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森にうごめく影⑦

「あ……」

 安全地帯から落ちた僕は茫然と熊を見上げていた。

 今は必死にあとじさり、先ほどまでいた木の根元で、その恐ろしい相手を見上げているところだ。

 その後方では傭兵達が倒れている。傷を負っていない者は一人としてない。ブランドとて、うつ伏せで倒れたままだ。

 熊の体が近付いてくる。影がかかり、視界が一段暗くなった。

 口から赤く染まった唾液が落ちた。その粘度と臭気の塊は、僕の頬を撫でて顎先から首元へと流れていった。

 血がしとしとと流れている。潰れた右目が鈍色に輝き、残された左目に僕の姿が映り込んでいた。

 熊の方も動く気はないようだった。四つん這いのまま、僕の方に顔を寄せている。

 魔物へと転化しようとしている狭間だと言うが、完全に魔物になった時、外見に変化はあるのだろうか。

 少なくとも今は、人並み外れた大きさの熊が手傷を負っているだけだ。

 僕が喉を鳴らすと、まるでそれを待っていたかのように熊が唸り声を上げた。

 その声量で大地が震え、僕の心臓を不可視の恐怖が鷲掴みにした。とめどなく冷や汗が流れ落ち、体のどこかから来る寒気で震えが止まらない。

 熊が一歩ずつにじり寄ってくる。鼻孔をつくのは獣臭さと、それから生臭い血の臭いだ。

 その時だった。僕の前方でうごめく影があった。

 うつ伏せに倒れていたブランドが、ゆっくりと起きあがったのである。彼の剣は半ばから折れていた。今は熊の腹に突き刺さっているだろう。

 彼は、ふらつく頭を振り、近くに落ちていた斧を取り上げた。

 枯れ葉が重なる音がする。熊がその物音に気が付いて振り返った。

「逃げろ!」

 血と傷にまみれたブランドが叫んだ。

 瞬く間に距離を詰め、熊の背中に斧を振り下ろす。重厚な刃は音を立てて崩れ、丸腰になったブランドは気合いと共に熊にしがみついた。

「何をしているんだ!」

 その声に誘われて、はっと正気を取り戻した。

 震える手で木を掴み、ゆっくりと立ち上がる。物凄い勢いででブランドが投げ飛ばされた。

 この巨大な獣は癇癪を起したような面持ちでブランドににじり寄ろうとしていた。彼の方はもう力を使い果たしたのか、倒れ込んだまま動かなかった。

 その光景に、僕の中であの情景がスパークした。この森の中で、一人の傭兵を見殺しにした時のことだ。

 あの時、僕はこの場から逃げ出した。

 万が一にも助けられる好機がなかったことは承知の上だ。あの日の僕は薪拾いをしていて、武器も心構えもなかったんだから。

 だが、今はどうだ? 

 ただの義務感とはいえ戦う気でやってきた。右手にも、懐にもアルバニアがくれた石ころがある。

 しかも、このまま逃げたって熊との狩猟ゲームになるだけだ。僕も傭兵達も死んでしまうことに相違はない。

 顔を上げた。熊はまだブランドの方を見ている。その牙を首元に突っ込みたくてうずうずしているようだ。

「おい!」

 大声を出す。振り返った熊の顔を見て、表情が分かるようになっていることに驚かされた。

熊は怯えている。激しく傷ついていることに

 この熊は死ぬことと弱ることに畏怖を抱いているようだった。

 熊に目がけて石ころを投げた。

 その石ころは、宙を舞うとすぐに白色の燐光に包まれ、熊の顔に当たると強烈な爆風と衝撃をまき散らした。

 熊の体が思わずのけ反るほどの衝撃である。直撃した部分の毛皮が禿げて、桃色の地肌が露出している。

 もう一度石ころを投げた。今度は近くの木に当たり、激しい音を掻き立てながら木々が倒れた。

 熊は恐る恐るあとじさりをし、そのまま森の奥へと逃げていった。木々をなぎ倒すような力はない。足を引きずり、木の幹に寄りかかり、何とかこの場を離れた。

 その姿が森の奥、影の中へ消えたのを確認してから、倒れた傭兵達の元に近づいた。

 二発目の衝撃で、木陰の真ん中にぽっかりと日光の穴が空いている。

 そこまで彼らを引きずって、ともかく誰かが目を覚ますまで、膝を抱え続けることしか出来なかった。

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