9.金糸雀の静寂 後半
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水曜日の授業は午後からなので、俺は午前の内に学校へ行った。木枠の余りが無いか、もしもあるなら譲ってもらえないかと聞くためである。油絵コースの指導教員を捉まえて聞くと、運よく余りがあったので、その場で購入することを決定した。あわよくばタダでもらえまいかと思っていたのだが、さすがにそれは高望みだったようだ。残念なことである。とはいえ、すべて経費で落ちるのだと思えば大したことではない。
「そういえば月時くん、昨日はどうしたんだい?」
不意にそう聞かれて、俺の顔は引き攣った。自分でもわかるのだから、傍から見たら一目瞭然だったかもしれない。
「君が休むなんて珍しい」
「あー、えーっと……ちょっと、体調悪くって」
「おや、もう大丈夫ですか?」
「はい。昨日一日休んだんで……」
罪悪感で言葉尻を濁らせた俺に、教授は穏やかに笑って「そうですか。それは良かった」と言った。
「健康には気を付けるようにね。君には期待しているのだから。次のコンクールには当然、出展するのでしょう? 準備は整っていますか?」
俺はそんなもののことすっかり忘れていたので、曖昧な笑顔で頷いておいた。
受け取った木枠を運びながら、俺は何故だか苛立っているのだった。わざと音を立てて階段を上っていく。ずる休みはいけなかった。嘘をついて、友人まで巻き込んで。安易にそうしてしまった自分を恥じる。けれど、大学生の自主休講なんてありふれたことではないか。どうして俺がそれをすると、皆に珍しいと言われるのだろうか。そんなに俺が自主休講するのが気に食わないのか。期待などされてもどうしようもない。絵を描くためだけに俺は体調に気を付けるのか。健康の管理は生きていくためではないのか。求められているのは俺ではなくて、俺の腕だけなのではないか。それなら、俺という存在などいなくたっていいのではないか。
いつも使っている四階の実習室の扉を乱暴に開けた。大きな音が廊下に鳴り響いて、俺ははたと我に返る。苛立っているのは事実だが、物に当たるのはよろしくない。俺は一度だけ深呼吸をして、一旦苛立ちを封じ込めた。こんな小さなことに構ってなどいられない。言いたい奴には言わせておけばそれでいいのだ。
棚に木枠を放り込んで、学籍番号と一緒に『月時』と書いた紙を貼り付けておく。これで誰にも使われない。明日の早朝に学校へ来て、キャンバスを張って、まずは白く塗り潰してしまおう。正直に言って、あの絵はなるべく自分の部屋に置いておきたくないし、見ていたくもない。
(さぁて、どんな絵を描こうかな……)
授業に縛られることなく自由に描けるチャンスなのだ。それも報酬付きの。こんなに楽しいことが他にあるだろうか。そう思うと、途端にわくわくしてくる現金な自分が、俺はそう嫌いではなかった。
「――うっし、やるぞ!」
俺はひとりでに気合を入れて、勢いよく振り返った。それで、そこに人がいたことに、ようやく気が付いたのである。
「あ」
「……何か、やるのか」
「露野先生」
開けっ放しにしていたドアのところに、露野先生が立っていた。
「おはようございまーす」
「あぁ、おはよう」
先生は教室に入ってきて、黒板の前の机に手荷物を置いた。どうやら、これからここで授業があるらしい。彫刻の実習だろうか。
それから、教室は沈黙に満たされた。何故だか異様に気まずい静けさだった。先生は、どこか緊張しているような表情で俯いていて、その視線は床の上を彷徨っている。最近はどんなタイミングで先生に会っても、こうなることが多かった。それで、俺は仕方なく、先生とは何の関係もない適当な話をして空気を濁していたのだが、今日ばかりは咄嗟にそのような話題が出てこなくて、困ってしまった。何の話をしようかと必死に考えを巡らせて、それから、ふと、最初にされた質問を思い出したのだった。
「―――あ、ええと、実は俺、また仕事を引き受けまして!」
先生が顔を上げた。いつもと変わらない、眼鏡の銀縁と同じくらい硬質な目に、俺が映る。俺はそのことに安堵して、笑みを浮かべた。
「今度は油絵を描くんすよ。学生の方が安く済んでいいんですって」
「へぇ。……あぁ、それでさっきの木枠か」
「はい、そうなんっす。ええと――」俺は静寂を恐れて慌てて言葉を繋いだ。「――まだ描くものは決まってないんすけど、上書きさえしてくれれば後は自由でいいって話だったんで、描き始めるのが楽しみっす。何か不吉な絵なんで、パパッと塗り潰しちゃいたいんですけどねー」
「上書きの依頼とは、珍しいな」
「そうっすよねー。しかもそれ、この間盗まれた『五月革命』っていう名前の絵で」
俺はその時、意味もなく斜め上の方を見ていたので、「五月革命……」と鸚鵡のように呟いた先生が、どんな表情をしていたのか分からなかった。
「はい。見たんすけど、呪いの絵、って呼ばれてんのも納得って感じの絵でしたねー。あんまし持ってたくないんで、明日からすぐ始めるつもりっす。何描くか決めちゃわないとなー」
「……そうか。ところで、」
唐突に、先生は話を変えた。俺は天井の隅を見るのをやめて、先生の眼鏡の向こうに焦点を合わせた。
「お前さん、今日の授業は無いのか?」
「あぁ、午後からっす」
「英語の単位は取れそうか」
「……たぶん」
「卒業に関わってくるのだから、真剣にやるように。いいな」
「はーい」
「それに、再履を繰り返していたら、制作に使える時間も減っていってしまうだろう。今学期で必ず取れよ。これ以上引き延ばしたら、就活もままならなくなるぞ」
「そうですよねー……頑張りますー……」
「まったく、仕方のない奴だな」
そう言って軽く溜め息をついて、先生は微笑みを見せた。どこか陰りを帯びた顔つきに、俺は脈絡なくあの不吉な絵を思い出してしまった。いっそあの上に自画像でも描き込んでやろうか。そう思った瞬間、ふと、ノートの隅に書いてあったような疑問が浮上してきて、勢いそのままに口から飛び出ていた。
「先生は、どうして先生になったんすか」
寸の間押し黙って、先生は「何故、そんなことを?」と聞き返してきた。俺は途端に恥ずかしくなってきて、頭を掻いて、俯きがちに続けた。
「いや、あの、俺……この先、何になれるのか分からなくって……っていうか、その……こんな目を持ってて、普通に暮らしていけるのかなって、少しだけ不安に思っちゃって……だから、聞いてみたいなーと、思っただけです、はい」
随分と素直に心情を吐露しているものだな、と自分でも分かって、顔が熱くなった。不思議なことだ、先生にはこんな情けない質問もできてしまう。赤の他人のようでそうではない、微妙な立ち位置にいるからなのだろう。信頼のおける身近でない大人。相談事には最適な人だ。
ところが、先生は口を開いて、まるで息を吸うことに失敗したかのようにぎこちなく閉じると、また開いて、言ったのだ。
「……授業の時間だ。行きなさい」
先生は質問に答えることを避けた、と、さして考えるまでもなく、俺は悟るのであった。あからさまな避け方は反対に、そこに明確な理由があること、そしてその理由が言いたくないものであることをはっきりと示しているのであった。理由が無いのならば無い、と、はっきり告げるであろうのが先生である。それすらしなかったということは、そういうことなのだ。
俺はなんとなく、まずいことを尋ねてしまった気がしてならなかった。ただの被害妄想であると思いたいのは山々だが、如何せん、この頃は懸案事項が多すぎてならない。しかも、それらはすべて、自分だけが抱え持っている上に、漠然とした形の無い悩みばかりで、何一つとして簡単に明快な答えは得られない類のものなのである。そこはかとない不安が全身に纏わりついてきて、どことなく体調が優れない。少し遅めの五月病であろうか。もはや何をどうすればいいのか、まったく分からない。
こういう時――不安だが、何に不安を感じているかもよく分からない、非常に不安定な時――は、何も考えず、好きなものを食べ、ゆっくり寝て、やらなければならないことから片付けていけばいいのだ、と、俺は思っている。これまでの経験上、不安定な時期は定期的に訪れ、しばらくすると去っていくものである。何もかも上手くいかない、という状態は、裏を返せば、何もかもこれから上手くなっていくのだ、というわけであって、決して心を腐らせる要因にはなり得ないのだ。むしろ、ここで腐らせてはいけないのだ。何が何でも。
きっと、俺がこの先進んでいくべき道も、先生との関係も、この目のことも、すべて上手くいくだろう。今はまだ何も分からないから、いたずらに不安を感じているだけであって、時が満ちれば自然と霧は晴れていくはずだ。明けない夜は無いのだし、案ずるより産むが易しという。
俺はただ、いつも通りを心掛けていれば、それでいい。自分から自分のペースを乱すこと以上の愚行は無い、と、そう思うのだ。
「なぁクモ、木曜ってお前も全休だったろ? 遊び行かねぇ?」
「あー、ごめん。俺明日はちょっと、やることがあるんだ」
「えぇ、何だよ。お前バイトやってねぇだろ?」
「うん――あ、いや、バイトだよ。短期の」
「ふぅん」と、侑介は不満げに相槌を打って、空を仰いだ。「んじゃ、俺も明日は学校来て、課題片付けっかなー、仕方ねぇ」
露野のレポート何やる? と聞かれて、まだ何にも考えてない、と俺は答える。本当は、ルネサンス期の美術について調べようと既に決めていたのだが、反射的に上手く言えなかったのだ。
侑介は笑った。
「そっか、俺もまだ何も考えてねぇ。ま、明日中に終わらすけどな!」
―――もしこの時、俺がしていることや考えていることすべてを両親に打ち明けていたら、どうなっていたのだろうか、と、後になって思う。
母は、俺の出自に関しては全部知っていたが、俺の学校に露野先生がいることは知らなかった。俺は伝えていないし、あえて伝えようとも思わなかった。パソコンが苦手な母だから、自分から調べることは無かっただろう。つまり、俺が自分から教えない限り、知ることは無かったのだ。
父は、学校生活についてあれこれ聞いてくる人ではないから、そもそもとして情報量は少ない。俺を引き取ることになった経緯は知っているらしいが、緑川さんの彼氏の名前まで詳細に伝わっているとは考えにくいため、たとえ自分で俺の学校について調べ、露野久森という名前を見つけていたとしても、俺に結びつける可能性は極小だったわけだ。つまりこれも、俺から喋らない限りは知りえない情報だったのだ。
もし、俺が今置かれている状況を、俺がきちんと理解して、両親に相談していたら、どうなっていたのだろうか。あるいは、友人に少しでも話していたら、何か変わっていただろうか。
反対に、俺はなぜ相談しなかったのだろう。そう、あの時は確かに、この程度のことなど相談するまでもない、と思っていたのだ。自分の力だけでどうにかできると、むしろ他の人たちが出てきたところで何もできるはずが無いと、確信してしまっていたのだ。
昇ってしまった竜は、もう二度と、戻ってこないのに―――