(七)誰がための剣
シュレーベン城
陸の孤島『礼拝堂』――
「――お久しぶり、というのは大げさでしょうか、ルビンスク司祭様。朝早くから押しかけてしまい、申し訳ありません」
エルネが慌てることなく前へ出て、伏し目がちに謝罪すると、壮年の司祭はようやく我に返った様子で「いえ」と被りを振った。すぐにもう一度慌てたように被りを振って。
「……いえいえ、いつでも構いませんよ、公女様。ここは大公家の私的な礼拝堂。ご長女であらせられるエルネ様は、いつでもご自由に訪れていただいてよいのです。ですが、その……」
突然の訪問者はエルネだけではない。
遠慮がちに二人の侍へ視線を向ける司祭の後頭部を、この時あろうことか、背後からパシリと叩く者がいた。驚くのは司祭ばかりではない。エルネ達もだ。
「ちょっ――」
「なーに脳天気な事を語ってんだい、ルビンスク」
現れたのは同じ司祭服に身を包む美しき熟女。
その眼光は鋭くどこまでも挑戦的で、袖まくりして腕を組む姿は司祭よりも神敵と対峙する神官兵がお似合いだ。
皮肉げに口元を歪めながら、熟女は同僚を責め立てる。
「不審者を見つけたら、とっとと警備兵を呼ぶのがフツーだろ。あんたは謹厳実直の聖職者じゃなかったのかい?」
「いや、“不審者”って――」
「そいつがエルネの嬢ちゃんだってなぜ決めつける? 腕のいい魔術師か『魔術工芸品』なら、眩惑系の術を行使してあんたを騙すことも可能だろう」
「!」
云われてみれば当然の指摘に、壮年の司祭は息を止める。小さな目を目一杯見開かせるのは、想像だにしていなかったからだ。
すぐに疑心の目をエルネに向ける司祭の頭を、またもや熟女司祭がパシリと景気よくひっぱたく。
「あ痛――っ」
「音だけだ」
大げさなやつめ、と睨めつける彼女。
「ほんとに疑ってんじゃないよ。本物に決まっているだろ」
「そんな――貴女が疑えって仰られたからっ」
「あたしが云いたいのは、“考えて行動しろ”ってことだ。忘れてないだろうね、嬢ちゃんが誘拐されたって話しを」
その言葉にぴくりと身を強張らせたのはエルネの方。背後の二人もかすかに緊張するのが不思議と分かった。その様子を吟味するように見つめながら、熟女司祭は話を続ける。
「後ろの二人が賊で、嬢ちゃんが城内潜入を強要させられてるケースもあるだろう?」
「仮にそうだとするなら、下手に警備兵を呼ぶのは拙いでしょう。エルネ様にもしものことがあったら――」
「あるわけないだろ」
自信たっぷりに熟女司祭が切り捨てる。
「状況が分からない咄嗟の出来事だからこそ、不意打ちとして成功するんだよ。これで嬢ちゃんを盾に要求が始まったら、手立てのほとんどは潰され、こっちは身動きできなくなっちまう」
あんたは、せっかくのチャンスを逃したのだと。
理解を深めるに従い、顔色を青ざめさせてゆく壮年司祭。「いや、私はただ……」そう狼狽える彼の肩を熟女司祭が気安く叩く。
「心配するな」か「任せろ」なのか。
祭壇に目をやり、開かれた石蓋に気付いた彼女は「ふん」と鼻で笑った。
「『立志の儀』を受けたのかい」
「……そのつもりはありませんでした。でもそこしか道はなくって」
エルネが思わず素で答えたのは、熟女司祭こそはこの私的礼拝堂の専属司祭であり、かつ、スタン家の専属教師でもあったからだ。
司祭エスメラルダ――エルネにとっては勉学の師であり、誰もが彼女を甘やかす中、時に厳しい指導をしてくれる唯一無二の存在である。
子供相手に遠慮無く物を言うアクの強い司祭だが、その分裏はなく、機転も利く。慣れると付き合いやすい相手と分かるだろう。
ただ“誤魔化しが効かない”という意味では、今は一番やりづらい相手になってしまう。事実、エルネの何気ない回答から、エスメラルダは気まずい真実を掘り当てる。
「ああ、確か城館に繋がる別のルートがあったな。つまり、あんたは皆に内緒で城に忍び込みたかったわけだ」
不審げにエルネを見つめるエスメラルダ。だが理由を問い詰めるかとの予想に反し「これだけは云っておくよ」と別の点について釘を刺してくる。
「アレは立会人なしに挑むものじゃない」
危険だし、挑むための準備も必要だと。
そう苦言を呈するのはエルネを想ってのこと。
「あたしとしては、アレを嬢ちゃんに受けさせるつもりはなかった――」
「確かに、私だけでクリアすのは無理ですね。でもゲンヤ様達の助けがあって、何とか切り抜けることができました」
「そのゲンヤ様とやらは、何者だい?」
じろりと奥の二人を睨むエスメラルダに、エルネは慌てて紹介する。そういえば自身もろくな挨拶を済ませてもいない。
「挨拶もまだでごめんなさい。こちらは、私たちの同盟者『諏訪家』のご当主様です。何とか叔父様に会いたくて、ゲンヤ様達の力をお貸しいただいたわけでして」
そのタイミングを逃さず、弦矢がぐっと顎を引き手短に挨拶する。
「不躾な訪問をお許し願いたい――儂は諏訪弦矢と申す。我ら諏訪は縁あって、姫の剣となる誓いを立てさせていただいておる」
「ほう……?」
エスメラルダが興味深げに声を洩らし、皮肉げに歪めた口元をさらに吊り上げた。
庶民的な身なりに不釣り合いな、威厳のある口調と落ち着き払った佇まい。弦矢のわずかな所作を目にしただけで只者でないと見抜いたようだ。
もう一人の目を閉じた月齊の佇まいも賊と蔑するには粗野さが微塵もなく、エスメラルダの関心をその正体に強く向けさせる。
「スワか。聞いたことのない士族名だね。もしかしてネステリアかそれとも帝国領のお貴族様かい?」
「コダールの田舎に」
「コダール?」
良くも悪くも“魔境”以外に特筆すべきものがない北の辺境だ。未開の部分が多く人口が少ないのも、危険すぎて生きるに適した環境でないことが大方の理由になっている。その辺境出自と聞かされてエスメラルダの眉がひそめられるのも当然だ。
しかしそれを予期していたエルネがすかさずフォローを入れる。
「辺境だからこそ、『諏訪家』の“力”は確かなものであり、また十分信頼に足り得る者達であることは、この私が保証いたします」
そうエルネが断じると、エスメラルダの顔つきが真剣なものに変じた。
何かをミスったか?
いやエルネの思いがしっかり伝わったからこそ、司祭は厳粛に受け止めたのだ。得られた情報を吟味してひとつの推測を瞬く間に組み立ててゆく。
急に行方不明になったエルネが“力を必要としている事実”。
突然現れたかと思えば“城に忍び込もうとしている事実”。
仕上げに“大公が病状に伏せ、弟が大公代理となって国政を動かしている事実”を合わせれば、きな臭い陰謀論が出来上がる。
「……どうやら、面倒な話になりそうだね。分かってるかい、あんたが“誘拐された”とあたしらに語ったのは、ルストランの坊やだよ? それをあんたは否定するわけだ。そうなんだろ?」
“どちらが間違っている”という話しではないと。
“どちらが嘘をついている”という話しになるのだと。
『公女誘拐』は大公家として公表しているだけに、冗談では済まされない事件になる。もしかしたら、国を二分するような騒動に発展するかもしれない。その危険な矢を番え引き絞ったのだとエスメラルダは説いている。
エルネがこれまでに見たこともないほど険しい視線を向けてくるのも当然だ。
だが、その視線をエルネは毅然と受け止める。
「争うのは、私たち二人だけです。国民に血を流させるつもりはありません」
「ご立派な心構えだが、こういったものは、本人達の思いを無視して、まわりが勝手に盛り上がるものなんだよ。本好きなあんたなら、分かってることだよな?」
「はい」
はっきり肯定した上で、なおエルネの態度が揺らぐことはない。そうしたことも承知しているからこそ、“捕まって対面する”のではなく、“自分の力で対面の場を作り出すこと”に拘ったのだから。
そしてその目的は、今や達成される寸前まできている。
「何をするつもりだい?」
「叔父様にお会いします。会って話し合います」
「それで何が変わるんだい」
骨肉の争いほど醜く、抑えが効かぬものはない。
ましてや国主の地位争いともなれば。
それは歴史が証明している。
無血闘争などあり得ないと知るからこそ、問い詰めるようにエスメラルダは愛弟子を睨む。その厳しい視線を柔らかく受け止めるようにエルネは微笑んだ。
「……だってルストラン叔父様ですよ?」
毛ほども案じてないエルネの声。
相手が誰かを告げるだけでエスメラルダには十分伝わると信じている。事実その通りであったが。
ルストランという人物は、必要なら戦いを臆しないが、乱りに血を好むわけでもない。
例え12歳の少女が相手でも――自ら対峙する場に辿り着いた者を無下にする真似は、決してしない。
だから対面に持ち込めれば、そこで話しがどう転ぼうとも、この件には幕が下ろされる。それ以降、血が流れることはないのだ。
故に、肝心なことは、無事に対面できること。
ルストランに対面し、それから――
「……一緒にいてやろうか?」
すべてを理解したからこそ、師は弟子に必要最小限の協力を申し出てくれる。だがエルネはわずかに背後の人物へ意識を向け、それから丁重に辞退した。
「お気持ちだけで。代わりといっては何ですが、叔父様の下へゆくのにお供させてくだされば」
「……なるほど。ああ、いいとも。ついてくるがいいさ」
逆に何を求められたかを察してエスメラルダがまたも口角を吊り上げる。その喜びは、師を頼らぬ弟子の成長にあったのかもしれない。
ふいに、エスメラルダがふくよかな壮年司祭の肩を抱き込んだ。頭ひとつ高い長身の熟女に頬をすり寄せられて、壮年司祭は喜ぶどころか警戒心たっぷりに横目で窺う。
「じゃ、まあそういうわけで急用ができた。あんたにはお暇してもらおうか、ルビンスク?」
「へ? ――いや、まあそうですね。私はここにいない方がよさそうです」
「物わかりが良くて助かるよ」
ハッハッハと快活に笑いバシバシと肩を叩く同僚へ壮年司祭は疲れたように首を振る。
「無謀というか大胆というか、貴女はもう少し節度がないと……どうなっても知りませんよ?」
「そういう割には止めないよな。場合によっちゃ大公家に嫌われるかもしれねえぞ?」
「貴女個人の問題で、教会を巻き込むのだけはやめてください」
そこだけはきっぱりと壮年司祭が苦言を呈す。それを前提として、こう付け加えるのだ。
「すみませんが、私が報告を受けたのは昨日までの出来事です。本日以降の出来事は、来月に聞かせていただきます。――つまりはそういうことです」
しれっと応じる壮年司祭に、エスメラルダは今日初めて好意的な視線を向けた。
「愛してるぜ愛弟子よ」
「本当にそうお思いなら、弟子の心労を気遣って下さると嬉しいです」
嫌味を精一杯の反撃としてルビンスクはそそくさと帰り支度にとりかかる。それを見送ったエスメラルダは首を傾げてコキリと鳴らす。
「久しぶりに顔が見れたかと思えば、とんだイベントが待ってたね」
「……すみません、教師」
「いいさ」
はじめは刺々しかったエスメラルダも、今や愉快げに目尻を弛めて機嫌が良さそうだ。これまで蚊帳の外に置かれていた状況に拗ねていたのかもしれない。
対してエルネの方はそうでもない。
一時はどうなるかと思われた城館潜入ミッションに思わぬ突破口を見出し先行きが明るくなったのは確かだが、その顔色はすぐれないままだ。
思い詰めたような表情にエスメラルダが口元を引き締め弟子に問いかけてくる。
「まだ何かあるようだな……?」
こういう時の察しの良さにエルネは非常に助けられる。ただそれでも喉元まで出かかった言葉はなかなか声にすることができなかった。
それはずっと気にしていた気懸かりのこと。
その答えがサイアクなものであったなら――想像しただけで心臓の鼓動が速まり、エルネは言葉を出せなくなってしまう。
「陛下のことかい」
「――っ」
「ふん。――ちょっと見ない間に、嬢ちゃんも強くなったもんだ」
「?」
思わぬ台詞にエルネは訝しげに眉をひそめる。
「以前のあんたなら、真っ先に父親のことを尋ねたはずだよ。だがそうはしなかった。冷静にルビンスクをコントロールしようとし、目的のためにあたしと交渉してみせた。これも試練の成果かね?」
「……」
交渉だなんてとんでもない。
自分はただ、真摯に思いの丈を伝えたまでだ。それを的確に汲んでくれたのは師の力量以外の何物でもない。
それより“真っ先に”という言葉がエルネをドキリとさせ、その胸に何とも言えないしこりを残す。
身内を蔑ろにした――そう言われた気がして。
「薄情だなんて自虐的な考えはよしな。これがただの誤解じゃなく、“身内の争い”だってんなら、あんたは大公家の人間として“優先順位”を正しく見極めただけだ」
むしろ褒めてるんだよ、と。
エルネは師匠の称賛を複雑な思いで受け止める。
得たものもある分、失ったものもあるような。
成長とは、ただ無邪気に育つものではないということか。少しづつ、少しづつ自分のありとあらゆる面が強く変わりゆくことなのかもしれない。
「……素直に、喜べません」
「当然だ。“悩み”は良薬の如し、てね。大いに悩め、若人よ。それがあんたを成長させてくれるし、将来のためにも少し馴らしておいた方がいい」
最後の台詞は意味不明だ。
なぜか爽やかに、勝手なことをほざく師匠にエルネは毒気が抜かれたように表情を弛緩させる。この人はいつもこうだ。
「……それで、お父様のことは?」
なんだかんだとうまく口にできたのは、エスメラルダがエルネの意識を適度に反らしてくれたおかげなのかもしれない。
「“いい面”と“悪い面”があってね」
「普通は“いい話”と“悪い話”を選ばせるんじゃないですか?」
「そんな時もあるが、今はそうじゃない」
ゆっくりと歩き始めながらエスメラルダは大公ドイネストの現状を説明してくれる。
「“いい面”はまるで幽閉状態だった陛下が、弟君の手から逃れられたことだ。これはまあ、見方によるがね。
そもそも弟君は兄を公城から別邸に移し、そこで療養させようと考えてはいたようだ。兄の心的フォローと体の良い追っ払い――実利を兼ねた実にルストラン坊やらしいやり口だ」
そう背景を加えながら、次に“悪い面”を語る。
「ただ問題なのは、移送途中に陛下が何者かに拉致されたことだ」
「!!」
エルネの心臓がきゅっと窄まった。
ショックを受けると同時に、それが事前に情報を得ていた“公城の不穏な動き”の原因であったかとひどく納得もしていた。
「こうなってくると、あんたらの争いと無関係とは思えねーな」
「叔父様の自作自演だと……?」
「違う。賭けてもいい。平静を装っちゃいるが、ルストラン坊やの慌てようったらないぜ。あたしには分かる」
「けど、私でもないっ」
「だろうね」
だとすれば、一体誰の仕業だというのか。
答えを求め自分をまじまじと見つめるエルネにエスメラルダは苦笑する。
「おいおい。あたしに期待してどうするんだい?」
「でも、教師なら誰か当たりが付けられるでしょう?」
「おーおー、信じて疑わない純真な瞳を向けてくるねえ」
眩しげに目を細め、エスメラルダはため息をこぼす。やれやれと。その態度にエルネの期待は膨らむ。
「……先だって、陛下が拉致されたと思われる夜半、『俗物軍団』の連中がお祭り騒ぎをやっててね」
「?」
「街中で脱走兵を追い回したり、郊外で夜間の軍事演習をやってたらしい。それも実施当日に警備隊の下士官にだけ連絡して、後日、公都警備隊の上層部と大もめになったくらいさ。それだけでおかしいと思うだろ?」
「じゃあ、あの連中が……」
十中八九とエスメラルダは頷く。
「当時、連中の陣取った演習現場は陛下の乗った馬車のルートに近くてね。公都警備隊が連中に確認を取ってるが……まあ、シラを切られて終わりだろうね」
「でも、なぜ『俗物軍団』が? 叔父様の味方ではないのですか?」
「あん? どうしてそう思うのか分からんが……」
不審げにエスメラルダは首を振りつつも、理由は教えてくれる。
「あの連中は、飼い慣らすことができない野犬の群れと同じだ。特に今はその傾向が強くなっちまった。ただし、ボス犬は違う」
「団長のことですか?」
「そうだ。団長はベルズ辺境伯の長子オーネスト。昔は病弱で生っ白いもんだから『蒼白の貴公子」と揶揄されていたもんだが、いつのまにか戦闘狂になっちまった――」
懐かしげに語るエスメラルダの声にはどこか悲哀が込められている。
「何かあったのですか……?」
「戦争だ」
だいぶ色々とひっくるめてエスメラルダは二文字に押し込める。エルネには到底実感することができない重々しい二文字を。
「とにかく、だ。あたしの読みでは、ベルズ辺境伯が拉致事件の黒幕だと睨んでる」
「それは、また……唐突な答えですね」
公国三大名家の一画を挙げたのだ。
エスメラルダでなければ、不用意に口走る者などいるはずもない。いや、そうだと思っても決して口に出すはずがない。
思いもしない名前にエルネが大きく困惑すると、エスメラルダは皮肉げに口元を歪める。
「別に順当じゃないか。『俗物軍団』の前身は辺境軍の精鋭だ。彼の大戦を終わらせた功績は東の辺境諸卿らにあると言っていい。
だが彼らには何が与えられた? 現実は過酷でも住み馴れた辺境を追われ、流れ着いた公都では街を護るための街壁を造らされ、代わりに得たのは生きてゆく最低限の水と食料だ
貧しさに、惨めさが加わったんだよ――」
故郷の復興は、ろくな支援もなく辺境人の地力だけで十年経った今でも続いている最中だ。公都を中心に富める者が富め、持たざる者は辺境人を中心に貧しさに拍車を掛けている。
それが現実だと、エスメラルダは講釈する。
「どうだ? 辺境伯が不満を持つのは当然じゃないか? どれほど腸が煮えくり返る思いで堪え忍んでいるのやら。
だが、ここで大公家内の争いだ。辺境伯がこの期を捉え、何を企てたとしてもあたしは驚かないね。
何しろあの坊やには、それを企て成し遂げるだけの力がある」
まったく言い返す言葉もない。
エスメラルダの語りにはそれだけの説得力があり、頷けるだけの知識も――多少ではあったが――エルネにはあった。
この話は事実だ。
この事は、ルストラン達も分かっているのか、いや今は気付かなくとも近いうちに答えに行き着くのは間違いあるまい。
それにしても、と。
エスメラルダがどうしてそこまで詳しいのか、もっと云えば機密情報の類いもどうやって知り得たのか、色々と疑問は尽きないがエルネは黙ってスルーする。
これもいつものことだと。
彼女なりに考えて、色々と手を尽くしていたのだろう。自分がこうして尋ねることも、彼女の想定には入っていたのかもしれない。
「お父様は、無事でしょうか……?」
「拉致るのは、そうする理由があるからさ」
エスメラルダは素っ気ない言葉でエルネを安心させてくれる。だが同時に「ただし――」と覚悟も求めてくるのは、それもいつものことであった。
「――陛下を助ける時間に限りがあるってことを覚えておくんだね」
「――はい」
分かってはいるがキツイ言葉だ。
エルネは知らず服の裾を強く握りしめる。
先の試練ではクリアできるかどうかが賭かっていたが、今度は父親の安否が賭かっている。比べものにならない重圧に、エルネは震えはじめた腕をきつく抑え込む。その時。
「姫――」
背後からかけられた力強い声。
短くも、確かに苦楽を共にした信頼できる者の声。
その声が耳朶を打ち、途端に、エルネは暗く狭められた視界が元に戻るのを感じた。ああ、明るい。胸の奥にわずかな高揚も感じて。
「まずはどうされる――?」
静かに、そう問いかけられてエルネは一度、大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
そう簡単に落ち着けるはずがない。
だから心配してもいい。
ただ、何を先にやるべきかを見失ってはダメ。
ひとつひとつ、だ。
きちんとクリアしてゆけば、それが自ずと父を救う道になる。どのみち大公家の力が無ければ、助けることなどできないのだから。
「何も変わりません」
エルネはエスメラルダを見ながら落ち着いて答える。
「まずは――叔父様に会いましょう。よろしくお願いします教師」
「……」
「教師?」
「……ああ、ついてきな」
二度目の呼びかけで、エスメラルダはわざとらしく口角を吊り上げた。
「ほんとに……見違えちまったな」
そんな呟きを洩らして、エルネのそばを通り過ぎる。そして弦矢の近くまで進むと、ズビシと指を突きつけた。
「おい、スワの御当主とやら。あたしの弟子の信頼を絶体に裏切るなよ? もしやらかしやがったら、あたしの持ち得るかぎりの怨念と妖術で【検 閲】にしてやるからな?!」
「……教師、聖職者ですよね?」
できそうでコワイ。
脅し方がおかしいとクレームを付けるエルネの言葉は当然ながら聞き流される。
弦矢は弦矢で「これも愛情の裏返し」と好意的に受け止めたらしく、慇懃に応じてみせる。
「ご安心召され。貴女の念いも、この弦矢しかと受け止めさせていただく。いかなる姫の凶事も儂らの剣で悉く斬り伏せて進ぜよう」
「いい啖呵だ。吐いた唾を飲み込むなよ?」
もう一度たっぷりと睨めつけると、丁度小走りにやって来た壮年司祭を引き連れて、エスメラルダは外への大扉に手を掛けた。
慌ててエルネもその背を追いかける。
「気合いを入れな、野郎共――」
一声掛けて、エスメラルダがその細腕には似合わぬ力で重い大扉を軽々と押し開けた。
礼拝堂よりさらに冷えた空気が吹き込んでくる。
心なしか澄んだ陽射しはより強く。
見慣れたはずの目前に広がる絶景にエルネはほんの少し見とれてしまう。
この角度から、公都を一望する景色はここだけのもの。そこには泣いたり笑ったり、たくさんの人が暮らしを営んで、きれい事では済まされない汚れた話しもたっぷりあって。
「……何だか、違って見える」
「だろうね。『立志の儀』を受けるってのは、そういうことだ」
石段を下り、丁寧に刈られた芝を歩みながらエスメラルダが教えてくれる。
「でも私一人の力じゃない」
「細かいこと気にすんな。あそこで何を学んだか分かってるはずだ」
その事に挑む人数が関係あるものかと。
「胸を張れ、レディ・エルネ」
エスメラルダが一度だけ振り返る。
らしくない真摯な面持ちで。
「始祖フィオネーゼのように」
「!」
「齢十二に関わらず、貴女が儀式を成し遂げた最年少記録の偉業が決して霞むことはありません。
この私ディオネーゼ・フォン・エイグル・スタンの名に懸けて、その言葉を保証します――」
何と清澄なる響きなのか。
胸の奥まで透き通るようなその声が、言葉が、エルネの全身に清々しく染み渡る。
気付けば自然と、エルネは頭を垂れていた。
師と愛弟子。
いや、初めて対等に声を掛けられたような気がする。ただ、本当にそのひとときだけであったのだが。
「――さて行こうか。ぼさっとするな、エル公」
「え、える?」
今の“いい雰囲気は”何だったの?
大いに戸惑うエルネを残し、エスメラルダは足早に進んでゆく。
「これは照れ隠し……でしょうな」と評するのは月齊だ。
「……ちょっと、教師っ。今のもう一回――」
ダメな台詞を口走り、駆け出すエルネを弦矢が苦笑して後に続く。レディも何もあったもんじゃない。だが彼女らしくもある。
そんな一戦前の緊張をほぐす一行であったが。
渡り廊下に踏み込んだ彼女らが目にしたのは、不穏の前兆。あるいは好機の到来であったのか。
「誰もいない……?」
渡り廊下の終点に、常時立姿を維持する警備兵の姿が見当たらなかった。
何かあったのか?
いや耳を澄ませば、双丘を横切る風切る音だけでなく、城内から騒ぎの音が洩れ聞こえてくるような。
司祭二人は不動のまま、エルネ達三人は互いに顔を見交わし合う。
「もしやすると……」
低い呟きは弦矢が洩らしたもの。そこに喜悦を感じてエルネは期待に胸を膨らませるのであった。
*****
刻を少し遡る
『秘密の王道』入口付近――
エルネ達としばしの別れを告げ、ひとり別ルートの入口を捜索することになったエンセイ。
彼は戻る際にも壁面に注意を払い、少しでも発見を早めようと時間を惜しんだが、結局何も気づけぬままスタート地点まで辿り着くことになる。
「そう簡単にはいかぬか――」
実際、この入口を見つけた時も通路を形取る隙間は小さく、指を掛けるのにも苦労していた。壁面を舐める勢いで精査しなければ、見逃す可能性もあるだろう。
五人分の光量があったあの時に比べ、今はエンセイが首に提げているペンダントがひとつきり。さらに慎重を期す必要がある。
だが、そうしたエンセイの意気込みも、思った以上に厄介な作業に少しずつ萎えてしまうのは如何ともしがたい。
大人ひとりが通れる通路の大きさを想定し、足下から頭ひとつ見上げる程度の高さまで丹念に指を這わせる作業はひどく根気のいる仕事だ。
繰り返される膝の屈伸運動。
壁面との睨めっこで消耗する集中力。
手探る指先のひとつひとつにまで神経を研ぎ澄ます細やかな作業は、いかなエンセイとてそう長く続けられるものではない。
やがて立ち止まり、壁に手を突く姿勢でエンセイは顔を少し俯かせる。何度も目をしばたたかせた後、軽くため息をついた。
これまで味わったことのない、剣を振るのと違った独特の疲労感が、五十を過ぎた身体をじわりと蝕む。
このような役目を望んでいたわけではない。
光も差さぬ狭き穴蔵で、腰の物を飾りとしている状況に忌ま忌ましさを感じる。
「……エルネ様達はどこまで進まれたか」
断固と警護の信念を貫いたミケランは役目を果たすべき瞬間を得られただろうか。罠を避け、未知なる生物から姫を庇い、懸命に務めを果たしている姿を想像し、エンセイは首を振る。
唇の端に生まれるかすかな自嘲の笑み。
その場に自分がいないことを歯がゆく思いながらエンセイは別れたエルネ達の動向に思いを馳せる。
「だとすればそろそろ、城内潜入を目前としている頃合いか……」
自分はいまだ発見の見通しも付けられずにいるというのに。
ざあざあと汚水の流れる音に煩わしさを覚えながら、ひとり孤独な調査を強いられているエンセイの心は“焦り”という名の炎にジリジリと炙られる。
彼にしてはらしくない心の動き。
この特異な状況が心を乱させる要因なのか?
それとも“剣を振る理由”に囚われすぎているとでもいうのか。
ふいに。
「――襲ってこずに、傍観を決め込むか。だが正直かからしいぞ?」
壁に手をつく姿勢はそのままに。
打って変わった引き締められた表情と声質で、エンセイが誰に共なく声を掛ける。
突然はじめられた独演に、しかし、応じる者がいた。
「邪魔立てするつもりはなかった――」
「ならばなぜ、私に悟らせた?」
わざとであろうと。
エンセイの視線がゆるやかに入口方面に向けられる。
ペンダントの明かりが届かぬ闇の向こうに、先ほどまで感じられなかった人の気配がひとつ湧いていた。
「なに、手助けできるのではと思うてな」
「手助け?」
声のみ平静を装い、目に警戒心を湛えたまま、壁から離れたエンセイが静かに正対する。そこに危険な緊張感を察したか「俺も諏訪家の者だ」と声の主はあっさりとその正体を明かす。
「主命により、あえて離れた位置で様子を窺っていた。何かあれば自由に動けとの許しも得ている。ただな……」
いざその時になって、躊躇いが出たのだと。紛らわしい出方をしたことを声は不格好に詫びる。
「……長く人前に晒すことを避けて生きてきた。身に馴染んだ性分は拭いきれるものではない。警戒させたのであれば、赦してくれ」
実に胡散臭い話しではあったが、その身から殺気を感じないのは確かであり、声には真摯さが込められている。油断するわけにはいかないが、エンセイは耳を貸すつもりになっていた。
「今の状況を理解しているのだな?」
「抜け道を捜したいのだろ? それはこちらの得手でもある」
「頼みたいのは山々だが、な」
エンセイが躊躇ってみせれば、声はその心情を見透かすように告げる。
「何を躊躇う。信じてみようと思うからこそ、俺の話を聞くのだろう?」
「そうなるか」
「そうなるな」
声に説き伏せられて、エンセイは腹を決める。実際、声の指摘通りであったからだ。
「なら頼むとしよう。どのみち、ひとりの調査に限界を感じていたところだ。手伝ってくれるというのなら、敵の手であれ、猫の手であれ、借りれるものなら何でもよい。それに――」
そうして付け加えられた最後の言葉に、闇奥に佇む声の主が、はっきりと驚愕に身を震わせるのがわかった。
「――ひとりより六人となればな」
「!」
エンセイには分かる。
入口にいる声の主を基点として、こちらに向かって気配がひとつ、ふたつ……全部で四つの気配が通路の壁に身を寄せていることを。
それは例えるなら、森に潜む小鳥の存在に気付くようなもの。
ひとつひとつは微細な違和感にすぎないが、範囲が限定された地下道で“四つの違和感”を感じれば――剣士の直感が、経験が正しき答えを導き出す。
「――やめておけ」
それは誰に向けた制止であったか。
発したのは例の声。
通路に張り詰めてゆく緊張感を敏感に察したからに違いない。
事実、エンセイの利き手はさりげなく腰の剣柄にかけられていた。
その姿に威圧感はなく。
だのに、相対する者の目は無意識にその腰の物に引き付けられてしまう。
目が、離せなくなる。
反らした瞬間、何が起こるかを本能で感じ取るが故に。
「退け――」
今の今、危うく崩れかけた均衡を、声の主がギリギリのタイミングで引き留める。当然だ。諏訪家の者だというのなら、公女を守護するエンセイと争う理由などあるはずがない。
静かだが、有無を言わせぬ命令に四つの気配が反応した。
見事だ。
動いてなお、薄いままの気配がするりと退いてゆく。自在無変の隠形術は当然ながら足音を残すこともない。
きっかり三歩。そうエンセイは感じ取る。
それに応じてゆるめられる場の緊張。
「こちらの落ち度だ。いや、俺たちは剣士殿を見くびっていたようだ。不快にさせたこと、重ねて詫びる」
「構わん。御当主のため、私の力量を知りたかったのだろう? 城での視線を常々感じていた」
「……そこまでお見通しか」
図星であったらしい。
紛れもない感嘆が声音に含まれる。
「お国の最高峰“三剣士”が力量のひとかけら――確かに見させていただいた」
「それには及ばん。礼ならこちらが述べたいくらいだ」
「?」
皮肉や冗談のつもりはない。
『抜刀隊』に『赤堀衆』、武将と呼ばれる者達も含めて、羽倉城に滞在した短い間、どれほど多くの特筆すべき剣力の主と出会ったことだろう。
それは探索者であれば“化け物の巣”と評するような、剣士にとっては夢のような人材の宝庫だ。
剣術だけでも様々な流派とやらが介在し、武器に至っては棒術斧術だけでなく、手裏剣術に九節棍と実に多彩でかつ、そのいずれもが瞠目に値するレベルの使い手ばかりなのだ。
“三剣士”と謳われた自分が息を呑むほどに。
――信じられぬ。
それがエンセイの正直な感想だ。
これが“魔境”で生き抜く者の強さなのかと。
驚嘆すると同時に、久しく忘れていた熱い何かがこみ上げてくる。
柄にもなく一心に剣を振るい、懸命に汗を流して過ごした。
彼らの武に対する情熱に当てられていたのは間違いない。
共に腕を磨き、術理を語る。
羽倉城で過ごした日々は、一角の境地に達したと自負する己でさえ、まだ浮き立つ心が残っていたのかと驚くほど、充実していた。
そうして今また、自分の知らぬ強者と相見え、それも諏訪の者であるという。
何と底の知れない人材の豊富さか。
この短いやりとりで感じるのは、その職種がこれまでと違う表に出ぬ者達であろうこと。
陰者や上級職の暗殺者と類似の職種であろうと思われる。
何かの機会があれば手合わせ願いたいと腕の疼きを覚えつつ、エンセイは話しの先を促す。
「個人的な興味は後に回し、今は目下の懸案事項を手助けしてもらおうか」
「そうしてもらえると話が早い。直感でしか語れぬが、おそらく若達が城内潜入を果たす頃合いだと思えるからな」
「うむ、やはりそう思うか。だからこそ、急がねばならん」
「ではしばし、休むといい」
声の主に促され、エンセイは遠慮無く反対側の壁に背を預けた。代わりに五つの気配が均等に散らばり、壁に張り付くなり調査をはじめる。
そこではじめて知ったのが、その者達が全員仮面を被っているという事実。
どうにも得体が知れぬと拭いきれぬ不審感はあるものの、仮面達の協力的な姿勢に偽りはない。
得意分野というだけあって、動作は滑らかでエンセイのそれを倍する速さでこなしていく。その様子にエンセイはすっかり満足する。
「頼もしいかぎりだ」
「云ったろう、得意だと。安心して休め。見つけたら、知らせよう」
おかしな道連れを得たと思いつつ、エンセイは言葉に甘えて本格的に腰を落ち着かせる。
「――そういえば、名を聞いていなかった」
「惣一朗だ」
「他の者は?」
「必要になれば教える」
別に勿体ぶってるわけでもなさそうだ。
大したことではないと思い、エンセイはそれ以上を追求しなかった。瞼を閉じただけで心地良い睡魔に襲われたからだ。
「案ずるな。貴殿の警護も俺たちの仕事だ、エンセイ殿」
惣一朗の言葉を最後にエンセイは意識を手放した。
◇◇◇
惣一朗達の協力を仰いだエンセイの決断が英断であったことはすぐに証明された。
「間違いないのだな?」
「ああ。もう少し先も調べさせているが、該当する箇所は他に見つかっていない。信じるか否かは剣士殿に委ねるがな」
エンセイが懸念するのは『解き明かしの鍵』の使用制限だ。『魔導具』の使用回数は最大3回を上限に価格設定されているのが通例だが、エンセイはその回数制限をミケランから聞かされていなかった。
仮に上限値の3回設定だとしてみよう。
鍵はすでに秘密の王道入口を開けるのに使用してしまっている。1回は城内潜入時に使う必要があるから、余裕があるのはあと1回分になる。
ここで開閉を確認するのに1回分を使ってしまい、エルネ達を呼んでる間に万一自動で閉まりでもしたら――そう考えると、エルネ達を連れてくるまではキープしておくのが無難な考えだ。
試すこともできないから、エンセイは惣一朗に念を押すわけだ。
「大事なことだからもう一度だけ聞く。間違いないな?」
「ああ。できれば開けてやりたいが、そこまでは無理な話しだ」
すでに解錠を試みてはいたらしい。
惣一朗の返事にエンセイは頷く。
「ではエルネ様をお呼びするか――」
すでにその必要はなくなっているかもしれない。それでも約束は約束。本来通るべきであったルートの発見をエルネに知らせる義務がある。
「時間も無い。俺たちが知らせに行った方が早いだろう」
「気持ちは嬉しいが、話しが拗れても拙い。私が行くのが間違いない」
そうして再びエルネ達と合流すべく王道を奥へと進んだエンセイであったが、すぐに広々とした空洞でひとり休息していたミケランを発見することになった。
肩を落とす彼が語るには、カラクリ仕掛けが故障してエルネ達と離ればなれになってしまったとのこと。
不甲斐なさに拳を握り、俯く実直な騎士に「公女さえ知らぬ秘密の通路だ。メンテナンスも為されぬ施設に不備があっても不思議でない」とエンセイは慰める。
ここはゲンヤ殿に託すしかあるまいと。
「それに気落ちするのはまだ早い」
「……何か名案でも?」
「私がなぜ迎えにきたと思ってる?」
そう水を向ければミケランも気付いて、瞳に光が差す。
「そうか、発見したのか?」
「ま、ソーイチ殿たちのおかげだがな」
そうしてエンセイは自分が体験したことを手短に語って聞かせる。
「……エンセイ殿は信じるのだな?」
「敵であれば、私を殺す機会はあった」
それが“三剣士”である者の台詞であるからこそ、ミケランは目を瞠る。
「それほどの手練れか?」
「世の中は広いものだな」
楽しげなエンセイの声。ミケランは訝しげに眉根を寄せるが、気にせず話しを進ませる。
「しかし、“敵ではない”からといって、“味方である”とも限らないのでは? 話を聞くに、スワの者という割に不穏な言動も見られるようだが……」
「ふむ。貴殿が感じる不信感は尤もだ」
エンセイはそういって顎をしごきながら訥々と語る。
「我らは互いに同盟を結んだ。ただソーイチ達には“同盟を守る”という政治的配慮が足りないように感じられる。おそらくそれが不信感を抱かせる原因だ」
「どこにもハグレ者がいるということか」
「そうではあるまい」
エンセイは明確に否定する。
「他の優先すべき事柄に意識が向きすぎているから他者への関心が薄く、故に他者からすれば不安にさせられる……そんなところだ」
「……」
「要するに、彼らは当主の警護に特化した者達なのだろう。まさに……貴殿のように」
すぐに「他意はない」と付け加えるエンセイに気にした様子もなくミケランは頷いた。十分ではないが納得したとの反応だ。だから話題をこれからのことに切り替えるのだろう。
「あの様子では、このままエルネ様の後を追っても合流できるとは限らない。ここは貴殿が発見されたルートからアプローチするのがよいかもしれん」
「今はそう信じよう」
二人の意見がまとまるとエンセイはミケランを発見場所へと案内した。
自分とミケランに惣一朗達五名を加えて計七名。
紆余曲折はあったが、当初の予定にあった後方支援チームが誕生したことになる。
これは偶然か宿命か、運命の女神フォルフォラルは悪戯好きというけれど……。
「互いに守るべき相手は違えども、目指すべき場所は同じはず」
新たな通路へ踏み込む前、エンセイは惣一朗達に訴えかける。
「それまでの道中、共に協力しあえると思うがいかがかな?」
「否やはない。ただ予め伝えておこう。俺たちは若を御守りするのが第一だ。合流を果たせば、優先順位があることをご理解いただこう」
「分かっておる」
やはりか。
惣一朗の答えに満足しエンセイは鷹揚に頷いた。
◇◇◇
前をゆくミケランがしきりに首を傾げる様にエンセイは気が付いた。
「どうした?」
「ん? ……いや」
はっきりしない返事だが原因は明らかだ。
新たに発見した通路を今は惣一朗の仲間二人が先導している。本来であれば一度歩いているミケランが道先案内するところを、万一に備え、斥候技術に長じる彼らが自ら申し出て先導役を務めていた。
無論、ミケランに不満を持った様子はない。
問題は、その前ゆく二人の足音や気配が何も感じられぬことにあった。
一定の距離を置いているせいで、姿が見えぬからなおさらだ。
少なくとも、ミケランにとっては幽霊の後を尾いてゆくに等しいやりにくさがあったろう。
「……不安か?」
「いや。ただ……エンセイ殿が云うだけはある」
ようやくそれだけを述べる。
声に込められるのは戸惑いだ。
重厚な鎧を纏い、重たい剣や盾を持って力の限りぶつかりあう世界しか知らぬ彼からすれば、人に見られず気取られず、気付けば戦いが終わっている世界にて暗闘する惣一朗達の技倆は、妖術の類いにしか思えまい。
根本的に棲む世界がまるで違うのだから。
だがエンセイからすれば、そうした経験こそ、己の技に柔軟さを持たせる貴重なスパイスになると歓迎する。
そう思えるようになっていた。
今度の旅でミケランもまた、自分の殻を破る準備はできてきたはずだ。
だから水を向けてみる。
「それなりの間、それだけに生き、それだけを磨けば貴殿も同じようにできる」
「続けられれば、な」
そうれがいかに苦難の道か考えるまでもない。
だからこそ、いとも簡単に告げるエンセイにミケランは苦笑をまぎらせる。それでも感じるところはあったらしい。ただ求める先は、もっと身近な存在であったが。
「……同じようにすれば、貴殿のようになれるか?“三剣士”に?」
「それを云うなら『双剣の騎士』ではないのか」
『聖騎士』や『竜騎士』でもいい。騎士が憧れる騎士には、皆華があり、誰もが認める勇者でもある。
だのに、ミケランは否と告げる。
「私は公国の騎士だ。公国民にとって最高の武人は“三剣士”において他にない」
熱すらこもるその言葉に、意表を突かれたのはエンセイだ。これまで接してきて、露ほどもそんな思いを見せやしなかっただけに、ミケランの情熱に当てられて思わず口ごもる。
「……それで、どう思う?」
あらためてミケランが問うてくる。
「貴殿の云うように生きることができるなら、私でも――“三剣士”になれるのか?」
「なれる」
「やけにあっさりと言う。確かに嬉しい言葉だが、自分のことは分かっているつもりだ。そのような才は私にないと」
「才など必要ない。――私程度でいいならな」
思わず自嘲げに答えるエンセイにミケランが足を止める。首だけ少し振り向かせて。
「謙虚すぎるのも嫌味になるぞ?」
「別に……事実を言ったまでだ」
少し圧をこめて訴えてくる騎士に、エンセイは努めて冷静に思いを告げる。平素と変わらないように。謙虚さで自己評価を下げてはいないと。
当然、ミケランがそれを承服するはずもない。
「巷では、“三剣士”の筆頭はエンセイ殿だと言う者も多い」
「それは誤解だ」
「誤解なものか。私も賛同者の一人だ」
信じて疑わぬその声に、言い得ぬ痛みを胸に覚えて、ほとんど衝動的にエンセイは口にしていた。
「――私は自分の家族すら、守れなかった男だ」
何気なく発せられた言葉に、ミケランが息を呑んだのが分かった。
それは確かに、“三剣士”という頂点に立ったはずの男が洩らした弱音であったからだ。
あるいは“告白”ともとれようか。
気付けば惣一朗達も足を止めていた。
「これでも『第一次コリ・ドラ遠征』に参戦し武勲を挙げた功績がある。当時、遠征軍を悩ませていた『虐殺魔』や『首千切り』を討ち果たし、第一功の報償で爵位を受けたのもその時だ――」
剣は冴え渡り、体力は三日間ぶっ通しで戦い抜くほど強壮であった。
敵に成り得る者などいなかった。
いてもその強さを喰らい、さらに剣力を高める糧でしかなかった。
そこまで強くなれば嫌でも目立つ。
自分の名を知れば、戦闘狂で名高いコリ・ドラ族が震え戦意を失くすほど、武名を轟かせていた豪壮の時期。
正直、自分は有頂天になっていたと思う。
若く、どうしようもないほどに強かったのだ。
「だが、帰途についた私を迎えた妻に言われたよ。“なぜ泣いているの――?”と。その時になってようやく、自分の顔が醜く歪んでいることに気付いたのだ」
目指していたのは“剣士としての強さ”だ。
だが戦場では相手の強弱に関係なく、ただ命を刈り取ることだけを強要される。
強さを競うのでなく、はじめから殺し殺されるために戦う殺伐無情の世界。
大局を動かせる地位にあれば、理想を掲げ戦場に華を求めることも可能かもしれない。だが多くの者は一兵卒となって戦線に送られ、命じられるままに死に、大地に屍を晒すだけである。
何を命じられる部隊にいたか、その運不運に己の生死を委ねることになる。たまったものではない。
そこにあるのは、ただ生き延びることだけを必死に祈り願う地獄の日々。多少腕が立つとはいえ、エンセイもその一兵卒にすぎなかった。
そこで武功を挙げるほど、どれだけ無理をしてきたか。
愚かにも、それが自分で分かっていなかった。
理想と現実の違いに、自分は馴染んでいたと思っていたが、もう一人の自分はそうでなかったということを。
「……天幕で眠れぬ夜を過ごすのは、昂ぶる戦意の表れと誤解していた。開戦し数人程度葬ったところで手が震えはじめるのも、武者震いに興奮しているからと勘違いしていた。戦場に満ちる血に酔っているのだと――」
そう思おうとしていた。
己の本音を無意識に誤魔化そうとしていたのだ。
エンセイの声に疲れが滲む。
あの頃を思い起こすだけで胸の奥が重くなる。
手に入れたものが何もなかったと気付いたときの衝撃は忘れられない。
同時にそれを気付かせてくれ、癒やされるまで付き合ってくれた妻への感謝の念も。
だから目力に気を込めて宣言する。
「剣に生き死には付き物だ。だが、“殺しを目的にする戦い”は二度とせぬと妻に誓った」
結局、戦いをやめることはしない。
剣を交えた末の死も、事によっては避けられまい。
ならばそのような誓いは、ニュアンスの違い以上の意味はない。そう指摘する者もいるだろう。
他者からすれば偽善以外の何者でもないのだ。
だが根っからの剣士であった自分には、そこまでがギリギリの妥協点。いや。その微妙な違いが、とても重要であった。
「結果的に、誰かと争うことが自然と減ってな。あれは日和ったと陰口を叩かれることもあったが気にもならなかった――」
視界が広がる実感はあった。
剣には危うさがあり、使い所を見極めるのが肝要だと悟りもした。
新たな境地を胸に過ごせば、自身だけでなく周囲から自然と争いは絶え、どうすれば危険を避けられるか、剣士としての視点が変わっていた。
それはこれまでとまるで違う世界。
妻と生まれた娘とで暮らすに相応しき、穏やかな世界であった。
「そうして気付けば、私は“三剣士”に奉り上げられていた」
「……それのどこに貴殿を忸怩たる思いに至らせる話しがある?」
「すべてだ――」
エンセイは長く閉じ込めていたものを重そうに吐き出した。
後悔、哀惜に罪悪感。様々な負の感情が混じり合う深いため息。
「三剣士の栄誉も。誓いを立てたのも。戦功を勝ち得たことも。遠征に参戦したことも。それに――」
剣をとったことも――
その思いは確かにあるのに、不思議と口にはできなかった。まるで自身の肉体が、本能がその言葉を発することを拒絶しているように。
剣士の性――というやつか。
これほど後悔することになった元凶を、自分は切り捨てることもできないのだ。
そんな己だからこそ。
「私の行いが“最悪の戦い”を招き、私の至った境地が決して負けてはならぬ戦いで後れを取らせてしまった――」
「……っ」
ミケランの双眸が険しく見開かれた。
それは初めて明かされた“三剣士の敗北”を耳にしたためだ。よほど信じられなかったのだろう。ミケランが口重く聞き返す。
「……貴殿が、何だと……?」
「私は一度、負けているのだよ」
声音が自虐的になるのを抑えきれず、エンセイははっきりと口にする。
「それも剣士として最も無様な負け方をしたのだ。だから――」
その先を口にできず、代わりに右の掌を眼前に掲げていた。
その指の隙間からエンセイにしか見えない大切なものがすり抜けていく。
それは愛しい妻であり、娘の面影であった。
決して手放してはならない、命より大切な者達。
剣士として磨き上げたすべては、二人を守るためであったのだと得心していたはずだ。
「――なのに、この命と剣だけが手元に残るとは、な」
何という皮肉か。
そして何と惨めな敗北であろうことか。
「――――」
何もない掌をエンセイは無言で睨み続ける。
胃液がこみ上げているように口中が苦みでいっぱいになる。
肉体が熱いのか寒いのか分からなくなる感覚。
彫像のごとく硬直しきった骨肉。
底なし沼に呑み込まれたように、どれだけ暗鬱な気分に埋没していたのか。
エンセイは、自分が呼ばれていることに気が付いた。
「……エンセイ殿っ」
「すまない。少し嫌なことを思い出した」
少しと云ったエンセイにミケランは微妙な顔をする。
何を懸念しているか分かっても、エンセイは無視して手を軽く振り、強張りをほぐす。握ったり開いたりして、肩を回し気分を落ち着かせる。
心配げな様子で見守るミケランが詫びてくる。
「こちらこそ、傷口をつつく真似をしたようで。赦して欲しい」
「君には関係ない話しだ。余計なことを口にした私が悪いのだよ」
ぞんざいな態度を自覚しつつ、腰の物に手を置く。
何はどうであれ、結局自分は剣を捨てられずにいる。
寄る辺がなくなり、よりその傾向が強まったくらいか。
一時期は実戦からも遠のいていた自分が、今はこうして気付くと剣の柄に手をやっている。
敗北してから身についたクセのようなもの。
「――余計なことを云うようだが」
エンセイの告白が区切りの付いたところで、背後から惣一朗が声を掛けてくる。
「剣にて失ったものは剣にて取り返すしかない。知り合いの剣士殿がよくそう口にしていた。剣士とはどうしようもない生き物だと」
「――まさに」
明朗な声でエンセイは応じる。
不思議と惣一朗の言葉に、彼にそう伝えた者の言葉に胸奥を刺激されて。
ああ、その通りだと。
「剣士とは、実に因果な生き物だ――」
だから自分は、こうしてここにいる。
剣を手放せず、娘に似た勝ち気な瞳を持つ公女を守ろうと歩を進めている。
「剣でしか、世に接することができぬでな」
不器用な剣士の独白が、通路の闇に溶けて消えた。




