(六)銀髪の鬼②
まるで狂人の戯言としか思えぬ発言に、しかし、疑いの声を上げる者はいない。驚くほど素直に受け入れ、別の疑念が挙げられる。
「これは真に靄なのか……?」
弦矢の呟きに、「煤の臭いはありませぬ」とは美丈夫。焚き火による白煙の類いではないと。すぐに、
「惣一朗――」
「――ここに」
美丈夫の求めに応じて、気付けば開け放たれた障子向こうの廊下側に、孤影がひとつ。
いつの間に――?
はじめからそこに控えていたかのように座り込み、見事な低頭姿勢を保つのは、当主を陰から護持する『影衛士』。
「率直に聞こう。忍びの術に、斯様な幻術の類いはあるものか?」
今ひとつの可能性を美丈夫が探れば、「ございます」と望んでいた回答を得ることになる。
「幻術とは異なりますが、相似する術であれば、思い当たるものがひとつ。ですが、日ノ本広しといえど、これほどの規模で術を成し得る遣い手はただひとり――」
「誰だ?」
「天雨才蔵――その者以外におりませぬ」
その瞬間、皆が息を呑むのが分かった。
『霧陰の才蔵』――。
『日ノ本七忍』に数えられし、伝説の伊賀者。
霧に雨にその身を紛らせ、誰にも足音や気配を掴ませず狙った獲物を静かに仕留め、あるいは秘めやかに奪い去る。
戦いよりも、隠密行動にこそ真価を発揮する才蔵は、誰よりも“忍びらしき忍び”であると評される。
隠密特化にありがちな、その素顔は組織的に秘匿され、たとえ同朋の伊賀者でさえ、一握りの上忍を除いて知る者はいないという。
そんな彼の存在を有名にしたのは、天下の大泥棒『五右衛門』との隠し財宝を巡る競演だ。
当時、大物大名を巻き込んで、熾烈な争いが繰り広げられたという噂はどれも眉唾なものばかりであったが、それでも人々の胸を熱くさせたのは間違いなく、それ故に彼の伝説を盤石なものにした。
その生きた伝説が、この状況を生み出した元凶だとするならば。
「お前はどう思うのだ?」
ここにきて、初めて口を開いたのは、四人最後のひとりの近習長。
近習として当主を守る役目柄、己の腕にいかなる自負があろうとも、“伝説”が相手ともなれば確かめずにはおれないのだろう。その意を汲んだわけでもあるまいが。
「その可能性は低いかと」
「なぜだ? 明らかに、この“靄”と思しき煙はおかしいぞっ」
「まことに」
そう認めておきながら影衛士――惣一朗は「しかしながら」と反意する。
「これを才蔵の仕業とするならば、敵方に雇われたと考えるのが妥当でしょう。
しかし、敵方からすれば“城攻め”は間もなく、勝利は目前。ここまで策を順調に進めてきた者が、“最後の締め”という馳走を忍びに譲る心情がどうにも解せませぬ。いえ、それではあまりに旨味がなさすぎます」
いささか不遜な表現が気になるものの、説得力のある話に「うむ」と近習長も頷いてしまう。
「……確かに。それはそうだ」
むしろ武士である自分達こそが誰よりも納得できる理屈だと。
その一方で、「ならば何だ」と靄の謎が少しも解けない不満が残される。
だから惣一朗も禿頭の老人へ視線を向けるのか。
「少なくとも、無庵様の『観世眼』にて捉えられるのであれば――」
何だというのか?
先の気になる言葉は、そこでふつりと切れてしまう。
訝しむのは隻眼と近習長のふたりのみ。
遅れて近習長も気がつく。
すぐに隻眼も。
逆に鋭敏なる知覚を有する者達の眼は、すでにそれを捉えていた。
風が掃いたせいなのか、いつの間にか外庭の靄がかすれ消えかかっており、そこに信じがたい光景が映じているのを。
「――城壁が」
なくなっていた。
正しくは、廊下を降りて庭先に出た、さらに奥――突き当たりとなる城壁の透けた向こうに樹林が見えていた。
その上、
「なんだ? 誰か――」
「いるのか?」
近習長の当惑げな声に、隻眼のそれが重なる。
月明かりの下、白き靄に紛れるように。
幾つもの黒い影が形を変え、大きく小さく伸び縮みする様に、よっくと目を凝らせば、それが人影であると気付く。
人影?
なぜに――?
次々と沸き起こる怪異の波に、皆の思考は翻弄され、ひたすら解けない疑念だけが脳裏を占めてゆく。
一体、何が起きている――――?!
それに答えられる者は、この場にひとりとて、いやしなかった。




