(五)クノールの沐浴
公都郊外
秘されし岩窟の根城――
薄暗がりの中、男は肌に感じる多様な舌の感触を心ゆくまで味わっていた。
ちろちろとくすぐり、丁寧に這わせ、あるいは触れては離れるを繰り返す、その者の人柄までが表れる様に性交と同義の興奮を覚えるからだ。
世に女の舌先ほど繊細なものはない。
くすぐりに悪戯心を、舐りに情欲や嫉妬を、躊躇いに羞恥と怯えなど、これほど女の心を水面のように映し出すものは他にあるまい。
それは表情や仕草と異なり、普段は赤い唇の奥に身を潜める秘部だからであろうか。女の深部に近いからこそ、感情が舌先に洩れ出でてしまうものなのか?
実際、女は会話や態度で惑わし乱し、その本心を悟らせぬ。
男も過去にしてやられた経験があり、乱りに胸襟を開けぬ相手と心得ていた。
だがこの昏き岩窟の住人となり、禁を破らぬ程度に手出しできぬかとはじめた戯れによって、男は気付いたのだ。
会話の替わりに舌先で語らせれば、ぽつりぽつりとではあったが、次第に秘めしその心情を覗かせてゆくものだと。
会話は無用であった。いやこれこそが男女の会話なのだ。
ああ、この舌先が震える感触は先日入荷されたばかりの戦士だろう。
屈辱がその身を焦がし、それでも生き長らえるためと己を懸命に欺かんとする彼女の必死さが、その葛藤が、震えとなって舌先の動きに表れるっ。
その生々しいまでの感情が。
「嫌ならやめればいい――」
そうできぬと知りながら。
視線も合わせぬ男の言葉に、纏わり付く女達の中で女戦士だけがただひとり反応し、舌先がびくりと硬直する。たまらない反応だ。その沈黙にどれほどの心情がひしめきあい、呑み込み呑み込まれているのか。
「強くやれ」
男は待ちきれなくて他の女達へ命じる。戦士に対してではない。そこが肝要だ。なぜなら――
再開は屈服のはじまり。
命じたわけでもないのに、全員が強く舌を這わせはじめて、男は思わず目を閉じ、その顎を上向かせた。
(ああ、そうだ。そう――……)
男は決して声に洩らさず、胸の内で存分に愉悦の呻きを絞り出す。
いいぞ――。
ちろ、ちろと。
殺意や恨みでもいい。いかなる感情を込めても舌先さえ動かせば、それははじまりの合図。
従属せず、あるいは内向きに閉じこもっていた女の感情が、つぼみがゆるまり花咲くように開放されてゆく――その瞬間。この感触。まるで己が掌に甘みの詰まった果実が堕ちるように。
手に入れた実感に、わなわなと男はひとり身を打ち震わせる。
――それがどれほど独りよがりであろうとも。
鉄格子の先――地べたに置かれた蝋燭の灯火が、岩牢の中で行われる奇怪で淫靡な儀式を、おぼろに照らし出していた。
それは毎晩のように行われる男の奇態な沐浴にすぎない。
ただ必要なのは水や布でなく、数人の女達。その赤い舌先が自由に踊れるように互いの身をひたりと寄り添わせて。
岩牢の中心で、全裸の男に薄衣一枚きりの女体が四方から纏わり付く様は木の根のごとく、まるで一本の大樹を思わせた。
その周りには横たわるか蹲る幾人もの女達。
誰もが何かを喪失したように項垂れているのは、男に“舌女”として扱われたから、ばかりではない。少しづつ虜囚となる顔ぶれが切り替わっていく異変を知るためだ。
岩牢より一度出された者が誰一人戻らぬとあっては、その理由を聞くまでもなく自ずと察せられようもの。その上、男ばかりの巣穴に囚われの身となってより――“舌女”の件を除けば――性の吐け口にされることがないという異様な事実が、一層女達を不安にさせるのだ。
一体何が目的なのか。
何のために自分達は囚われたのか。
そして――消えた女達はどうなったのか。
今や牢から出されるまでの毎日を、震えて過ごすだけとなった人生に、眩暈すら覚え正気を保つのも困難になってくる。
ふふ、ふふふ……
まただ。
場違いな笑い声が不気味に響いても女達の中で誰一人目を向ける者はいない。胸中に抱くのは安堵だけ。次はあの娘になると心の底から胸を撫で下ろすのみ。
公都やその他の街より連れ去られてきた彼女たちが、ここにいることは誰も知らず、当然、捜し出せるものでもない。
迎えが来るのは死ぬときだけ。
あるいはそれ以上の仕打ちをすべく招かれる時だけ。
この岩牢にあるのは、ただ絶望や諦観――それだけであった。
*****
沐浴を終えた男は、肌艶の良い顔で最奥の間へ向かっていた。
そこに洞窟には場違いな上質の木製椅子が設えられており、絵画や陶器などの調度品だけでなく月光石を用いた魔導灯まで備えられているアジトでも唯一の豪奢な間は、主を迎えるために用意されたものであった。
だからこそ、留守を預かる者の特権として、替わりに使って差し上げるのだ。そのように男は歪んだ認識の下、思うがままに振る舞っていた。
「――早い戻りだな」
「ああ、また壊れちまった女がいてな」
非難がましい目付きをされるが、男――クノールは涼しげな顔で上座の椅子にどかりと身を投げ出し、足を組む。
誰が今の主か示すために。
「品質が落ちたらどうする?」
「馬鹿いえ。精神状態と健全か不健全かに関係などあるものか。むしろ飛んだ方がストレスもなくなって味が良くなるだろうよ」
「なら、そう団長に具申してみるんだな」
憎らしい切り返しに、クノールは黙り込む。思わず組んだ足を戻したのは「団長」の言葉にその影を脳裏に思い起こし、知らず身が引き締まったためだが、当人に自覚はない。
苦虫を噛みつぶした顔をして、クノールは壁際に並ぶ獣闘士を睨み付ける。
「少し黙れ」
「「……」」
実は彼が顔を出してから「オンナクサイ」「ニオイガスルゾ」とぶつくさ文句を云っていたからだ。恥ずかしげもなく腰蓑の前部をもそりと膨らませている己の欲望に忠実な獣人に、クノールは侮蔑を瞳に宿す。
「お前達には、別にあてがっているだろう?」
「メスヨリ モ オンナガイイ」
「美食家を気取るな、我慢しろ。それとも調達をやめないと理解できないか?」
そこで彼らが情欲を抑え込んだのは、駆け引きがうまくいったからではない。クノールの身より剣呑すぎる殺気が浮き立ったがためだ。
例え『盟約』を盾に取ろうとも『ズア・ルー』の戦士が弱者に下ることはない。その点において、椅子で偉ぶるクノールだけでなくその隣に佇むローブの男も雇用主に相応しい実力者ではあった。
無論、それがいつまで続くかは分からない。なにしろ『ズア・ルー』の一族は年齢による成長で飛躍的に身体能力が上がっていく――つまりは強くなっていくからだ。
半年、あるいは一年後には立場が逆転していても不思議ではなかった。
(セイゼイエラブレ ニンゲンガ)
(イズレ アナトイウアナヲ セメツクシテヤル)
そのように腹に一物持っているのは、何も獣闘士だけに限らない。
(あれはダメだ。そのうち処分した方がいい)
(ああ。誰も来ないアジトに護衛は不要だろう)
互いに心中で不平不満を醸成し合い、いつものように退屈な留守番の時を紛らわせる。
「……なあ、そのうち俺たち用の女を調達してはどうだ? そのくらいの役得はあってもいいだろう」
今し方まで、虜囚の女達を好き勝手に堪能しておきながら、まだ足りぬと我欲を滾らせるクノールにローブは辟易した口調で拒絶する。
「俺は御免だな。ここは不便だし長居するくらいなら、とっとと交替させてもらう」
「抱くならベッドの上で」と清潔感を出すローブにクノールは不満も顕わに唇を歪める。そんなお上品にまとめるのでなく、もっと欲望を剥き出しにして滾らせなきゃならんだろうと。
それこそが、『俗物軍団』の力の源泉だろうが、と。
「おい――」
手招きして近くにいた『荒事師』のひとりに命じて葡萄酒を持ってこさせる。どうだ。都に戻れば通りを肩で風切って闊歩する者でさえ、絶体強者の前ではこうして召使いの真似事をするのだ。
この理不尽な特権を手にするために、血の涎を垂らして訓練と実戦に明け暮れてきた。もっと遡れば――
(あの掃き溜めから抜け出したい、その一心でっ)
背もたれに頭を預け、クノールは己が手にしたものを思い起こす。失ったものなどどうでもいい。これまで、どれだけ欲望を満たしてきたかが大事なのだ。
今後もそうしてゆくために。
「……レシモンドはヘマをやったな」
「『幹部』まであと一歩だった」
死ねば一歩も半歩もない。
それがひねた台詞を口にさせる。
「『幹部』になっても同じだろ」
「そう思うか?」
――思わない。それが本音だ。
『幹部』こそは絶体強者の象徴であり、俺たち団員の最終到達点。
一級を超えた超級戦士。
そこに辿り着けさえすれば、それ即ち“不敗の強者”になったことを意味する。不敗ならば戦って死ぬことはなく、まさに不死を手に入れたようなもの。
つまりは『幹部』にさえ届いてしまえば、己の望むがままというわけだ。
事実、『幹部』達はそれぞれが自由奔放に行動し、己の歪んだ欲望も満足させている。それを役人や貴族の連中に咎められ、処罰されたことがあるだろうか?
「くく……」
ないのだ。一度たりとも。
非難の声は耳にすれども、女子供の泣き叫ぶ声をその悲劇とやらをドコのどなた様も止めさせた者はいないのだ。
これほど明瞭に凄さと褒美の関係が分かるものがあろうか。
その到達点を目前にしている自覚がクノールにはあった。
だからこそ彼は笑みをつくる。
溢れるほどの自負を持って。
「俺こそが本物の『一級戦士』だ。誰よりも候補と呼ばれるに相応しい。――奴はマガイモノだった」
「敗者である以上、それに文句はあるまいよ」
「云わせもしない、生きてりゃな」
現存する『一級戦士』はそれなりにいる。言うなれば『幹部』もそうだ。ただ『一級戦士』の中でも桁違いの強さ故に肩書きが付けられているのだが。
レシモンドは芸が無い割に、候補と囁かれた目の上の瘤であった。それが取り除かれたことにより、拠点から自分が召喚され、こうしてアジトの留守居役に任命されたのだ。
組織上、ここでは己がトップ――当然のように許される範囲を見極めながら、クノールがその地位を骨までしゃぶりつくしたのは言うまでもない。
団長に内緒で“舌女”を育て、物資搬入に融通を利かせてうまい酒と食い物を取りそろえ、ちょっとした己の王国を手に入れた気分だ。
いや、気の合う者を密かに呼び寄せ、本当に王国を築いてもいい。
いいぞ、夢がふくらむ。
くく……この俺に夢か。
笑わせてくれるが、悪くはない。
ひとり妄想を逞しくさせるクノールの下へ、この時、息せき切って駆け込んでくる者がいた。
「ば、化け物だ――っ」
突拍子もない一言に、一瞬、シラケた空気が場に漂う。だが。
洞窟はそれほど広いわけではない。なのに顔中汗みずくになって息を荒げる手下の様子に、クノールはすぐに不審感を抱く。
それは隣のローブも同じのようだ。
「おい、落ち着け」
「化け物だ、化け物がっ」
「だからそれじゃ分からんだろうがっ」
苛立つローブに手下は気づきもせず懸命に何かを訴える。その切迫感のみを汲み上げたのはさすがのクノール――留守居を任じられるだけはあった。
「敵だな? 敵が来たんだなっ」
「は……いっ」
夢中で首振る手下の反応で、ローブもすぐさま気持ちを切り替え「招集をかけろっ」と先ほどの『荒事師』に指示を出す。
アジトに常駐してる人数は決して多くなく、連携をとることが敵襲対応の基本原則になっている。
「何人だ?」
分からないと首を振る手下に「お前か、誰かが見かけた人数でもいい」とクノールが捕捉すれば。
「ひとつ」
「何だと?」
「悲鳴が聞こえ、その次には争う声も。駆けつけた俺が見たのは……デカい人影でした」
それ以外味方の動きも声も気付くものはなかったと。つまり倒された後だというわけか。そして洞窟の奥から望めば、入口側は逆光になって確かに影しか判別できまい。
「とにかく慌てて数名が近づいたら、暴風みたいな勢いであっという間に数名がやられて……」
その時、足下に転がってきた生首に驚いて、逃げ出してきたらしい。結果的に警報を告げる形となったのは、幸いではあったがクノールは苦り切った顔をする。
単に、団員の質の悪さに憤っただけではない。
「得物を振るったんだな?」
「はっきりとは……けど剣か棍棒か、何かは持ってました!」
なら危険生物ではない。
むしろもっとタチが悪い相手だ。
「『怪物』か『探索者』か……」
「“森の掃除”は定期的に行ってきた。『怪物』の可能性は低い」
ローブがすかさず指摘して二択からさらに絞り込まれる。
「とすれば探索者か……だがどうやってここを知った?」
「偶然ということもある。依頼採取に夢中になり、私領と気付かず迷い込むマヌケは新人だけとは限らない」
腕だけ立つ、というのも厄介だが。苦笑するローブに、だが、クノールはわずかな疑念を拭えずにいた。
「だからといって、それなりの手練れがそんなドジを踏むのか? しかも単独だと?」
「別に単独と決めつける要素はない。むしろ、他にも仲間がいると思うべきだな」
“壁役”を先行させて、残りのメンバーで付与術や快癒術などの支援体制を万全とする――未知の洞窟や遺跡を探索する際の、連中の基本隊列のひとつでもある。
妥当な見立てにクノールも異論はなかった。
「戦闘力だけは注意だな。下手にちょっかい出すのはマズいか」
「同感だ。戦わずにここまで誘導させるべきだ」
ローブの提案はすんなり受け入れられる。ここはアジトで最も広く、現行最強戦力が集っているところでもある。誘い出し、一斉に叩けば敵の盾役を満足な支援も受けさせずに潰してしまえるだろう。
「よし、うまく誘導してお前らは身を潜めておけ。俺たちの戦闘が始まったら、それを合図に奴らの後衛に横槍を入れてやれ」
「分かりました!」
駆けさる手下に「まずはお前達に働いてもらう」と事態を見守っていた二匹の獣闘士にクノールが呼びかける。
「オンナカ?」
「だったら好きにしろ」
まだ欲情していた獣にクノールはうんざりした様子で投げ槍に応じる。先ほどの話しから推測すれば、どう考えても男の戦士系にしか受け止められらなかったが、先日の例もある。
「……それはない」
クノールが半身をねじり、背後の壁へ顔を向ける行為をどう解釈したのか、ローブが断固と否定した。
その壁には古めかしい大扉が存在感を放っていた。
細工の模様は精緻で芸術性に富んでいるものの、デザインとしては古い歴史を感じさせる。
不可思議なのは、彼らがアジトとして利用する以前からすでに設えられていたことであり、かつ、扉を開けてもそこには壁しかないこと。つまりは調度品のひとつにすぎない――いや。
ある一件がクノールの脳裏に過ぎる。
先日、アジトを築いてよりこれまで、唯一辿り着いてみせた部外者がいた。
炎のような赤髪のまぶしい生意気な女が。
それもただひとり乗り込んできて、その上、得物も持たずに素手のみで、瞬く間に手下達をノシていった豪放な女が。
誰もその快進撃を止めることはできず、だが、この“間”に女が踏み入ったところで予期せぬ変事は起きた。
(そう、あの時だけ――扉の先があった)
理由など分からない。
変事が起こった理由も、その先に何があるのかさえも。知っているとすれば、あの女だけだ。あの女だけが、扉の先を知る唯一の人類だ。
唯一の――――?
結論からすれば、女はその扉の先へと消えることになった。
消えて、それきりだ。
そのまま日常に戻った。
故に、何一つこの時の真実を知る者はいない。
あれ以来、ローブが真剣に調査したが何も分からなかったのだ。
もちろん、“扉”がどういうものなのか、あるいは真相を知るであろう主からは何も聞かされていない。
この一件について『幹部』の中で唯一関心を示したのは、副団長だけだ。だがその彼も特に何かをするでもなく「今はすべきことに集中しろ」と口にするだけである。
だが、そういう態度をとられれば余計に興味が湧こうというもの。
誰がどう見てもこの“扉”は『魔術工芸品』の逸品であり、あるいはそれ以上の力ある至高品かもしれないのだ。
そしてそうであるならば、歴史上の秘密や世界の理に繋がる可能性も見えてくる。
何かある――。
この謎を解けば、本当に妄想の王国を現実とすることができるかもしれない。それだけの“力”が隠されている――そうクノールは訳もなく確信する。
この――『黄金の扉』と皆が呼ぶものに。
*****
秘されし岩窟の根城
『岩牢』――
ふ、ふふ……ふふふ
蝋燭片手に男が立ち去り、岩牢に再び真の闇が舞い戻ったところで、止めどもなく零れ出していた女の低い嗤い声がぴたりと止んだ。
代わりに、嗚咽を我慢しているような、わずかに鼻を啜る音までもはっきりと牢内に響いていたのに初めて気付く。
「ふ、ぐっ……」
恐怖からの一時的な解放とここから逃れられぬ哀しみ、そして隷属させられる屈辱に耐えかねた女の、あらゆる感情が混じり合った悲嘆の声。
それは抗う気力を奪われはじめていることの表れでもある。気力の消耗に自分自身を支えきれなくなり、心が深い水底に沈みはじめてゆく証だ。
だが、そんな女へ誰も手を差し伸べる者はいない。
ここにいる誰もがすでにその段階を経て、希望に縋るのを放棄して、自失していたのだから。
いや。
闇の中、背中を震わせすすり泣く女の下へ這い寄るひとつの気配があった。それがつい今し方まで、気が触れたように嗤い声を上げていた女の気配と気付く者はいない。
ぐっ……ぅ……
聴き取りにくい嗚咽を頼りに、それでも辿り着けたのは慣れのせいとも考えられよう。だがこの状況下で、いまだ己を保ち動ける女がいるという事実には、説明の付けられぬ驚きしかない。
ただそっと――冷たい手が、幼子のように震える背中に添えられた。
かける言葉がないのを承知だからこそ、優しく触れられた掌にその者の思いが込められているようだ。
その掌が痛みを和らげようとするのかのように、ゆっくり背中をさすりはじめる。
子をあやす母のように。
妹を慰める姉のように。
身も心も冷えさせるだけの岩牢で、冷たい手が与える唯一のぬくもりに、嗚咽を堪える女も何かを感じ取ったのだろうか。
次第に背中の震えが収まっていき、気付けば嗚咽も消えていた。
「……すまな、い」
意外に明朗たる感謝の言葉を返されて、慰めていた女の方がびくりと驚き震えるが、闇の帳にまぎれて気付く者はいない。
逆に明かりがなくても、この場で感情を発露させるのが新入りだけということは、この岩牢では分かりきったことであり、当然、慰めた女も承知していることだろう。
ただ、謝罪の意志を示せるほど意識がはっきりしているのは驚くべきことである。連れてこられたばかりの新人は、薬漬けにされているらしく、酷いときには数日ほど意識が朦朧としているものなのだ。それだけに彼女の精神力が卓越したものであることが窺える一事であった。
背をさする手を止めずに女が名乗る。
「私はジーリ。あなたは……?」
「レイアナ……だ」
「レイアナ、あなた何者?」
少し唐突すぎた問いかけに、さする背中を通してレイアナの戸惑いを感じ、ジーリは足りなかった言葉を付け加える。
「こうしてみても、あなたの、その……強さを感じるわ」
夫に比べれば細くとも、確かな広背筋のうねりを掌に感じる。だが、さすがに「逞しい」とは口にできぬジーリの気遣いをレイアナは気にするなと言葉に込めて返す。どこか自虐めいたものを感じさせながら。
「私は『槍術士』だ。それなりに鍛えてはいるさ」
「『探索者』ということ……?」
「ちがう。ただ路銀を稼ぐため数日街に滞在し、仕事を請け負うこともある」
「今回はしくじってしまったがな」と続けられた自嘲にジーリは何となく経緯を察したようだ。「おかげで救われたわ」とおかしな慰め方をする。
「どういう意味だ?」
「ご覧のとおり、ここは望みのない場所。ここに囚われてしまったら、それでお終い。ジ・エンド」
淡々と感情のこもらぬ声でジーリはここが“行き止まり”であることを告げる。
「だから早めに希望を棄てるもの。棄てて何も考えないようにし、何も感じないようにして、ただ状況に身を委ねれば痛い思いもしなくてすむから」
「それでみんな、人形になっているのか」
そうよ、とジーリは無感情に口を動かした。何かの感情が沸き上がるのを堪えるように。
少しでも同情や哀れみを向ければ、溢れる感情に呑み込まれてしまうと畏れるが故か。そうしてひとりまたひとりと自我を手放していくのを、何度も見てきたせいも多分にあったろう。
「“希望がある”と信じるだけでも、ここではとても難しいことなの。……特にひとりでは」
それはつまり、彼女だけが。
あのような歪んだ嗜好に何度も付き合わされてなお、彼女だけが。
「なぜ縋る……? もう“終わりだ”と自分で云ったろう。もはや希望がないと知っているんだろ?」
いつの間にかレイアナの声はしっかりとしていて、まるで責めるように語気強くジーリに答えを促す。もちろん、そこにあるのは単なる好奇心ではない。
そこにこそ、一縷の希望があるのでは、とのわずかな期待をこめているのだ。
だが、レイアナの期待はあっさり裏切られた。
“根拠”ではなく、ただ“想い”だけを示されて。
「私は帰りたいの。帰って家族の顔を見たい。近所の娘も気になるし」
エレン婆さんの肩を揉んであげたり、村の子供達に創作童話を語って聞かせなければならない。それに共同畑の雑草むしりもそろそろ手伝わなければならない時期のはず――
出てくる出てくるあまりに平凡で他愛のないジーリの望みに、はじめ「そんなこと」と零しそうになっていたレイアナの表情は、いつしか真摯なものに変わっていた。
理不尽な力で囚われて。
この真っ暗な闇に閉じ込められて。
ただ男に隷属させられるだけの毎日を、その望みを胸に自我を保ってきたというのなら、どうして他者になじることができようか。
その望みの価値を与えるのは、他でもないジーリ本人だけなのだ。そうしてジーリがジーリであったからこそ、レイアナも今、手を差し伸べてもらえたのではなかったか。
誰かがいることのぬくもりと安心感をこれ以上なく味わったばかりではなかったか。
そう思い直したからこそ、レイアナは真剣に耳を傾けているのだろう。ジーリの凡庸な望みに込められた、その強い想いに。
「だから、希望があるかないかなんて関係ない。なくても棄てるわけにはいかないの」
「……」
それは絶望感を深めるほどに“何が大事か”を痛感した者の言葉であった。その機会を失ってはじめて、“ささいな日常”がどれほど愛おしいものであるかと痛感するが故の言葉であった。
だからレイアナは沈黙せざるを得ない。ここでは新入りにすぎない自分では、堪え忍んだ日数の長いジーリの絶望など分かって上げようもないのだから。
ならばレイアナにできることはなんなのか。
「私よりジーリの方が強いな」
「そんな――」
「いくら腕っ節が強くても、この状況じゃ役に立たなさそうだ。必要なのは屈することのない意志の強さ」
「それを保つにも、想像だけでは心細いわ。現実に誰かがいてくれないと」
だから救われたのだとジーリは先ほどの真意を語る。
「それに私も励まされた口――“あんなクズ男に負けちゃダメ”ってヤルカさんに」
「なら、その人にも礼を言わなきゃならないな」
そう冗談めかしたレイアナの言葉に、背中をさする手が動きを止める。それだけで何があったか分かろうものだ。
「いい? 何よりも“生き残ること”が大事と思って他のすべてを捨てることさえできれば――自分を保つことは可能よ」
何事もなかったようにジーリが真剣な声でこれからの心構えを伝えてくる。
「悪いが――」
「あの男は女が屈服するのを見たがってる。でも舐めるのが屈服じゃなく、“諦めること”があの変態にとっての屈服を意味するの」
「でも、言いなりになれば、あいつは屈服したと思うだろう。そう思われただけでも」
「どうでもいいじゃない?」
熱を帯びていたジーリの声が、途端に冷ややかになる。突き放すような声音で「勝手に勘違いさせればいいでしょ、あんな変態」と暴言を放つ。
「あいつのペースにハマってはダメ。あの変態がどう思うかじゃない、あなたがどう思うかよ」
「――――やはりジーリは強いな」
称賛のこもる声にジーリの沈黙は明らかな照れを感じさせるものだ。
「……知ってる限りでいい。ここのことをもっと教えてくれ、ジーリ」
やはり独りより二人。
言葉を交わし合うだけでも、不安定だった心に落ち着きが取り戻され、今やはっきりと力強い声でレイアナが教えを請う。
それはあわよくば脱出法さえ探ろうとするレイアナの意図が感じられ、応じるジーリの声も心なしか弾んでいるように聞こえるのだった。
*****
刻を少し遡る
拠点設営任務『黒き小鬼チーム』――
スワの者に協力すべく、グドゥ達小鬼チームが住み馴れた“魔境”を離れたのが数日前のこと。
目的地である公都近郊の山麓に到着し、拠点の適地を捜し始めて早々に候補地たる洞穴を見つけたのは幸運でもあったが、それには運命を感じさせる流れが確かにあった。
そう。
人間には意味のない『小鬼のブレスレット』を持つ少女パユとの出会い。その少女パユを連れ歩いていたのが悪漢であり、どうやら秘密のアジトを築いているらしいこと。
果たして、グドゥ達は森の奥に洞穴を発見したのだが、思わぬハプニングによって拠点化の作業は着手すら許されぬ状況となってしまう。
先客である悪漢達の存在?
普通ならそうであろうが、“強制立ち退き”の方針が決まっている以上、グドゥ達にとっては悩みもなくとりたてて問題視すべきことではない。
それよりも、安全確保のためにはじめた“森の掃除”に仲間のグルカが熱を上げ、猟果で一番になるまで止めようとしなくなったことが非常に厄介だった。
馬鹿げた悩みなのは確かだが、意固地になった相手に説得は効かず、また仲間内で力尽くともいかぬ以上、手の施しようがないのも事実。その上、自分達自身“魔境”の外への関心も高いため、周辺地域の現状を把握すべく付き合ってしまった面もある。
結果的に数日を狩猟ライフで過ごしてしまうことになったというわけだ。
「(……つい、いや、やはり俺が一番凄いことが分かったな)」
魔獣らしき首を足蹴にグルカが高らかに宣言するのをまばらな拍手でグドゥ達は健闘を称えた。「ついに」と心労のあまり口を滑らせたのは聞かなかったことにする。それより気になることがあるからだ。
「(あんな魔獣、この辺でいたか……?)」
「(いるはずない)」
長身のグナイと疑り合っているのを地べたに座り込んでいる小柄なグクワが切り捨てる。
「(あれは三つ山向こうの森に巣くっていたのを狩ってきたものだ)」
「(何だって?!)」
「(この目で見たから間違いない)」
淡々と語るのはいつも通りだが、声に疲れを滲ませるグクワの様子に「後を尾けたのか」と気付いて二人は呆れ返った。地べたに座り込んでいるのは足にきている証拠だろう。
そうした目で見てみれば、グルカもかすかに肩で息をしているのが分かる。足蹴にする右足の膝も震えているような……?
狩り尽くした周辺の森では無理と察して、猟場の範囲を相当広くとったようだが、さすがに限度というものがあるだろう。
強力な身体能力に物を言わせて、それでも体力を振り絞ったのは間違いあるまい。風体のみならず肉体的にもボロボロなのは当然の結果だ。
「(……お前が凄いことは、はじめから分かっていたことだ)」
嘆息を堪えてグドゥが重々しく告げれば。
「(! ――さすがはグドゥ。あんただけは見抜いていると思っていたぜ)」
「(けどな。俺たちだって意地がある。少しは華を持たせてくれてもいいんじゃないか? まあ、最後は結局、お前にぜんぶ持って行かれたがな)」
「これで最後」と話しの流れを持って行くグドゥに「うまい!」と二人が胸内で拳を高々と掲げる。これで「勝ち越すための勝負」なぞグルカが言い出すこともないはずだ。果たして――
「(悪いな。俺が望まなくとも、“強者の証明”ってのは自然とついちまうもんなんだよ)」
「(そういうことにしてやる)」
鼻高々にそれらしいことを口にするグルカへグドゥもほどほどに憎まれ口を叩いておく。この匙加減が難しいところだが、二人の小鬼もリーダー格の安定感に舌を巻いているはずだ。
「(ところでパユはさっきから何をしている?)」
「(え?)」
賢しき狼の前に屈み込んで、右手の平を差し出している少女にグルカが声を掛けた。
空の掌を見れば、エサやりでないのは一目で分かる。人間ならば、大道芸人が見せる“お手”とも考えたが、そうではないだろう。たぶん。
ぽむりと前肢を頭の上に置かれた少女の姿を目にすれば。
どういう状況だ?
掌を差し出す少女に、前肢を少女の頭に乗せる犬――いや狼。
何とも奇妙な構図だが、これこそ種族の壁というものか、人間の考えなど小鬼であるグドゥ達に分かるはずもなく。
彼らなりに精一杯の解釈で感想を述べてみる。
「(……だいぶ打ち解けたみたいだな)」
「(も、もう仲良し……?)」
グドゥ達の、洞穴攻略――拠点設営作業の準備はようやく整った。




