐぶっ」
「……この糞アマ!!」
額より血飛沫かせる短髪男にもう一人が怒りを露わにする。その逆上を隙とみて、彼女は流れるような返しの斬撃を叩きつける。
――――キンッ
一度は互いに噛み合わせ、次の二手目で一瞬早く彼女の剣先が男の手首を切り裂いていた。
「くあっ」
――ザシュッ
止まらぬ刃が呻いた男の首筋を横一文字に薙ぎ払う。
これで決まり。
血泡を口から吹き零し、力なく倒れる男。
あっという間に二人の男が血の海に沈んでいた。
終わってみれば圧勝だ。
だが、勝利したはずの彼女の表情には口先だけの男達に対する嘲りも、成し得た勝利への満足も見ることはできない。
「……はぁ、はぁ」
短い戦闘であったにも関わらず息を荒げる彼女。
なのに身中が冷え切っているのは、手に残る肉を断つ感触のせいだ。
いや、“生命を断つ感触”と云うのが正しいか。
寒い。
肉も骨も、流れる血さえも冷え切っているようだ。
再び歯を鳴らしながら、それでも彼女はひとつ実感することがあった。
あの男と自分にある差が、何であるかということ。
そうか。あいつはこんなものを積み重ねたというのか。だが確かにこれは別次元の強さだ。立っている世界がまるで違う。
これでは――この差を埋めなければ、対峙することさえ敵わぬのも当然だと彼女は納得する。それはきっと、父とあの男との差でもあったろう。
未だにはっきりと覚えている。
あの男が臆病と誹る父の剣。
ならばこれが、この手に残る感触こそが、父にできなかった事を為し得る剣であろうと。
これは、あの男に届く剣。
即ち、母を取り戻せる剣。
彼女は震える自身の手をいつまでも見つめ続けていた。
◇◇◇
月日は流れ
第三次コリ・ドラ遠征
コリ・ドラ属領某所――
「――コイツのせいで、どれだけ遅延してると思ってる?!」
地べたに背嚢を叩きつけ、骨張った狐眼が喚き散らす。
まっすぐ突き出された指先に、言い返せぬ彼女はせめてもの反骨心を示さんと、視線を反らすことなく無言を貫く。
「どのみち雨で泥濘んでた。バルデアのせいにするのは言い過ぎだ」
「ちっ、何がバルデアだ。名前だけじゃなく、体力もそれなりにしておけってンだ」
突き出した指を下げようともせず、狐眼の男は彼女を憎々しげに睨み続ける。その腕をむんずと掴み、強引に下ろさせたのは鳥の巣みたいな頭の若者だ。
「まま、そう気を立ててもお腹が空くだけだよ。糧食も乏しくなってきたんだし、無駄にエネルギーを使うのはやめようよ。ね、ギーデンス」
「おいおい。だから、これ以上遅くなるのはヤベえって云ってるんだろーがっ」
「お前の云うとおりだ、ギーデンス」
さらに興奮する狐眼を、その主張を認めつつ班長が宥める。
「だが先も云ったように、彼女のせいばかりじゃない。俺たちはチームだ。仲間を必要以上に悪し様に言うのはやめにしろ」
「そうだよ、ギーデンス。彼女だって、はじめの頃よりだいぶ体力もついてきてるじゃないか。お前だって初めは――」
「……ちっ。わーったよ」
話の途中で舌打ちして、狐眼が背を向けた。「だから女を入れるのは反対なんだっ」とお決まりの捨て台詞を残し、足早に立ち去ってしまう。
とりつく島もないとはこのことだ。
そのまま近場の樹木に背を預け、ふて腐れたように横になるギーデンスを三人がそれぞれの思いで見届ける。
「……ったく」
これで何度目かになるゴタゴタに疲れたように息をつく班長。そのため息には彼女への心ない気持ちも少なくあるように感じられた。
「ま、あいつの気も分からんでもないがね」
そう云って置き去りにされた背嚢を拾うのは、口ひげを生やす紳士気取りの若者だ。「どんな事情があるにせよ、君はここに来るべきじゃなかった」とこれまた嫌味な捨て台詞を残しギーデンスの下へ去ってゆく。
「何だよ二人とも。やけに当たりが強くない? バルデアの頑張りも知らないでっ」
鳥の巣頭の若者が拗ねたように頬を膨らませる。
この班では班長に次ぐ古参であるためか、班内の和を保とうと何かと彼女を庇ってくれている。惜しむらくは少し貫禄不足であるために、ギーデンスを抑止する力に至ってないことか。
まあ、参軍して二ヶ月も経ってない経歴では無理もなく、むしろ、彼を古参の部類に入れるほど、このコリ・ドラ遠征が激戦であるということだ。
それは本来、彼女が渇望する戦地であったはずなのだ。このような余計な諍いさえなければだが。
「気にしない方がいいよ」
肩に置かれた手に彼女は軽く嫌悪しつつも「ありがとう」と辛うじて礼を述べる。正直、疲れが足にきて、立っているのがやっとであった。先ほど言い返せなかったのも、立つことに気力を振り絞っていたのが真相だ。
何でもいいから休みたい。
彼女だけでなく、誰もが疲れ果て早く横になりたがっていたのだ。
「明日は夜明け前に出発だ。とっとと寝ることにしよう」
待ち望んでいた班長の言葉に――空気を読めないわけでもあるまいに――鳥の巣頭が手を挙げる。
「歩哨は?」
「部隊用は他の班が担当だ。俺たちのは――」
「僕とバルデアが担当だね」
そうだった。
ほがらかに告げるその声に、彼女は軽い眩暈を覚える。この強行軍の最中に、さらになけなしの休憩を削られるなんて。そんな彼女の軽い絶望を察したのか。
「まあ、今夜は僕一人で十分だけど」
「ユアン……それでいいのか?」
班長がちらと自分を見て、すぐに鳥の巣頭に念を押すと、若者は自信ありげに頷いた。彼も班長のようにこちらへ一瞥くれてから。
「これでも副班長だから」
「……ただの古株だろ」
勝手に役をつくるなと、ため息をつく班長がそれでも承服してくれる。だが、彼女としてはそうもいかない。まして、ユアンが好意的な目を自分に向けるのがその理由であるなら、なおさらだ。
「ユアン、私は――」
「いいから」
いきなり唇に指をあてがわれて、彼女は咄嗟に身を退いた。
「ごめんごめん、そう睨まないで」
「……いや。こちらこそ、すまない」
顔を背け、彼女は拳を握り込む。
心臓の鼓動がうるさい。
甘い気持ちが原因でなければ、羞恥のせいでもない。
かつて『裏街』で体験した嫌な記憶を蘇らせていたためだ。
「……だいぶ疲れたようだね。顔色が悪いよ、早く休んだ方がいい」
「そう、させてもらう」
過剰反応であることは自覚している。
疲れのせいもあるだろう。
あくまで仲間としての気遣いだ――自分にそう言い含め、ユアンの言葉に甘えて彼女は横になった。
「……」
薄い布一枚を通して、背中と肩口に地べたの冷たさがゆっくりと伝わってくる。これも戦場にいる者を悩ます要因のひとつ。
だから右腕と右頬にのみ感じる炎の熱に意識を逃がす。
時折、薪の爆ぜる音を耳にして。
気付けば、あちこちから人の囁き声も聞こえるようになっていた。
さすがに、一週間前に耳にした酒を酌み交わすバカ騒ぎは誰もやっていない。
ここはコリ・ドラ属領に深く侵入した名の知れぬ土地。つまりは敵地深部だ。こんなところで宴会を開けば、あの狂人共を呼び寄せて盛大な血の宴を催すことになる。そこまで愚かになれるほど戦場知らずの初心な部隊ではなかった。
それに独りの例外もなく皆が消耗しきっている。
いつ敵に襲われ、死ぬことになるのか明日をも知れぬ混迷の最中にいるだけに。
そうなった引き金は四日前の突撃命令にある。
いつものように撃退だけすればいいものを、珍しく激勝したものだから指揮官が調子に乗ってしまったらしい。
出された追撃命令に、勝利に酔った下士官達が隊を急き立て拍車を掛けた。普段ならそのようなヘマはしない。自制の利く彼らでさえ浮かれてしまうほど勝ちすぎたということだ。
その痛烈な教訓は命を以て学ぶことになる。
互いに手柄を競い始め、深追いしたところで斜め後方より敵の不意打ちを食らったのだ。
まるで首を絞めるように、じわじわと退路が閉じられてゆき、パニックを起こした各部隊が戦場を我武者羅に逃げ散ったのはいうまでもない。
だが皮肉にも、それが殲滅を防ぐ一手になろうとは。
身も蓋もない狂乱ぶりに、敵方も功を焦ったか陣取りを乱し、彼女の部隊は奇跡的に隙間を縫うことに成功した。抜け出せなかった部隊の末路など語る必要もあるまい。
確かなことは、彼女たちが月夜の中でも決死の逃走を続け、部隊を半数以下に減らしながらもついに逃げおおせたことだ。
生き長らえた――その事実以外何を望むというのか。
残念ながら、逃げた方角はかなりデタラメであったが。
あれから三日間、彼女の部隊は敵地をあてもなく逃げ惑っている。戦略的な突撃でなかったために物資は十分でなく、特に糧食が問題となっていた。
近くの村落を襲うか否か、判断を迫られている。
そんな追い詰められた状態で、女である彼女の身体的弱さが部隊の足を引っ張っているのは間違いない。ギーデンスでなくとも、憎悪に近い視線を向けてくる他班の者は多かった。
おそらく、作戦会議から帰ってくる班長が日増しに憔悴していくのも彼女が原因であるのは疑いようがない。
ギーデンスは正しい。
(それでも私は……)
無意識に髪に触れる。
長く金糸を思わす自慢の髪は不揃いに切られている。目障りだと苛立ったギーデンスに、突然、斬りつけられたからだ。
(あの時も、ユアンに助けられたな……)
遠征暮らしは楽ではない。
彼女にとってはさらになお、味方の陣にいても苦痛を味わわされる。
胸元や腰に突き刺さる視線。
常に誰かの目があり、川や池があっても沐浴することもままならない。こちらが羞恥を切り捨てて懸命に堪え忍んでも、邪魔するように襲われる。
自分が何者かを思い知らされる。その恐怖。
(私は剣士だ。ただの、剣士だ――)
そのようにあろうとしても。
彼女の思いは、この戦場にあっても認めてもらうことは叶わない。
どれほど敵を斬り殺しても。
彼女の魅力的な容貌と肢体がすべてを帳消しにしてしまう。
埃にまみれ、鎧に隠し、さらに無茶をして手柄を立てても何も変わることはない。
個人や班でなく、部隊で挙げた功績だけが上層部の目に留まるだけだ。
結局、彼女が手を血に染めた成果は、班内における「まだ使える」程度の認識に寄与するだけにすぎない。それすら、別の要因で「足手まとい」にすぐさま降格させられるのだが。
(私は何をやっているのだ……)
日々、自分の無力を実感させられ、目的がいまだ遠くにあるのを思い知るだけだ。
気付けば、弄んでいた髪をねじるように握りしめていた。
「はぁ――……」
深いため息をつく。
どうにも寝付けず、彼女は素直に諦めた。
◇◇◇
「……寝てなくていいのかい?」
ユアンが優しげに微笑むのを彼女は無言で通して隣に座った。その方が、一番警戒すべきエリアを正面に見据えることができるからだ。
「横になって目を瞑っているだけでも、だいぶ違うんだよ」
「それは最初に教えられたわ」
「はは、そうだった」
ユアンが枯れ木をくべる。
班長のいつもの鼾。木陰で寝転がるギーデンスと口ひげのヴォイス。
他の班も寝静まっているようだ。
独自に見張りを立てるこの班は、元探索者だという班長の方針に従っているだけにすぎない。ユアンの話しでは、これまでに二度、命拾いすることがあったらしい。
実際、コリ・ドラ族を相手にするなら、それくらいの慎重さは必要だろう。今でもこの闇の中を、あの戦闘狂共は獲物を求めてさまよっているかもしれないのだ。そうであったとしても、彼女は驚くことなどなかったろう。
ふいに、沈黙に飽きたのか、女性が隣にいることで彼が気を利かせたのかは分からない。ユアンがぽつりと言葉を洩らす。
「……ギーデンスのことは気にしなくていい」
「別に。間違っているとも思わない」
ユアンがこちらを見るのが分かった。
「強いね。けど、弱さを見せるのは悪いことじゃない」
「これ以上、見せてどうするの?」
またギーデンスに罵る口実を与えるだけだ。
「それに、私は経験を積む必要がある」
「何を? 戦争の? ここで体験できるのは人間の愚かさ、醜さ、それに死の恐怖だよ」
半笑いになるユアンの表情が、一瞬、別の何かに変わったような気がした。息を呑む彼女をいつもの優しげな表情に戻った彼が身を寄せる。
「君が何をどうしようと、君が女であることは変わらないよ」
「――!」
「こんなにキレイなのに。こんなに細くて――」
肩に触れた手の感触に彼女はびくりと身を強張らせる。いつもと雰囲気が違うユアンに彼女は違和感を覚える。
「気付いてたかい? 遠征隊の共連れに娼婦達がやけに多くいることを」
「それが何?」
兵士目当てに商人や娼婦達がキャラバンを組んで随行するのはよくある話しだ。場合によっては敵軍に略奪される危険を冒しながらも、彼ら彼女らはこの遠征に対し金を稼ぐ商機と狙う。
その中で娼婦の数が多すぎるとユアンは意味深に告げる。
「傭兵団が多い場合は、そういうこともあるだろう。いつ戦死するか分からないから、泡みたいな給金を派手に使うのが彼らの生き様みたいなもんだ」
「でも、この遠征軍は正規兵が多い」
そうだよね、とユアンは頷く。
「まさか娼婦を戦わせるはずもないし、娼婦は娼婦。娯楽以外の役目などあるはずもない。けど、お偉いさんは娼婦の別の使い方を考えついてしまった」
「別の使い道?」
「コリ・ドラ族の相手をさせることさ」
ぞわりと鳥肌が立った。
彼女の深部で感じる生理的嫌悪。
何か強気の発言をしたくても、頬が強張るのを避けることはできなかった。
蛮族に共通するのは、戦闘力や繁殖に関する強い関心だ。“種の保存”と言い換え、それは生き物としての根源的な行動原理だと説いた学者もいる。
その例に漏れず、コリ・ドラ族は女を“戦利品”として捉えることを好み、競って孕ませることを好むのだとユアンは告げた。
「彼らにとっては、儀式に近い感覚らしい。あえて数人がかりで交配し、勝ち残った子種によって、孕ませられると信じているんだね」
そうすることで、“より強い戦士”が生まれるのだと。
戦いで戦士を育て、略奪で良質の女を得る。
そうやって種族を繁栄させてきたらしい。
そうやって内戦が日常化しているのだと彼女は初めて知らされた。
だから、彼らの特殊な生態活動に巻き込まれる隣国は堪ったものではない。
この遠征自体、攻め込まれた場合の被害を避けるため、彼らの発情期に合わせて戦略的に侵攻しているのだということも初めて知った。
つまりは“牽制目的の戦い”なのだと。
そして、ここまで話を聞けば最初の問題に対する答えは薄々見えてくる。
「じゃあ、娼婦達は……」
唇が乾ききっている。一日に飲める水の量を制限しているせいもあるが、そればかりではない。彼女にとって本能的な嫌悪が変調をきたさせるからだ。
「そう、彼女らは囮だよ。退却戦で敵の目を反らし、待ち伏せが想定される場所で敵を吊る。逆に、こちらが待ち伏せを仕掛けるための釣り餌にもなるね」
「そのようなこと――っ」
思わず声を荒げる彼女に、ユアンは真剣な眼差しで自身の唇に人差し指をあてる。静かにしろと。
兵士にとって休息は死活問題だ。それを邪魔することは避けねばならない。
昂ぶる彼女を宥めるようにユアンが優しく告げる。
「確かに、非人道的なふるまいさ。僕もはじめは憤ったよ。でも、戦場ではよくあることなんだ。弱い者を利用することが。卑怯な手を選択することが」
そうしなければ、弱者が強者に勝てるはずがない。
そうしなければ、時に負けることを受け入れるしかない。
「けど、戦争で負けることがどういうことか分かってる――? 何を失うかを?」
「……っ」
戦争を知らなくとも、戦いで負けることがどういうことかは彼女もよく知っている。
だから自分はここにいる。
その表情を強張らせる変化をユアンは“怯え”と捉えたのだろう。
いまだ肩に置かれていた手に優しく力が入る。
だが、必要以上に情感がこもる手に、不快感が肩口から広がり、彼女は困惑した。
気のせいか、粘つくような彼の視線。
「ちょ、ユアン……?」
「ここは戦場だ。使えるものは何でも使うべきだ。君が女であるなら、それも使わなくてどうする?」
「何を――私は娼婦じゃないっ」
強く払いのけても、ユアンの口元に張り付いた不快な笑みまで消えはしない。そこではっきりと彼女は認識する。
それが情欲であると。
あのユアンが?
「そうだとも。けど、周りはそう見ない」
言葉もない。
日頃から彼女の肢体に突き刺さる無数の視線を思い起こせば。
ギーデンスから睨まれる視線の圧力が蘇れば。
男達にとって、自分は異物だ。
情欲にしろ不満にしろ、たまった鬱憤をぶつけるだけの相手。
だがそれを望んだわけではない。自分がこうなのは――
「私のせいじゃない。私は、常に――」
「知ってるよ。男であろうとしていることは。なら、誰かに使われないことだ。むしろ、女であることを自分から積極的に使うべきじゃないかな?」
ユアンの顔が間近に迫っていた。
暖かい息が吹き掛かり、肩に置かれていた手が細い二の腕へと滑り落ちる。
「違うっ」
「何が?」
「ユアン、私は剣士に――」
腰を強く掴まれて、彼女は顔をしかめた。
身を捩ろうとするがびくともせず、ユアンの力がこれほど強かったのかと驚かされる。
「そのままで。君はそのままで、代わりに僕は、この命を賭けよう。君を守ってあげるから」
「……」
いらぬ世話だっ。
叫びたくても喉元に言葉が詰まって出てこない。
ユアンの顔はひどく歪んで、上気した顔がさらに近づいてくるのを必死に顔を逸らして避ける。
「やめてくれ、ユアンッ」
「じっとしてバルデア――」
情けなくも容易く押し倒されて、こんな優男にさえ勝てないのかと頭の片隅で屈辱を感じながら、彼女は懸命に腕を振るう。
「よせっ。どうして、こんなっ」
「むしろ分かれよ。周りは敵だらけ。あの狂人共に捕まれば、どんなメに合わされるか――」
「だから、みんなで」
戦えばいい。そうしてきたはずだ。
共に肩を並べて、血を流し。
私が戦うことを、剣士であることを――
「お前だけは、私をっ」
「そうだよっ。いつも助けてやっただろう――?」
凍り付く。
それが本心であれ、一瞬の血迷いであれ、目の前に迫るユアンの形相に彼女は背筋が寒くなる。
情欲の奥に見え隠れする明らかな“怯え”。
彼のどこか必死すぎる暴行は、恐怖の裏返しにあると彼女は知る。だがそれに気付いたところで。
「誰があいつら相手に勝てるんだよっ。お前だって無理だ。女が剣を振ったところで、男を喜ばせるだけだ!!」
「――っ」
「だから、僕が守ると云っている――」
両腕を地面に叩きつけるように抑え込まれた。
彼女の必死の力は何にも抗えず、ユアンの狂気に押し負ける。
男を喜ばせる――?
私の剣は、遊びじゃないっ
「おい、ユア――」
叩くように口を塞がれた。
すぐに自由になった手を振るが、所詮は女の細腕、ユアンに何の痛痒も与えはしない。
ユアンの体重がのしかかる。
身動きさえできなくなる。
何なんだ、これは。
なぜ、味方に。
もう、訳が分からない。
抗って、抗って抗いぬいて、それでも同じ事が繰り返される。
どうして、いつもこうなるんだと嘆いたときには、全身から力が抜け落ちていた。
何もできない。
こんな遠い地まで来て、幾人かの命を奪って。
結局、剣士であることも許されず、女であることを強要されるのか。
なぜ、自分は男に生まれなかったのか――。
これまで一度も触れなかった念いを、胸中で叫んだ途端、自分を支えていた大事な何かが、その緊張の糸が切れたような気がした。
暖かい何かが頬を伝う。
それは気色の悪い湿った別の何かに舐め取られて。
彼女の大事な何かが踏みにじられ、失われてゆく。
少しづつ、少しづつ。
そうして、色も音もすべての感覚さえも褪せていき――。
「――この状況で、ナニ発情してんだよ」
ふいに不機嫌そうな声が聞こえて、ユアンが物凄い反応で飛び起きた。
何が起きたのか?
呆然と反応できぬ彼女をよそに、憤りを隠さぬ新手の声がユアンを責める。
「古参なら“チームワーク”を大事にしろよ。まさか自制も利かずに暴走するなんて、ひどい拗らせ童貞があったもんだ。なあ、センパイ?」
「人聞きが悪いね。それに他人の密事を邪魔するのは無粋って思わないのか、後輩くん《・・・・》?」
「互いに納得ずくならな」
狐眼の男ギーデンスは寝起きの不機嫌さを思わす態度で吐き捨てる。
「自信がないなら金を積め。そのために娼婦がいるんだろーが。よりによってあいつらみてぇな真似しやがって……虫酸が走るんだよっ。……まあ、隙があるお前もダメすぎだがな」
「!」
最後のダメ出しが自分に向けられたものと気付いて、彼女の目に光が戻る。
この状況を見てそんな戯言を口走るのか?
あまりの理不尽すぎる暴言に、彼女の一度は空になった身中に怒りの炎が逆巻く。皮肉にもそのおかげで正気に返ったのだが。
睨み返す彼女にギーデンスは口角をわずかに吊り上げ、そしてたたみ掛けてくる。
「当然だろ? 男社会に女が出しゃばれば、こーいうことは起きるに決まってる。それを分かってて参軍したんじゃねーのか?」
「それは――」
「いいか。剣士だなんだと逃げるのは、お前自身が自分を“女”だと思っているからなんだよ。髪伸ばして、身体洗うのも恥じらって……肩を抱かれるたび、いちいち反応してくれりゃ、誰だってその気になっちまうってぇの」
ギーデンスの言葉が突き刺さる。彼の身勝手な言葉の中には、確かに、認めざるを得ないところがあったから。
悔しさに歯噛みする彼女を尻目に、ギーデンスは攻撃相手を元に戻す。
「あんたも、こんな時に余計な力使ってないで、大人しく見張りについててくれ。気付いてるか? 女に嫌がらて当然の目付きをしてるぜ」
「ふん。娼婦んトコに通い詰めるお前に言われる筋合いは――」
その言葉が途中で断たれた。
唐突に起こった異変は、ユアンの側頭部に突き立った矢の出現だ。
それにいち早く反応したのはギーデンス。
いきなり彼女の身体に覆い被さり、硬直する耳元で「奴らだ」と鋭く囁く。
何を云っている――?!
次いで、闇夜に疾駆する矢羽根の風切り音。
確実に何名かが斃されたろう。それでもさすがに、「敵襲!!」と誰かの警告する声が響き渡り、彼女はようやく状況を呑み込めた。
「ぼさっとするな! 剣を取りに行けっ」
「……っ」
一気にキャンプ内が喧噪に包まれる中、機を見てギーデンスが彼女の肩を揺さぶる。それでも半ば放心したままの彼女に容赦の無い平手打ちを食らわせて。
「おい、その程度の根性で女が戦場に来るんじゃねーよっ」
「!」
それで目が覚めた。
だが慌てて起き上がろうとする彼女の頭を抑え付け、「頭を低くしろ。あいつみてーになりてぇか?」と注意を受ける。
何なんだと思いつつ、間違ってないから腹立たしい。
「できるだけ、大勢を道連れにしろっ」
「それは貴方が心がけなさい!」
罵り合ってすぐ二人は別れ、剣を取るなり乱戦に呑まれた。暗闇の中から猛然と駆け抜けてくる蛮族に次々と襲われたからだ。
班で集まるどころではない。
手近の者同士で背中を守り合い、個別の対処を余儀なくされる。これでは組織力を活かすこともできず、敵の兵数によってはジリ貧に追い込まれる展開だ。
フォウ、フォウ、フォウ!!!!
甲高い雄叫びを放ち、次々と蛮族共が押し寄せてくるのを剣で必死に受け止める。
跳びかかってくる一撃に耐えられず、あちこちで地べたに転がされる者が現れる。次に待つ運命は苦悶の断末魔を口にすることだ。
状況は最悪。
あれほど静かだった野営地は、もはや阿鼻叫喚の地獄絵図。
焚き火に照らされ、全身を青黒く染め上げた蛮族達が無骨な斧を振り回し、血の宴に踊り狂う。
「班長、皆を呼ばないとっ」
「悪いが無理だ。それよりあそこの藪に飛び込め」
目線で促す班長に彼女はその判断を訝しむ。
「仲間を見捨てるつもりか?!」
「場合によるっ。この場に留まれば奴らに呑み込まれるぞ!」
その表現の的確さに、彼女は状況の悪さを痛感する。そうだ。確かに班長の云うとおりだ。
「ギーデンスらはしぶとい。今は自分の心配をするべきだ。行け!!」
「――分かった」
班長の言葉に背中を押され、彼女が先頭に立って藪漕ぎへと向かう。
わずかな距離も死出の道。
襲い来る蛮族の腕をぶった切り、胴を切り裂いて。
考え無しに飛び込んでくる蛮族を片っ端から斬り捨てる。
「ぁああああ――!!」
彼女は叫ぶ。
恐怖を払い、持てる以上の力を振り絞るために。
敵の血を浴び、切り傷を負い、仲間の死体を踏みつけることへの雑念に構う余裕すらなく。
夢中で切り抜け、藪漕ぎを目前にしたところで彼女は振り返った。
「――よし、他の連中を」
そこに班長の姿はなかった。
目にするのは悍ましい敵ばかり。倒れた相手を刺し続ける者や生首を振り回して叫び続ける者。
視界の隅で逃げ散る隊員を見たが、どこまで保つかは分からない。
そして彼女の眼前には、数人の蛮族が取り囲むように追い縋っていた。他に味方の影はひとつもない。
ほぼ全滅だ。
奴らの屍も決して少なくないが、襲撃してきた部隊が同数で磨り潰れたとしても、痛みを感じる連中ではない。
戦いに生き、戦いで死ぬような連中だ。
死生観の乖離に、奴らの受けるダメージをこちらの感覚で捉えるのはまったく意味がない。
もしやすれば、今のこの状況そのものが、奴らの望むことなのだから。
「くそっ――」
何とか二人を斃したがそこまでだ。
斬り慣れてきたとはいえ、多勢に無勢。
あっという間に藪漕ぎ前で、きっちり取り囲まれてしまう。
「これで――」
終わりか。
つい先ほどまで穏やかであった休憩が、味方に暴行され、罵られ、挙げ句に蛮族共の強襲で死を目前とするはめに陥っている。
あまりの目まぐるしい展開に、戦いの興奮状態で紛れていた心の消耗が、彼女に重くのしかかってきた。
同時に剣を掲げるのも辛くなる。
いよいよ本当に、最後なのだと。そう実感する。
「こんなところで……」
あの男に届くため、父に内緒で戦場に出た挙げ句、絶望を知って骸をさらすのだ。
遠征軍での耐え難い屈辱。
酒場で、初めてあの男を知った衝撃や恐怖。
剣を振り続けてきた修行時代さえ。
すべては何のためであったかと、彼女は目まぐるしく脳裏を流れる記憶に無情を感じる。
そして、相変わらず自分に注がれる唾棄すべき男共の視線。その意味するところを耳にこびり付くユアンの講釈が分からせてくれる。
(こんな奴らの慰みものになんて――)
その嫌悪感と怒りが疲れ切った彼女を奮い立たせてくれる。
鋭く息を吐き出し、剣を構え直す。
その時、奴らの列の一画が激しく崩れていた。
「――しぶといな、お前」
「ギーデンス。それに」
ヴォイスまで。
口ひげを蓄えた若者が片腕をだらりと下げたまま、彼女の左脇を固めてくれる。ギーデンスは右を。
「班長は――」
「死んだ。部隊も壊滅だ」
淡々と事実を述べるギーデンス。
もう、俺たちは終わりだと。
一瞬だけ湧いた希望を無情に打ち砕く。
「ならば、なぜここにきた?」
嫌っている女のところへ。
足手まといを増やす酔狂を考えついたわけじゃあるまい。
冷ややかになる彼女の言葉にギーデンスは珍しく沈みきった声で応じた。
「ああ、苦しむのは嫌だから自決も考えたんだが、ちぃと気が変わってな。ヴォイスにまで手伝わせちまった」
「別に構わない」
ヴォイスの濁った口調は血を含んでいるせいか。
何かを地面に吐き出して、剣持つ片手で口を拭っている。
それを横目で見たギーデンスが「へっ」と笑う。
「とにかく、やることがあってな」
「やること?」
「そうだ」
蛮族を牽制しながらギーデンスが語気強く首肯する。そして信じられない言葉を口にした。
「お前を送ってやることだ」
予備動作無しで、放たれた横殴りの一剣を彼女が受けきったのは暁光以外の何物でもない。
それはこれまでで、一番反復練習してきた防御の型『牛角の受け』。咄嗟に出たその技が、断たれるはずの彼女の一命をぎりぎりのところで守りきる。
「お前、何を――」
「馬鹿野郎。なんで受けやがるっ」
刃と刃を軋らせながら、ともすれば困惑で力が抜けそうになる彼女をギーデンスは叱責する。だがその声音に込められた悲痛さはいかなる心情がもたらすものなのか。
「そこまで私をっ」
「そうじゃねえっ」
互いに身を離し、すぐさま斬りかかるギーデンスに彼女は懸命に防御する。斬撃の鋭さに躊躇いはなく、彼が本気であることを思い知らされる。
だがなぜ。
「ユアンが云ってただろうがっ」
強引に踏み込み、力任せに叩きつけてくるギーデンス。それを受け流し、跳び退る彼女。そのすぐ後を彼の斬撃が走り抜ける。
「やつらに玩具にされるくらいなら、俺がお前を殺してやる!」
「!」
想定外すぎる理由に、一瞬硬直する彼女。
その隙に飛び込んできたギーデンスの剣を、避けることもできずに真っ向から受け止めさせられていた。当然のように体格差に押し負かされ、膝を着く彼女。
刃が頬に触れるにも構わず、彼女はどうしても問わずにはいられなかった。
「私を、嫌っていたのではなかったのか?!」
「嫌いだとも、女が戦場に出ることがなっ」
女が戦争に巻き込まれることも。
ギーデンスの眼に憤りと哀しみが過ぎる。
「お前のような仲間がそうだった。別の班でもそうだ。女が戦争に混ざれば、みんなそうなっちまう。こいつらとの戦いは、特に酷い。俺はな……もう姉貴やお袋と同じメに誰もあってほしくないんだよ!!」
「――!」
いきなり腹を蹴られて、彼女は為す術もなく転がった。
突然始まった仲間割れに、さすがの蛮族共も戸惑い、中には面白がって哄笑する者もいる。
だが大半が肯定的だ。
自分達と敵。あるいは敵と敵。
誰がどう得物を振るうにせよ、それは彼らの馴染んだ“戦い”であることに変わりはない。
しかも侵略者共が罵り合いながら、斬りつけ合う余興であればなおさら、蛮族達は酔いしれた。
それも男と女の組合わせだ。
仮に女が生き残れば、これまでにない強い母体を得ることになる。その母体から生まれる戦士はどれほどの強者に育つのか。
彼らの興味と興奮は異常なほど高まっていた。
だから、あっけなく訪れた終幕に誰もが虚を突かれたのだろう。
「抵抗するな――せめてお前の尊厳だけは、この俺が守ってやるっ」
渾身の一振りを、彼女は反射的に合わせにいく。
狙うは剣身の中央よりやや下側――その一点に全力の一撃を叩きつけていた。
咄嗟に出たのはシルドネ流にない、父の技。
『牙落とし』――
ギーデンスの一撃を封じ、返す一閃で胸部を斬り上げた。
すべては一瞬の出来事。
肺を断ち割られたギーデンスが血泡を吹く。
そのまま片膝着き、剣を地に差すことで辛うじて倒れることを防いだ。だがそこまでだ。
「ギーデンス!」
思わず駆け寄る彼女に「……結局、女ひとり守れねーか」と彼は焦点の合わぬ目で呟く。
「馬鹿野郎っ、こんな守り方……」
「そうだな……これで、死んじまったら」
ダセぇな、と。
「ヴォイス。こいつ、やるわ。こいつを俺の代わりにしろ」
「何を云ってる……?」
彼女の疑問に答えは与えられず、ヴォイスが「いいのか?」と短く問う。
「俺はここまで、だからな」
周囲の気配が変わっていた。
勝負がついたと蛮族共が見切ったからだ。
ギーデンスがゆっくりと差し伸べた腕をヴォイスが掴んで強引に立たせる。
「おい……?」
「お前の、望みだろ? ……一緒に戦ってやる」
敗者が勝者の意に添うのは当然だと。
彼女の踏み込みは少しだけ浅かった。それでも彼の死が避けられるほど浅くはない。
残された命の火をここで使いきる――そう、向けられた背が語る。
「俺は、こうしたかったのかもな――」
守るべき者を背にして。
盾となり剣となって敵に対峙することが。
そうあるべき時に、愛する者の前に立てなかった悔恨の念が、彼の底にあったのだろう。
一斉に襲い掛かってくる蛮族達へギーデンスが掌を翳す。
「『悪意返しの衝撃』」
真名を告げると共に白き閃光が闇夜を切り裂いた。
――――!!
彼女が咄嗟に翳した掌を外し、目が慣れると、蛮族共が全員見えない力で弾き飛ばされていた。
ギーデンスが手負いと思えぬ速さで踏み込み、一人目を葬っている。その手口を知っていたか、ヴォイスも剣を逆手に飛び込んで敵の一人を。
「……っ」
遅れて彼女が駆けつければ、三人でほとんど抵抗もさせずに蛮族を蹴散らしていた。
「今のうちに――」
「二人でいけ」
肩を掴む彼女をギーデンスが振り払う。指に嵌めた指輪を外し、彼女に押しつけて。
「昔から家にあったものをくすねてきた。返す当てがないから、お前にくれてやる」
「そんなことより、早く逃げようっ」
「いいから聞けっ」
血の混ざる唾を飛ばし、狐目が間近に迫る。
「これは取引だ。お前を逃がす代わりに、俺がすべきだったことをお前が継げ――」
「な……っ」
開いた口を塞げずにいる彼女へギーデンスは早口で捲し立てる。
「方法は問わん。全員とも言わない。だが、お前のやり方でいい、女を救えっ」
それはあまりにも歪な願いだ。
それでも彼は本気なのだ。
血走った狐目に妄執とさえ思える光が宿っている。
彼女の腕を掴む手指の震え、唇が示すのは命を絞りきる寸前の、末期の症状。
彼女に否やを言えるはずもない。
「――分かった」
「頼むぜ、戦友」
それは彼女の見間違いだったろうか。
ほんのわずかに、唇を綻ばせて彼は踵を返した。
「悪かったなヴォイス」
「何が? 代わりを彼女がするのだろう?」
「へっ、お前と……」
何と云いたかったのだろう。
続きを口にすることなく、ギーデンスは歩き出した。
甲高い声と共に、周囲から禍々しい人影がちらほらと集まりはじめている。
「……っ」
「――行こう」
ヴォイスに促され、彼女も背を向けた。
告げたかった言葉を胸の奥にしまい込んで――。
◇◇◇
あれからさらに一日が経った。
最後に、何かの炸裂音が近くで響いたが、それは魔術の巻物ではないかとヴォイスが推測した。
下士官クラスに持たされる支給品を当人か誰かが使い、それによって敵が引き付けられたのだろうと。
おかげで逃げ延びることができた以上、その者達がどうなったとしても、彼女には何の感慨もない。
とにかく、生き残ることが大切だ。
生きて、帰らなければならない。
やるべき事が増えたのだから。
「“剣士に必要ない”なんて云うなよ」
指輪を見つめ握りしめた彼女に、ヴォイスが釘を刺す。
「分かってる。私はそこまで強くない」
陰鬱に応じる彼女を否定するように。
「お前が託されたものは、ただの剣士としての強さでは、どうにもならない」
「“私のやり方でいい”と言われたわ」
「だが枠に嵌め、限界をつくるのか? あいつの命に値を付けるのは、お前自身だ」
「だからアイテムに頼れと?」
そうじゃないと、ヴォイスは首を振る。
「頼るんじゃない。使いこなせ。武器も防具もアイテムも、すべては剣士を構成する一部でしかない。 剣士として芯を鍛えながら、剣士を鎧うすべてに神経をいき渡らせろ」
「すべてに――」
そんな考えは一度も持ったことがなかった。
だが、この戦場で思い知らされたのは、剣士としての未熟さと、剣だけでは生き延びれぬ非情の事実。
腕力でユアンに劣り、精神的な苦痛に刃は役立たずであった。
こうして生き延びられたのも、仲間の助けと奇蹟を呼んだ巻物の助けがあったればこそ。
この先、どれだけ力を付けようと、“剣にのみ生かされる”と心の底から言い切れるだろうか?
「剣士としての枠組みを、越える必要がある……」
修羅場をくぐることが大切だと思っていた。
そうすればあの男に届くとも。
だが、届けばいいのか? それで望みが必ず叶うと言えるのか?
自分は、あの男を越えねばならない。
「ならば、これこそが答えか――」
自分で吐いた言葉を噛みしめる彼女にヴォイスが告げる。
「お前の目的を叶えてからでいい。剣士を越える剣士に、俺が導いてやる」
「お前……?」
負傷していたはずの手が差し伸べられ、そのことに気付いた彼女がヴォイスをまじまじと見つめる。
彼が治癒の秘薬を使った姿は見た覚えがない。
そもそも、着の身着のまま逃走していたからだ。
ならば、何が起きているのか?
「覚えてないのか? お前はあいつに見込まれた。見込まれて、自分の代わりにお前を継がせた」
確かに。
そのようなやりとりを二人はしていた。
だが、そういう意味だったのか?
いや、まだ隠されているそれ――二人は何を継がせようというのか?
「いずれ、迎えにゆく。それまで、お前なりに“剣士を越える剣士”を目指せ」
「お前じゃない」
ようやく掴み取ったものを胸に抱きしめながら、彼女はヴォイスを睨み返した。
「私はバルデアだ。バルデア・ラーエン・グリュンフェルトだ」
覚悟を決めて絞り出したその声は、枯れ果てていた。
美しかった金髪から色素はきれいに抜け落ちて。
痩けた頬を締め、血色の悪くなった唇を彼女は引き結ぶ。
もはやいずことも知れぬ敵地で無残な姿をさらしながら、それでも彼女の芯にある煌めきが損なわれることはない。
むしろ、より強く輝いていた――。




